第92話「幼子の成長」
大陸歴 2791年 10月 / エヴェリン王国 王都リュミエール ヒイロの寝室 / ヒイロ=エヴェリン(エヴェリン王国 王子 0歳 男性)
秋の気配が深まる10月。 俺、ヒイロ=エヴェリンは、生後5ヶ月にして、ハードモードの入り口に差し掛かろうとしていた。
「ぬっ……!」
うつ伏せの状態から、短い手足に渾身の力を込めて手を動かし、足で床を蹴る。 ズリ、ズリ……と、腹を床につけたまま、わずかだが確かな前進。形はともあれ移動の成功だ!
「わあぁっ! ヒイロがもう自分で動いてる!」
「すごいですわ! 生後5ヶ月で動けるだなんて、天才ですわ!」
俺の偉業(?)を目の当たりにした四女のヴァレリアと長女のクラリス姉さんが、パチパチと手を叩いて大歓声を上げている。
前世の記憶がある俺からすれば、体の動かし方の理論は分かっているから早いのは当然だ。とはいえ、この赤ん坊のボディは頭がやたらと重く、手足も思い通りに曲がらないし、劣悪なバランスのせいで、ここまで動かすのには相当な苦労があった。
「よし、ハイハイができたなら次は立つ練習だ! ヒイロ、頑張って立って!」
「ヴァレリア、まだ自力では無理ですわ。まずは自分の身体を支えられるようにしがみついて立たせる練習から……」
(……いや、どっちも無茶だから。ズリバイの次はいきなり直立二足歩行かよ。赤ん坊の成長過程をすっ飛ばすな)
過剰な期待を寄せる姉たちに囲まれ、俺がベッドの上で亀のように首を上げていると、凛とした声が響いた。
「クラリス様、ヴァレリア様。やりすぎてはいけませんよ。赤子のお体はまだ骨も筋肉も未発達なのですから」
侍女長のエラーラさんが、呆れたようにため息をつきながら近づいてきた。
「まずは『ハイハイ』の練習からです。さあヒイロ様、こっちですよ」
エラーラが俺の目の前で、音の鳴るおもちゃを振る。 姉たちも「そっか、ハイハイか!」「こっちにおいで、ヒイロ!」と、俺の進行方向で手を叩き始めた。
(……『這えば立て、立てば歩めの親心』とはよく言ったものだが。俺の場合は『姉心』か。……いや、エラーラの場合は『教育係の意地』か)
俺は心の中で苦笑しつつ、さらなる前進を試みた。 右腕を出して、左膝を引きつける。四つん這いの姿勢をとる。理屈は完璧だ。だが……。
(重っ……! 頭が重すぎる……!)
ちょっと油断すると、巨大な頭部の重量に引っ張られて顔から突っ込みそうになる。しかも、手足の筋肉がプルプルと震え、ハイハイしようとしても思ったように前へ進めない。むしろ後ろに進む......。
大人の脳で出した指令を、赤ん坊のハードウェアが処理しきれていない。まるで最新のオンラインゲームを、数十年前のポンコツPCで動かしているようなもどかしさだ。
「あーうー……(くそ、進まん……)」
「がんばれー! あともう少し!」
姉たちの声援を受けながら、俺が必死で手足を動かしていると、バン! と勢いよく部屋の扉が開いた。
「ヒイロ! 新しいおもちゃを持ってきたよ!」
乱入してきたのは、次女のルミナ姉さんだ。 彼女の手には、以前の実験で俺が光らせた、あの黄色い数珠繋ぎの『魔力共振ロッド』が握られていた。
「ルミナ、ヒイロは今ハイハイの練習中よ」
「そんなのいいから、これ見てよ! エルドリンと一緒に、ヒイロ向けにパワーアップしてきたんだ!」
ルミナ姉さんは俺の目の前にロッドを置いた。
「前回、ヒイロの膨大な魔力と『Holy(聖)』の波長がロッドと同期できたでしょ? だからそのデータを基に、回路の抵抗をめちゃくちゃ強くして、中途半端な魔力じゃ全く反応しないようにしたの。つまり、Sランクの魔力をフル回転させないと光らない『トレーニング用』の調整だよ!」
(……おいおい。それは要するに、魔力の『ダンベル』じゃないか?)
