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名もなき子供

修道院は、太陽が昇るよりも早く目を覚ます。


東の山々の向こうに、最初の黄金色の光が現れるよりも遥か前。


静かな谷間に、鐘の音が響き渡った。


カン。


カン。


カン。


低く重い音色が石造りの廊下を進み、中庭を横切り、周囲の森の中へと消えていく。


東棟に近い小さな部屋の中で、一人の女性がゆっくりと目を開いた。


数秒間、彼女は身動きせずにいた。


それから、ベッドの隣に置かれた小さな木製の揺り籠へと顔を向ける。


子供は、まだ眠っていた。


小さな身体は淡い色の毛布に包まれており、布の上には顔だけが見えている。


その呼吸は、穏やかで一定していた。


女性は、黙って彼を見つめた。


数日が過ぎた今でも、彼女はこの赤ん坊を託されたことが、まだ信じられずにいた。


その子は、家名も、記録も、そして普通の疑問を納得させるような説明もないまま、彼女のもとへやって来た。


彼を連れてきた者たちが残した指示は、わずかなものだった。


彼を守ること。


大切に育てること。


その存在を隠すこと。


誰にも連れ去らせないこと。


彼らは、その子がどこから来たのかを話さなかった。


両親が誰なのかも、教えなかった。


そして、なぜこのように小さな子供に、それほどの秘密が必要なのかも説明しなかった。


女性は、ゆっくりとベッドから起き上がった。


彼女の名は、シスター・エリアーネ。


この修道院に仕えて、十二年以上になる。


彼女は宗教組織の中で最も高い地位にいるわけでもなければ、最も強大な力を持つ人物でもなかった。


彼女の務めは、病人の世話をし、食事を用意し、捨て子たちを育て、修道院で暮らす長老たちを手伝うこと。


そんな、質素なものだった。


しかし、彼女には普通の人々が持たないものがあった。


力。


山を破壊したり、嵐を呼び起こしたりするような力ではない。


祈りと鍛錬、そして血の犠牲を伴う儀式によって、長い年月をかけて練り上げられた、深い魔力の蓄え。


彼女の魔力は、修道院を小規模な脅威から守るには十分な強さを持っていた。


血の犠牲によって生み出される力も、結界を強化し、穢れた物品を浄化し、いくつかの神聖な儀式を行うには十分だった。


人間界の人々の間では、エリアーネは才能ある人物と見なされていた。


彼女の所属する組織の中では、信頼できる人物と評価されていた。


けれど、この子供がやって来るまで、自分の能力がこれほど小さな存在によって試されることになるなど、想像したこともなかった。


彼女はベッドから立ち上がり、揺り籠へと近づいた。


「おはよう、小さな子」


彼女は、囁くように言った。


赤ん坊が身じろぎした。


まぶたがわずかに動き、それからゆっくりと開く。


瞳はまだ焦点が定まっていなかったが、やがて彼女の姿を捉えた。


エリアーネは微笑んだ。


「もう起きたの?」


赤ん坊は、彼女をじっと見つめていた。


しかし、その小さな身体の内側では、外見よりも遥かに長い時を生きてきた意識が、あらゆるものを観察していた。


また鐘か。


アキラは、修道院では毎朝、鐘を鳴らして一日を始めるのだと、すでに理解していた。


そして、自分の世話をしている女性の名が、エリアーネであることも知っていた。


他の人々が彼女を「シスター・エリアーネ」と呼んでいるのも聞いていたが、彼女が所属する組織の詳しい仕組みまでは、まだ理解していない。


周囲で話されていることは、ほとんど理解できた。


しかし、身体は相変わらず、もどかしいほど思い通りにならなかった。


起き上がることができない。


歩くこともできない。


話すこともできない。


何かを伝えたいと思っても、出せるのは泣き声や小さな音、そして意味のない手足の動きだけだった。


これは屈辱的だ。


意識の内側で、聞き慣れた声が応じた。


――観測しました。


今のは、お前に話しかけたんじゃない。


――あなたの思考が、特定可能な対象へ向けられていたためです。


僕が考えることすべてに、いちいちコメントする必要はない。


――了解しました。


アキラは天井を見つめた。


ユニーク属性は、彼の内側に常に存在するものとなっていた。


絶えず話しかけてくるわけではない。


だが、アキラが直接呼びかけたとき、あるいは彼の存在に関係する何かを明らかにする必要が生じたときには、必ず答えてくれる。


それは、生まれる前の領域で出会った謎の存在でもなければ、エリアーネの所属する組織が崇拝する女神でもない。


アキラとつながっている何か。


彼がこの世界へ入る前から、その意識と共に存在していたもの。


アキラは、ユニーク属性の本質を、まだ完全には理解していなかった。


なぜそれが自分の存在とつながっているのかも、わからない。


その疑問には、いまだ答えが出ていなかった。


だが、今はもっと差し迫った問題がある。


例えば、なぜエリアーネが自分を木製のテーブルへ運んでいるのか、ということだ。


彼女は椅子に腰を下ろし、アキラを慎重に膝の上へ乗せた。


近くには、温かなミルクの入った器が置かれている。


「さあ、どうぞ」


アキラは静かにミルクを飲んだ。


その間、エリアーネは考え込むような表情で彼を見つめていた。


「そういえば、まだあなたに名前をつけていなかったわね」


アキラは、一瞬だけ飲むのを止めた。


名前。


その言葉は、エリアーネには想像もできないほどの重みを持っていた。


前の人生で、彼の名は中村アキラだった。


その名を与えてくれたのは、養祖父のダイチ。


その名前は、彼が知る唯一の居場所と、彼をつないでいた。


ダイチが亡くなったあとも、アキラはその名を背負い続けていた。


だが今、この世界で、彼には正式な身分がなかった。


家名もない。


記録もない。


社会の中での居場所もない。


彼は、ただ修道院へ運び込まれた子供にすぎなかった。


名もなき子供。


エリアーネは、彼の額を指先で優しく撫でた。


「いつまでも『小さな子』と呼び続けるわけにはいかないものね」


僕には、もう名前がある。


そう伝えたかった。


アキラ。


けれど、その声は出てこなかった。


唇が、わずかに動く。


「あ……」


エリアーネが身を寄せた。


「今、何か言ったの?」


アキラは、もう一度試した。


「あ……」


その音は、弱い泣き声へと溶けていった。


エリアーネは微笑んだ。


「きちんと話せるようになるまで、お預けね」


そこが問題なんじゃない。


彼女は、小さな窓へ視線を向けた。


朝の光が、部屋の中へ差し込み始めている。


「そうね。名前を決めるのを、長老様に相談してみようかしら」


アキラの目が、わずかに細くなった。


だめだ。


その考えは、すぐに浮かんだ。


新しい名前を与えられることが嫌だったわけではない。


だが、名前をつけるという行為のどこかに、危険なものを感じていた。


この世界の法則を、アキラはまだ理解していない。


それでも、ここでの名前が単なる呼び名ではないことは、すでに感じ取っていた。


名前には、力が宿る。


名を与える者と、名を与えられる者をつなぐことがある。


魔力の流れを変えることさえある。


ユニーク属性は、その仕組みのすべてを説明してはいなかった。


だが、短い時間ながらこの世界を観察してきたアキラには、命名という行為が重大なものとして扱われていることがわかっていた。


エリアーネも、同じ結論にたどり着いたらしい。


彼女は、もう一度アキラを見下ろした。


「その前に、簡単な識別儀式を行ったほうがよさそうね」


アキラの身体が、ぴくりと止まった。


識別儀式?


エリアーネは器を脇へ置き、壁際の小さなテーブルへと彼を運んだ。


その上には、浅い銀の皿と白い蝋燭、そして小さな水晶が置かれていた。


一見すると、どれも普通の物に見える。


しかし、アキラには、それらの内部に眠る魔力が感じ取れた。


エリアーネは、水晶を皿の隣に置いた。


「痛くないから、安心してね」


それは、みんなが何か怪しいことをする前に言う台詞だ。


彼女は、アキラの疑念を感じ取ったかのように、かすかに笑った。


そして、水晶に二本の指を当て、目を閉じる。


細い魔力の流れが、彼女の手から放たれた。


水晶が淡い青色に輝く。


表面に、記号の輪が浮かび上がった。


アキラは、魔力が自分へ向かって広がってくるのを感じた。


穏やかだった。


慎重だった。


エリアーネは、彼の意識へ侵入しようとしているわけではない。


ただ、身体の状態や種族、そして魔力の性質を大まかに確認しようとしているだけだった。


しかし、術式がアキラへ届いた瞬間、奇妙なことが起こった。


水晶が明滅した。


記号がねじれる。


そして、光が消えた。


エリアーネが目を開く。


彼女は眉をひそめた。


「おかしいわね……」


アキラは、水晶を見つめた。


何が起きた?


――識別構造が、あなたの存在を分類できませんでした。


なぜ?


