第80話「静寂に包まれた熱夜」
大陸歴 2791年 7月 / エヴェリン王国 王都リュミエール ヒイロの寝室 / カラシャ・ブレードクロウ(元アスラ連邦 戦士・エヴェリン王国 剣術師範 獣人 58歳 女性)
「良い『気』じゃ。……安心おし。今夜は、ネズミ一匹、この部屋には入れんよ」
儂はベビーベッドの柵に手を添え、あどけない寝顔で眠る赤子――ヒイロに語り掛けた。
ふんわりと柔らかな髪。閉じられた瞼。その胸が規則正しく上下するたびに、清浄で、それでいて底知れぬ力強さを秘めた気が、さざ波のように儂の掌を伝ってくる。
「……ふふ。昔のお前様を見ているようだよ、エリシア」
儂が呟くと、ヒイロの側で椅子に腰かけ、結界の魔導具を膝に乗せていたエリシアが、ゆっくりと目を開けた。 展開されている結界は、彼女のSランクの魔力を受けて、部屋の空気を琥珀の中に閉じ込めたかのように濃密に安定させている。
「あら、そうかしら? 私はあんなに可愛らしく眠れてはいなかったわよ」
エリシアは自嘲気味に微笑んだ。
「いつだって、自分の魔力の大きさに振り回されて、何一つ守れないんじゃないかと怯えていた……。枕の下に短剣を忍ばせていないと眠れないような、臆病な王女だったもの」
「違いない」
儂は喉の奥でクツクツと笑った。
もう、ずいぶんと昔の話だ。 武力こそがすべての修羅の国、アスラ連邦。 儂はそこで、来る日も来る日も剣を振るっていた。 斬って、斬って、斬り捨てて。足元に屍の山を築き上げても、時にWord持ちや魔力の多いものを討ち取っても、儂の心に満ちるのは達成感ではなく、底知れぬ「虚無」だけじゃった。
儂にはWordがない。魔力量も、戦士としては決して多くはない。 どれだけ技を磨き、どれだけ敵を倒そうとも、Wordという理不尽な異能を持って生まれた者や、膨大な魔力を持つ「天才」が自らを鍛え上げれば、その力は儂の手の届く遥か彼方にあった。 『強者』ではあっても、『最強』にはなれぬ。 その天井が見えてしまった時の絶望と慟哭。 強さを求められる土地で、頂に登れぬと知りながら戦い続ける日々は、緩やかな拷問のようじゃった。
そんな儂に、遠い南の国から使者がやってきたのだ。
『貴女と会いたい。貴女という人を知りたい』
差出人は、エヴェリン王国の若き女王エリシア。 当時の彼女は、Sランクという膨大な魔力を持ちながらも魔力の使い方が下手だし、Wordを持たぬがゆえに自信も持てず、それでいて女王という存在になったがゆえに、周囲からの重圧と自身の無力感に押しつぶされそうになっていた。
最初から傭兵として雇いたいとか、剣術師範として招きたいと言われていたら、儂はこの国には来なかっただろう。思えば、儂という人間そのものに誰かが興味を持ってくれたのはあの時が初めてだったのかもしれん。
強さを求めても届かぬ戦士と、自分に自信を持てない女王。 似たような欠落を抱えた我らは、出会ってすぐに、主従を超えた友となった。
「あの日、お前様は言ったな。『生まれた時に持っていなかったことや、できないことがあることを負ける理由にしたくない』と」
儂は懐かしさに目を細めた。
「あの言葉を聞いて、儂はこの国に骨を埋める気になったんじゃよ。……儂の剣技が、儂という存在が誰かの生きる力になるのなら、あのアスラでの空虚な日々も無駄ではなかったと思えたからな」
「ええ。……因果なものね」
エリシアは魔導具を愛おしそうに撫でた。
「この子は……傍から見れば贅沢すぎるように見えるのでしょうね」
「……そうじゃな」
儂はヒイロの頭を、ごつごつとした指先でそっとなでた。 確かに、この子はWordに魔力に王子としての地位、全てを持っている。だが、この歳になってようやく分かることがある。
「持っていれば幸せになれるとは限らんよ、エリシア」
儂の言葉に、エリシアが頷きながら顔を上げる。
「Wordも魔力も地位も『祝福』であり、同時に『呪い』じゃ。……その身に刻まれた言葉が、その子の生き方を縛り、世界中から狙われる理由になる。何も持たぬ者が抱く飢えも苦しいが、多くを持つ者が背負う重荷もまた、苦しい時があるじゃろうて」
これほどの力を持って生まれれば、凡人として生きることは許されん。 望むと望まざるとにかかわらず、争いの中心に立たされ、多くのものを背負わされる。 それが「幸せ」かどうかは、誰にも分からん。
「……そうね。だからこそ、私たちがいるのよね」
「ああ。せめてこの子がその重荷に潰されず、自分の足で歩けるようになるまではな」
ヒイロが「むにゃ」と口を動かし、寝返りを打った。 その無防備な寝顔。 そう遠くない未来に、この子を狙って、世界中の怪物が牙を剥くだろう。 だが、そうはさせん。
儂はヒイロから視線を外し、隣のエリシアと目を合わせた。 言葉はいらない。 数十年、共に歩み、互いの欠落を埋め合わせてきた戦友としての信頼が、そこにはあった。
そして、儂は窓の外へと視線を移した。 王都リュミエールの夜景が広がっている。 その闇の向こう側、幾千の思惑と、強大な気配が渦巻く街。
「……静かで、良い夜じゃ」
儂は皮肉交じりに呟いた。 物理的な音はしない。だが、この静寂は、弓が極限まで引き絞られた瞬間のそれに似ている。
肌が粟立つような、数多の気の高ぶりを感じる。 野心、欲望、焦燥、そして祈り。 王宮の外、迎賓館や街の宿、至る所から立ち昇る熱が、夜の冷気を灼いているようだ。
(今夜は眠れぬ夜を過ごす者が、多くいるようじゃな)
儂は、静かに深く深呼吸をした。 肺に満ちる夜気は冷たく、そしてどこか甘い。
見上げれば、満天の星空。 エヴェリンで見る夜空も、故郷アスラで見ていた夜空も、変わらぬはずの空が見える。 同じ星が瞬き、同じ月が照らしている。
(それなのに、どうしてこうも、この国で見る空は愛おしいのかのう)
エヴェリン王国の長い一日は、静寂と共に幕を引こうとしていた。だが、その夜の底には確かな熱が渦巻いている。誰もが肌で感じていたのだ……今日という日が、次なる激動の時代への入り口であり、決して忘れ得ぬ歴史の転換点となることを。
歳をとってくると何度か時代の節目にいるなと感じることがあります。
あの間隔は年老いてからも感じるものなのでしょうか。本作では時代の変わる時を感じる老人たちを描きます。




