第86話「二つの背中を持つ獣」
大陸歴 2791年 8月 / エヴェリン王国 王都リュミエール / アルーシャ・リリヤスカ(トルヴァード連邦 外務大臣 33歳 女性)
ホテルの鏡に映る自分の顔を見て、私は思わずうっとりと溜息をつきました。
「……あら。私、10歳くらい若返ったんじゃなくて?」
肌のハリ、血色、そして瞳の輝き。昨日の疲れなど微塵も感じさせない、内側から発光するような生命力。 高級なエステや美容液など目ではありません。
「その通りだよ、アルーシャ。今の君は、咲き誇る大輪の薔薇のように美しい」
鏡越しに、甘く低い声が響きました。 振り返ると、そこにはシャツのボタンを留めながら、優雅に微笑むイリヤ様――昨夜の私の愛しい人、「セリオシャ」が立っていました。
一晩中、あれほど激しく愛し合ったというのに、彼の姿には乱れ一つありません。完璧に整えられた髪、涼やかな目元。 彼は私の背後からそっと抱きしめ、首筋に口づけを落としました。
「あぁ……セリオシャ……」
「昨夜の君は最高だった。……名残惜しいが、魔法が解ける時間だ」
彼が指先で私の頬を撫でたその時、部屋の扉がリズミカルにノックされました。
「失礼するわよ、二人とも。……お迎えの時間よ」
イリヤ様が扉を開くと、入ってきたのは、完璧な宰相の顔をしたクセニア様でした。 彼女は、情事の余韻が残る部屋の空気を気にする風もなく、ニヤリと笑って私たちを見比べました。
「おはよう、アルーシャ。……ふふ、そのツヤツヤした顔を見る限り、我が国の至宝はいい仕事をしたようね」
「は、はい……! クセニア様、感謝してもしきれませんわ……!」
私は上気した顔で、深々と頭を下げました。
「どういたしまして。さあ、イリヤ。身支度を済ませてちょうだい。もうすぐ出発の時間よ」
「ああ、分かっているよ、マイ・ハニー」
イリヤ様は瞬時に「セリオシャ」から「モリガノンの王弟にして宰相の夫」の顔に戻り、手早く上着を羽織ると、妻であるクセニア様の元へ歩み寄りました。
「では、アルーシャ殿。後ほど公務の場でお会いしましょう」
二人が腕を組んで部屋を出ていくのを見送ったあと、私は深く椅子に座りました。 夢のような時間は終わり、現実に引き戻される寂しさはあるけれど、今の私には、どんな難題も笑顔で片づけられるだけのエネルギーが、たっぷりと充填されていました。
「さあ、お仕事の時間よ」
私はパンと頬を叩き、外交官の顔(とびきり艶やかな)を作って立ち上がり部屋を出ました。 今日は、クセニア宰相ご夫妻がモリガノンへ帰国される日。そのお見送りが、この一連のヒイロ王子の顔見世に連なる私の最後の任務です。
***
午後の日差しが傾き始めた王都の正門前。 帰国の準備を整えたモリガノン王国の馬車列の前には、アウローラ女王陛下と、騎士団長のライラ殿が整列していました。
「……お見送り、感謝いたしますわ、アウローラ陛下」
馬車の近くまで来たクセニア様は、妖艶で完璧な宰相の笑みを浮かべています。 その横には、つい先ほどまで私の部屋にいたことなど微塵も感じさせない涼やかな顔で、イリヤ様が控えています。……さすがはプロフェッショナル。目が合った瞬間、私にだけ分かる極上のウインクを飛ばしてくれましたが、周囲には気づかれていないでしょう。
「こちらこそ。遠路はるばるのご来訪、そして有意義な会談、ありがとうございました」
アウローラ陛下が、柔らかな微笑みで応じます。
「今回の滞在は、我々モリガノンの者にとっては蒙を啓かれる思いでした。エヴェリン王国が、これほどまでに我々モリガノンと『通じ合える』国だとは思いませんでしたわ」
「ええ、私も嬉しく思います」
アウローラ陛下が頷きながら続けます。
「国や文化は違えど、平和を愛し、次世代を育もうとする心は同じ。国や陣営の違いなど、些細なことかもしれませんね」
美しい光景です。 「光の同盟」の盟主と、「炎盟」の主要国の宰相が、手を取り合って相互理解を深めている。 ……言葉の上では。
私は後ろで二人のやり取りを見ながら、クセニア様の思考が手に取るように分かってしまい、笑いを堪えるのに必死でした。
(アウローラ陛下……。クセニア様が言う『通じ合える』は、平和主義のことじゃありませんわ。『男の子を磨き上げ、女の理想像にする文化』の萌芽を、この国に見たって意味ですのよ……!)