「これを持たせて鍛えれば、ヒイロの魔力制御はもっと上手くなるはずだよ! さあ、握ってみて!」
ルミナ姉さんの研究者としての目がキラキラと輝いている。 ズリバイを覚えたばかりの赤ん坊に、筋トレならぬ魔力トレを要求する姉。エヴェリン王国の王女たちは、どいつもこいつもスパルタすぎる。
「あー……(転生もので赤ん坊時代の修業は鉄板だけど.....実際に受けるとなるとキツイな.....。スパルタ教育反対! 児童福祉法はどうした!)」
俺が疲れた顔でベッドにペチャリと潰れていると、部屋の入り口からクスクスと忍び笑いが聞こえてきた。
「ふふっ……ヒイロは本当に、お姉ちゃんたちのおもちゃね」
「仕方ないさ。あの子たちにとっては、自分が物心ついてから初めて生まれた年下の子供だからね。世話を焼きたくて仕方ないんだろう」
いつの間にかやってきていた母上と父上が、ドアの枠によりかかりながら、微笑ましい光景を眺めていた。
「そういえば、クラリスが生まれた時は、私たちもあんな感じだったわね」
母上が懐かしそうに目を細める。
「『もう首が座った!』『早く歩かないかしら』『英才教育をしなければ』って、二人であれこれ急かして、色んなことを早く覚えさせようと必死だったわ」
「ああ。でも、ルミナやセラフィナが生まれる頃には、『まあ、そのうち育つだろう』って、だんだん放任主義になっていったけどね」
父上が苦笑しながら肩をすくめる。
「ええ。親ってそういうものよね。……だからこそ、あの子たちがああして、私たちが最初の頃にやっていたような熱量でヒイロの世話を焼いてくれるのが、見ていて少し嬉しいの」
母上の優しい眼差しが、俺と、俺を囲む姉たちに注がれている。 軍事や外交の場で見せる冷徹な女王の顔ではない。ただの、一人の母親としての顔だ。
(……痛いほどわかるぞ、母上。。一人目の子供の時は「あれも教えなきゃ」「早く歩かないか」と親も必死に手をかけるが、二人目、三人目と子供が増えるたびに手が回らなくなっていくんだよなぁ。俺も前世では、長男の時は妻と一緒に些細な成長に一喜一憂して、世界一著作権に厳しいネズミが主体の英語教材だの、モンテッソーリ教育だの試して育てたが、次男、そして長女が生まれる頃には、毎日の家事、育児、それから仕事の激務でパツパツになり、『成長してくれれば問題なし』という考え方になってたもんだ。王族であっても、親の悩みと行き着く先は同じというわけだ......。)
俺はロッドを握らされそうになりながらも、この温かい空間の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。 前世では仕事に追われ、子供の成長をじっくり見守る時間も少なかった。今、こうして家族に囲まれ、騒がしくも愛に溢れた日常を過ごせることは、何にも代えがたい幸福だ。
「……こういう時間が、ずっと続くといいのだけれど」
ふと、母上がぽつりと呟いた。 その声には、窓の外から忍び寄る秋の冷え込みよりも冷たい、時代のうねりに対する微かな憂いが混じっていた。
エテルニア大帝国とドラコニア帝国。 「国外向け顔見世パーティ」を経て、世界は確実に動き始めている。この温かい部屋の外には、俺という存在を巡る血生臭い策謀が渦巻いているのだ。
(そうだな。この平和な日常を守るためにも力をつけないとな……ハイハイも、魔力のダンベルも、やってやろうじゃないか)
俺は気合を入れ直し、重い頭を持ち上げて、ルミナ姉さんの差し出したロッドに向けて短い腕を伸ばした。
「あーうー!(よっしゃ、特訓だ!)」
秋の柔らかな日差しの中、俺の過酷なトレーニングの日々が、幕を開けた。
主人公もだんだん強くなっていきます。まだまだ序盤も序盤ですが・・・。




