第108話「命がけの逃走劇」
大陸歴 2791年 12月 / ドラコニア帝国 西部領 荒野 / ロセリン・マクドレイ(ヴァルクール公国 新兵・騎兵隊長 16歳 女性)
夜の闇に紛れ、俺たちの大規模な補給部隊は、大要塞の東門を静かに出発しようとしていた。 俺は愛馬の手綱を握り、見送りに立っていた大要塞の守備兵に向かって、声を潜めつつ念を押した。
「頼むぜ、俺たちが出発したら、大要塞の東側……つまりドラコニアに面している方の門の前からできる限り遠くまで、たっぷりと水を撒いてびしょ濡れにしておいてくれ。それと、城門は何があっても絶対に閉めず、開けっ放しにしておくんだ」
すると守備兵は鼻で笑い、面倒くさそうに首を振った。
「はぁ? なんで一番下っ端の若造の言うことなんか聞かなきゃなんねぇんだよ。そんな水撒きの手間……」
「……これはヒルダ軍師殿からの厳命だぞ」
俺が低い声でそう告げると、守備兵の顔からスッと余裕が消えた。
「ヒルダ様からの……? そ、そういえば、お前らヒルダ様の子飼いの部隊だったか......。しかし、敵が来るかもしれないのに門を開け放つなど……」
「それに、もし敵が来たら、敵発見の笛だけでなく狼煙も上げろとのことだ。そのうえで絶対に門は閉めるなとのご命令だ。……俺にもあの人の考えはさっぱり分からんがね」
俺が呆れたように肩をすくめてみせると、守備兵は困惑しながらも押し黙った。
「いいからやれよ。……命令無視して、あの鬼ババアに何されても知らねぇぞ」
「ひぃっ!? わ、分かった! 絶対にやる!」
ヒルダ軍師の恐怖政治は隅々まで行き届いているらしい。守備兵は顔面を蒼白にして、全力で頷いた。
要塞を出発し、荒野を東へと進む。 隣を並走する親友のミレイスが、不思議そうに首を傾げた。
「ロセリン、さっきの指示、何で?」
「……まぁ、使うことがなけりゃそれに越したことはねぇんだけどよ。生き残れる確率は少しでも上げておきてぇんだわ」
俺は嫌な予感しかしない状況から逃げるように前を向いた。
「……これがラクダ部隊か。なんというか、不格好ね」
ミレイスが、連なるラクダの隊列を見ながらぼやいた。
「荷馬車を引かせたほうが、よっぽどたくさん物が運べそうなものだけど。わざわざこんな荷物載せるためだけの生き物を使わなくても……」
「馬鹿言え。荷馬車なんか使ったら、こんな荒野じゃ一発で車輪が砂や泥に嵌って立ち往生だぜ」
俺は周囲の暗闇に目を配りながら、ため息交じりに返した。
「ラクダは足場が悪くても平気で歩けるし、水や草が少ない敵地でも長期間耐えられる。荒れ地や敵地での兵站を維持するには、これ以上ないほど合理的なんだよ。……あのヒルダ軍師が考えただけはある」
***
俺たちが警戒を怠らず進軍を続け、ようやく空が白み始め、荒野に朝焼けが差し込んできた頃だった。
「なんだあれ、左方向の地平線に騎馬がいやがる......。敵だ!!」
不良揃いの先輩騎士の一人が、柄の悪い声で叫んだ。
(ここまでは予想通りだ。今いる三百は数は少ないが、腕の立つ騎士が揃ってる。しかし、戦闘後に敵を引き離せるかが問題だな……)
俺はそう頭の中で計算しながら、即座に部隊に号令をかけた。
「全軍、停止! 左翼方向に防御陣形!! ラクダを守るぞ!」
俺の指示に、不良騎士たちもこの時ばかりは迅速に動き、見事な防衛線を構築してみせた。……伊達に歴戦のクズたちではない。
だが、朝焼けの光の中で、遠く迫り来る敵軍のシルエットと、風に翻る巨大な旗を見た瞬間――俺の背筋に、氷の刃を突き立てられたような悪寒が走った。
(……嘘だろ。なんで、あの旗を掲げてるんだ……?)