――情報が不足しています。


それは答えになっていない。


――利用可能な答えは、それだけです。


エリアーネは、もう一度試した。


今度は、魔力の流れを強める。


水晶が、さらに強く輝いた。


記号が再び形を成す。


しかし、それは一瞬しか持続せず、瞬きする間に砕け散り、小さな火花となって消えた。


銀の皿が震える。


エリアーネは、すぐに手を引いた。


部屋が静まり返る。


アキラは、彼女を注意深く観察した。


もう、彼女は笑っていなかった。


「あなたは……何なの?」


彼女は、囁くように尋ねた。


その声に、恐怖はなかった。


あるのは、困惑だけだった。


エリアーネは水晶を見つめ、それから腕の中の赤ん坊へと視線を移した。


彼女はこれまで、人間や動物、魔法植物、さらには下級の魔物に対しても識別儀式を行ったことがある。


儀式が、このような形で失敗したことは一度もなかった。


たとえ測定できないほど強大な存在であっても、水晶は通常、警告を示すか、不完全な結果を表示する。


だが、この子供は、単に分類を拒んだわけではなかった。


まるで、どの既知のカテゴリーにも当てはまらない存在であるかのように、術式そのものが振る舞っていた。


エリアーネは、ゆっくりと水晶を置いた。


「もしかしたら、儀式道具が壊れているのかもしれないわね」


彼女は、あらゆる角度から水晶を調べた。


ひび割れはない。


穢れもない。


干渉された痕跡もない。


水晶は、完全に正常に機能していた。


アキラは、再び彼女の魔力が集まり始めるのを感じ取った。


別のことを試すつもりだ。


エリアーネは、引き出しから小さな銀の針を取り出した。


アキラの目が大きく見開かれる。


絶対に嫌だ。


彼女は、自分の指先を針で刺した。


小さな血の雫が浮かぶ。


エリアーネは、それを銀の皿へ落とした。


血が表面に広がり、細い赤い円を形作る。


彼女は、祈りの言葉を囁いた。


蝋燭の炎が白く変わる。


神聖な力の波が、部屋の中を通り抜けた。


アキラは、それが自分の身体を撫でるように触れるのを感じた。


これは、先ほどの識別魔法とは違う。


血を媒介とした認識の儀式だ。


エリアーネは、この子供が人間の血統を持っているかどうかを確かめようとしている。


神聖な力が、アキラを取り囲む。


ほんの一瞬。


アキラは、自分の身体の内側で、何かが反応するのを感じた。

魂ではない。


ユニーク属性でもない。


もっと深い何か。


遥か古き何か。


蝋燭の炎が、突然横へと折れ曲がった。


銀の皿に亀裂が走る。


その表面にあったエリアーネの血が、蒸発した。


白い炎が一瞬だけ黒く染まり、それから何事もなかったかのように元へ戻る。


そして、儀式が終わった。


エリアーネは、凍りついたように立ち尽くしていた。


アキラには、何の傷もなかった。


しかし、エリアーネの表情は完全に変わっていた。


彼女は、ゆっくりとアキラを見下ろす。


「あなたは……人間ではないのね」


その言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。


アキラは何も答えなかった。


答えられなかった。


彼の意識の内側で、ユニーク属性も沈黙を保っていた。


エリアーネは、今度はより慎重に彼を抱き直した。


恐れているからではない。


自分が抱いているものを、理解できなくなり始めていたからだ。


識別できない子供。


血統を認識できない子供。


敵意を示していないにもかかわらず、神聖な魔法を乱してしまう子供。


エリアーネの思考が、急速に巡っていく。


人間ではないのなら、いったい何なのか。


なぜ、ここへ連れてこられたのか。


誰が、この子を私たちに託したのか。


そして、なぜ彼らは、この子の存在を隠せと警告したのか。


彼女は、託されたときの指示を思い出した。


彼を守ること。


大切に育てること。


誰にも連れ去らせないこと。


あのとき、エリアーネは、その警告が政治的あるいは宗教的な事情に関係しているのだと思っていた。


だが今、彼を連れてきた者たちは、彼の正体を正確に知っていたのではないか。


そんな疑念が浮かんだ。


エリアーネは、閉ざされた扉へ視線を向けた。


修道院には、少しずつ普段の音が満ち始めていた。


廊下を歩く足音。


中庭から聞こえる誰かの笑い声。


遠くで鳴る鐘の音。


何も起きていないかのように、朝の穏やかさは続いている。


しかし、この部屋の中では、すべてが変わっていた。


エリアーネは、再び子供へ視線を落とした。


「あなたには、名前が必要ね」


アキラの瞳は、彼女に向けられたままだった。


エリアーネは、何かを決意するように、ゆっくりと口を開いた。


「あなたがここへ連れてこられたことに理由があるのなら、あなたを見捨てるのは間違っているわ」


彼女は、アキラの頬に触れた。


「あなたが何者なのか、私は知らない。どこから来たのかも知らない。でも、あなたは生きている。そして、守られるに値する存在よ」


アキラは、胸の奥で何かが揺れ動くのを感じた。


不思議な温もり。


魔力ではない。


神聖な力でもない。


もっと馴染みのあるもの。


感情だった。


エリアーネは続けた。


「私が、あなたに名前を与えるわ」


アキラの目が大きく見開かれる。


待ってくれ。


彼女は、彼の存在に関わる命名の法則を知らない。


あるいは、知っているのかもしれない。


エリアーネは、謎めいた女神を崇拝する組織の一員だった。


彼女の魔力も、血の犠牲によって生み出される力も、どちらも並外れて強い。


普通の人間を超えた存在に名前を与えるだけの力を、彼女は持っている。


だが、まだアキラに名前をつけようとはしていなかった。


彼女は、その危険性を考えているのだ。


エリアーネは目を閉じた。


「あなたを、こう呼ぶわ……」


その瞬間、部屋の温度が急激に下がった。


蝋燭の炎が震える。


アキラは、目に見えない圧力が空間へ降りてくるのを感じた。


ユニーク属性が、ようやく口を開いた。


――警告。


何だ?


――命名行為が接近しています。


それで?


――対象の存在を、現時点では確定できません。


彼女は傷つくのか?


短い沈黙があった。


――結果は不確定です。


エリアーネが目を開く。


彼女は、長い間アキラを見つめた。


そして、名前を口にする代わりに、動きを止めた。


表情が、強い決意を帯びる。


「……いいえ」


アキラは瞬きをした。


エリアーネは首を横に振った。


「軽率に行うべきではないわ」


彼女は、アキラを包む毛布を優しく引き寄せた。


「もし名前をつけて、何か問題が起きたら……私には、あなたを守れなくなるかもしれない」


彼女の視線が、壁に掛けられた小さな宗教的象徴へと移る。


その表面には女神の姿が刻まれていた。


ただし、その顔立ちは意図的に簡略化され、誰なのか判別できないようになっている。


エリアーネは、それをじっと見つめた。


彼女には、行くことのできる場所があった。


ごく一部の者しか、その存在を知らない場所。


七つの鍵のうち、いずれか一つを通してのみ到達できる場所。


彼女の組織が、真の性質を大半の信徒にさえ隠している女神を崇拝する場所。


次元門の向こうにある神殿。


エリアーネの指が、毛布を強く握りしめる。


「もし、私自身の力であなたに名前を与えられないのなら……」


彼女は、アキラを見下ろした。


「祝福を求めます」


アキラは沈黙していた。


女神の祝福によって命名が行われるという考えは、興味深いと同時に不安を覚えさせるものだった。


彼は、生まれる前に、普通の神や悪魔を超えた謎の存在と出会っている。


そして今度は、その本質を理解することさえ難しいかもしれない、別の存在と関わろうとしていた。


エリアーネは、アキラを強く抱き寄せた。


「あなたを守る方法を、必ず見つけるわ」


彼女は、そう囁いた。


アキラは、彼女を見つめた。


そのとき初めて、彼は理解した。


自分の第二の人生は、普通のものにはならない。


彼は、名前を持たずに生まれた。


しかし、誰かが彼に名前を与えようとした瞬間、世界そのものが反応し始めたのだ。


***


修道院には、再び静寂が戻っていた。


けれど、シスター・エリアーネには、もう以前と同じようには聞こえなかった。


蝋燭がかすかに爆ぜる音。


遠くで動く他の修道女たちの気配。


古い石造りの窓の隙間を通り抜ける、微かな風の音。


それらすべてが、奇妙なほど遠く感じられた。


彼女の意識は、目の前の揺り籠で眠る小さな子供に釘付けになっていた。


赤ん坊は、動いていなかった。


呼吸は穏やかだった。


小さな手は胸の近くに置かれ、目は閉じられたまま。


まるで、識別水晶が奇妙な反応を示した場面など、一度も見ていなかったかのようだった。


しかし、エリアーネは自分が何を見たのか、はっきりと覚えていた。


水晶は、彼を認識できなかった。


儀式のやり方が間違っていたからではない。


水晶が壊れていたからでもない。


通常の識別体系の中に、彼を正しく分類できるものが存在しなかったためだ。


それだけでも、十分に不安を覚える事態だった。


だが、二度目の反応は、それ以上に深刻だった。


血を使って認識の儀式を行ったとき、水晶は単に赤ん坊の存在を拒絶したのではない。


まるで、その内部にある何かが、自分の理解を超えた脅威を感じ取ったかのように震えたのだ。


あの瞬間、エリアーネは巨大な存在の圧力を感じた。


敵意はなかった。


攻撃されたわけでもない。


それでも、その感覚だけで身体が凍りつくほどだった。


果てのない空の下に立っていたら、突然、その空そのものがこちらを見返していることに気づいた。


そんな感覚だった。


エリアーネは、ゆっくりと揺り籠へ手を伸ばし、子供の毛布を整えた。


「あなたは、人間ではないのね」


彼女は、囁いた。


その言葉は、口にした瞬間、ひどく残酷なものに感じられた。


赤ん坊は、片腕の中にすっぽり収まってしまうほど小さい。


肌は柔らかく、顔は穏やかで、強大な存在が持つとされる危険な兆候など、何一つ見られない。


もし儀式を行わず、修道院へ続く道の脇に捨てられている彼を見つけていたなら、エリアーネは普通の新生児だと思っていただろう。


おそらく、それこそが状況をより恐ろしくしていた。


彼は、無力に見える。


だが、世界は彼を、決して無力な存在ではないかのように扱った。


エリアーネは、視線を落とした。


「ごめんなさい」


彼女は静かに言った。


「あなたを否定するつもりはなかったの」


赤ん坊の意識の内側で、アキラはその言葉を聞いていた。


彼には、まだ理解できないことが多かった。


シスター・エリアーネと呼ばれる女性が、自分の中にある何か異常なものを見つけたこと。


そして、自分を人間ではないと呼んだこと。


何よりも、彼女が自分に名前を与えようとしていること。


その考えが、アキラの内側に奇妙な感情を呼び起こした。


名前。


前の人生で、中村アキラには、生まれたときから名前があった。


書類に記され、教師たちに呼ばれ、祖父に口にされ、彼を知る数少ない人々によって使われていた。


だが、名前があったからといって、本当に望まれていると感じられたわけではない。


名前は、人を識別するためのものだ。


同時に、世界がすでに見過ごすと決めた誰かへ貼りつけられる、ただの標識にもなり得る。


今、この奇妙な第二の人生で、アキラには何もなかった。


家名もない。


過去もない。


身分もない。


話すことのできない身体と、見知らぬ世界に閉じ込められた意識だけ。


それでも、エリアーネが自分に名前を与えたいと言ったとき、思考の奥を奇妙な温もりが通り抜けた。


ユニーク属性が、ほとんど間を置かずに反応する。


【名前とは、個体を識別するために用いられる designation です】


アキラは、意識を内側へ集中させた。


名前が何なのかくらい、知っている。


【名前はまた、命名者と被命名者の間に、つながりを生じさせる場合があります】


アキラは、少しの間考えた。


つながり?


