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選ばれなかった少年


愛に包まれて生まれてくる人たちがいる。


いつだって誰かが自分を待っていてくれるのだと、信じながら成長する人たちがいる。


そして、僕のような人間もいる。


愛されるとはどういうことなのかを知るよりも先に、生き方を覚えてしまう人間が。


僕の名前は、中村アキラ。


大阪で暮らす十八歳の高校生。


僕が知る限り、自分にこれといって特別なところはなかった。


天才ではない。


運動神経がいいわけでもない。


人気者でもない。


突然、人生を変えてしまうような隠れた才能を持っているわけでもない。


ただ毎朝目を覚まし、学校へ行き、遅くまで働き、完全に我が家だと思えることのない小さなアパートへ帰る。


そんな、どこにでもいる少年だった。


その朝も、いつもと変わらず始まった。


午前五時三十分。


目覚まし時計が鳴った。


僕は目を開け、天井を見つめながら考えた。


あと五分だけ眠れば、何もかも解決する方法が見つかったりしないだろうか。


……そんなわけはなかった。


だから目覚ましを止め、ベッドから起き上がった。


また一日が始まった。


それが、僕の人生に残された「普通の日」の一つになるとは、このときの僕は知る由もなかった。


---


部屋を出る頃には、まだ辺りは暗かった。


目覚まし時計の表示は、午前五時三十六分。


六分も失ってしまった。


まあ、許容範囲だ。


六分くらいで予定が台無しになることはない。


……たぶん。


布団を畳んで部屋の隅に置き、カーテンを開ける。


大阪の街は、日の出前の淡い闇に包まれていた。


近隣の建物では、いくつかの窓に明かりが灯っている。一方、眼下の通りは、まだほとんど静まり返っていた。


僕はしばらく、街を眺めていた。


どこかでは、まだ眠っている人がいる。


どこかでは、もう仕事の支度を始めている人がいる。


そしてどこかでは、早起きしなければならないことに文句を言っている人もいるのだろう。


その気持ちは、よく分かる。


残念ながら、僕にはその仲間に加わる権利がなかった。


「まずは、朝ご飯だな」


独り言を言うのは、すっかり習慣になっていた。


あまり褒められた習慣ではない。


だが、文句を言う相手もいない。


僕は小さな台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。


中に入っていたのは、半分ほど残った牛乳、卵が二つ、少しの野菜、そして残り物のご飯が入った容器。


僕はその中身を見つめた。


「……豪華なご馳走だ」


冷蔵庫から返事はない。


予想どおりだ。


ご飯を取り出して電子レンジに入れる。


温めている間、僕は台所のカウンター脇に置いてある小さなノートを確認した。


そこには、一週間分の支出が記録されている。


食費。


交通費。


学用品。


電気代。


水道代。


家賃。


金額は一つひとつ、丁寧に書き込まれていた。


一つの間違いが、大きな意味を持つ。


財布を取り出し、中のお金を数える。


そして、もう一度数えた。


結果は変わらなかった。


「……相変わらず貧乏だな」


財布を閉じる。


すでに分かっていることに、いちいち落ち込んでも仕方がない。


電子レンジが、チン、と鳴った。


僕はご飯と目玉焼き、それからインスタントの味噌汁で簡単な朝食を用意した。


豪華ではない。


けれど、温かくて、腹が膨れて、安い。


それなら十分だった。


窓際の小さなテーブルに腰を下ろす。


椅子は二つ。


使われているのは、一つだけだった。


もう一つの椅子は、僕が物心ついた頃からずっとそこにある。


祖父の椅子だ。


中村ダイチ。


僕が赤ん坊の頃に見つけ、実の子のように育ててくれた人。


……少なくとも、そう聞かされている。


実の両親について、僕には何の記憶もない。


そして、彼らについて強い興味を抱いたこともなかった。


祖父が、僕にとっての家族のすべてだった。


料理の仕方を教えてくれた。


掃除の仕方を教えてくれた。


壊れたものを直す方法を教えてくれた。


そして、お金を無駄にしないことも教えてくれた。


それから、焦げたご飯でも、調味料をたっぷりかければ食べられるということも。


……その教えに、どれほどの価値があったのかは疑問だ。


けれど、僕は覚えている。


空っぽの椅子を見つめた。


「……おはよう、じいちゃん」


気づく前に、言葉が口からこぼれていた。


部屋は、静かなままだった。


僕は目の前の朝食へ視線を落とす。


祖父が亡くなってから、八年が経っている。


それは分かっている。


受け入れてもいる。


……少なくとも、そう思っていた。


けれど時には、習慣というものは、それを作った人がいなくなったあとも、長く残り続ける。


一瞬、向かいの席に祖父が座っているような気がした。


「アキラ、そんなに早く食べるんじゃない」


「ちゃんと噛んで食べろ。腹を壊すぞ」


「それから、食事中に時計ばかり見るな」


僕は、かすかに笑いそうになった。


けれど、その光景はすぐに消えた。


二つ目の椅子は、空っぽだった。


朝食を食べ終え、食器を洗い、乾燥ラックに並べる。


台所を出る前に、ガスコンロを二度確認し、玄関の鍵を一度確認した。


玄関の脇には、学校の制服が掛けてあった。


綺麗にはしてあるが、生地には少しずつ年季が現れ始めている。


制服に着替え、ネクタイを整え、細長い鏡に映った自分の姿を確認する。


