第72話「花の国の音色」
大陸歴 2791年 7月 / エヴェリン王国 王都リュミエール 王宮客殿 / リリオン・エストリア(フィオラ王国 外交官 男性 エルフ族 140歳)
明日に迫った「国外向け顔見世パーティ」を控え、王宮の客殿には静かな夜が訪れていた。 フィオラ王国に割り当てられた一室。ほのかな花の香りが漂うその部屋には、我が国の長老ニンフェア・フィオラ様と、大商人アイリス・フェアリー、そして外交官である私、リリオン・エストリアが集まっていた。
「……静かな夜じゃのう」
長老がハーブティーをすすりながら、皺の刻まれた顔を綻ばせた。 私はその穏やかな姿を見ながら、心中で小さく溜息をついた。
(……本来なら、私は5月の『国内向け顔見世』の場にいるべきだった)
私は悔恨の念を禁じ得なかった。 エヴェリン王国に駐在して数十年。私はどの国の外交官よりも長くこの地に滞在し、エヴェリンの貴族たちと交流を深めてきた自負がある。 当然、5月に極秘裏に行われた「顔見世」の情報も掴んでいた。
だが、私はそこに入れなかった。 理由は明白だ。国内の有力貴族たちがこぞって自分の子供や孫を連れて行くために枠を争奪し合い、外部の人間が入る隙間など物理的に存在しなかったからだ。
(……いや、それは言い訳だ)
私は自嘲する。 もし私に、トルヴァードのアルーシャ殿のように剛柔使いこなす辣腕があれば。あるいは、アイリスのように強引に頼み込むだけの図々しさがあれば、席の一つくらい用意できたかもしれない。 だが、私にはそれができなかった。エルフとしての美学か、あるいは単なる押しの弱さか。波風を立てることを嫌う私の性格が、あの歴史的瞬間に立ち会う機会を逸させたのだ。
皮肉なことに、私が無理に席を求めず身を引いたことで、エヴェリンの貴族たちからは「枠を渡せなくてごめんね」「リリオンさんの配慮に感謝するわ」と感謝され、その後多くの便宜を図ってもらえた。 外交官としては、結果的にプラスだったと言えるだろう。
だが、一人の男として、そしてエヴェリンを愛する友として。 あの場にいたかったというのは、偽らざる本音だ。
「……ふふ、リリオン。また難しい顔をしてるわねぇ」
向かいのソファで、アイリスが金貨を指で弾きながら笑った。 見た目は可憐な妖精の少女だが、中身は300年以上生きる古強者だ。
「君は凄いよ、アイリス。あの顔見世にちゃっかり参加していたのだから」
「あら、商売の基本よ。商業ギルドの長に金塊の山を積んで、なんとかリンディス伯爵の枠に潜り込ませてもらったの。……高かったけど、それ以上の価値はあったわ」
さらりと言ってのける彼女に、私は苦笑するしかない。 金塊の山で買収。私には逆立ちしてもできない芸当だ。
「……時代が変わるのかもしれません」
私は独り言のように呟いた。
「ヒイロ王子の誕生により、他の同盟国もエヴェリンへの接触を強めていますし、同盟国以外からも海千山千の人物が集まっています。トルヴァードのアルーシャ殿のような強かな交渉人もいれば、モントルヴァルのイヴェット殿のように、まるで外交の神に愛されているかのような人もいる」
ティルナリアやアークランドのような光の同盟諸国が関係を強めるのは当然だが、アルーシャ殿の獣のような嗅覚。イヴェット殿の神懸かり的な才覚。 彼女たちは段違いに有能だ。 このあたりの新勢力も決して油断ならない。 フィオラ王国はエヴェリンにとって長年の最大の友好国だが、その地位にあぐらをかいていれば、いつか足元をすくわれるかもしれない。
「……悩んでおるようじゃな、リリオン」
不意に、長老の声が響いた。 見透かされたような視線に、私は背筋を正した。
「……はい、長老。明日のこと、そしてこれからの光の同盟の在り方を考えていました。各国がヒイロ王子を狙い、エヴェリンを取り込もうとしています。その中で、我々フィオラはどのように振舞うべきか、と」
