第111話「勝利とは何か」
大陸歴 2792年 1月 / エヴェリン王国 王都リュミエール 王宮小ホール / ヒイロ=エヴェリン(エヴェリン王国 王子 1歳 男性)
「おおっ! ヒイロが! ヒイロが立ってる!!」
「まあ! ヒイロ様、すごいですわ!」
暖炉の火が赤々と燃える王宮の小ホールに、四女ヴァレリアと専属侍女ミラベルの歓喜の声が響いた。
年が明け、エヴェリン王宮は新年の祝賀ムードに包まれている。今日は純粋に王家の血を引く親族たちだけが集まるプライベートな新年会だ。
その穏やかな宴の席の中央のテーブルにしがみついて、生後8ヶ月を迎えた俺――ヒイロ=エヴェリンは、ローテーブルの脚を両手でガッチリと掴み、ぷるぷると震える両足で自重を支えていた。 いわゆる「つかまり立ち」の成功である。
(……くそっ、前世の記憶があるから足の動かし方は分かっているはずなのに、赤ん坊のボディは頭が重すぎる上に、足に力が入らないからバランスを取るのが至難の業だ)
俺が内心で冷や汗を流していると、「ヒイロの成長は良い感じだね」と目を輝かせるルミナ姉さんや、「ああ、なんと神々しいお立ち姿なのでしょう」と目を潤ませ始めるイゾルデ姉さんなど、姉たちが次々と押し寄せてきた。相変わらず反応が少し重いが、愛情に包まれている実感はある。
脚が限界を迎えて倒れそうになると、父上が俺の背中にそっと手を添えて転倒を防いでくれる。母上も女王の威厳を少し解した母親の顔で微笑んでいた。
和やかな団らんの時間が一段落すると、場の空気は少しだけ大人の「政治の顔」へと切り替わった。
「それで、アナスタシア。ドラコニアとヴァルクールの戦火は、どういう結末を迎えたの?」
宰相であるリリア叔母上が、エラーラ侍女長の娘であり、ドラコニア帝国に駐在している外交官のアナスタシアに問いかけた。彼女は年始の報告も兼ねて、一時的に王都へ帰還し、この親族の席に加わっていた。
「はい。私がドラコニアを出発する直前に入った情報ですが……どうやら、双方とも『大勝利』として国内に発表しているようです」
アナスタシアの言葉に、俺も耳をそばだてる。
「まず、ヴァルクール側は分かりやすく、年末に王都で凱旋パレードが行われたそうです。新王グウェンドリンや騎士団が輝かしい姿を見せ、大量の戦利品を持ち帰っての行進は大盛り上がりだったとのこと」
母上がさもありなんという表情で頷き、続きを促した。
「次にドラコニア側ですが、西部軍を率いるリリス・ドラコニア様は、大要塞を落としたヴァルクール軍を殲滅しようと、本隊を率いて猛烈な追撃を仕掛けたようです。……しかし、結果としてヴァルクールは逃げ切りました」
「追いつけなかった? あのドラコニアの騎馬軍団が?」
母上が驚いたように問うと、クラリス姉さんも怪訝そうに口を開いた。
「罠を仕掛けたり、地面をぬかるみにした程度では回り込まれて捕まるわ。どう考えてもヴァルクールの重装備の騎士たちは、ドラコニアやアスラの軽装騎兵に速度で勝てないはず」
アナスタシアは頷きながら答えた。
「はい。普通であればその通りです。しかし、ヴァルクールの新王グウェンドリンが自ら最後尾の軍を率いて、彼女のWord『Rein(雨)』によって広範囲に小雨をまき散らしながら撤退したとのこと。この凍てつく寒さの中、追撃するドラコニア軍は冷雨で全身をびしょ濡れにされ、体温低下で人も馬も走れなくなってしまったようです」
「なるほど、寒さも武器にした見事な撤退戦ね。これはどう見てもヴァルクールの戦略勝ちね」
リリア叔母上が感心したように呟くが、アナスタシアは表情を引き締めた。
「ですが、ドラコニア国内の発表は全く違います。彼らは『リリス様の不在時を狙ったヴァルクールの卑怯な奇襲により大要塞や町が破壊され、多くの損害が出た』と事実を認めた上で……切り札を切りました」 アナスタシアは声を潜めた。
