第101話「酔えぬ祝杯」
大陸歴 2791年 12月 / エテルニア大帝国 帝都コンスタンティナ 王宮 / デリアンナ・フォン・リヒト(エテルニア大帝国 大司教 諜報組織のトップ 38歳 女性)
窓の外では、音もなく粉雪が舞い散っている。 白大理石で統一された帝都コンスタンティナの冬は、どこまでも白く、そして凍てつくように冷たい。だが、教皇マルアラ聖下の私室に設けられたこの晩餐会の席だけは、暖炉の火と上質なワインの香りに満ちていた。
「この鴨のロースト、とても美味しいですわねぇ~」
私は頬に手を当て、ふわりとした笑顔を浮かべながら口元を綻ばせた。 我がエテルニア大帝国では、学校や職場などで気の置けない仲間と月に一度の頻度で晩餐を共にする文化が国全体で存在している。 私はこの文化が好きだ。辛いことや嫌なことがあっても、自分の居場所がここにあると確かに感じられるから。
この場もその一つで、メンバーは、教皇マルアラ聖下、宰相のクラリンダ、枢機卿のアデリナ、そして大司教であり諜報組織のトップでもある私、デリアンナ。 さらに本日は、騎士団長のテオムント殿と、聖騎士団第二師団長に就任したばかりのタリアンネ・ツー・オルデン殿も参加していた。
(私と同い年の38歳であるタリアンネ殿だが、さすがにこの最高幹部ばかりの晩餐会には初めてとあって緊張しているみたいね)
私は彼女の少し強張った横顔を見ながら、無理もないと考える。エヴェリン王国やアークランド王国方面に対応するという重責を担う師団長に任命されたばかりなのだから。
和やかに食事が進む中、部屋の隅の暗がりに、見慣れた修道女の姿が音もなく現れた。 私の直属の部下である諜報員だ。私が視線で合図を送ろうとした時、上座のマルアラ聖下が優雅にワイングラスを置いて口を開いた。
「よい。そこへ参れ」
聖下は小さく微笑まれた。
「皆の前で話して構わん。良い話であれ悪い話であれ、この良き酒の肴になろう。……申してみよ」
「はっ」
修道女は深く頭を垂れ、そして簡潔に報告を告げた。
「東の遠征軍からの急報。……ヴァルクール公国軍が、ドラコニア帝国の『大要塞』を陥落させました」
「なっ……!?」
最初に反応したのは、宰相のクラリンダだった。彼女は手にしていた銀の匙を置き、目を丸くして身を乗り出した。
「大要塞を落としたですって? さすがに早すぎるわ。たった半数の兵力で数日で落とせるはずがない。……誤報ではないの?」
「いえ。複数の諜報ルートから同じ報告が上がっております。守将のエンギュル・カーンは討ち死に。大要塞は完全にヴァルクール軍に制圧されたとのことです」
修道女の裏取りの報告を聞き、部屋の空気が一変した。
「おお……!! おお、エテルナの神よ!戦士たちへの祝福に感謝します!!」
沈黙を破ったのは、枢機卿のアデリナだった。 彼女は狂喜に顔を赤らめ、ガタッと勢いよく椅子から立ち上がった。
「見事! 見事である! さすがは我が友グウェンドリン! 『エテルナの槍』が、見事に異教の壁を打ち砕いたのだ! さあ、皆様! 偉大なる神と、ヴァルクールの英雄たちに乾杯を!」
アデリナは興奮冷めやらぬ様子でグラスを高く掲げた。 マルアラ聖下も満足げに頷き、クラリンダも驚きを隠せないながらも「信じられない戦果ね」と呟いている。
私は静かに手を合わせて祈りを捧げた。
「両軍ともに、多くの命が失われたのでしょう……。神の御許に導かれますように……」
表面上は、のほほんとした聖職者としての慈愛の顔を貼り付け、黙とうを捧げる。だが、胸の奥底では、けたたましい警鐘が鳴り響いていた。
(……ヒルダの言った通りになった)