黒い髪。


疲れた目。


朝によっては、十八歳とは思えない顔。


「……ひどい顔だな」


僕は一瞬、動きを止めた。


「ありがとう」


やはり、返事はない。


僕は通学鞄を手に取り、外へ出た。


朝の冷たい空気が、頬に触れた。


街は、目を覚まし始めていた。


そして、僕の人生の、また一つの普通の日が正式に始まった。


---


通りへ出ると、近所は静まり返っていた。


大阪の空は明るくなり始めていた。


濃い青から、淡い灰色へ。


街灯はまだ輝いていたが、太陽の光が少しずつ、その役目を終わらせようとしていた。


自転車が一台、僕の横を通り過ぎた。


続いて、もう一台。


近くのコンビニへ向かう年配の女性が、エコバッグを手に歩いていた。

世界は、一人、また一人と目を覚ましていた。


僕は通学鞄の肩紐を直し、駅へ向かって歩き始めた。


学校は、歩いて気軽に通えるほど近くはない。


だが、毎日電車を使えば、それだけお金がかかる。


出費を減らそうとしている僕は、いつも途中まで歩き、そこから安いルートを利用していた。


そのせいで、通学時間は約二十分ほど長くなる。


二十分は、決して長い時間ではない。


……疲れていなければ。


疲れているときの二十分は、敵になる。


小さな家が並ぶ通りを抜け、閉まったラーメン屋の前を通り、色褪せた広告の下に立つ自動販売機を横目に歩く。


自動販売機の明かりは、周囲の朝の光よりも明るかった。


僕は、その前で足を止めた。


コーヒー。


お茶。


水。


値段に見合っているとは思えないスポーツドリンク。


ポケットに手を入れ、硬貨の感触を確かめる。


そして、その場を離れた。


「今日はやめておこう」


自動販売機は、聞こえなかったかのように光り続けていた。


そのほうが、たぶんよかった。


次の交差点で、信号が赤に変わった。


僕は、異なる学校の制服を着た生徒たちの集団の隣で立ち止まった。


二人の女子が、テレビドラマについて話している。


一人の男子は、友人にスマートフォンの画面を見せていた。


別の生徒は、昨夜本当に眠ったのかと疑いたくなるほど、大げさにあくびをしている。


彼らの会話は僕の周囲を流れていった。


けれど、その中に僕が加わることはなかった。


別に、気にしていない。


……少なくとも、僕はそう自分に言い聞かせていた。


信号が青に変わる。


みんなが歩き始めた。


僕も、その後に続いた。


駅に近づくにつれて、街は次第に賑やかになっていった。


バスが歩道の脇に停まり、自転車が歩行者の間を進み、会社員たちはスマートフォンを見つめながら、それぞれの目的地へと急いでいる。


大阪は、すでに行くべき場所を持つ人々で満ちていた。


一日の終わりに、自分を待っていてくれる人がいるというのは、どんな気持ちなのだろう。


何かを必要としているからでもない。


何かを頼まれているからでもない。


支払いを済ませたか確認するためでもない。


ただ、僕に会いたいと思ってくれるから。


そんな考えを、僕はすぐに振り払った。


朝から感傷的になるには、まだ早すぎる。


それに、今日はテストがある。


そちらのほうが、ずっと差し迫った脅威だった。


駅に着くと、時間を確認した。


午前七時十八分。


まだ十分に間に合う。


僕は駅構内へ入り、改札を通り抜け、ほかの学生たちと一緒にホームへ立った。


数分後、電車が到着した。


扉が開くと、みんなが一斉に前へ進んだ。


僕も車内へ入り、窓際の場所を見つけた。


電車が動き始める。


建物が窓の向こうを流れていく。


看板、屋根、電線、細い路地。


それらが一つに混ざり、ぼやけていく。


しばらくの間、僕は特に何も考えず、街を眺めていた。


そのとき、スマートフォンが振動した。


アルバイト先からのメッセージだった。


《今夜、追加でシフトに入れる?》


僕は、その画面を見つめた。


最初に思ったのは、断ろうということだった。


次に、財布の中身を確認しようと思った。


そして三つ目に、その追加勤務でどれくらい助かるかを計算した。


僕は返信を入力した。


《はい。働けます》


返事は、ほとんどすぐに届いた。


《ありがとう。あとでよろしく》


スマートフォンをポケットに戻す。


電車は、学校へ向かって走り続けていた。


窓の外では、朝の太陽がようやく建物の隙間から姿を現した。


ほんの一瞬、その光が窓ガラスに反射し、僕の顔を照らした。


僕は自分の姿を見つめた。


学校の制服を着た少年。


膝の上に置かれた通学鞄。


疲れた表情。


何も変わったところはない。


何も特別なところもない。


ただ学校へ向かう、どこにでもいる学生。


僕は窓から視線を逸らした。


あの頃の僕は、普通の人生というものは、日々が訪れ続ける限り、ただ当たり前のように続いていくものだと思っていた。


普通の一日が、どれほど脆いものなのか。


僕は、まだ理解していなかった。


---


学校に着く頃には、廊下はすでに騒がしさに満ちていた。


靴音が床に響く。


教室の扉が開き、そして閉まる。


廊下の反対側から、生徒たちが互いに声を掛け合っている。


階段の近くでは、誰かが大声で笑っていた。


別の誰かは、近づいている試験について文句を言っている。


いつもの朝の喧騒だった。


僕は、学校が静かなほうが好きだった。


残念ながら、静けさを楽しめるほど早く登校するには、さらに早起きしなければならない。


勉強のために、僕はすでにいくつものものを犠牲にしている。


これ以上、残り少ない睡眠まで犠牲にする必要はなかった。


