第90話「落日の炎と、次代の火種」
大陸歴 2791年 9月 / ドラコニア帝国 帝都 皇帝の寝所 / リリス・ドラコニア(ドラコニア帝国 第三王女 西部執政官 竜人 62歳 女性)
帝都の奥深く、重厚な石造りの宮殿の中心にある皇帝の寝所は、静まり返っていた。 焚き込められた香の匂いが、死の気配を誤魔化すように漂っている。
私は杖をつきながら、その部屋の奥へと進んだ。 天蓋付きの巨大なベッドには、ドラコニア帝国の絶対的覇者、母であるサラリナ女帝が、浅い呼吸を繰り返して眠っていた。
「……眠っておられるか」
私が小声で呟くと、ベッドの傍らの椅子に座っている大柄な影が動いた。
「おお、リリスか。エヴェリンへの視察、ご苦労じゃったな」
威厳と激情を兼ね備えたしわがれ声。ドラコニア帝国大将軍であり、母の末妹であるオリアナ・ドラコニア叔母上だ。 赤銅色の肌に黒い髪。彼女は今85歳であり、100歳くらいが平均寿命と言われる強靭なドラコニアンであっても、十分に高齢と呼ぶに足る年齢だ。だが、いまだ衰えを知らぬ逞しい体格と、老いてもなお盛んなその身から発せられる戦士としての闘気は、静まり返った病室にあっても隠しきれない。
「叔母上もお変わりなく。……母上が起きられるまで、ここで待たせていただきます」
私が静かに答えると、オリアナ叔母上は「好きにするがよい」と頷き、組んでいた足を組み替えた。
私は杖に体重を預け、眠る母のやせこけた顔と、椅子に座って目を閉じている叔母上の姿を交互に見つめながら、静かに思考を巡らせた。
(母上たち三姉妹も、かつては今の私たちの世代のようなものだったのだな……)
長女であるサラリナ女帝。次女のルーシア叔母上。そして三女のオリアナ叔母上。 今でこそトルヴァード連邦の首長として国を治めるルーシア叔母上は、頭も良く、部下の信頼も厚い、まさに名将と呼ぶべき傑物だ。そして目の前にいるオリアナ叔母上も、『Wolf(狼)』のWordを持ち、非常に多くの魔力を有する好戦的な強者である。
もし、この二人だけだったなら、間違いなくルーシア叔母上とオリアナ叔母上が激しい継承権争いを繰り広げ、どちらかが死んでいただろう。どちらが勝ってもおかしくないだけの才覚と武力が、両者にはある。
だが、現実はそうならなかった。 母サラリナの、圧倒的なカリスマ性と、理不尽なまでの強さの前に、二人は自ら継承権を放棄し、絶対の忠誠を誓ったのだ。
この母には、強さを求める者や英雄譚に憧れる者を、魂の底から惹きつけてやまない迸るような魅力があった。 それゆえに、まだ皇帝にもならない王太子の頃から、ドラコニアだけでなくあの戦闘狂の集まりであるアスラ連邦に忠誠を誓わせ、サングラビア、モリガノン、モンタリアといった国々を次々と武力と魅力で服属させていったのだ。
そして皇帝に即位した際に行われた、「炎戦の記憶」と呼ばれる東方への大遠征。 母の号令のもと、トルヴァード王国は文字通り地図上から消滅した。 だが、母はただ破壊するだけではない。その焦土に、右腕だったルーシア叔母上を首長として据え、「トルヴァード連邦」として新たな国を作り直したのだ。 あれだけの大虐殺の後に、生き残った者たちをまとめ上げ、現在のような経済大国として復興させたルーシア叔母上も、指導者として本当に優秀な人物だ。
(……最強にして最高の覇者たる母と、偉大な叔母たち。この三人が揃っていた時代こそが、ドラコニアの黄金時代と呼べる時代だったのかもしれない)
母への深い愛情と、叔母たちへの尊敬の念を胸に抱きながら、私は冷たい現実へと視線を戻した。
(そして、いよいよ私たちの時代がやってきている)
母の三人の娘。長姉のカリナ、次姉のカラリス、そして末妹の私。 私たち三人は、みな魔力量こそ多いが、誰一人としてWordを持っていない。母たちのような、理不尽なまでの『奇跡』の力はないのだ。
そして正直に言えば、私たち三姉妹は仲が良いとは決して言えない。とくに、カリナ姉上とカラリス姉上の仲は最悪だ。
カリナ姉上は、今横にいるオリアナ叔母上よりも年上だし、すでに高齢ゆえの衰えや病が見え始めている。 昔は愛用の大斧を振り回して前線で戦い、外交や内政も豪快にこなす頼もしい姉だった。だが、今は守りに入り、弱気な老人になりつつある。内務閥や外務閥は今でも彼女を支持しているが、常に戦場と血を求める軍部閥の若手は、そんな姉上から離れつつある。だがそれでも古くからの将軍達にはカリナ姉上と懇意な者も多い。