あの老軍師が語っていた三つの目的。大要塞を落とし、スパイを潜り込ませ、あえて補給線を絶たれて撤退する......。
私は彼女の凄まじい気迫に飲まれ、教皇聖下たちには「ヒルダ殿は深入りはせず、武勲を立てたらすぐに引くと言っていました」としか共有していなかった。 だが、この後は大量のスパイが潜り込まされて、補給線を絶たれて撤退することになるのだろうか……。
味方であるはずの軍の勝利であるにもかかわらず、まるで死神が死の宣告をするシーンに立ち会ったような、そんな嫌な気分だ。
「全世界が、このエテルナの槍の大戦果に驚愕し、我が永遠条約圏の力に震え上がっているだろう! だが、これで終わりではない!」
アデリナが、興奮に目を血走らせながら叫んだ。
「大要塞を奪ったのなら、ドラコニアの猛烈な逆撃が必ず来る! ただちに我が聖騎士団から援軍を送るべきである! ヴァルクールと共に、異教の地を一気に浄化するのです!」
私はハッと我に返り、慌てて――あくまで、のんびりとした間延びした口調で、アデリナの言葉を遮った。
「アデリナ様ぁ。援軍は、いけませんわぁ」
「何だと? デリアンナ、お前は絶好の領土拡大の好機を逃すというのか!」
アデリナが私を睨みつける。私は困ったように眉を下げ、おずおずと告げた。
「そうではなくてですねぇ……。出陣の前に、ヒルダ殿が強く仰っていたのです。『一兵たりとも援軍は送らないでくれ』、と。何かお考えがあるようでしたわぁ」
「ふむ……」
マルアラ聖下が、ワイングラスを揺らしながら深く頷いた。
「あの老軍師がそう言ったのなら、意図があるのだろう。我々は当初の予定通り、静観する」
「……っ、聖下のお心のままに」
アデリナは不満そうに席に座り直したが、それでも勝利の美酒の味は格別なのだろう、すぐにまた上機嫌にワインを口に運んだ。
暖炉の火が赤々と燃え、幹部たちの笑い声が交差する。 だが、私の中に巣食った寒気は、外の粉雪よりも冷たく私の心臓を凍り付かせていた。
(……これは始まりに過ぎない)
この大勝利が、未来のさらに大きな戦への布石であることに言い知れぬ恐怖を感じる。もしヒルダの戦略通りになったとして、その先には何があるのだろうか。これはヴァリス大陸全土を巻き込む巨大な地獄の、ほんの小さな序章に過ぎないのかもしれない。 私は震える手を隠すようにテーブルの下で強く握りしめながら、冷たいワインを喉の奥へと流し込んだ。
「しかし、見事な戦果ではありますが……」
沈黙を守っていたテオムント殿が、敬虔で誠実な声で静かに口を開いた。
「ヒルダ殿の知略とグウェンドリン殿の武勇には敬服いたします。ですが、ドラコニアがこのまま黙っているはずがありません。彼らが本格的に反撃に出れば、ヴァルクール公国は過酷な戦いを強いられることになります。我々聖騎士団も、いつでも後詰できるように東の国境へ遠征できる準備をして駐屯させておいた方が良いでしょう」
その言葉に、緊張した面持ちだったタリアンネ殿も、明瞭で硬質な声で同調した。
「……私も、テオムント団長に同感です。光の同盟側は、私が任された第二師団の外交と防御網で万が一の事態が起きないようにしておきますので、どうぞお任せください」
「頼もしいことだ、タリアンネ。お前がそう言ってくれるなら、南の憂いは断たれたも同然だ」
マルアラ聖下が微笑み、そしてテオムント殿に熱を帯びた視線を向ける。表向きは信頼に満ちた主君の目だが、私にはその裏の情愛が透けて見えた。
(……聖騎士団は後詰めの準備と南の防衛に注力する構えか。それは良いことだけれど)
彼らはまだ、ヴァルクールの勝利を「渾身の大勝利を実現した」と捉えている。ヒルダの狂気とも言える「未来の復讐の盤面を描いている」など、想像すらしていないのだ。