【肯定】


アキラは、まだ発達途中の感覚を通して、女性のほうへ意識を向けた。


なら、どうして彼女はやめた?


ユニーク属性は、すぐには答えなかった。


【命名の過程には、十分な条件が必要です】


どんな条件だ?


【条件は、まだ完全には成立していません】


アキラは、内心で眉をひそめた。


この声は、どんな答えも、別の鍵のかかった扉の向こうに隠しているような話し方をする。


さらに問い詰めようとした、そのとき。


エリアーネが椅子から立ち上がった。


彼女は、部屋の奥の壁際に置かれた背の高い木製の戸棚へ向かう。


戸棚は古く、表面は年月によって黒ずんでいた。


扉には、いくつかの銀色の紋様が刻まれている。


彼女は、小さな鉄の鍵で戸棚を開けた。


中には、白い布に包まれたいくつかの物品が収められていた。


エリアーネは、その中から細長い木箱を取り出し、揺り籠の隣にあるテーブルへ置いた。


しばらく、彼女はその箱を見つめていた。


やがて、蓋を開く。


中に入っていたのは、一つの鍵だった。


普通の家の鍵よりも長い。


黒い金属で作られたその鍵は、光を反射するのではなく、蝋燭の明かりを吸収しているように見えた。


細い軸の先にある頭部は、七つの尖端を持つ星の形をしている。


それぞれの尖端には、かすかな紋様が刻まれていた。


そして、その紋様は、エリアーネが視線を動かすたびに、異なる形へと変化して見えた。

アキラは、部屋の中で何かが変化したのを感じ取った。


箱が開かれた、その瞬間。


空気が重くなった。


ユニーク属性が、再び語りかけてくる。


【異常な空間特性を有する物体を検知しました】


あれは、鍵なのか?


【当該物体は、次元接続媒体と一致する特性を有しています】


エリアーネは、すぐにはそれに触れなかった。


代わりに両手を組み、静かに頭を垂れる。


「これは、七つの鍵の一つです」


彼女の声には、畏敬が込められていた。


そして、恐れも。


アキラは、注意深く耳を傾けた。


「七つの鍵は、この世界の王国によって鍛造されたものではありません。人間の職人が造ったものでもなければ、古代文明の遺跡から発見されたものでもないのです」


彼女は、眠る子供へ視線を向けた。


「それらは、現在の時代よりはるか昔に、選ばれた使徒たちへ託されたものだと伝えられています」


赤ん坊は、静かにしていた。


エリアーネは続ける。


「現存する鍵は七つ。それぞれが、通常の空間を通じては到達できない、隠された異次元への通路を開くことができます」


彼女は慎重に、箱の中から鍵を持ち上げた。


蝋燭の炎が、鍵の方へと傾いた。


激しく揺れたわけではない。


ただ、目に見えない流れに引かれるかのように、炎がそちらへ身を寄せていた。


「その次元には、固定された場所がありません」


エリアーネは言った。


「北へ進んでも、南へ進んでも、東や西へ向かっても、見つけることはできません。山の向こうにあるわけでも、海の底にあるわけでも、雲の上に存在するわけでもないのです」


彼女の指が、鍵を握る力を強めた。


「それは、通常の世界から切り離された場所に存在します」


アキラは、自分の意識にかすかな圧力がかかるのを感じた。


別の次元?


【独立した空間領域である可能性が高いです】


あの鍵があれば、そこへ行けるのか?


【当該物体は、接続機構として機能するものと思われます。これ以上の情報は取得できません】


エリアーネは、部屋の西側の壁へと向き直った。


そこには、色褪せた壁画が描かれていた。


大半の色は長い年月によって失われていたが、アキラには、広大な星々の海を背に立つ女性の輪郭が見て取れた。


その顔は、歳月と埃の層によって、意図的に覆い隠されているようだった。


女性の周囲には、七つの人影が立っていた。


それぞれが、テーブルの上にある鍵とよく似た物体を手にしている。


そして女性の足元では、無数の何かが、光と闇の中から立ち上がっているように見えた。


その壁画は、単純な宗教画ではなかった。


まるで、何かの記録。


あるいは、警告のようだった。


「この修道院は、女神が崇拝されている場所の一つに過ぎません」


エリアーネは言った。


「女神に仕える組織は、多くの土地に存在しています。ですが、その実態を知る者はほとんどいません」


彼女は、鍵へ視線を落とした。


「隠された神殿へ近づくことを許されているのは、ごく一部の構成員だけ。そして、七つの鍵の一つを所持することを許されている者は、さらに少ないのです」


アキラの意識が、鋭く研ぎ澄まされた。


女神?


その言葉を、彼は以前にも聞いたことがあった。


だが、この世界で聞いたのは初めてだった。


前の人生において、神とは宗教や神話、物語、そして信仰と事実の間に横たわる不確かな領域に属するものだった。


しかし、ここでエリアーネは、まるで女神が実在するかのように語っている。


祝福を与えることができる存在。


近づくことのできる存在。


祈りに応えてくれるかもしれない存在。


「私は、この修道院に十二年間仕えてきました」


エリアーネは、さらに続けた。


「その間に、治癒術、防護魔法、そして血の生贄を用いた儀式について学びました。ですが、私は一度たりとも神殿へ入ることを許されたことがありません」


彼女は、鍵を少し下げた。


「これを託されたのは、私に守るだけの能力があると判断されたからです。女神の御前に立つ資格があると認められたからではありません」


彼女の目が、赤ん坊へ向けられる。


「ですが、今は……」


エリアーネは、言葉を止めた。


アキラには、彼女の内側で揺れ動く葛藤が感じ取れた。


彼女は恐れている。


アキラだけを恐れているわけではない。


間違いを犯すことを恐れているのだ。


聖なるものを、身勝手な目的のために使ってしまうことを恐れている。


揺り籠の中にいるこの子供が、自分の理解を遥かに超えた何かと繋がっている可能性を恐れている。


それでも、その恐怖の奥には、確かな決意があった。


「あなたが本当に重要な存在なのだとしたら……」


エリアーネは、囁くように言った。


「私は、あなたを運任せにするわけにはいきません」


彼女は鍵を箱の中へ戻した。


だが、蓋は閉じなかった。


「私が持つ力で、あなたに名を与えようとしました。儀式は失敗した。つまり、最初の試みでは私の力が足りなかったか、あるいは、あなたの存在の性質が通常の命名儀式では届かない領域にあるということです」


彼女は、ゆっくりと息を吸った。


「どちらにせよ、軽率に進めることはできません」


アキラの思考が、きゅっと引き締まった。


彼女は、俺に名を与えるために、もっと力を必要としている。


ユニーク属性が応答する。


【その発言は、これまでに確認された状況と一致します】


そして、女神なら彼女にその力を与えられるのか?