クセニア様は、熱っぽい瞳で続けます。
「ええ、ええ! まさにその通りですわ! ヒイロ王子という目立つ存在だけでなく、その周囲に控える若い人たちの……なんと瑞々しく、将来有望なことか」
クセニア様の脳裏には、昨日のテオラス君の健気な姿や、アルトリウス君の凛々しい姿が浮かんでいるのでしょう。彼女にとって彼らは、将来有望な『資源』であり、磨けば光る『原石』です。
「我々は、ヒイロ王子の存在や宗主国の意向に関係なく、貴国と深く、極めて親密に……友好を築きたいと切に願っております」
「ありがとうございます。ヒイロにばかり注目が集まる中で、我々の国のことを深く理解いただいたり、新しい世代の者たちのことまでお褒めいただいたり、女王として嬉しい限りです」
アウローラ陛下は、その言葉を額面通り「国への理解と若手への称賛」と受け取っています。
「はい! 経済だけでなく、文化的な交流も深めていきましょう。特に『人的交流』は重要ですわね。……我が国からは私も含めて経験豊富な人材を相互の文化交流のために派遣しますし、貴国から『留学』に来たいような方々がいれば、惜しみなく協力させていただきますわ」
「まあ、それは助かります。我が国は少し堅苦しいところがありますから、モリガノンの自由で華やかな文化は、子供たちの感性を豊かにしてくれるでしょう」
(クセニア様の言う『文化交流』は男女の交流のことに違いないわ。社交のマナーだけじゃなくてベッドの上でのマナーまで教え込まれて、子供たちの感性が変な方向に豊かになりすぎますわよ!)
私は心の中でツッコミを入れつつ、この二人のやり取りを楽しんでいました。
アウローラ陛下は「文化と経済のパートナー」として。 クセニア様は「未来の男娼供給源、兼、好みのショタの宝庫」として。
互いに全く違うものを見ているのに、結論だけは「両国の友好を深める」でガッチリと握手しているのです。 なんという喜劇。なんという外交の妙。
去り際、クセニア様が私に意味ありげな視線を向け、声をかけてきました。
「貴女には期待しているわ。……エヴェリンの『土壌』を耕し、素晴らしい『果実』を育ててちょうだいね」
「はい、お任せくださいませ。……炎盟の窓口として恥ずかしくない成果を出せるように努めますわ」
私が深く一礼すると、クセニア様は満足げに頷き、イリヤ様と共に馬車へと乗り込みました。
「道中、お気をつけて」
アウローラ陛下の声に見送られ、モリガノンの車列が動き出します。
遠ざかる馬車を見ながら、私は体の中に満ちる活力と共に、新たな思いを抱いていました。
「……本当に、面白い国だわ」
堅物だと思っていた軍人が、息子の色仕掛けを推奨したり。 清廉潔白な女王が、性欲魔人の宰相と笑顔で握手したり。 この国には、私の常識を覆す驚きに満ち溢れているわ。
(一度、うちのトップ……ルーシア首長も連れてくるべきかしら)
トルヴァード連邦の首長、ルーシア・ドラコニア様。 ドラコニア皇族でありながら、争いを好まないあの方なら、この国の空気をきっと気に入るはず。 ……ご高齢ではあるけれど、あの方がお元気なうちに、この国の輝きをお見せしたいものだわ。
「ふふふ……」
私は次の「楽しい計画」を思い描きながら、夕日に染まるリュミエールの街並みを眺めた。
私の仕事は、まだまだ山積みだけど、そんなものはどうとでもできる気がするわ。 今の私の身体の奥底には、昨夜彼がたっぷりと注いでくれた愛と熱が、それをすべてこなせるだけのエネルギーとして充填されているのですから。
「さあ、次はテオラス君の授業の準備ね。……ふふ、どんな『マナー』から教えてあげようかしら?」
甘い余韻と背徳的な期待を胸に、私は軽やかな足取りで『文化的交流』に向かって歩き始めた。
アルーシャがツヤツヤしてます。
イリヤみたいに夜の顔と昼の顔を使い分けられる人ってできる人ってイメージがあります。