教室に入り、窓際の自分の席へ向かう。


「おはよう、中村」


通りすがりの男子が、軽く頷いた。


「おはよう」


彼は、それ以上何かを言う理由もないまま歩いていった。


学校での僕の人間関係の多くは、そんなものだった。


お互いの顔を知っている。


挨拶を交わす。


ときどき、ノートや宿題の答えを共有する。


けれど、顔を知っていることと、親しいことは同じではない。


僕は通学鞄を机の横に置き、椅子に座った。


教室には、少しずつ生徒たちが集まってきていた。


後ろのほうでは、男子数人が人気のゲームについて話している。


二人の女子が、スマートフォンの写真を見せ合っている。


誰かが窓を開け、涼しい朝の空気が教室へ流れ込んできた。


僕はノートを取り出し、時間割を確認した。


国語。


数学。


現代社会。


体育。


そして、最後の授業にはテスト。


僕は、最後の項目を見つめた。


「……一日の締めくくりとしては、素晴らしいな」


「また独り言?」


顔を上げると、隣の列の机のそばに立っていた女子が、少し面白そうな顔で僕を見ていた。


「いや」


「絶対、言ってたでしょ」


「テストに話しかけていただけだ」


「それはそれで意味が分からないんだけど」


「テストのほうから話しかけてきたんだ」


彼女は、ぱちぱちと瞬きをした。


そして、小さく笑った。


「はいはい。そういうことね」


僕は小さく肩をすくめ、ノートへ視線を戻した。


彼女は、その説明で納得したらしく、どこかへ歩いていった。


僕は、会話があまり得意ではなかった。


人が嫌いなわけではない。


ただ、自分のことをどこまで話せばいいのか、よく分からないのだ。


週末は何をしていたのかと聞かれれば、働いていたと答えられる。


家族について聞かれれば、一人暮らしだと答えられる。


趣味は何かと聞かれれば、寝ることだと答えられる。


どの答えも、二つ目の質問には繋がらない。


それは、たいていの場合、都合がよかった。


数分後、三人の男子が連れ立って教室へ入ってきた。


そのうちの一人が僕のほうをちらりと見てから、ほかの二人へ顔を近づけた。


会話の始まりまでは聞こえなかった。


けれど、一つの言葉だけは、はっきりと耳に入った。


「中村って、本当に一人暮らしなのか?」


「たぶん」


「変わってるな」


「どこかに親戚がいるんじゃないか?」


「じゃあ、なんで誰も学校に来ないんだ?」


彼らの声が小さくなる。


僕は、ノートへ意識を戻した。


そこには、数学の公式が並んでいた。


公式のほうが、人間よりも理解しやすい。


数字が正しければ、答えは最終的に筋が通る。


人間は違う。


何もかも正しくやったつもりでも、理解できない答えを返してくることがある。


「なあ、中村」


また顔を上げる。


男子の一人が、僕の机の横に立っていた。


「数学の宿題、終わった?」


「終わったけど」


「七番、見せてくれない?」


僕はノートを手渡した。


彼はページに目を走らせる。


「ありがとな。命の恩人だわ」


「全部丸写しするなよ」


「しないって」


彼は一瞬、間を置いた。


「……たぶん」


僕は、彼を見つめた。


彼はニヤリと笑い、自分の席へ戻っていった。


僕は、その背中を見送った。


学校というのは、そういう場所でもある。


変な奴だと思われながら、それでも宿題の答えを求められる。


数学が絡むと、人間関係というものは、驚くほど効率的になるらしい。


チャイムが鳴った。


教師が入ってくると、教室は次第に静かになっていった。


僕はノートを机の上に置き、窓の外へ目を向けた。


空は晴れていた。


校舎の向こうに広がる屋根に、陽の光が降り注いでいる。


すべてが、普通に見えた。


人は、それを失って初めて、その価値に気づく。


そんな、ありふれた日常だった。


「おはよう、みんな」


教師が言った。


教室から、ばらばらの声が返る。


僕は教科書へ視線を落とした。


また一つ、授業が始まった。


また一時間が過ぎていった。


そして、そのありふれた教室のどこかで、僕の人生の小さな一部分が、まだ想像もできない未来へ向かって動き始めていた。


---


最初の二時間の授業は、特に記憶に残るようなこともなく過ぎていった。


いくつかの質問に答え、黒板の内容をノートに写し、現代社会の授業中に眠らないよう努力した。


最後のほうは、思っていたよりも難しかった。


まぶたが重くなり始めた、そのとき。


誰かが、ペンで僕の後頭部を軽く叩いた。


トン。


トン。


トン。


僕は教科書を見つめ続けた。


トン。

「……次に同じことをしたら、学業上の嫌がらせで通報するからな」


背後から、静かな笑い声が聞こえた。


「学業上の嫌がらせ? 新しいな、それ」


振り返る。


短い茶髪の男子が、椅子の背もたれに寄りかかりながら、面白いものでも見つけたように笑っていた。


彼の名前は、高橋レン。


高校に入学した頃からの、僕のクラスメイトだ。


僕の周囲にある噂に、レンはあまり興味を示さなかった。


なぜ一人暮らしをしているのか。


両親はどこにいるのか。


僕を、解けない謎でも見るような目で見たこともない。


ただ、普通に話しかけてくる。


……ときどき、話しかけすぎるくらいには。


「昨日、ちゃんと寝たのか?」


「少しは」


「どのくらい?」


「一応、生物学的には生きていると確認できる程度」


「質問の答えになってないぞ」


「なら、機密事項だ」


レンが身を乗り出す。