対する次姉カラリスは70歳。ちょうど指導者にふさわしい年齢と言えよう。東部執政官として東部の諸侯と連携し、強固な東部閥を形成している。経済にも明るく清濁併せ呑む女傑で、オアシス都市を発展させて資金を稼ぎ、多くの傭兵部隊を調練して戦争準備に余念がない。 東部での縁からルーシア叔母上も彼女を推していると聞くし、目の前にいるオリアナ叔母上も、自分と似て好戦的なカラリス姉上を支持している。
そして、世間的に見れば、長年西方の永遠条約圏の軍勢と対峙し、ドラコニアの精鋭部隊を取りまとめているのが、末妹の私だ。戦争経験で言えば私が最も豊富だろう。 今回のエヴェリン訪問を、「リリスが外交面でも仕掛けをして、次期皇帝の座を狙う意思の表れ」と受け取っている者も国内には多くいるはずだ。
私は少し間を開け、静かに眠る母と、この広い病室を見渡した。
(……かつては、この部屋で姉二人と一緒に、母上を囲んで仲良く食事をしたこともあったな)
遠い昔の温かい記憶。だが、今この部屋を満たしているのは、権力闘争のきな臭さと、死の気配だけだ。
「……ククク」
私は自嘲するように、短く喉を鳴らして笑った。 その不敵な笑みを見て、オリアナ叔母上が怪訝そうに眉をひそめる。
(私は、ドラコニアの貴重な戦力を内乱で無駄に失うべきではないと考えている。それゆえに継承戦争に参加する気はないと前から言っていたが……ちょうどカリナ姉上とカラリス姉上が帝都に来ているこのタイミングに、改めて二人に対して、私が玉座に興味がないことを伝えなければな)
私は、やせこけた母の顔をじっと見つめた。
(それに、私にはもう見えているのだ。これからの世界を変えていく物語の主人公達の姿が。これから覇道を歩むであろう『竜』と、遥か南で光り輝く『聖』。……新しい時代は、もうすぐそこまで来ているのだから)
その時だった。
「――ふむ」
パチリと、母サラリナが目を開いた。 私はびくっと肩を揺らし、杖を握る手に力を込めた。
母の赤銅色の肌はカサカサに乾き、頬はこけている。だが、その琥珀色の瞳だけは、全盛期と何ら変わらぬ、いや、それ以上に鋭い光を放ち、私を真っ直ぐに射抜いていた。 病など微塵も感じさせない、圧倒的な覇気が病室の空気を震わせる。
「……久しぶりに、お前が良い目をしているのを見たぞ、リリス」
母は、嗄れた、けれど腹の底に響く声で言った。
「心が燃えるような、何かがあったようだな」
すべてを見透かすような眼差し。私は隠すことをやめ、深く頷いた。
「はい。……次の時代を、見てまいりました」
「そうか」
母は満足げに息を吐き、そして、自らの細くなった腕を少しだけ持ち上げた。
「……もう、余の時代ではない」
その言葉に、私は胸を締め付けられながらも、事実として受け入れ、ゆっくりと頷いた。 母はそれを見て、フッと口元を緩めた。
「だが、お前たちの時代とも限らん」
母は、これまでに見たこともないような、どこまでも優しく、そして楽しげな目で私を見つめた。
(……っ)
私は言葉を出せず、ただ息を呑んだ。 やせこけた、死の淵にある老人のはずなのに。未だにこれほどの覇気を纏い、未来の動乱さえも楽しもうとする母の途方もない大きさに、魂が震えるような感覚を覚えた。 これが、ドラコニアの女帝。私が心から憧れた、真の覇者。
母は視線を私から外し、傍らのオリアナ叔母上へと向けた。
「オリアナ。……カリナとカラリスも、ここへ呼んで来い」
「……はっ。直ちに」
叔母上はすぐに立ち上がり、重厚な扉を開けて部屋を出ていった。
カツッ、カツッ……。
廊下を遠ざかっていく足音だけが、静かな病室に響き続ける中、母が私を見ながら静かに語りかけた。
「お前たち三人が、こうして余の前に集まるのも……これが最後かもしれんな」
私は杖を両手で握りしめながら、一つの偉大な時代が、今まさに終わりかけていることの寂しさと、焦燥感に包まれていた。
炎は、燃え尽きる直前が最も美しい。 だが、その後に残る火種が、どのような新たな炎となっていくのか。私はその行く末を、最後まで見届ける覚悟を固めた。
皇帝は将来の姿を見据えています。




