第102話「遠き戦場への思い」
大陸歴 2791年 12月 / エヴェリン王国 王都リュミエール ヒイロの寝室 / ヒイロ=エヴェリン(エヴェリン王国 王子 0歳 男性)
王都リュミエールにも本格的な冬の寒さが訪れていたが、俺の寝室は魔法の暖炉によって春のように快適な温度に保たれていた。
生後七ヶ月。首もすっかり座り、ハイハイやお座りも様になってきた俺は、今日から始まった「おやつタイム(離乳食)」の真っ最中だった。
「はい、ヒイロ。あーんだよ」
父上が、すり潰した甘い果物を乗せたスプーンを口元に運んでくれる。俺が大きく口を開けてパクリと食べると、「あーうー(美味い)」と声を上げた。
「ふふ、よく食べるわね。エリオン様に似て、好き嫌いのない丈夫な子に育ちそうね」
「本当に。この子の笑顔を見ていると、長生きしたくなるわねぇ」
母上と祖母上が、ソファでお茶を飲みながら目を細めている。 その周りでは、いつものように四人の姉たちが騒がしく俺を取り囲んでいた。
「あーっ! お父様ずるい! 次は私があげるの!」
四女のヴァレリアがスプーンを奪おうと背伸びをする。
「ダメよヴァレリア。ヒイロの消化器官はまだ未発達なんだから、適切なペースで与えないと。……さあヒイロ、次は私が計算した最適な角度と速度で口に運ぶよ」
次女のルミナが変な理屈をこねながらスプーンを構え、その横では三女のセラフィナが「果物の温度は人肌が最適です」と、どこかで読んできたであろう知識を話している。
「貴女たち、お父様を困らせないの。ヒイロがむせてしまいますわよ」
長女のクラリスが、やれやれとため息をつきながら妹たちをたしなめる。
(……相変わらず、賑やかだが暖かい場所だ)
俺は口の周りを父に拭いてもらいながら、心の中でクスリと笑った。 平和だ。外の世界では三大勢力が睨み合っているというのに、この部屋の中だけは完全に時間が止まっているかのような温かな団らんの空気に満ちている。
だが、大抵の場合ゆっくりできるなぁと思っているのは忙しくなるフラグだ。家族サービスしようと思っていた休日が、突然の仕事の電話で打ち破られたことが何度あったことか。
コンコン、と重厚な扉がノックされ、静かに開かれた。
入ってきたのは、宰相であるリリア叔母さんだった。その手には、数枚の報告書が握られている。
「姉様、エリオン様、お寛ぎのところ申し訳ありません」
俺は、なんとなく感じ取れる雰囲気から、彼女の僅かに強張った表情の裏にある「ただ事ではない緊張感」と「忙しくなる予感」を感じた。
「どうしたの、リリア。急ぎの案件かしら?」
母上がティーカップを置き、女王の顔に切り替わる。
「……はい。アークランドから急報が届きました。いい話と、悪い話があります」
「もったいぶるわね。……じゃあ、良い話から聞かせて」
母上が答えると、リリア叔母さんは手元の報告書を見つめた。
「はい。アークランド王国のクラリッサ女王陛下より、無事にご出産されたとの早馬が届きました。元気な女の子で、お名前はクララ王女殿下とのことです」
その報告に、部屋の空気がパァッと明るくなった。
「まあ! それは重畳ね。あの方のことだから心配はしていなかったけれど、無事に産まれて本当に良かったわ」
「ヒイロと同い年になるね。将来、良いお友達になれるといいな」
母上と父上が顔を見合わせて喜ぶ。
(アークランドの姫様か。夏の顔見世に来ていたあの豪快な女王の娘なら、さぞや逞しく育つだろうな。同い年の有望なコネクション誕生というわけか)
俺も「あー(おめでとう)」と手を叩いて祝福の意を示した。
だが、リリア叔母さんの表情は晴れない。
「……それで、悪い話というのは?」
母上が声を潜めると、リリア叔母さんは手元の報告書に視線を落とし、重苦しい声で告げた。
「ドラコニア帝国とヴァルクール公国の国境についてです。……ヴァルクール軍一万五千がドラコニアへ侵攻。迎撃に出たドラコニアの二万五千を野戦にて包囲殲滅し、そのままの勢いでドラコニアの西方防衛線の要である『大要塞』を陥落させました。……守将のエンギュル・カーンも、討ち死にし、残兵は東へ敗走したとのことです」
「なっ……!」
ピシリと、部屋の空気が凍り付いた。 先ほどまで俺にスプーンを向けていた姉たちも、息を呑んで立ち尽くしている。
「半数のヴァルクール軍にドラコニアが敗れたの?」
母上が信じられないというように目を見開いた。
「エンギュルと言えば……」
クラリス姉さんが口を開く。
「あのリリス・ドラコニアの長年の腹心でドラコニア屈指の名将ではないですか。しかも、ドラコニアには大陸最恐と恐れられる騎馬隊が主力になっているはず。それが野戦で一方的に包囲殲滅された……?」
「……ええ。現地でなにがおこったのか。詳細はまだ不明ですが、ドラコニア側は壊滅的な打撃を受け敗走したようです」
(……一万五千の兵で、野戦で二万五千を包囲殲滅した後に落としただと?)