【その可能性は排除できません】


それは答えになっていない。


【現時点で取得可能な情報に基づく、最も正確な回答です】


アキラは、わずかに苛立ちを覚えそうになった。


今この瞬間でさえ、その声は苛立たしいほど冷静だった。


エリアーネは、部屋の準備を始めた。


二本の蝋燭を消し、揺り籠の周囲には三本だけを残す。


それから、浅い銀の器を床に置き、小さな袋から取り出した白い粉で、その周囲に円を描いた。


彼女が記した記号は、見慣れないものだった。


いくつかは目に似ていた。


別のものは、枝分かれした根や、砕けた環のように見えた。


円の中心には、暗い赤色の液体が入った小さな小瓶が置かれる。


アキラは、その液体が普通の血ではないと感じ取った。


そこには、魔力が宿っている。


エリアーネは円の前に跪き、額へ二本の指を当てた。


「目に見える世界の境界を越えし偉大なる御方よ」


彼女は祈り始めた。


「あなたの僕の願いを、お聞き届けください」


部屋が静まり返る。


外の風さえも、遠ざかったようだった。


「私は富を求めません。地位も求めません。敵に対する勝利も求めません」


彼女の声が、わずかに震えた。


「この世界に置き去りにされた子供を守るための力を、私は求めます」


アキラの意識が、揺らいだ。


置き去りにされた。


その言葉は、予想していた以上に深く彼の心へ突き刺さった。


前の人生でも、彼はその言葉を聞いたことがあった。


その言葉の下で、生きてきた。


かつての彼は、置き去りにされるということは、自分には選ばれる価値がないという意味なのだと思っていた。


だが今、新たな世界で。


誰かが、置き去りにされた子供を守ることを、それだけで未知へ挑む理由になるかのように語っている。


エリアーネは、額が石の床に触れそうになるほど深く頭を下げた。


「もし、この子が私の理解を超えた運命を背負っているのなら、どうか安全に導くための道をお与えください」


「もし、この子が危険な存在であるのなら、彼を傷つけることなく、他者を守る知恵をお授けください」


「そして、もしこの子に名を持つ資格があるのなら……」


彼女は、そこで言葉を止めた。


手が、銀の器へと伸びる。


「……どうか、この子に名を与える力をお授けください」


数秒間、何も起こらなかった。


蝋燭は燃え続けている。


鍵は、箱の中で静止したままだ。


赤ん坊も、泣かなかった。


エリアーネは、ゆっくりと顔を上げた。


その表情を、失望の影が横切る。


その直後。


鍵が動いた。


ほんのわずかに。


七つの尖端を持つ頭部が、木箱の中で回転する。


深い水の底で鐘を鳴らしたような、かすかな音が部屋に響いた。


エリアーネの身体が、凍りつく。


鍵に刻まれた紋様が、一つずつ輝き始めた。


一つ。


二つ。


三つ。


四つ。


五つ。


六つ。


七つ目だけが、暗いままだった。


エリアーネの息が止まる。


「そんな……」


鍵が、再び震えた。


銀の器が、中央から真っ二つにひび割れる。


儀式の円の上空に、細い闇の線が現れた。


最初は糸ほどの幅しかなかった。


だが、その闇はゆっくりと広がり、修道院の内部には存在し得ない深さを露わにしていく。


その向こうに、景色はなかった。


空もない。


地面もない。


ただ、広大で静寂に満ちた距離だけがあった。


エリアーネは、勢いよく立ち上がった。


「門が……」


闇が、さらにわずかに広がる。


冷たい空気が部屋へ流れ込んできた。


そこには、アキラには判別できない匂いが混じっていた。


煙でもない。


雨でもない。


土でもない。


時間というものに触れられたことのない場所のような匂いだった。


ユニーク属性が警告を発する。


【空間歪曲を検知しました】


【警告:次元通路は不安定な状態にあります】


アキラは、奇妙な引力を感じた。


肉体に対してではない。


意識に対してだ。


一瞬、彼は開口部の向こう側に何かを感じ取った。


広大な何か。


何かが、こちらを見ている。


だが、その感覚は理解するよりも早く消え去った。


エリアーネは、鍵へ手を伸ばした。


「まだです」


彼女は、囁いた。


門が震える。


闇が明滅する。


彼女は箱を掴み、鍵を手のひらで強く握り締めた。


「入る前に、準備を終えなければなりません。中にいる間に通路が崩壊すれば、二度と戻れなくなるかもしれない」


彼女は、赤ん坊を見つめた。


その表情が、柔らかくなる。


「それに、こんな不安定な門を通って、あなたを連れていくことはできません」


アキラの思考が、落ち着きを失っていく。


では、彼女はどうするつもりなのか?