「皆様の堅牢な守りがあれば、帝国は安泰ですわねぇ~」
私は再びのんびりとした声を出しながら、鴨のローストを口にした。
私のその言葉に、タリアンネ殿は真面目な顔で深く頷いた。
「ええ。南の防衛線を鉄壁にするため、すでに新たな要塞群の設計図を引いております。アークランドの重い騎馬突撃やエヴェリンの魔法兵の接近を許さぬよう、強固な外壁と複雑な地下道を組み合わせた、半地下式の最新鋭要塞を配置する計画です」
その言葉が出た瞬間、上座のマルアラ聖下の目がカッと輝いた。
「ほう! 半地下式か。タリアンネ、地下道の換気網と、魔法攻撃に耐えうる防壁の厚さはどう設定している?」
「はい、聖下。外壁にはモントルヴァルから取り寄せた火山灰と石灰を練り込んだ特殊素材を用い、地下道には敵を誘い込む防衛陣地を幾重にも張り巡らせる予定です。ただ、南の国境付近の地盤を考えると、基礎の強度に不安が残っておりまして……」
「なるほど。あそこの地質なら、基礎には腐蝕に強い金属柱を深く打ち込むべきだな。余が以前設計した西の防壁の基礎構造を応用すれば、大規模な魔法の直撃にも耐えうるはずだ。後で余の私室へ来い、自ら設計図に手を入れてやろう!」
「なんと! ありがたき幸せにございます!」
マルアラ聖下とタリアンネ殿が、身を乗り出してマニアックな築城談義で盛り上がり始めた。 我が帝国の絶対権力者である教皇聖下は、大の建築マニアであり、特に軍事要塞の設計をこよなく愛しておられる。そして、タリアンネ殿もまた生粋の建築好き。この二人が揃って防衛線の話を始めると、こうして時間を忘れて熱中してしまうのだ。
「……はぁ」
その様子を見て、宰相のクラリンダが大きなため息をつき、こめかみを指で揉んだ。
「聖下、タリアンネ。お二人の熱意は結構ですが、地下道まで備えた要塞を建てるのにどれだけの予算と資材が必要かお分かりですか? 建築談義に花を咲かせるのは構いませんが、無尽蔵に国庫を開けるわけではありませんよ」
クラリンダがやれやれといった顔で釘を刺す。彼女にとってタリアンネ殿は従妹にあたるため、公の場とはいえ少しばかり呆れが表に出てしまっている。
「分かっておるよ、クラリンダ。だが、堅牢な城壁と地下道は兵の命を救い、無駄な出兵を減らす。長期的には安上がりというものだ。それに、平和になった後も巨大な地下道と堅牢な施設は倉庫として十分に使えるし、なんなら後世には帝国の威容を伝える観光名所として人を呼べるだろうしな!」
「……はぁ。これから戦になるかもしれないというのに、要塞を観光地にすることまで考えておいでとは、気が早すぎますわ」
どこ吹く風で笑い合う二人に、クラリンダは「その予算の計算をして調達するのは私なのですからね……」とさらに深くため息をついた。
(……ふふっ)
私はその少しズレた、けれど確かな信頼関係に結ばれた最高幹部たちのやり取りを見て、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
東の空では今、長年の怨敵であるドラコニアを容赦なく地獄へ導き、完膚なきまでに叩き潰そうと冷徹な盤面を描く、あの老軍師の恐ろしい怨念が渦巻いている。 それに比べれば、要塞の話で熱くなっているこの西の円卓は、なんと平和で、人間らしいことか。
私は今度はゆっくりと鴨のローストを味わった。 東で生まれる地獄がこの帝都にまで広がってこないことを祈りながら。
ようやく100話まで来ました。小説書いてみると100話書くのってなかなか大変でした。
継続的に書き続けられている諸先輩を尊敬します。