「また働いてたんだろ?」


僕は教科書へ視線を戻した。


「それも機密事項だ」


「普通の人間は、素直に『うん』って答えるんだよ」


「普通の人間とは、搭載されているシステムが違うんだ」


レンが笑った。


教師がこちらへ視線を向ける。


「高橋、中村。何か面白いことでもあるのか?」


「いえ、先生」


レンは即座に答えた。


僕も頷く。


「まったく何もありません」


教師が目を細める。


「なら、授業に集中しろ」


「はい、先生」


教師が黒板へ向き直った瞬間、レンが小声で言った。


「お前、嘘つくの下手だよな」


「嘘はついてない」


「『まったく何もありません』って言っただろ」


「事実だ」


レンは笑いをこらえるように口元を押さえた。


僕はノートへ視線を戻した。


けれど、口元はわずかに緩んでいた。


レンは、それに気づいていた。


いつも、気づくのだ。


---


昼休みになると、教室は再び騒がしくなった。


椅子が床を擦る音。


弁当箱が開かれる音。


生徒たちが、いつものグループに集まっていく声。


レンが僕の机の隣へ椅子を引き寄せた。


「ほら、行こうぜ」


「どこへ?」


「昼飯」


「僕は昼飯を持っているけど」


「見れば分かる」


「じゃあ、なぜ聞く?」


「一人で食べてるからだよ」


「それも分かってる」


レンは僕を見つめた。


僕も見つめ返した。


やがて、彼はため息をついた。


「お前、どこかに誘うのが意外と難しいな」


「食事に誘われた。僕は断った」


「断ってない。誘いの構造について質問しただけだろ」


「追加調査付きの断りみたいなものだ」


レンは首を横に振った。


「いいから、来いよ」


僕は弁当へ視線を落とした。


今朝、簡単に用意したものだ。


ご飯、野菜、そして目玉焼き。


小さな容器に詰めてある。


レンがそれを見た。


「……それが昼飯?」


「そうだけど」


「また?」


「まだ裏切られていないからな」


「食べ物は裏切るものじゃないだろ」


「間違ったコンビニサンドイッチを信じたことがないんだな」


レンは笑い、僕の腕を引いて教室の扉へ向かった。


僕は、そのまま引きずられていくことにした。


向かったのは、校庭の少し静かな場所だった。


大きな木の下に、いくつかのベンチが置かれている。


天気は穏やかで、木の葉の隙間から柔らかな日差しが降り注いでいた。


レンは腰を下ろし、弁当箱を開いた。


中には、ご飯、唐揚げ、野菜、それから誰かがちゃんと手間をかけて作ったらしい、いくつかのおかずが入っていた。


僕はレンの弁当を見る。


次に、自分の弁当を見る。


そして、もう一度レンの弁当を見る。


レンが気づいた。


「食う?」


「いや」


「さっきから見てるけど」


「分析している」


「何を?」


「僕たちの食事における経済格差を」


レンは即座に、唐揚げを一つ僕の弁当箱へ入れた。


「研究終了」


僕はそれを見下ろした。


「……実験に干渉しているな」


「いいから食え」


僕は食べた。


美味しかった。


……腹立たしいほどに。


レンが笑う。


「ほら、友情って役に立つだろ?」


「一時的な食料配給は友情とは呼ばない」


「じゃあ、なんで受け取った?」


「断ると、食べ物が無駄になるからだ」


「はいはい」


しばらく、僕たちは黙って食べた。


居心地のいい沈黙だった。


それは、珍しいことだった。


人と人の間にある沈黙の多くは、互いに逃げ出そうとする空っぽの部屋のように感じられる。


けれど、レンとの沈黙は違った。


そこには、僕に何かを求める空気がなかった。


静かにしている理由を説明する必要もない。


明るく振る舞う必要もない。


自分の人生が、実際よりも普通に見えるように取り繕う必要もない。


レンは、ただ隣に座っていた。


しばらくして、彼が尋ねた。


「なあ、アキラ」


「何?」


「今夜も働くのか?」


「うん」


「また?」


「うん」


「たまには休んでもいいんだぞ」


「その概念は知っている」


「じゃあ、実際に使ってみろよ」


「検討しておく」


「それ、休まないって意味だろ」


「検討すると言っただけだ」


レンは大げさにため息をついた。


「お前、二十歳になる前に爺さんになるぞ」


「もう光熱費に文句を言う方法なら知っている」


「そんなもの、誇ることじゃないだろ」


「貴重な生活技能だ」


レンは、また笑った。


そして、少しだけ真面目な表情になった。


「なあ、アキラ」


「何だ?」


「困ったことがあったら、俺に頼っていいんだからな」


僕の箸が止まった。


頭上の木の葉の間を、風が通り抜けていく。


「……どんな助け?」


「何でも」


「曖昧だな」


「お前が何を必要としてるか、分からないからな」


「お金が必要だ」


レンが瞬きをした。


僕は、そのまま食事を続けた。


レンは僕を見つめた。


そして、呻くように言った。


「……せめて、もう少し感情があるふりをしろよ」


「感情ならある」


「じゃあ、なんでそんなことを言うんだよ」


「何でもって言ったからだ」


レンは額を押さえた。


「お前、本当にどうしようもないな」


「よく言われる」


彼は、しばらく黙った。


それから、言った。


「……本気で言ってるんだ」


僕は顔を上げた。


彼の表情からは、いつもの冗談めいた雰囲気が消えていた。


「何かあったら、言ってくれ」


レンは続けた。


「慣れてるからって、全部一人で何とかしようとするなよ」