エリアーネは揺り籠へ歩み寄り、慎重にアキラを抱き上げた。


初めて、アキラは彼女の身体の温もりを直接感じた。


彼女の鼓動は安定していた。


ただ、先ほどよりも少しだけ速い。


彼女は片手で彼の頭を支えながら、胸元へ抱き寄せた。


「私がいない間は、上級修道女たちにあなたを預けます」


彼女は、優しく言った。


「あなたは、一人にはなりません」


なぜなのか、アキラには分からなかった。


それでも、その言葉は彼の心を動かした。


前の人生で、彼は人々に囲まれていながら、孤独を感じていた。


今は、声を出すこともできない。


歩くこともできない。


周囲の世界を理解することさえできない。


それでも、彼は彼女の言葉を信じられるような気がした。


完全に、ではない。


信頼は、もう簡単には生まれない。


だが、信頼というものは、最初からすべてを委ねる必要などないのかもしれない。


それは、ほんの小さなものとして始まるのかもしれない。


一つの約束。


離さない手。


エリアーネは、アキラを抱いたまま、部屋の扉へ向かった。


その背後では、儀式の円の上に浮かぶ次元の門が、なおも明滅を続けていた。


鍵の七つ目の紋様は、暗いままだった。


そして、開口部の向こうのどこかで、何かが待っているようだった。


呼んでいるわけではない。


脅しているわけでもない。


ただ、待っている。


まるで、まだ名を与えられていない子供の到来に、すでに気づいていたかのように。


---


次元の門は、現れたときと同じように、唐突に消えた。


空中に走っていた細い亀裂が内側へ折り畳まれ、闇は石の床に痕跡一つ残すことなく消失した。


シスター・エリアーネは、七つの鍵を固く握り締めたまま、数秒間じっと立ち尽くしていた。


七つ目の紋様は、依然として暗い。


「今のは、部分的な開門に過ぎません」


彼女は、呟いた。


「まだ、門は私を受け入れていない」


彼女は、腕の中で眠る赤ん坊を見下ろした。


「あなたには、名が必要ですね。小さな子」


赤ん坊の目は閉じられたままだった。


だが、その意識は目覚めている。


アドリック。


その名が、突然、彼の思考の中に浮かび上がった。


どこから来た名なのか、アキラには分からなかった。


前の人生の記憶の残滓なのかもしれない。


あるいは、単に彼の心が選んだ名なのかもしれない。


だが、その名を思い浮かべた瞬間。


それは、不思議なほど相応しいものに感じられた。


アドリック。


ユニーク属性が応答する。


【識別名を選択:アドリック】


アキラ――いや、アドリックは、自分の内側で何かが変化したのを感じた。


力ではない。


痛みでもない。


ただ、認識されたという静かな感覚だった。


エリアーネは、彼の指がかすかに動いたことに気づいた。


「アドリック……」


彼女は、声に出してその名を試す。


蝋燭の炎が揺れた。


赤ん坊の存在が、一瞬だけ重くなり、揺り籠の周囲の空気が震える。


エリアーネの目が、大きく見開かれた。


「その名を、受け入れるのですね?」


彼女は、かすかに微笑んだ。


「それなら、あなたはアドリックです」


彼女は、完全な命名儀式を再び行おうとはしなかった。


その代わりに、彼女は理解していた。


この名は、より大きな力によって確認されなければならない。


名は現れた。


しかし、この世界の法則によって、まだ完全に確立されたわけではない。


それでも、これは始まりだった。

エリアーネはアドリックを抱き、修道院の内ホールへと向かった。


そこには、上級修道女たちが集まっていた。


「私は、少しの間ここを離れなければなりません」


エリアーネは、彼女たちに告げた。


「私が戻るまで、この子の世話をお願いします」


年配の修道女の一人が、心配そうに赤ん坊を見つめる。


「その子には、もう名を?」


エリアーネは、腕の中のアドリックへ視線を落とした。


「はい」


彼女は答えた。


「アドリックです」


修道院の壁の外。


夜空は、依然として完全な静寂に包まれていた。


だが、遥か遠く。


現世から隔絶された次元に存在する古代の神殿、その扉に刻まれた七つの紋様のうち、一つがゆっくりと輝き始めていた。


---


シスター・エリアーネは揺り籠の傍らに立ち、生まれたばかりの子供を胸元へ抱き寄せていた。


「アドリック……」


彼女は、囁いた。


その名が、静かな部屋の中に残響する。


しばらくの間、彼女は待った。


命名儀式が反応することを、期待していたのかもしれない。


あるいは、自分の内に宿る魔力が、ついに十分な力へ達することを願っていたのかもしれない。


だが、何も起こらなかった。


光は現れない。


魔力の繋がりも生まれない。


世界は、その名を認めなかった。


エリアーネの表情が、厳粛なものへと変わる。


「やはり……」


彼女は、そっと赤ん坊の額に触れた。


「それが、私があなたに与えたいと思った名前です。でも、願うだけでは足りない」


子供の意識の中で、アドリックは理解していた。


名は選ばれた。


だが、それはまだ彼の真の名にはなっていない。


【命名処理:未完了】


ユニーク属性のメッセージが、それを裏付けていた。


アドリックは、黙ったままだった。


まだ、まともに声を出すことも、身体を動かすこともできない。


それでも彼には、何かと呼ばれることと、本当の意味で名を授かることの違いが感じ取れていた。


エリアーネは、七つの鍵が収められた暗い木箱へ視線を向ける。


「私の力では、足りないのでしょう」


彼女は言った。


「無理にもう一度儀式を行えば、あなたにも、私にも危険が及ぶかもしれません」


彼女は慎重に、赤ん坊を揺り籠へ戻した。


「あなたの命を危険にさらすつもりはありません」


柔らかな毛布をかけた後、彼女は扉へと向き直った。


「私は隠された神殿へ赴き、女神の祝福を祈ります。そうすれば、あなたにアドリックという名を与えるために必要な力を得られるかもしれません」


彼女は、部屋を出る前に足を止めた。


「私が戻るまで、ここで待っていてください」


扉が、静かに閉じられた。


アドリックは、まだはっきりと見ることのできない感覚で、暗闇を見つめていた。


彼には、名がない。


まだ。


それでも初めて、誰かが彼のために名を選んでくれた。


そして、その名を現実のものにするために必要な力を手に入れると、約束してくれた。


遥か遠く。


木箱の中で、七つの鍵がかすかに、音もなく震えた。


---


修道院は、夜の最も深い時間へと入っていた。


ほとんどの修道女たちは、すでに各自の部屋へ戻っている。


廊下には人影がなく、ランプの明かりは落とされ、夕刻の祈りの最後の余韻も、古い石壁の中へと消えていた。


ただ一つ。


東側にある小さな部屋だけが、明かりに照らされていた。


その中で、シスター・エリアーネは淡い色の石で造られた円形の祭壇の前に立っていた。


祭壇は、何世代にもわたって動かされてきた本棚の裏に隠されていた。


その存在を知る者は、修道院の中でもごく一部の上級構成員だけだった。


祭壇の上には、七つの鍵が置かれている。


暗い金属でできたその物体は、銀色の紋様で描かれた輪の内側に収められていた。


祭壇の周囲には、七つの小さな記号が刻まれている。


それぞれが、世界各地に散らばる七つの鍵の一つを表していた。


エリアーネは、鍵を円の中心へ置いていた。


だが、それ以上、触れようとはしなかった。


彼女は知っていた。


これは、普通の魔道具ではない。


簡単な命令や、魔力を注ぎ込むだけで起動できるようなものではないのだ。


七つの鍵は、通常の空間の外側に存在する場所と繋がっている。


通路を開くために必要なのは、単なる魔力ではない。


認識。


そして、認識は強制できるものではなかった。


エリアーネは祭壇の前に跪き、古い祈祷書を開いた。


表紙は、色褪せた青い革で作られていた。


ページは薄く黄ばんでおり、いくつかの箇所には、普通の人間にはもはや読むことのできない言語が記されている。


彼女は、特定のページを開いた。


その上部には、七つの尖端に囲まれた開いた目のような紋章が描かれていた。


その下には、次元通路に関する手順が記されている。


エリアーネは、そこに書かれた言葉を黙読し、それから目を閉じた。


「七つの鍵……七つの通路……一つの隠された聖域……」


彼女は、胸元に手を当てた。


「私はその一つを十二年間、携えてきました。けれど、これを使う勇気は一度も持てなかった」


彼女は、祭壇の上の物体を見つめる。


「どうか、私が過ちを犯していませんように」


そのとき、背後の部屋からかすかな音が聞こえた。


エリアーネが振り返る。


扉が開き、年老いた修道女が小さなランプを手に入ってきた。


シスター・マウラ。


東側修道院の上級管理者を務める修道女だった。


銀色の髪は後ろで束ねられ、その表情は穏やかでありながら、周囲を注意深く観察していた。


「まだ起きていたのですね」


マウラが言った。


エリアーネは、頭を下げる。


「重要な用事がありますので」


マウラの視線が、祭壇へと移る。


七つの鍵を目にした瞬間、彼女の表情が変わった。


「通路を開くつもりですか?」


「はい」


「今夜?」


エリアーネは、わずかにためらった。


「はい」


マウラは部屋の奥へ進み、背後で扉を閉めた。


「なぜ?」


エリアーネは、しばらく沈黙した。


そして、答えた。


「この修道院に、私には名を与えられない子供がいるからです」


マウラの視線が鋭くなる。


「名を、与えられない?」


「識別の儀式を行いました。失敗しました。血を使った認識の儀式も行いましたが、それも失敗しました」


「どのように?」


「水晶は、あの子を分類できませんでした。認識の器は、通常の限界を超えた存在に遭遇したかのような反応を示しました」


マウラは、エリアーネを見つめた。


「その子は危険なのですか?」


「分かりません」


「安心できる答えではありませんね」


「承知しています」


エリアーネは、目を伏せた。


「ですが、あの子は生まれたばかりです。自分の身を守ることもできません。周囲の人々がなぜ恐れているのか、それすら理解できないのです」


マウラの表情が、わずかに和らいだ。


「女神が助けてくださると?」


「女神が、あの子に名を与えるために必要な力を授けてくださるかもしれないと考えています」


マウラは、再び七つの鍵へ目を向けた。


「その考えには、慎重になりなさい。女神は、使徒が真摯に願ったからといって、すべての祈りに応えてくださるわけではありません」


「私は、報酬を求めているのではありません」


「どのような願いであれ、何かを求めていることに変わりはありません」


エリアーネは、その戒めを反論せず受け入れた。


「分かっています。ですが、何もしなければ、あの子は名のないままです。そして、もし本当に人間を超えた種族、あるいは存在に属しているのなら、私は永遠にあの子を守り続けることができないかもしれません」


マウラは、彼女をじっと見つめた。


「どのような名を選んだのです?」


エリアーネの指が、修道服の端を強く握り締める。


「アドリックです」


その名は、古い部屋の中ではあまりにも小さく響いた。


マウラが、静かに繰り返す。


「アドリック……」


「はい。ですが、まだ真の名ではありません。命名儀式は、その名を受け入れませんでした」


「それなら、完了したとは呼ばないことです」


「そうするつもりはありません」


「命名が成功するまでは、あなたが与えようとしている名に過ぎないのです」


エリアーネは頷いた。


「理解しています」


マウラは祭壇へ近づき、銀色の紋様を調べた。


「条件は覚えていますね?」


「はい」


「口にしてみなさい」


エリアーネは、息を吸った。


「門は、準備された儀式円の内側で開かなければなりません。鍵は、所持者を認識しなければならない。所持者は、移行に耐えられるだけの魔力を有していなければならない。そして、通路を無理に開いてはならない」


マウラは頷いた。


「では、通路があなたを拒絶した場合は?」


「門が閉じます」


「無理に開こうとした場合は?」


エリアーネは、鍵を見つめた。


「次元と次元の狭間に取り残される可能性があります」


マウラの表情が、厳しいものになる。


「可能性ではありません。神殿へ到達する前に、世界と世界の間にある道から消去されることもあるのです」


エリアーネは、何も言わなかった。


その警告は、決して大げさなものではなかった。


次元通路は、道ではない。


本来なら交わることのない場所同士を、一時的に繋ぐ接続に過ぎない。


一つの間違いが、死を意味することもある。


さらに大きな過ちを犯せば、旅人の痕跡すら残らない可能性がある。


マウラは、一歩後ろへ下がった。


「それでも、なぜ行くつもりなのです?」


エリアーネは、赤ん坊のことを思い出した。


失敗した儀式の後、穏やかに眠っていた姿。


抱き上げたときに感じた、小さな指の感触。


そして、あの子の周囲で感じた奇妙な圧力。


憎悪ではなかった。


暴力でもなかった。


脆弱な身体の奥に存在する、圧倒的な何か。


「置き去りにされた子供だからです」


彼女は言った。


「誰かが、名も、家族も、引き取り手もないまま、あの子を私たちの扉の前に残していきました」


マウラの表情が変わった。


「だから、自分がその子の責任を負わなければならないと?」


「誰かが、負わなければならないと思っています」


部屋が静まり返った。


やがて、マウラがため息をつく。


「あなたは昔から、自分のものではない重荷まで背負おうとしすぎます」


「そうかもしれません」


「褒めているのではありませんよ」


「分かっています」


マウラは、扉へ視線を向けた。


「あの子は保育室で眠っています。あなたが不在の間は、私が責任を持って見守らせましょう」


エリアーネは、深く頭を下げた。


「ありがとうございます、マウラ姉様」


「ですが、修道院があの子をあらゆるものから守れるとは約束しません」


「そこまでは、求めていません」


「求めるべきです」


エリアーネが顔を上げる。


マウラは続けた。


「もし、その子が本当に異常な存在であるなら、彼の存在を感じ取る者が他にもいるかもしれません。彼を求めて訪れる者もいるでしょう。価値あるものだと考える者もいる。あるいは、彼を恐れる者も」


