第116話「『聖なるもの』の条件と慈愛の光」
大陸歴 2792年 2月 / エヴェリン王国 王都リュミエール 王宮談話室 / ヒイロ=エヴェリン(エヴェリン王国 王子 1歳 男性)
心地よい昼寝から目覚めた俺は、母上の柔らかな腕に抱かれ、温かい母乳で小腹を満たしていた。 王宮の私室には、ゆったりとした時間が流れている。隣のソファでは宰相であるリリア叔母上が、母上と政務の合間の他愛もない歓談を楽しんでいた。
「最近はヒイロもすっかり足腰がしっかりしてきて、目が離せませんわね」
「本当に。好奇心旺盛なのは良いことだけれど、怪我をしないか心配だわ」
俺は温かな満足感に浸りつつ、二人の穏やかな声に耳を傾けていた。 だが、その平和なミルクタイムは、重厚な扉の向こうから聞こえてきた騒がしい声によって破られた。
「お待ちください、ルミナ王女殿下、エルドリン大臣! この先は王族の居住エリアですので、他国の方をこれより先へお通しするわけにはまいりません!」
廊下を警備していた騎士団の団員が、慌てた様子でストップをかけている声だ。
「ぶーぶー! ボクたちはヒイロに用事があるのに!」
ルミナ姉さんの不満げな声に続くように、エルドリン大臣の抗議の声も響く。
「そうだよ、僕らも大発見の検証で急いでるんだから通してよー!」
さらに、若い女性のひどく恐縮しきった声も聞こえてきた。
「申し訳ありません、私の配慮が足りませんでした」
エテルニア大帝国の若き外交官であるソフィア・フォン・オルデンだ。
部屋の隅に控えていた侍女長のエラーラさんが小さく息を吐き、一礼して素早く扉の外へ出ようとした。続いてリリア叔母上も立ち上がる。
「ルミナもエルドリンも、研究に夢中になると周りが見えなくなるのが困りものですわ。私も少し、様子を見てくるわ」
「ヒイロに何か用事があるのでしょうね。談話室の方で対応するように伝えてちょうだい。私たちもヒイロのミルクが終わったらそちらへ向かいますから」
母上が指示を出すと、リリア叔母上とエラーラさんは揃って頷き、足早に部屋を後にした。 他国の人間、それも警戒すべき宗教国家の外交官を、重要機密である王子の寝室付近に易々と入れるなどセキュリティ上あり得ない。王女や大臣が相手であっても譲らないという騎士団の対応は正しい。
「ふふっ。相変わらず賑やかね」
母上は俺の頭を優しく撫でながら微笑みかけてきた。
「ヒイロのミルクタイムが終わったら、私たちも談話室に行きましょうか」
俺は母乳を飲み終え、満足げに小さくゲップをして母上の提案に頷いた。
着替えを済ませ、寝室に隣接する公式な「談話室」へと移動する。 そこには、ルミナ姉さんとエルドリン大臣、アルバーヌ副大臣、セラフィナ姉さん、そして小さく縮こまっているソフィアがいた。エラーラさんとリリア叔母上も同席している。
「えへへ、ごめんなさい、お母様! ソフィアお姉ちゃんと一緒に凄い仮説にたどり着いたから、どうしてもすぐにヒイロで試してみたくて、ついここまで連れてきちゃったんだ」
ルミナ姉さんがバツが悪そうに言い訳の先頭に立って説明する。その横で、ソフィアが顔を真っ赤にして深く頭を下げた。
「急に押しかけてしまって、誠に申し訳ありません。外交官としての分別に欠けておりました」
「気にしなくて良いわ。ルミナたちが無理を言ったのでしょう。顔を上げてちょうだい」
母上が女王の威厳と優しさを交えて声をかけると、ソフィアはほっとしたように息を吐き出した。そこで、控えていたアルバーヌ副大臣がスッと一歩前に進み出た。
「実は、魔法省での研究の末に、一つの仮説に至りまして。ヒイロ殿下にその仮説が正しいか確認するお時間をいただきたかったのです」
談話室のふかふかのソファに座らされた俺の前で、エルドリン大臣とルミナ姉さんが熱っぽくプレゼンを始めた。
「あのね、ヒイロ君の『Holy(聖)』は、単に神聖な言葉や場所に反応するわけじゃないんじゃないかってことになったんだ!」
エルドリン大臣が興奮気味に腕を振るうと、ルミナ姉さんも身を乗り出して続く。
「そう! 人々が命の誕生に感動したり、成長を祈ったりする。その生命の神秘そのものに共鳴して、魔力を拡張させる特性があるんじゃないかとね!」
ルミナ姉さんの発表に、母上とリリア叔母上が顔を見合わせた。
「生命の神秘、ですか」
「確かに、先日の神殿での儀式は、一歳を迎えた子供たちの健やかな成長を祈る場でした。その場に満ちていた純粋な命への祝福が、ヒイロ様の魔力を高めた。そう考えれば、納得できないことは無いわね」
リリア叔母上が納得の声を上げる。 俺は出された白湯をコップのストローから飲みながら、彼女たちの熱弁を聞いていた。