俺だけじゃない。全員があの旗を見て凍り付いた。
そこにあったのは、ドラコニア王家に連なる者にだけ許される『竜王旗』。
あれは、ヴァルクール、いやこの大陸の全ての国にとって恐怖と絶望の象徴だ。何万もの大軍勢の中央にあるべきもの、皇帝やそれに連なる王族の大将軍が本軍を率いる時にのみ掲げられるべき旗だ……。それがなぜ、こんな辺境の補給線を奇襲するような危険な任務をする部隊に掲げられているんだ。
(……想定外すぎる)
俺は必死に頭を回転させた。
(ドラコニア西部を統括しているのは、執政官のリリス・ドラコニアだ。だが、奇襲部隊の陣頭に、脚が不自由なリリスが自ら立つなんてことは絶対にありえない。 ということは、リリス以外の皇族の誰かが、この部隊を率いているということだ。誰が率いているにしろ、ドラコニア皇帝の血を引くものが率いる軍勢が雑魚なんてことは絶対にない!!)
その時、俺の部隊にいる定年間際の中年不良騎士が、顔面を土気色にして蒼白な顔で叫んだ。
「や、ヤバすぎるぞあれ!!」
「竜王旗だろ、分かってるよ!」
俺が怒鳴り返すと、その中年騎士はガタガタと震えながら首を横に振った。
「馬鹿野郎!! それだけじゃねぇ!! あの竜王旗の横を見ろ! アスラ連邦の『鉄砂嵐』の旗が立ってやがる!!」
「て、鉄砂嵐……!?」
ミレイスが俺の隣で素っ頓狂な声を上げた。
「ああ……昔、戦場で遠目から見たことがあるが、エテルニアの聖騎士たちがアイツらとぶつかってあっという間にズタボロの死体の山にされたのを見たぜ。純粋な殺戮集団だ! ……それに、見ろ! 鉄砂嵐の団長旗と副長旗が揃ってやがる!」
中年騎士が恐怖に顔を引き攣らせて叫ぶと、別の不良騎士も青ざめて言葉を継いだ。
「知ってるぞ……鉄砂嵐の団長のゼニス・アシュラは統率系のWordを持ってるらしくて、率いる戦士が皆バケモンになるって話だ」
さらに別の騎士が、震える声でそれに被せてくる。
「カリマもやべぇぞ。アイツの『Claw(爪)』は鎧ごと人間を切り裂くって噂だぞ……!」
「おい、ざっと見ても二千はいるぞ……。あれ、信じたくねぇが……全部『鉄砂嵐』の連中なんじゃねぇのか……!?」
また別の騎士が、絶望に染まった声を漏らした。
先輩騎士たちの言葉に、俺の中で『腕の立つ騎士が揃っているからなんとかなる』と高を括っていたゆとりが、完全に消し飛んだ。
万の軍勢と戦っても勝機があるような、ドラコニア皇族の率いる炎盟最強の殺戮部隊二千。それが、たかだか三百しかいない俺たちの輸送部隊に襲い掛かろうとしているのか……。
(どうする!? ここで戦えばあっという間に全滅だ。盾を構えて防御陣形? あんなバケモノどもに通用するわけがねぇ!)