エリアーネの瞳が、暗くなる。


「ならば、私は早く戻らなければなりません」


「いいえ」


マウラは答えた。


「無事に戻らなければならないのです」


その違いが、二人の間に重く沈んだ。


エリアーネは、再び祭壇へ向き直った。


マウラは部屋の端へ移動し、守護の祈りを唱え始めた。


その声は低く、一定していた。


祈りが、部屋の境界を補強していく。


エリアーネは、もう一度祈祷書を開いた。


今度は、言葉を黙読しなかった。


「隠された聖域の使徒たちに託されし権能において……」


祭壇を囲む銀色の紋様が、かすかに輝き始める。


「七つの鍵の契約において……」


空気が、冷たくなる。


「距離を越え、方角を越え、そして人の目が捉えられる限界を越えた場所に存在する道において……」


七つの鍵が、祭壇から浮かび上がった。


高く上昇したわけではない。


石の表面から、ほんの数インチほど。


それは空中に静かに浮かび、ゆっくりと回転し始めた。

鍵の頭部に刻まれた七つの紋様は、依然として暗いままだった。


エリアーネは、言葉を続ける。


「私は征服のために、富のために、あるいは個人的な栄光のために、通路を求めているのではありません」


最初の紋様が、輝き始めた。


「我らの教団が崇拝する御方との謁見を、願い奉ります」


二つ目の紋様が、光を放つ。


「名なき子供を守るための力を授かることを、願い奉ります」


三つ目の紋様が、明るく輝いた。


マウラの祈りの声が、さらに小さくなる。


部屋の空気が、濃くなったように感じられた。


壁が遠ざかって見える。


まるで、部屋そのものが引き伸ばされているかのようだった。


エリアーネは、皮膚に圧力を感じた。


それでも、彼女は続ける。


「私は、魔力を捧げます」


四つ目の紋様が輝いた。


「私は、血を捧げます」


五つ目の紋様が輝いた。


「私は、奉仕を捧げます」


六つ目の紋様が輝いた。


残るのは、七つ目だけ。


エリアーネの声が、わずかに揺らいだ。


鍵の回転が止まる。


部屋が静寂に包まれた。


恐ろしい一瞬。


エリアーネは、門が再び自分を拒絶するのではないかと思った。


そのとき、彼女はあの子供のことを思い出した。


アドリック。


その名は、まだ現実のものではない。


その子は、まだ世界に認められていない。


それでも、生きている。


待っている。


そして、誰かが彼を選ばなければならない。


エリアーネは、祭壇の上に手のひらを置いた。


「私は、約束を捧げます」


七つ目の紋様が、燃え上がった。


深い音が、部屋全体を震わせた。


それは壁からでも、床からでもなかった。


この部屋の外。


修道院の外。


そして、世界そのものの外側。


どこか遠い場所から響いているようだった。


祭壇の前の空気が、裂けた。


細い垂直の闇が現れる。


それはゆっくりと広がり、淡く遠い光に満たされた通路を露わにした。


向こう側に、床は見えない。


天井もない。


地平線も存在しない。


そこにあるのは、漂う星々と影で満たされた、広大な回廊だけだった。


エリアーネは、その中を見つめた。


隠された次元が、開いたのだ。


マウラが祈りを止める。


「長く留まりすぎてはいけません」


彼女は警告した。


エリアーネは、七つの鍵へ手を伸ばした。


指が鍵を握り締めた瞬間、鋭い圧力が彼女の身体を貫いた。


視界がぼやけ、彼女は片膝をつきかける。


マウラが前へ出た。


「エリアーネ!」


「大丈夫です」


「すでに負荷を感じているのでしょう」


「耐えられます」


「耐えられることと、準備が整っていることは違います」


エリアーネは姿勢を立て直し、通路の奥を見つめた。


開口部の遥か向こう。


遠くの光の間を、何か巨大なものが移動したように見えた。


その形は分からない。


声も聞こえない。


それでも、エリアーネは絶対的な確信を持って感じ取っていた。


隠された次元は、空っぽではない。


それは、こちらを見ている。


待っている。


エリアーネは、最後に一度だけ息を吸った。


「夜明けまでには戻ります」


マウラは、すぐには答えなかった。


やがて、静かに言う。


「力だけではなく、知恵を携えて戻りなさい」


エリアーネは頷いた。


そして、門へ向かって歩き出す。


最初に闇が彼女の足元を包み、続いて身体全体を覆っていく。


ほんの一瞬、彼女の姿が透けて見えた。


まるで、世界そのものが、彼女をどのように留めればいいのか忘れかけているかのようだった。


完全に消える直前、エリアーネは保育室の方へ振り返った。


自分が守ると約束した子供へ。


「待っていてください、アドリック……」


彼女は、囁いた。


そして、シスター・エリアーネは境界を越えた。


門は、それからさらに三秒間だけ開いていた。


その後、内側へ折り畳まれるようにして消失した。


部屋は、再び静寂へ戻った。


だが、祭壇の上。


七つの鍵が置かれていた場所には、見慣れない紋様が一つだけ、輝き続けていた。


そして、現世から遥か遠く離れた場所で。


隠された神殿が、目覚め始めていた。


---


シスター・エリアーネが門を越えた瞬間、修道院の音は消え去った。


鐘の音もない。


風の音もない。


遠くから聞こえる声もない。


自分自身の呼吸さえも、奇妙なほど遠く感じられた。


彼女は、淡い色の石で造られた細い道の上に立っていた。


その道は、果てのない闇の中に浮かんでいる。


頭上には、動くことのない星々で満たされた空が広がっていた。


足元の下には、地面が見えない。


ただ、かすかな光の点が散らばる、深く静かな虚無だけが広がっている。


エリアーネは、七つの鍵を強く握り締めた。


「これが、隠された次元……」


彼女は、教団の上級構成員たちから、この場所についての説明を聞いたことがあった。


ある者は、ここを《距離の彼方の領域》と呼んでいた。


またある者は、《静寂の聖域》と呼んでいた。


だが、どのような説明も、実際に目の当たりにした光景を前にしては不十分だった。


この次元は、空虚には感じられなかった。


古代のものに感じられた。


まるで、彼女の知る世界よりも遥か以前から存在し、その世界が消え去った後もなお存在し続けるかのように。


遠くに、柔らかな光が現れた。


最初は、一つの星のようだった。


だが、それは次第に大きくなっていく。


やがて、巨大な階段が闇の中からゆっくりと姿を現した。


一段一段が、淡い光によって形作られている。


その頂上には、浮遊する石の欠片と輝く紋様に囲まれた神殿が建っていた。


神殿は、あまりにも巨大だった。


塔は星々に満ちた闇の中へ伸びている。


だが、その最上部を視認することはできない。


長い旗が壁から垂れ下がっていたが、風が存在しないにもかかわらず、微動だにしていなかった。


建物の中央には、巨大な扉が一対、そびえ立っている。


その表面には、七つの紋様が刻まれていた。


エリアーネは、慎重に一歩を踏み出した。


足元の石が、かすかな光を放つ。


道が、彼女を導いている。


あるいは、神殿がすでに鍵を認識しているのかもしれない。


彼女は歩き始めた。


一歩進むたびに、周囲の圧力が増していく。


身体が重くなり、内側に宿る魔力を制御することが難しくなっていく。


七つの鍵が、彼女の手の中で震えた。


「落ち着いて……」


彼女は、自分自身へ言い聞かせる。


道は、上へと続いていた。


どれほど歩いたのか、エリアーネには分からなかった。


隠された次元では、時間の流れが奇妙だった。


星々は決して動かず、階段同士の距離は、視線を逸らすたびに変化しているように感じられた。


やがて、彼女は頂上へと辿り着いた。


神殿の扉が、頭上にそびえている。


エリアーネはその前に立ち、頭を垂れた。


「私は、修道院に仕えるシスター・エリアーネ。第六聖鍵の所持者です」


彼女の声が、無人の空間へと響き渡る。


「隠された神殿への入場を、願い奉ります」


しばらく、何も起こらなかった。


やがて、扉に刻まれた七つの紋様の一つが、輝き始めた。


それは、彼女の手にある鍵と同じ形をしていた。


深い振動が、階段を通り抜ける。


扉は、触れられることなく開いた。


その向こうには、銀色の炎に照らされた広大な広間が広がっていた。


柱が、闇に消える天井へ向かって伸びている。


床には、無数の古代文字が刻まれていた。


広間の最奥には、一体の像が立っていた。


エリアーネは、息を止めた。


その像は、円形の台座の上に立つ女性を象っていた。


身体は流れるような衣に包まれ、両手は穏やかに身体の前へ置かれている。


その顔は美しかった。


だが、奇妙なほど焦点を合わせにくい。


エリアーネが顔の造形を詳しく見ようとするたび、視界がぼやけてしまう。


その像は、石で造られているようには見えなかった。


表面は、ほとんど生きているかのようだった。


まるで、光そのものが人の形へと成形されたかのように。


台座の周囲には、七つの空の台座が置かれていた。


六つは暗い。


七つ目には、小さな炎が灯っていた。


エリアーネは、ゆっくりと像へ近づいた。


彼女は、十二年間この女神を崇拝してきた。


祈りを暗記し、聖典を学び、組織の掟に従ってきた。


だが、像の前に立った今、彼女は果てのない海を前にした一粒の塵のように感じられた。


彼女は跪いた。


「偉大なる女神よ。私は、あなたの祝福を求めて参りました」


額が、冷たい床に触れる。


「私は、通常の儀式では認識できない存在の子供と出会いました。私は彼に名を与えようとしましたが、力が足りませんでした」


彼女は、両手で七つの鍵を掲げた。


「命名を完遂するために必要な力を授かる許可を、願い奉ります」


広間に並ぶ銀色の炎が、揺らめいた。


エリアーネは続ける。


「その子は、人間ではありません。出自も、種族も、なぜ置き去りにされたのかも、私は知りません。彼が危険を背負っているのか、あるいは運命を背負っているのかも分かりません」


彼女の声が、さらに小さくなる。


「ですが、あの子は無力です。守ってくれる者がいません」


広間は、沈黙したままだった。


エリアーネは、鍵を下ろした。


「私は、あの子を支配したいわけではありません。自分の所有物として、彼を手に入れたいわけでもありません。ただ、名を与え、彼自身の道を選べるようになるまで守りたいのです」