長老はゆっくりと頷き、カップを置いた。
「よく考えねばならんのう。……だが、リリオンよ。お主の考えを聞かせておくれ」
「私は……」
私は言葉を選びながら答えた。
「策を弄するべきではないと考えます。エテルニアのような秩序も、ドラコニアのような強さも、エヴェリンは望んでいません。……我々は、変わらず『隣人』であるべきです。心地よい風のように、美しい花のように。彼らが疲れた時に安らげる、最も信頼できる友として」
長老は満足げに目を細めた。
「その通りじゃ。力で押せば反発を生む。金で釣れば金で裏切られる。だが、心で結ばれた絆は切れん」
長老は窓の外、王宮の庭園に咲く花々に目をやった。
「わしらは、エヴェリン王家と数十年、数百年にわたる最も長く、深い付き合いをしてきた。その歴史こそが、我らの最大の武器じゃよ。……焦る必要はない」
その言葉に、肩の力が抜けるのを感じた。 そうだ。私たちが築き上げてきた歴史と信頼は、新参の外交官たちが一朝一夕で覆せるものではない。
「それにさ、リリオン」
アイリスが悪戯っぽく微笑んで口を挟んだ。
「今になって思えばあの時の顔見世には参加しなくてよかったかもね。無理に自分をねじ込もうとした私みたいな人たちと比べて、あなたへの信頼は大幅に上がったわ」
「信頼、かい?」
「そうよ。あなたはエヴェリンに一番長く滞在している外交官で、しかも『男』じゃない」
アイリスは私の顔を指さした。
「この国で、男は希少よ。でも、他の国の男たちは偉そうにギラギラしてたり、下心があったり、あるいはビクビクしてたりするわ。……でもあんたはどう?」
彼女は続けた。
「落ち着いた大人のエルフの男性。害意がなく、優雅で、話し相手として最高。エヴェリンの王族や貴族たちにとって、あんたの警戒度は一番低いのよ」
「警戒度が、低い……」
「そう。だからさ、変に外交官として振舞うより、『優しい近所のお兄さん』役で仲良くなればいいのよ。ヒイロ君にとっても、安心できる同性の大人って貴重でしょ?」
アイリスはウィンクをした。
「得意のギターでも聞かせてあげれば? あの子、芸術には目がないみたいだし、きっと喜ぶわよ」
「……ギター、か」
その発想はなかった。 だが、言われてみればその通りだ。私は音楽家でもある。 言葉よりも雄弁に、心を伝える術を持っている。
(お兄さん役、か……。私は今年で140歳になる。もう十二分に『おじさん』という歳だが、300年以上生きているアイリスから見れば、まだお兄さんなのかもしれないな)
「ありがとう、アイリス。……長老も、迷いが晴れました」
「うむ。明日は気負わず、フィオラらしく振舞えばよい」
長老の許可を得て、私は一礼し、部屋を退出した。
自室に戻り、私はケースから愛用のギターを取り出した。 使い込まれた木の感触が、手に馴染む。
私は弦を弾いた。 ポロン、と優しい音色が夜の静寂に溶けていく。
ヒイロ王子。 聖なるWordを持ち、世界中から狙われる運命を背負った子供。 彼に必要なのは、緊張を強いる交渉相手ではなく、心を許せる友人なのかもしれない。
「……ふむ」
旋律が、頭の中に浮かんでくる。 月の光のような、あるいは木漏れ日のような、優しくて温かいメロディ。
「この王子の誕生を祝う曲にするのも、良いかもしれないな」
策謀渦巻く各国の「怪物」たちとは違う、私たちフィオラ王国にしかできないアプローチ。 それは、真心をもって接し心を通わせること。
「少し落ち着いたら、本格的に作ってみるか」
私はギターを抱え、窓の外の王宮を見上げた。 そこには、私たちにとって一番大切な友邦の未来が眠っている。
エヴェリン最大の友好国として、私たちは決して彼を孤独にはさせない。 その決意を胸に、私は静かに弦を爪弾いた。
「吟遊詩人」って響きが好きです。
エルフの音楽家とかロマンの塊ですよね。