すぐには答えられなかった。


言葉は、単純だった。


だからこそ、返事をするのが難しかったのかもしれない。


僕は、何年もかけて、人に頼らない方法を覚えてきた。


誰かに頼るということは、その人に去る自由を与えるということでもある。


そして、人は去っていく。


それでも、レンは長い間、僕の隣にいた。


授業を休んだときにはノートを貸してくれた。


教室が混雑しているときには、席を取っておいてくれた。


昼休みに教科書ばかり見ている僕を、外へ引っ張り出してくれた。


理由を求めたことは、一度もなかった。


僕は校庭のほうへ視線を逸らした。


「……ありがとう」


レンが笑った。


「ほら、感謝もできるじゃん」


「慣れるなよ」


「もう遅い」


それ以上、彼が何かを言う前に、チャイムが鳴った。


生徒たちが校舎へ戻り始める。


レンは立ち上がり、伸びをした。


「ほら、次は数学だぞ」


「その言葉で気分が台無しになった」


「感謝しろよ。数学は人生に構造を与えてくれるんだ」


「僕の人生には、もう十分問題がある」


レンが足を止めた。


そして、僕を指差す。


「今のは、結構いい冗談だったな」


「冗談じゃない」


「それなら、なおさら面白い」


僕たちは一緒に教室へ戻った。


あの頃の僕は、あの何気ない時間がどれほど大切なものだったのか、まだ理解していなかった。


一緒に食べた昼食。


意味のない言い争い。


くだらない冗談。


ただ隣を歩いてくれる、誰かの存在。


友情というものは、一度始まれば自然に続いていくものだと思っていた。


誰かが長い間、自分の隣にいてくれたのなら、これからもずっといてくれるのだと思っていた。


僕は、間違っていた。


けれど、そのときの僕は、まだそれを知らなかった。


---


あの昼食のあとも、日々はいつもどおりに過ぎていった。


授業。


宿題。


アルバイト。


睡眠。


そして、また繰り返す。


外から見れば、僕の人生は特に面白いものではなかっただろう。


だが、レンには、平凡な日々を無駄に複雑にする才能があった。


例えば、ある日の午後。


彼は、僕が学校の文化祭実行委員に参加する必要があると、突然判断した。


「嫌だ」


僕は言った。


「まだ詳しい話をしてないだろ」


「重要な部分は聞いた」


「重要な部分って何だよ」


「お前がクラスメイトと過ごす時間を増やせることだ」


「罰ゲームみたいだな」


レンは僕の机に両手をついた。


「アキラ、お前は青春を経験する必要がある」


「今、経験しているところだ」


「いや、お前が経験してるのは労働だろ」


「それも青春の一部だ」


「誰に教わったんだよ、そんなこと」


「お金について愚痴を言う大人全員」


レンは、本気で傷ついたような顔をした。


「高校生活全部を働いて過ごすつもりか?」


「全部じゃない」


「本当に?」


「だいたい六時間は寝ている」


「改善になってない!」


僕はノートへ視線を戻した。


レンは、まだ机の隣に立っていた。


視線を感じる。


数秒後、僕は顔を上げた。


「何だ?」


「お前、文化祭に来るんだぞ」


「嫌だ」


「頼むよ」


「嫌だ」


「昼飯、おごるから」


僕は、一瞬だけ動きを止めた。


レンの目が大きくなる。


「……え、今の効いた?」


「違う」


「今、ためらっただろ」


「お前の提案が、交通費を補えるか計算していただけだ」


「なんで何でも商談みたいにするんだよ!」


「お前が金銭的に怪しい提案ばかりするからだ」


レンはため息をついた。


結局、僕は小さな仕事を一つ手伝うことにした。


学校行事を楽しむよう説得されたからではない。


一時間もかからないと、彼が約束したからだ。


……三時間かかった。


当然のように。


箱を倉庫へ運び終える頃には、太陽はすでに沈み始めていた。


レンが額の汗を拭う。


「なんだ、たいしたことなかったな」


「一時間って言っただろ」


「一時間未満って言ったんだよ」


「一時間未満で終わるって言ったんだろ」


「……厳密に言えば、三時間は四時間未満だ」


僕は、彼を見つめた。


レンは、気まずそうに笑った。


「……この argument、頭の中ではもっとよかったんだけどな」


僕は、箱を彼に投げつけることを考えた。


代わりに、床へ置いた。


レンが僕を見る。


「なあ、お前、結構力ついたんじゃないか?」


「バイトで箱を運んでるからな」


「じゃあ、運動部に入ればいいじゃん」


「嫌だ」


「今のは、ずいぶん早かったな」


「箱の経験はある。スポーツの経験はない」


レンは笑った。


僕たちは一緒に学校を出た。

夕方の空気は、昼間よりも冷たくなっていた。

学校周辺の通りには、帰宅する生徒たち、自転車で交差点を通り過ぎる人々、そして遠くから聞こえる車の音が満ちていた。


レンは両手を頭の後ろに回しながら、僕の隣を歩いていた。


「それで、今夜は何するんだ?」


「仕事。」


「だよな。」


「聞いたのはそっちだろ。」


「分かってる。別の答えを期待してたんだよ。」


「期待は危険だ。」


「お前、本当に昔の哲学者みたいな話し方やめろよ。」


「それなら、答えが分かりきっている質問をするな。」


レンは空を見上げた。


「なあ、時々思うんだよ。お前って、四十歳くらいで生まれてきたんじゃないかって。」


「ありえない。」


「なんで?」


「それなら、もっと膝の痛みについて文句を言っていたはずだ。」


レンが大声で笑い出した。