七つ目の台座に灯っていた炎が、突然、高く燃え上がった。


低い音が、神殿の中へ響き渡る。


それは、声ではなかった。


海の底で鳴る遠い鐘の音に、よく似ていた。


エリアーネは、顔を上げた。


像は、動いていない。


それでも、その周囲の空間が変化していた。


空気の中に、無数の小さな光が満ち始める。


それぞれが、遠くの星のように見えた。


光は台座の上へ集まり、円を形成していく。


そして、声が響いた。


像の口から発せられたものではない。


あらゆる場所から、聞こえてきた。


「なぜ、その子に名を与えようとするのです?」


エリアーネの身体が強張った。


声は、穏やかだった。


優しくも、冷酷でもない。


怒りは含まれていない。


それでも、その存在感は、広間全体を取るに足らないものへと変えてしまうほど強大だった。


エリアーネは、再び頭を下げた。


「名があれば、あの子は世界に認識されるようになるからです」


「名の目的は、それだけではありません」


エリアーネは、沈黙した。


声が続く。


「名は、繋がりとなることがあります。祝福となることもある。重荷となることもある。所有を宣言するものとなることもある。そして、守護の約束となることもある」


エリアーネの手が、床の上で強く握り締められる。


「理解しています」


「本当に?」


その問いは、どのような非難よりも深く突き刺さった。


エリアーネは、赤ん坊のことを思い出した。


命名儀式が、あまりにも簡単に失敗したこと。


彼の周囲を包んでいた、奇妙な圧力。


そして、ほんの一瞬だけ。


彼を何にも触れさせず、運命に未来を委ねるべきではないかと、考えてしまったことを。

そうして彼女は、あの小さな手が自分の指に触れていたことを思い出した。


「彼が何になるのか、私には分かりません」


エリアーネは認めた。


「いつか私を拒絶するのか、恐れるのか、それとも私の理解をすべて超えてしまうのか。それも分かりません」


像の上に浮かぶ銀色の光が、ゆっくりと回転した。


「けれど、彼の未来を支配するために名を与えるつもりはありません」


彼女の声に、確かな響きが戻る。


「彼には、名を持つ機会を与えられるだけの価値がある。だから、私は彼に名を贈りたいのです」


再び、神殿が静寂に包まれた。


彼女の手の中で、七つの鍵が輝き始める。


その中心から一本の光の糸が伸び、女神像へ向かって昇っていった。


エリアーネは目を見開き、それを見つめた。


声が、もう一度響く。


「そなたの力では足りぬ」


エリアーネは頭を下げた。


「分かっています」


「そなたの血では足りぬ」


「分かっています」


「そなたの理解では足りぬ」


エリアーネは目を閉じた。


「分かっています」


像を包む光が、さらに強くなる。


「だが、そなたの意志は拒絶されていない」


エリアーネは息を呑んだ。


第七の台座に灯っていた炎が、突然、二つの小さな炎へと分かれた。


一つは台座の上に残る。


もう一つは、エリアーネのもとへと漂ってきた。


それは彼女の胸の前で静止した。


温かな感覚が、全身へと広がっていく。


彼女の魔力が、ゆっくりと動き始めた。


その力は、普通の魔力とは違っていた。


より純粋で、より深く、そしてはるかに理解し難い。


痛みを与えることなく彼女の身体を通り抜けていく。


それでも、その存在に触れられた全身が震えていた。


声が告げる。


「この祝福は、そなたにその子への権限を与えるものではない」


エリアーネは頭を垂れた。


「権限など求めていません」


「その子の起源を明かすものでもない」


「理解しています」


「そなたがその子と歩む道が、安全であると保証するものでもない」


エリアーネは女神像を見上げた。


「それでも、受け入れます」


光が、彼女の胸へと入り込んだ。


その瞬間、神殿全体が一筋の輝きに覆われ、すべてが見えなくなった。


エリアーネの目の前を、無数の光景が駆け抜けていく。


回転する世界。


生まれる星々。


満ちていく海。


消滅する文明。


そして、定命の者の思考では理解することすらできない姿を持つ存在たち。


次の瞬間、それらはすべて消え去った。


エリアーネは前方へ倒れ込み、片手を床について身体を支えた。


呼吸は荒れていた。


七つの鍵が、淡い光を放ちながら彼女の傍らに転がっている。


声は消えていた。


神殿は、再び静寂へと戻っていた。


エリアーネはゆっくりと手を上げた。


その掌に、小さな印が浮かび上がっている。


それは、七つの小さな点に囲まれた、不完全な円のような形をしていた。


彼女は、血管の中を力が流れているのを感じた。


無限の力ではない。


彼女を無敵にするほどの力でもない。


それでも、再び命名儀式を行うには十分だった。


かつて不可能だったことに、挑戦するには十分な力。


エリアーネは掌の印を見つめた。


「ありがとうございます……」


女神像は、何も答えなかった。


彼女は最後にもう一度、深く頭を下げる。


「この祝福を、決して悪用しません」


そして、慎重に七つの鍵を拾い上げ、立ち上がった。


背後の神殿の扉は、開いたままだった。


しかし、彼女が出ていこうとした、そのとき。


最後にもう一度、声が響いた。


「そなたが選んだ名を、その子の真実と取り違えるな」


エリアーネの身体が、ぴたりと止まった。


声は続ける。


「アドリックは、始まりにすぎぬ」


広間が静まり返る。


エリアーネは女神像へと視線を向けた。


けれど、その顔は相変わらず、はっきりと見ることができなかった。


彼女は、その言葉の意味を尋ねなかった。


時が来る前に受け取るべきではない答えもある。


鍵を胸元へと抱き寄せ、彼女は出口へ向かって歩き出した。


力を求めて、ここへ来た。


そして、祝福を授かった。


けれど彼女が持ち帰ろうとしているのは、来たときよりも大きな謎だった。


アドリックと呼ばれる子供は、いまだ名を持たない。


そして、彼が本当は何者であろうとも――


隠された神殿でさえ、それを明かそうとはしなかった。


---


シスター・エリアーネが淡い石の道へ戻ると、隠された神殿は再び沈黙した。


彼女の掌に浮かぶ印は、かすかな光を放ち続けている。


祝福が身体の中を巡り、第二の鼓動のように魔力の核へと落ち着いていくのを感じた。


圧倒されるほどではない。


だが、これまで彼女が持っていたどんな力とも違っていた。


魔力は、より濃密になっていた。


血の生贄を用いた力は、より深みを増している。


周囲の空気でさえ、彼女の存在に反応しているようだった。


それでも、エリアーネは勝ち誇った気持ちにはなれなかった。


女神は彼女に力を与えた。


しかし、その邂逅は答えよりも多くの疑問を残していた。


――アドリックは、始まりにすぎぬ。


その言葉が、彼女の脳裏に残り続けている。


意味は分からない。


子供の未来を指しているのかもしれない。


あるいは、名そのものを指しているのかもしれない。


もしくは、命名によって、二人のどちらにも予測できない何かが目覚めることを、女神は警告したのかもしれなかった。


エリアーネは七つの鍵を握る手に力を込めた。


「その時が来れば、理解できるでしょう」


彼女の足元にある道が、光を放ち始めた。


今度は、帰還の旅に時間はかからなかった。


周囲の星々が長い光の線へと変わり、神殿は闇の帳の向こうへ消えていく。


次の瞬間、彼女は再び修道院の東側の部屋に立っていた。


背後で門が閉じる。


蝋燭の炎が激しく揺れ、やがて何事もなかったかのように元へ戻った。


エリアーネはよろめいた。


祭壇の傍で待っていたシスター・マウラが、すぐに歩み寄り、彼女の腕を支える。


「戻ってきたのですね」


「ええ」


「怪我は?」


「ありません。ただ、疲れただけです」


マウラの視線が、エリアーネの掌に浮かぶ光る印へと移る。


その表情が、険しくなった。


「女神様が、答えてくださったのですね」


「祝福を授けてくださいました」


「それほどまでに、あの子は重要な存在だったということですか」


エリアーネは自分の手を見下ろした。


「彼が何者なのかは、分かりません」


「起源は?」


「明かされませんでした」


「種族は?」


「それも」


「目的は?」


エリアーネは首を横に振った。


「女神様は、私が選んだ名を、その子の真実と取り違えないようにと警告されました」


マウラは眉をひそめる。


「どういう意味ですか?」


「分かりません」


しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。


やがて、エリアーネは幼児室の方へ視線を向ける。


「あの子のもとへ戻らなければ」


マウラは頷いた。


「穏やかに眠っています。他のシスターたちも、何も異常には気づいていません」


「それはよかった」


「すぐに命名儀式を行うのですか?」


エリアーネは、もう一度掌の印を見つめた。


「そうしたいと思っています。でも、慎重にならなければ」


「祝福には期限があるのですか?」


「そうではないと思います。ただ、どれほどの力が宿っているのか、命名の儀式に反応するのか、まだ分かりません」


マウラは袖の中で両手を組んだ。


「ならば、急がないことです。失敗した命名は危険かもしれません」


「分かっています」


「以前も、そう言っていましたね」


「今回は、本当の意味で理解しています」


エリアーネは部屋を出て、静かな廊下を歩いていった。


修道院は、何も変わっていないように見えた。


石壁は相変わらず冷たい。


ランプは小さな黄金色の炎を灯している。


遠くでは、眠っているシスターが夢の中で何かを呟いていた。


それでも、エリアーネは自分が別人になって戻ってきたように感じていた。


普通の空間を超えた場所へ渡った。


女神像の前に立った。


そして、一人の子供の運命を変え得る力を授かった。


幼児室に到着すると、そこには出ていったときとまったく同じ姿の赤子がいた。


窓の近くに置かれた小さな揺り籠の中で、清潔な白い毛布に包まれている。


目は閉じられていた。


呼吸は穏やかだった。


しかし、エリアーネが部屋へ入った瞬間、赤子の意識が揺らめいた。


アドリックは、彼女が近づくよりも前に、その存在を感じ取っていた。


――戻ってきた。


ユニーク属性が反応する。


【シスター・エリアーネと認識されている個体が帰還しました】


気づいている。


【肯定】


部屋の中に、何か違うものがある。


エリアーネを包む力は、以前とは明らかに異なっていた。


より深く、より安定し、より洗練されている。


彼女は揺り籠へ近づき、優しくアドリックを抱き上げた。


「アドリック……」


意図された名が、柔らかく彼女の唇からこぼれる。


しかし、今回も世界は反応しなかった。


光は現れない。


魔力の繋がりも生まれない。


エリアーネは失望した様子を見せなかった。


そのまま彼を抱き、幼児室に隣接する、準備された儀式室へと運んでいく。


「必要な力を持って帰ってきました」


彼女は囁いた。


「でも、あなたに名を押しつけるつもりはありません」


エリアーネはアドリックを、白い粉で描かれた小さな円の中へ慎重に寝かせた。


その円は、彼を閉じ込めるためのものではない。


制御できない魔力が部屋全体へ広がるのを防ぐために設けられた、保護結界だった。


続いて、彼女は七つの鍵を円の外側へ置く。


掌の印が、淡く輝き始めた。


マウラは扉の近くに立ち、黙って見守っている。


エリアーネは儀式台から小さな銀の刃を取り出した。


それを掌の上に掲げ、そして一度、動きを止めた。


以前の試みでは、血が必要だった。


だが今回は、祝福によって彼女の力の性質そのものが変化している。


儀式がさらに血を求めるのか。


より多くの魔力を求めるのか。


それとも、まったく別の何かを求めるのか。


彼女には分からなかった。


アドリックの意識の内側から、ユニーク属性がその光景を観測していた。


【命名儀式の準備が進行しています】


アドリックはエリアーネへ意識を向ける。


――今度は、成功するのか?