俺が必死に頭を回転させていると――。
『オオオオオオオオオオオッ!!』
大地を揺るがすような、最恐の戦士たちの狂乱の咆哮が、地平線の彼方から響き渡った。 それは飢えた獣などという生易しいものではない。死と暴力の権化たちが、俺たちの命をただ純粋に刈り取るためだけに発した、恐るべき殺意の塊だった。 その咆哮を聴いた瞬間、俺の全身の細胞が「今すぐ逃げろ」と最大級の警報を鳴らした。
ヒルダ軍師の「負けて逃げろ」という作戦の範疇を、はるかに超えている。これは「負ける」のではなく、一方的に「消滅」させられる。
「ロセリン……ッ!」
隣で、ミレイスが悲鳴のような声で俺の名を呼んだ。彼女も事態の絶望的なヤバさを理解している。
「……っ!!」
俺は腹の底から、今まで出したこともないような大声で絶叫した。
「いいか! 生き残ることだけ考えろ、大要塞の門をくぐることだけ考えるんだ! 全速力で逃げるぞおぉぉぉっ!!」
「ラクダに乗せてる荷物をこの場で全部捨てろ!! 武器も物資もどうでもいい、すぐに大要塞へ走れ!!」
「騎士団もだ! 鎧を脱いで盾も捨てろ!! 裸になってもいいから、できる限り体を軽くして馬で城へ走るんだよ!!」
白銀の鎧がヴァルクールの騎士の誇りだなどと、寝言を言っている場合ではない。 そんな重い鉄屑を着たまま、あの化け物たちから逃げ切れるはずがないのだ。
俺の号令とともに、誇り低きヴァルクールの不良騎士たちは一斉に鎧を脱ぎ捨て、荷物を放り出し、算を乱して大要塞への無様な逃走劇を開始した。
(クソッ! 危険な汚れ役を押し付けられたとは思ってたが、あんなヤベェ奴らが来るなんて誰が思うんだよ!!! 絶対に生きて帰って、あの鬼ババアに一発ぶち込んでやるからな!!)
誰もがただひたすらに、我先にと大要塞を目指して馬の腹を蹴り飛ばす。
逃走の中、チラリと後方を確認した中年騎士が、絶望に染まった声で叫んだ。
「あいつら……。あんなにたくさん……武器も物資も高い鎧も捨てたのに見向きもしねえ……! 俺たちを殺すことしか考えてねえぞ!!」
「当たり前だろ! それでも走るしかねぇんだ! 全力で大要塞に向かって走れ!!」
俺は怒鳴り返し、前だけを見て手綱を握った。 だが、逃走劇が続く中で致命的な問題が浮き彫りになってきた。
(……クソッ、ラクダが遅ぇ!)
人を乗せて必死に駆ける馬のほうが、空身になったラクダよりも速く走れるとは。ラクダは砂漠や荒野など道なき道での踏破力や持久力はあっても、純粋な速度では馬に遠く及ばないのだ。
後方で、何人かの騎士たちが遅れがちなラクダの尻を叩き、必死に急がせようとしているのが見えた。だが、あのバケモノたちの接近速度を考えれば、そんなことをしていては巻き添えを食うだけだ......。
「ラクダはもうほっとけ!! 追いついてこれる奴だけでいい!!」
俺は血を吐くような思いで指示を飛ばした。 物資を運ぶための要であるラクダだが、今優先すべきは俺たちの命だ。見捨てられたラクダたちは、次々と限界を迎えて走り潰れ、荒野の土に倒れ伏していく。
俺たちの乗る馬もヤバい。限界を超えた疾走で、口から白い泡を吹き始めている。だが、ここで立ち止まれば文字通りミンチにされる。
「もう少しで大要塞だ!!」
ミレイスが叫んだ。 大要塞までの最後の丘を越えて、あと少しというところで、大要塞の兵士たちが俺たちを見つけたのだろう、狼煙を上げて笛を吹きならしているのが聞こえる。
(絶対に俺たちが入るまで門を閉めるなよ……!)
すぐ背後まで死神の刃が迫る中、俺たちはなりふり構わず、ただ祈るように城門が閉められないことだけを願いながら、決死の逃走を続けた。
敵から逃げるのって本当に大変だと思います。
某番組の逃走でも、走る事が得意な集団に狙われたら、多少走りが得意な程度では逃げ切れません。