「リリス様の傍らにいる小王女、アマリス・ドラコニア殿が『Dragon(竜)』のWordを持っていることを、国を挙げて大々的に発表したのです」
「ついにアマリスの存在を公にしたのね……」
母上のつぶやきと共に大人たちの間にどよめきが走る。
「そして、その『Dragon(竜)』の力を持つアマリス殿が、アスラの『鉄砂嵐』を率いて敵の中核部隊を完全に粉砕し、それに恐れをなしたヴァルクール軍が補給物資はおろか鎧すらも脱ぎ捨てて尻尾を巻いて逃げ出した」と。ドラコニアは『侵攻してきた敵を国境の先まで撃退した我が軍の勝利である』と高らかに宣言しています。
その報告を聞き、リリア叔母上が深く顔をしかめた。
「『Dragon(竜)』のWordを持った皇族の存在が公になったことも脅威ですが……何より恐ろしいのは、あの誇り高く強靭なアスラの『鉄砂嵐』が、その若い小王女に付き従っているという事実ですわ。これは、単なる武勇の象徴にとどまらない、絶対的なカリスマの誕生を意味しています」
(なるほど。防衛線を破られたという『失態』を、新たな希望である『竜の王女の武勲とカリスマ性』にすり替えて、国内の不満を逸らしたわけだ。宇宙戦争が起きてるような世界でもエル・ファシルの英雄だの、ソロモンの悪夢だのが産まれるわけだからな。国が負けそうになったり、上層部がヘマを仕出かしたりした時ほど、都合のいい『英雄』が求められるのはどの時代でもあることなのだろう)
俺はテーブルの脚を掴んだまま、英雄の虚しい側面を見た気がした。
「実態としてドラコニアの防衛線はどうなっているの?」
母上が訪ねるとアナスタシアが答える。
「要塞や破壊された町はすべて放棄し、防衛線を大きく東へ下げました。雨でぬかるまない、ドラコニア騎兵が本来の機動力を活かせる水はけのよい地形にまで引き、そこで強固な態勢を整えさせています。また、ヴァルクールが使った『ラクダ部隊』についても、足が遅いため、平地で騎兵を用いれば一方的に叩けると判断しており、脅威とは見なしていません」
「かなりヴァルクールを警戒して備えているようね。勢力圏を引き下げて、自軍に有利な地形で迎え撃つ構えはドラコニアらしくないわね」
母上がため息をつく。
「第一皇女カリナ様や第二皇女カラリス様をはじめ、ドラコニア全体でも『今回はリリス様が帝都にいて不在の隙を突かれただけだ。西部はリリス様に任せておけば何の問題もない』という認識で一致しています。むしろ、アマリス殿という次代の象徴が誕生したことで、国内の士気は異常なほど高まっていますよ。次にヴァルクールがやってきたら目に物を見せてやると」
大人たちの会話を聞きながら、俺は一人で状況を分析していた。
(ドラコニアのほうから攻め込みはしないつもりか……『戦場は常に敵国に設定すべきだ』という高校時代の恩師の言葉が思い出される。前世の俺に、世界史を受験で使うわけがない深さまで叩き込んでくれた恩師が、戦術論を語る時によく口にしていた理論だ)
(攻められた側には『撃退』か『敗北』しかなく、勝ったとしてもマイナスかゼロだけで得るものは何もない。一方、攻め込んだ側は『目標達成』か、悪くても『撤退』で済むため、失うものが圧倒的に少ない。まさに攻守の非対称性だ。俺もこの理論は古代から現代の戦争まで当てはまる話だと思っている)
(今回の場合、攻め込んだヴァルクールは莫大な戦利品を得て被害が出る前に『撤退』したことで大勝利を宣言し、攻められたドラコニアは竜の王女が最強の部隊を従えて敵を『撃退』したことで大勝利を宣言しているが、実際に被害をどちらが受け、利益をどちらが得たかは明白だ)
両国とも、自国が勝利したと言い張り、国民を熱狂させ、次なる大戦への準備を整えるための『言い訳』を手に入れたわけだ。 そして、この状況から導き出される俺たち光の同盟にとっての絶対の教訓は一つ。