僕は笑わないように努めた。


失敗した。


それがレンの問題だった。


惨めなままでいることを、難しくしてくる。


駅に着くと、僕たちはコンビニの近くで立ち止まった。レンは飲み物を買い、それから僕を見た。


「何か欲しいか?」


「いらない。」


「本当に?」


「ああ。」


レンは窓越しに食品棚を眺めた。


そして、おにぎりを二つ買った。


そのうちの一つを僕に差し出す。


僕はそれを見つめた。


「……何だ、これ?」


「夕飯。」


「夕飯を頼んだ覚えはない。」


「昨日のフライドチキンだって、頼んでなかっただろ。」


「あれは別の事件だ。」


「どういたしまして。」


僕はおにぎりを受け取った。


「いくらだ?」


レンが眉をひそめる。


「いらない。」


「返すことはできる。」


「頼んでない。」


「じゃあ、あとで返す。」


「アキラ。」


「何だ?」


「おにぎりだぞ。」


「金は金だ。」


レンの表情が柔らかくなった。


「じゃあ、贈り物だと思えよ。」


僕は彼を見た。


贈り物は、複雑だった。


贈り物は、単なる物ではない。

好意であり、借りであり、期待であり――少なくとも、僕はそういうものだと理解するようになっていた。


けれど、レンは何かを期待しているようには見えなかった。


ただ、僕に食べてほしいだけだった。


「……ありがとう」


僕がそう言うと、彼は笑った。


「どういたしまして。」


頭上から駅のアナウンスが流れた。


僕の電車は、あと数分で到着するらしい。


レンの帰る方向は僕とは違うため、僕たちは夕方の人波が行き交う駅の入口付近に立っていた。


「なあ」


レンが突然、口を開いた。


「何だ?」


「卒業したら、何がしたい?」


僕は彼を見た。


「生き残る。」


「それは進路じゃないだろ。」


「長期的な目標だ。」


「俺は真面目に聞いてるんだ。」


僕は考えた。


物心ついた頃から、僕の未来は、その場その場で必要になるもののリストだった。


学校を終える。

金を稼ぐ。

食費を払う。

住む場所を見つける。

借金を避ける。


その先にあるものを想像する時間は、ほとんどなかった。


「……分からない」


正直に答えると、レンは驚いたようだった。


「夢はないのか?」


「夢ならある。」


「本当に?」


「ああ。」


「どんな夢?」


僕は彼を見た。


「目覚ましをかけずに十二時間寝ること。」


「それは夢じゃない。医療案件だ。」


「じゃあ、夢はない。」


レンは笑ったが、しばらくすると静かになった。


「俺は旅行したい」


彼が言った。


「どこへ?」


「どこでもいい。東京とか、北海道とか……いつかは外国にも行ってみたい。ネットでしか見たことのない場所を、自分の目で見てみたいんだ。」


「金がかかりそうだな。」


「分かってる。」


「なら、働くべきだ。」


「絶対それを言うと思った。」


「実用的な助言だからな。」


「何もかも実用的である必要はないだろ。」


僕は答えなかった。


レンはしばらく僕を見つめていた。


それから、笑った。


「お前もさ、やりたいからって理由だけで、何かしてみたらいいんじゃないか?」


駅のアナウンスが繰り返された。


僕の電車が近づいていた。


僕は手の中のおにぎりを見下ろした。


「……考えておく。」


レンが僕を指差した。


「それ、もしかして本当に検討するってことか?」


「大げさに言うな。」


電車が到着した。


僕がホームへ向かおうとしたとき、レンが声をかけてきた。


「アキラ!」


僕は振り返った。


「働きすぎるなよ!」


僕は片手を上げた。


「金を無駄遣いするな!」


彼は笑った。


そして、人の波が僕たちの間を通り過ぎた。


僕は電車に乗り、窓際の場所を見つけた。


電車が動き出すと、駅の入口付近にまだ立っているレンの姿が見えた。


彼が手を上げる。


僕もそれに応じて手を上げた。


それは、ごく普通の別れだった。


劇的なものでもない。


記憶に残るようなものでもない。


少なくとも、その時はそう思っていた。


けれど、何年も後――あるいは、まったく別の人生でさえ、僕はその瞬間を思い出すことになる。


駅の明かりの下に立つ少年。


僕の手の中にあるおにぎり。


働きすぎるなと告げてくれた友人。


そして、もしかしたら自分は完全に一人ぼっちではないのかもしれないと感じた、奇妙で一時的な感覚。


翌朝、レンの席は空いていた。


最初、僕はそれほど気にしなかった。


レンは時々遅刻する。以前、二時間目の授業が半分ほど過ぎた頃に、コンビニの朝食を抱え、まるで世界中が個人的に自分へ迷惑をかけたとでも言いたげな顔で登校してきたこともある。


だから、一限目のチャイムが鳴っても彼の椅子が空いたままだったとき、僕は寝坊したのだろうと思った。


二限目のチャイムが鳴ったときも、まだ向かっている途中なのだろうと考えた。


教師が教室に入ってきたときには、いつ扉が開いてもおかしくないと思っていた。


けれど、扉は開かなかった。


僕はレンの机へ目を向けた。


椅子は机の下に収められていた。


教科書は置かれていない。


通学鞄もなかった。


それは珍しいことだった。


レンは多くのことに大雑把だったが、通学鞄を忘れることだけは、ほとんどなかった。


僕はスマートフォンを確認した。


メッセージは来ていない。


チャットを開く。


最後のメッセージは、昨夜のものだった。


レン:働きすぎるなよ!


僕:金を無駄遣いするな!