【確率を算出できません】


――だんだん、腹立たしくなってきた。


【発言を認識しました】


エリアーネは刃を掌へ軽く押し当てた。


一滴の血が浮かび上がる。


それが銀の器へ落ちた。


血が表面に触れた瞬間、器が淡い光を放ち始める。


アドリックを囲む白い円が、明るく照らされた。


七つの鍵が震える。


マウラの表情が変わった。


「エリアーネ……」


「分かっています」


エリアーネは光を帯びた掌を、器の上へ掲げた。


「この子に、私は名を――」


部屋の中の魔力が、集まり始める。


蝋燭の炎が儀式の円へ向かって傾いた。


空気が震える。


アドリックは、自分の意識へ何かが触れようとしているのを感じた。


乱暴なものではない。


ただ、遥かな距離を越えて伸ばされた手のような感覚だった。

その名は、儀式の縁で待っていた。


――アドリック。


一人の人間の女性によって選ばれた名。


まだ、世界には受け入れられていない名。


エリアーネは続けた。


「この子に、アドリックという名を――」


その瞬間、七つの鍵が鋭い音を放った。


表面に刻まれた第七の象徴が、閃光を放つ。


儀式の円に亀裂が走った。


マウラが一歩前へ出る。


「エリアーネ、やめて!」


しかし、エリアーネは術を解かなかった。


彼女には、祝福が何かに抗っているのが分かった。


名そのものではない。


名の向こう側にある何か。


その子の内側に存在する何かに。


アドリックの意識が震えた。


ほんの一瞬だけ、彼は感じ取った。


思考の彼方に、巨大な闇と、果てのない光が同時に存在している。


だが、その感覚はすぐに消え去った。


儀式の炎が銀の器より高く立ち昇る。


修道院全体が揺れた。


エリアーネは目を見開いた。


名は、まだ完成していない。


それでも、世界はすでに応答を始めていた。


---


修道院が震えた。


天井から埃が落ちる。


儀式室を囲む蝋燭が一斉に横へと傾き、炎が円の中心にいる赤子へ向かって細長く伸びていく。


シスター・マウラが前へ出ようとした。


しかし、エリアーネは片手を上げた。


「円の中へ入らないでください!」


その警告は、揺れを止めるには遅すぎた。


それでも、マウラは境界線の前で足を止める。


円の内側では、銀の器が白でも金でもない光を放っていた。


そこには、あらゆる色が含まれているように見える。


けれど、そのどれ一つとして、明確に捉えることはできなかった。


エリアーネの掌が焼ける。


女神から授かった印が手の甲へと広がり、細い線となって手首へ伸びていく。


彼女には分かった。


祝福が、子供の内側にある何かへ反応している。


彼に抗っているのではない。


彼を認識しているのだ。


「アドリック……」


エリアーネが、もう一度その名を口にした。


名が、儀式室全体へと響き渡る。


今度の反応は、即座に起こった。


七つの鍵が床から浮かび上がる。


刻まれた七つの象徴が、同時に燃え上がった。


その瞬間、魔力の圧力が波となって放たれ、室内に施されていたすべての防護印が一斉に明滅する。


壁が軋む。


窓が激しく震える。


修道院から遥か遠く離れた場所で、夜空が一瞬だけ揺らめいた。


まるで、雲の向こうに隠されていた星が現れ、そして消えたかのように。


マウラは鍵を見つめた。


「七つすべての象徴が……」


エリアーネには、彼女の声がほとんど聞こえていなかった。


その意識は、子供だけに向けられていた。


赤子の目は閉じられたままだった。


だが、その周囲の空気は変化していた。


小さな身体を、淡い光と影が包み込んでいる。


二つの力は、衝突していなかった。


共に動いていた。


光が闇の中を流れる。


闇が光の中を通り抜ける。


どちらも、もう一方を呑み込まない。


その代わり、二つの力は子供の周囲で、完璧な均衡を形作っていた。


エリアーネの声が震える。


「あなたに、私は名を――」


儀式の円に、さらに亀裂が走った。


室内に集まる魔力は、耐え難いほどの濃度へ達していく。


命名の儀式が、彼女自身の力を超え、身体に宿る祝福さえも超えて、世界の法則の背後に存在する何かへ手を伸ばしている。


その瞬間、エリアーネの胸を恐怖が掴んだ。


また失敗したら?


力に拒絶されたら?


この試みによって、子供が壊れてしまったら?


そのとき、赤子が動いた。


小さな指が、ゆっくりと開く。


彼を包んでいた光が、広がるのを止めた。


圧力が消える。


儀式室が、完全な静寂に包まれた。


エリアーネは、息を止めたまま彼を見つめる。


赤子が、ゆっくりと目を開いた。


それは、普通の新生児の瞳ではなかった。


片方の目には、淡く果てのない光が映っていた。


もう片方には、外の夜よりも深い闇が宿っているように見えた。


しかし、その異様な姿は一瞬だけだった。


光が薄れる。


闇が消える。


赤子の瞳は、元の姿へと戻った。


エリアーネは、命名の儀式が定着したことを感じ取った。


繋がりが、完成した。


世界が、その名を受け入れた。


――アドリック。


七つの鍵がゆっくりと下降し、床へ戻る。


銀の器が砕け散った。


防護の円が消失する。


エリアーネの掌に浮かんでいた印が薄れ、最後にはかすかな傷跡だけが残った。


彼女は凍りついたように立ち尽くし、言葉を失っていた。


最初に動いたのは、マウラだった。


「成功したのですか?」


エリアーネは、円の中心にいる子供を見下ろした。


「はい……」


彼女は、囁くように答えた。


その声には、信じられないという感情が滲んでいた。


「この子は、名を授かりました」


マウラが慎重に近づく。


「何が起きたのですか?」


「分かりません」


「何か感じたはずです」


エリアーネは、自分の掌へ視線を落とした。


「儀式が、彼と繋がったことは感じました。でも、私の力だけではありません。祝福が助けてくれました。けれど……」


彼女は言葉を止めた。


「けれど?」


エリアーネはアドリックを見つめる。


「一瞬だけ、世界そのものが耳を傾けているように感じたのです」


---


アドリックの意識の内側では、彼は沈黙していた。


変化は感じ取れている。


以前、彼が持っていたのは、ただの予定された名だけだった。


しかし今は、何かが彼の存在に結びついている。


名。


繋がり。


認識。


ユニーク属性が告げる。


【命名処理が完了しました】


【識別名を確立:アドリック】


アドリックは、内側へ意識を向けた。


――つまり、これで僕にも名前ができたんだな。


【肯定】


――何が変わった?


わずかな間があった。


【アドリックと指定された個体は、この世界の法則によって認識されました】


――それだけ?


【追加効果を検知】


アドリックは待った。


【解析未完了】


――もちろん、そうなるよな。


声は続けた。


【命名事象により、周辺魔力場全体に異常反応が発生しました】


――危険だったのか?


【直接的な損傷は検知されていません】


――なら、どうして全部揺れたんだ?


【原因不明】


アドリックは、苛立ちと好奇心が入り混じった奇妙な感覚を覚えた。


名は、今や彼のものになった。


それでも、この出来事は答えよりも多くの疑問を生み出していた。


---


儀式の円の外で、エリアーネは慎重にアドリックを抱き上げた。


彼女が抱きしめた瞬間、残っていた魔力の圧力が完全に消え去った。


赤子は、再び穏やかな姿に戻っていた。


小さく。


脆く。


どこにでもいる赤子のように。


その命名によって修道院全体が震えたなど、信じることが難しいほどだった。


エリアーネは彼を胸元へ優しく抱き寄せる。


「アドリック……」


彼女は囁いた。


今度は、その名の響きが違っていた。


それは、もはや願いではない。


許しを待つ名でもない。


確かなものになっていた。


マウラは砕けた銀の器と、七つの鍵へ目を向けた。


「鍵が、命名に反応しましたね」


「ええ」


「なぜですか?」


「分かりません」


「女神様は、このことについて何か仰っていましたか?」


エリアーネは、隠された神殿で聞いた声を思い出した。


――そなたが選んだ名を、その子の真実と取り違えるな。


彼女は腕の中のアドリックを見下ろした。


「いいえ」


静かな声で答える。


「直接的には、何も」


マウラは彼女の表情を観察した。


「エリアーネ。何か隠しているのですか?」


「何も隠していません」


「それなら、女神様が何と仰ったのか教えてください」


エリアーネは、ためらった。


「アドリックは、始まりにすぎない、と」


マウラの表情が曇る。


「何の始まりですか?」


「分かりません」


二人の女性は、再び沈黙した。


窓の向こうでは、夜明けの最初の淡い光が修道院を照らし始めていた。


夜は過ぎた。


修道院は、無事だった。


子供は、名を授かった。


しかし、儀式の影響はすでに修道院の壁を越えて広がり始めていた。


遠い土地で、いくつもの古代魔導具が同時に反応した。


崩壊した塔の地下深くに封印されていた結晶が、ひび割れる。


眠りについていた守護者が、目を開く。


聖なる炎を囲んでいた司祭たちが、炎が突然、光と影の両方を伴って燃え上がったことで集まってくる。


そして、どのような人間の地図にも記すことのできない場所で、七つの象徴が刻まれた古代の扉が、一度だけ震えた。


その後、扉は静止した。


彼らの誰一人として、何が起きたのかを理解していなかった。


まだ、その時ではなかった。


---


修道院の中で、エリアーネはアドリックを窓辺へと運んだ。


赤子の目は、再び閉じられている。


彼女は日の出を見つめ、それから腕の中の子供へ視線を落とした。


「あなたは、もう名を持っています」


彼女は静かに言った。


「でも、あなたの物語は始まったばかりなのかもしれませんね」


アドリックは、その言葉を聞いていた。


転生して以来、初めてだった。


自分が、見知らぬ世界を漂う名もなき存在ではないと感じたのは。


まだ、混乱している。


まだ、赤子の身体では何もできない。


まだ、自分を取り巻く奇妙な力を理解することもできない。


それでも、彼は認められた。


誰かが、彼を選んだ。


誰かが、彼を守った。


そして、誰かが、彼に名を与えた。


――アドリック。


その名は、今やこの世界に属している。


そして、おそらく。


この世界は、彼の名によって、二度と以前と同じではいられなくなる。

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