(何があっても、エヴェリンを、さらには光の同盟諸国の国内を戦場にしてはならない。戦端を開くなら、盤面は必ず他国に設定しなければならないということだ)
(俺は状況の厄介さを改めて理解した。好戦的な集団が二つあって、その横にある温厚な集団なんてのは、いつか攻められるに決まっている。その時に光の同盟から攻めないのであれば、必ず初手で受けに回らねばならなくなる)
「……ヒイロ。難しい顔をしないで」
不意に、三女のセラフィナ姉さんが俺の前にしゃがみ込み、その知的な瞳で優しく見つめてきた。 セラフィナ姉さんの言葉に、俺はハッとして思考の沼から呼び戻された。
俺は気合を入れ直し、テーブルの脚を強く握りしめた。 ぷるぷると震えていた両足の筋肉に、明確な「意志」を込める。 重い頭のバランスをとり、背筋を伸ばし、そして――。
俺は、テーブルの脚から両手を離し、自らの足だけで真っ直ぐに立った。
「あ……っ!」
ミラベルが息を呑んだ。
俺はそのまま、重い頭のバランスを必死に取りながら、前に向かって――ゆっくりと、一歩を踏み出した。
「歩きました! ヒイロ様が、お一人で歩かれましたわ!」
外の世界の嵐は、今は一旦落ち着いている。だが、俺がこの足で歩き出し、走り出す頃には、きっと再び激動の時代がやってくる。 その時のために、今はしっかりとこの足腰を鍛え、俺自身の地盤(基盤)を固めよう。
「あーうーっ!!(よし、このままもう一歩だ!)」
俺が力強い声を上げてさらにもう一歩踏み出し、バランスを崩して倒れ込むと、すかさず父上がしっかりと抱き止めて支えてくれた。 小ホールの家族たちが、一斉に笑顔で拍手を送る。
「ふふ、よく頑張ったわね、ヒイロ」
母上が目を細めて微笑み、ふと壁の時計へと視線を向けた。
「……さて、そろそろ神殿に行く時間ね」
「馬車と、移動の準備をいたしましょうか」
控えていた侍女長のエラーラさんが素早く応じる。 すると、四女のヴァレリア姉さんが、不満そうに声を上げた。
「あたしも! あたしもヒイロと一緒に神殿へ行きたい!」
活発で弟大好きな彼女は、おもちゃの剣を揺らしながら動向を申し出る。そんな姉を、父上が優しく頭を撫でてなだめる。
「ヴァレリア、気持ちは嬉しいけれど、今日の儀式は親と、去年生まれた子供たちだけが参加するものなんだよ」
「でもぉ……」
「神殿で、去年生まれた子たちが今年無事に一歳になることを神様にご報告して、お祝いするための儀式だからね。だからお留守番をお願いできるかな? 帰ってきたら、みんなでこの一年を無事に過ごせて歳を重ねたお祝いの晩餐にしよう」
父上の優しい説明に、ヴァレリア姉さんは「むー」としかめ面を作ったが、やがて「まぁ、仕方ないかぁ」と渋々といった様子で納得してくれた。
(この世界では誕生日に関わらず、年が明けて一月になったら全員が一歳年をとるのか。昔の日本でいうところの『数え年』みたいな年齢の数え方をするんだな)
ヴァレリア姉さんの横で、ルミナ姉さんが顎に手を当てて目を光らせていた。
「……神殿での儀式に、ヒイロが参加する……か」
何か意味深なことをぶつぶつと呟いた後、彼女はパァッと顔を上げた。
「じゃあ、ボクは晩餐までエルドリンさんのところ行ってくるね~!」
言うが早いか、彼女は嵐のように小ホールを飛び出していった。相変わらず研究熱心というか、我が道を行く姉である。
俺は父上に抱えられながら、温かい家族たちに見送られて部屋を後にした。 エヴェリン王宮の温かな新年は、俺の小さな第一歩と共に、穏やかな日常の続きとして過ぎていくのだった。
どこの国でも、どこの時代でも、敗北は認められないという風潮がありますね。
勝利の定義は人それぞれかもしれませんが、歴史を紐解くとどっちが勝ったどっちが負けたという単純な戦のほうが少ないかもしれません。