俺はベビーベッドの中で、激しい戦慄を覚えた。 大要塞の構造や双方の武器や魔法の存在、そして具体的な戦術の情報が全くない状況とはいえ、極めて珍しい戦形になっていたことは分かる。
少数の兵が多数の兵を包囲した例はいくつかあるが、もっとも有名なのは、古代、天才戦術家ハンニバルがカンナエの戦いで、自軍の倍近いローマ軍を半月陣からの一斉包囲で殲滅した戦いであろう。
噂でしか知らないが、軍師のヒルダという人物もハンニバルに匹敵する天才かもしれない。もしかすると魔法やWordという不確定要素があるなら、圧倒的な個の力で全てを薙ぎ払う呂布のような存在がいるのかもしれない。
大人たちが「これは炎盟と永遠条約圏のパワーバランスが崩れるかもしれない」「エテルニアがこの勝利を受けてどう動くか」と深刻な議論を始める中、俺の意識は全く別の人物へと向かっていた。
(……アマリス・ドラコニア)
夏のお披露目パーティで出会った、燃えるような赤髪と琥珀色の瞳を持つ少王女。 『Dragon(竜)』のWordを持つ彼女は、ドラコニア帝国の西部執政官であるリリスのもとで軍略を学んでいると言っていた。
西部の防衛線が崩壊した想定外であろうこの盤面。ドラコニアの鬼札である彼女がこのまま黙って引き下がるはずがない。この戦に彼女も間違いなく巻き込まれ、何らかの形で関わることになるだろう。
敗戦の中での初陣か......。
俺は世界史が大好きで、西洋史の中だとナポレオン時代が好きだが、ナポレオンをワーテルローの戦いで最終的に打ち破ったイギリスの英雄『鉄の公爵』アーサー・ウェルズリー。彼の初陣も確か敗戦の援軍から始まったはずだ。
フランドル方面作戦でのフランス革命軍の猛攻を前に崩壊していく味方を救うための、過酷で悲惨な撤退戦と救援戦の連続が後の彼の堅実にして不敗の戦術の基礎となったと言われる。
苦しい戦い。それこそが、ただの才能ある若者を、本物の将帥へと鍛え上げる最高の試練となるのかもしれない。
軍師ヒルダは恐らく彼女の考える最高の戦果をこの戦いで出せるように準備してきたのだろう。だが、ヒルダの戦術と大勝利こそが、アマリスをただの小王女から、真の『竜』へと進化させる劇薬になるかもしれない。
「あー、うー」
俺が小さく声を漏らすと、深刻な顔をしていた父上がハッとして、俺の頭を優しく撫でてくれた。
「ごめんよ、ヒイロ。怖い顔をしてしまったね」
「ヒイロ、大丈夫だよ! どんな敵が来ても、あたしがぶっ飛ばしてあげるからね!」
ヴァレリアが小さな拳を握って見せると、部屋の重たい空気が少しだけ和らいだ。
「……ええ。他国の戦火が、ヒイロにまで届くようなことは絶対にさせないわ」
母上も気丈に微笑み、俺の頬に触れた。
俺は出された離乳食の残りを口に含み、しっかりと飲み込んだ。 甘い果物の味が口に広がる。俺は今、この温かくて平和な揺り籠の中にいる。
だが、遠く異国の地では戦が起き世界が大きく揺れ動いているのだ。ホルムズ海峡封鎖のように影響が間接的に広がることもあるだろうし、もしくはそこで死んだ者や残された者達から、バタフライ効果のように、変化が連続して大きなうねりとなることもあるだろう。
俺もまた、ただ守られるだけの赤ん坊でいるわけにはいかない。
(早く大きくならなきゃな。……時代に、置いて行かれないようにな)
俺は小さな拳をギュッと握りしめ、大人たちの頼もしい顔を力強く見つめ返した。
戦史は大好きです。
ハンニバルとかナポレオンはロマンの塊だと思ってます。