(生命の神秘、か)
俺は前世の記憶と知識の引き出しを開けた。 宗教哲学というものは、掘り下げれば終わりのない沼だ。とりあえず今は深い議論は置いておくとして、宗教という人間が作った社会システムと、俺の『Holy(聖)』というWordの能力そのものは、完全に切り離して考えたほうが良さそうだな。
(『神、絶対者、霊的存在』と呼べるようなものを『聖なるもの』と仮定するならば、その存在が行いそうなことをイメージして魔力を流せばいいのだろうか。新たな命を慈しみ、成長を見守り、不安を取り除いて救いを与えるような行い)
俺が思考をまとめていると、ソフィアが木箱の中から青白く光る石とボロボロの麻布を取り出し、俺の目の前にそっと差し出した。
「ヒイロ殿下。こちらはエテルニアの古い聖遺物です。何か、感じられるものはございますか?」
俺はそれらをじっと見つめた。 ただの光る石と、古びた布切れ。そこに特別な魔力も、生命の息吹も感じられない。俺の持つSランクの魔力も、『Holy(聖)』というWordも、ピクリとも反応しなかった。
俺が何の反応も示さず、ただポカンとしていると、ソフィアは両手を強く握り合わせ、目を閉じて祈り始めた。
「どうか、何か起こってください! 聖なる奇跡を!」
純粋で真摯な祈りの言葉が談話室に響く。 だが、やはり俺の内側からは何も湧き上がってこない。祈りという言葉や行為そのものが直接的なトリガーになるわけではないのだ。
数秒後、何も起きないことを悟ったソフィアは、ゆっくりと目を開けた。 そして、自分の配慮の足りなさを恥じるように肩を落とし、悲しげな顔で息を吐く。
俺はその落ち込んで身を屈める彼女の姿を見て不憫に思い、短い腕を伸ばした。 そして、気にするなという意味を込めて、彼女の頭をポンポンと優しく撫でたのだ。
その瞬間。 俺の体の内側から温かいものが巡り、手のひらからぼんやりとした黄金の光が漏れ出した。
「あっ! 波長が変わった! 光ってるよ!」
誰よりも早く反応したのはルミナ姉さんだった。彼女は俺に向けて右手をかざし、即座に『Scale(秤)』を発動させて精密な魔力測定を開始する。
「何で!? ソフィアちゃんが祈ってたから!?」
エルドリン大臣が目を見開いて妖精の羽を激しくバタバタさせる。
「いや、遺物じゃなくてソフィアちゃんにヒイロ君が触れた瞬間に光った! ということは対象の悲しみに寄り添って、慰めようとした感情に反応したのか!?」
エルドリン大臣が興奮のあまり早口で考察を始める。
(なるほど。相手に慈愛を向け、救いを与えようとする行い。聖なる事象とリンクしたということか)
「対象への思いやりや、救済の意志が発動条件になるなら、これは凄い発見だよ! よーし、次は誰かにおもいっきり悲しい演技をしてもらって、ヒイロ君がどう反応するか試してみようか!」
エルドリン大臣がさらに前のめりになって提案したところで、リリア叔母上が冷静な声でピシャリと釘を刺した。
「お待ちください、大臣。無闇にヒイロの感情を揺さぶるような実験は許可できません。ですが、彼が自らの意志で他者に寄り添おうとする時に力が発動するのであれば、それは紛れもなく『聖なる力』。今後の検証は慎重に、かつ安全な状況下で進める必要がありますわね」
「わかってるってば、リリア殿。でもさ、これでヒイロ君の力が環境に依存するだけの受け身なものじゃなくて、自分の意志で発動できる可能性が見えてきたんだ。これからの研究が楽しみだよ!」
エルドリン大臣は羽をパタパタと動かしながら、ルミナ姉さんと一緒に計測データを嬉々として見つめている。
俺は自分の手から放たれる柔らかな黄金の光を見つめながら、これから本格化する『Holy(聖)』の能力解明プロジェクトに確かな手応えと期待を抱いていた。
ただ、リリア叔母上の様子を見る限り、安全という名の過保護な検証体制が敷かれることになりそうだ。営業部や研究開発部門がAI使いたいと言っても、情シスやコンプライアンス部門が承諾しないような、それぞれの立場で正しいことをしようという大人たちのやり取りに、どこか懐かしさを感じながらその様子を見つめていた。
ソフィアちゃんの純粋さが何がに好きです。
現代なら失敗作扱いされるかもしれないいびつな形のガラスの杯でも、国宝として正倉院に保管されていればそこに人は価値を感じます。全く同じものを作ったとしても、人はそのレプリカ瑠璃杯には価値を感じないでしょう。
ただ古いだけでなく、多くの人に観覧され、教科書に載り、研究対象にもなってきた、というような積み上げられた価値観の蓄積と醸成が宝物と呼ばれるものの価値の根源な気がします。