僕はしばらく、その会話を見つめた。


それから、スマートフォンの画面を閉じた。


きっと風邪でも引いたのだろう。


それだけだ。


人は病気になる。


学校を休むこともある。


それ以外のことを想像する理由なんて、どこにもなかった。


「それでは、教科書を出してください。」


教師が授業を始めた。


僕も教科書を開いた。


けれど、意識は何度も空いた席へと向かってしまった。


---


昼休みになっても、レンは来なかった。


僕は机に昼食を置いたまま、席に座っていた。


教室は、いつも通り騒がしかった。


生徒たちは宿題やゲーム、週末の予定、そして近づいているテストについて話していた。誰かが、食堂でお気に入りのメニューが売り切れていたと文句を言っている。


ありふれた会話。


ありふれた問題。


僕はもう一度、レンの空いた席を見た。


「本当に病気なのかもな……」


僕が呟くと、近くにいた生徒が聞き返した。


「誰が?」


「レン。」


「ああ、高橋?」


「ああ。」


「聞いてないのか?」


僕は彼の方を向いた。


「何を?」


生徒の表情が変わった。


一瞬、どう続ければいいのか分からないような顔をした。


「……事故があったんだ。」


教室の騒音が消えたわけではない。


けれど、なぜか、それらの音が遠くなったように感じた。


「どんな事故だ?」


「昨日の夕方、車にはねられたらしい。」


僕は彼を見つめた。


その言葉は、確かに耳へ入ってきた。


一つ一つの単語の意味も理解できた。


けれど、それらを合わせた途端、意味を成さなくなった。


「……何?」


「駅の近くで道路を渡っていたときだと思う。詳しいことは全部知らないけど。」


僕は、彼が笑い出すのを待った。


けれど、彼は笑わなかった。


誰かが冗談だと言うのを待った。


誰も何も言わなかった。


「病院にいるのか?」


僕が尋ねると、生徒は視線を落とした。


「……助からなかったって聞いた。」


世界が静かになった。


本当の意味で静かになったわけではない。


教室には、相変わらず声が満ちていた。


誰かが飲み物を開けている。


椅子が床を擦る音がする。


隣の教室では、教師が大きな声で話している。


けれど、それらすべての音が、僕から遠ざかっていくようだった。


助からなかった。


僕はレンの机を見つめた。


椅子はそこにある。


机もそこにある。


昨日と何も変わらない場所に、すべてが置かれている。


そんなはずがない。


人が教室から消えたのに、それ以外のすべてが何事もなく残っているなんて、ありえない。


「誰から聞いたんだ?」


僕は尋ねた。


「近所の友達から。」


「本当なのか?」


「……たぶん。」


「たぶん?」


自分の声が、妙に聞こえた。


鋭すぎる声だった。


生徒は気まずそうな顔をした。


「悪い、中村。お前は知ってると思って……」


僕は答えなかった。


もう一度、スマートフォンを取り出した。


指先が冷たく感じられた。


レンとのチャットを開く。


僕は文字を打った。


――大丈夫か?


メッセージを見つめる。


それから、削除した。


もう一度、打つ。


――どこにいる?


それも削除した。


最後に、僕は送信した。


――レン?


メッセージは、最後の会話の下に表示された。


送信済み。


返事はない。


僕は画面を見つめ続けた。


一分が過ぎた。


さらに、もう一分。


僕は自分に言い聞かせた。


彼は眠っているのだ。


スマートフォンの電源を切っているだけだ。


何か誤解があったのだ。


僕は、いくつものことを自分に言い聞かせた。


けれど、そのどれも答えにはならなかった。


---


教師は、午後の授業も普段通りに続けると告げた。


普段通り。


その言葉は、ほとんど侮辱のように感じられた。


どうして何もかも、普段通りに続けられる?


レンは僕の後ろの席に座り、ペンで僕の頭を叩いてくるはずだった。


数学について文句を言うはずだった。


僕が宿題を終えたかどうか、尋ねるはずだった。


放課後になれば、また意味のないメッセージを送ってくるはずだった。


明日も、そこに存在しているはずだった。


僕は空いた席を見つめた。


窓から差し込む陽光が、その表面を横切っていた。


レンが僕の弁当箱にフライドチキンを入れてくれたことを思い出した。


――食えよ。


駅の外に立っていた彼を思い出した。


――働きすぎるなよ!


彼の声を思い出した。


彼の笑い声。


くだらない言い争い。


腹立たしいほどの優しさ。


僕は俯いた。


目の前の教科書がぼやけていく。


瞬きをした。


一度。


二度。


それでも、文字は読めなかった。


僕は指で目元を押さえ、その感覚が過ぎ去るのを待った。


けれど、消えなかった。


何年ぶりかに、僕は誰に気づかれるかなど気にせず、教室を出ていきたいと思った。


それでも、僕は席に座り続けた。


ほかにどこへ行けばいいのか、分からなかった。


---


放課後、僕は一人で駅へ向かった。


慣れた道だった。


同じ通り。


同じ建物。


同じ信号。


色褪せた広告の下に置かれた、同じ自動販売機。


すべてが、昨日とまったく同じに見えた。


それが、何よりも残酷だった。


世界は変わっていない。


ただ、一人だけがいなくなっていた。


僕は、レンが僕におにぎりを買ってくれたコンビニの近くで立ち止まった。


自動ドアが開いては閉じる。


人が入っていく。


人が出てくる。


飲み物売り場の近くでは、学生の集団が笑っていた。


僕は外に立ち、ガラス越しに店内を見つめた。


それから、店に入った。


食品棚まで歩き、おにぎりを眺める。


いくつもの種類が並んでいた。


鮭。


ツナマヨネーズ。


梅干し。


レンが僕に何も聞かず、二つ買ってくれたことを思い出した。


僕は一つに手を伸ばした。


そして、止まった。


手を下ろす。


それを食べることを考えただけで、胸が痛くなった。


僕は何も買わずに店を出た。


外では、夕暮れの空が少しずつ暗くなり始めていた。


スマートフォンは、沈黙したままだった。


それでも、僕はまた確認した。


メッセージはない。


不在着信もない。


何もなかった。

僕は駅の明かりの下に立ち、周囲を行き交う人々を見つめていた。


誰もが、どこかへ向かっている。


誰もが、会う相手を待っている。


誰もが、それぞれの人生を前へ進めているように見えた。


僕はスマートフォンを下ろした。


「……何かあったら教えるって、言ってただろ」


その言葉は、街の喧騒の中へ消えていった。


返事はなかった。


祖父が亡くなって以来、初めて、あの馴染み深い空虚さが戻ってきた。


けれど、今回は違っていた。


祖父は、僕を育ててくれた人だった。


レンは、僕がまだ世界の一部なのだと、思い出させてくれた人だった。


そして今、その二人ともいなくなった。


僕は夕暮れの空を見上げた。


雲がゆっくりと、最後の光を覆っていく。


「……馬鹿野郎、レン」


声が震えた。


「金を無駄遣いするなって、言っただろ」


僕は唾を飲み込んだ。


「なのに、どうして命を無駄にしたんだよ……?」


言葉が口からこぼれた瞬間、僕は後悔した。


僕は俯いた。


そして、長い間なかったことだが、見知らぬ人々に見られる場所で、僕は泣いた。


---


レンの葬儀から、数週間が過ぎた。


僕が何も期待しなくなっても、日々は進み続けた。


朝が来る。


授業が終わる。


太陽が昇り、そして沈む。


人々は廊下で笑い、宿題への不満を口にし、週末の予定を立て、来年になればきっと重要ではなくなっているようなことで言い争っていた。


僕は、それらすべてを少し離れた場所から眺めていた。


誰かを嫌っていたわけではない。


ただ、ほかの人々が暮らしているように見える場所へ、どう戻ればいいのか分からなかった。


僕の日課は、以前よりもさらに単純になっていた。


学校。


仕事。


家。


睡眠。


繰り返し。


時々、これが大人になるということなのかもしれないと思った。


もっとも、それを確かめられるほど長く生きるつもりもなかったが。


「ねえ、中村」


背後から声がした。


僕は書く手を止めた。


午後の授業の途中だった。教師は、難しい数学の範囲について説明を始めたばかりだった。僕は目の重さと戦いながら、黒板の数式を書き写そうとしていた。


僕は少しだけ振り返った。


一人の女子生徒が、僕の机の横に立っていた。


彼女は僕の二つ前の列、窓際の席に座っている。


もちろん、顔は知っていた。同じクラスになってから、もう何か月も経っている。


けれど、誰かの顔を知っていることと、その人自身を知っていることは、まったく別の話だった。


彼女は胸の前にノートを抱えていた。


「昨日の授業、休んでたよね?」


僕は瞬きをした。


「昨日?」


「授業の最後の方、いなかったでしょ。」


「いた。」


「身体はね」


彼女は言った。


「でも、目を開けたまま寝てた。」


一瞬、どう返せばいいのか分からなかった。


やがて、彼女は笑った。


馬鹿にするような笑い方ではない。


ほんの少しだけ、という感じだった。


「ノート、写しておいたから。よかったら貸すよ。」


彼女は僕の机にノートを置いた。


僕はそれを見下ろした。


字は整っていて、内容もきちんと整理されていた。重要な公式には下線が引かれ、例題の横には簡単な説明まで書かれている。


僕がこれまで作ったどんなノートよりも、ずっと読みやすかった。


「そこまでしなくていい。」


「分かってる。」


「じゃあ、どうして?」


彼女は首を傾げた。


「必要そうに見えたから。」


その答えは、何よりも僕を困惑させた。


人は普通、何か見返りを求めるものだ。


金。


頼みごと。


注目。


謝罪。


親切でさえ、見えない代価を伴うことが多い。


けれど、彼女はまるで、雨の日に傘を貸すくらい簡単なことのように言った。


僕はもう一度、ノートを見た。


「本当にいいのか?」


「もちろん。ただし、何かこぼさないでね。」


「授業中に飲み物は飲まない。」


「それなら問題ないね。」


彼女は立ち去ろうとしたが、一歩進んだところで足を止めた。


「あ、それと、二問目の答えはマイナス三だよ。」


僕は黒板を見た。


もう五分近く、同じ数式を見つめていた。


「……僕は十二になった。」


彼女は笑いをこらえるように口元を覆った。


「それなら、絶対にノートを借りた方がいいね。」


僕は彼女が席へ戻っていくのを見ていた。


なぜか、教師に名前を呼ばれるまで、彼女の後ろ姿を目で追い続けていた。


「中村。ずいぶん授業に興味があるようだな。次の問題を解いてみろ。」


教室が静かになった。


僕は立ち上がり、黒板へ向かい、数式を解いた。


答えはマイナス三だった。


何人かの生徒が小さく笑った。


僕は何も言わずに席へ戻った。


座ると、彼女がこちらを振り返った。


そして、小さく親指を立てた。


僕は視線を逸らした。


なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。


---


授業が終わると、僕は彼女にノートを返した。


「ありがとう。」


「どういたしまして。」


「重要なところは写した。」


「もう?」


「書くのは速い。」


「紙が消えてしまうのを怖がっている人みたいな字だね。」


僕は自分のノートを見た。


文字は詰め込まれ、歪んでいて、使えるスペースすべてに押し込まれていた。


「紙を無駄にしたくない。」


彼女はしばらく僕を見つめた。


それから、表情を柔らかくした。


「中村って、本当に変わってるね。」


「よく言われる。」


「悪口のつもりじゃないよ。」


「分かってる。」


僕たちの間に流れる沈黙は、気まずくなかった。


それが意外だった。


ほとんどの会話は、僕を疲れさせる。


何を言うべきか。

どれくらい目を合わせるべきか。

いつならその場を離れても不自然ではないか。


僕はいつも、そんなことを計算していた。


けれど、彼女との間では、沈黙はただそこに存在していた。


彼女は教室の扉へ目を向けた。


「今日も仕事?」


僕は彼女を見た。


「どうして知ってる?」


「いつも放課後になると、すぐに帰るから。それに、時々コンビニの食べ物みたいな匂いがするし。」


「ずいぶん具体的な観察だな。」


「それに、いつも疲れて見える。」


「平気だ。」


彼女は少し眉をひそめた。


「それ、よく言うよね。」


「大抵は本当だから。」


「大抵?」


僕は答えなかった。


彼女は、少し踏み込みすぎた質問だったと気づいたらしい。


「ごめん。答えなくてもいいよ。」


「謝る必要はない。」


彼女は頷き、それからまた笑った。


「そういえば、私の名前は白崎美優。よろしくね。」


僕は彼女を見つめた。


彼女が眉を上げる。


「私たち、もうすぐ一年近く同じクラスなんだけど。」


「名前は知ってる。」


「じゃあ、どうして今まで名前で呼んでくれなかったの?」


「普段、人を名前で呼ばない。」


「変な習慣だね。」


「それもよく言われる。」


彼女は小さく笑った。


小さな声だった。


ありふれていて。


温かかった。


どうしてそんなことに気づいたのか、僕には分からなかった。


「美優」


僕は、その名前を試すように口にした。


彼女の笑みが大きくなる。


「ほら、呼べるじゃん。」


「そうみたいだな。」


「じゃあ、また明日ね、中村。」


「また明日。」


彼女は教室を出ていった。


僕はしばらく席に座ったまま、目の前のノートを見つめていた。


特別なことが起きたわけではない。


クラスメイトがノートを貸してくれた。


いくつか冗談を言った。


僕が疲れているかどうか尋ねた。


それだけだった。


それなのに、何かが僕の中に残っていた。


---


その日の夕方、コンビニでのシフトを終えた僕は、いつもより遅く帰宅した。


アパートは暗かった。


僕は明かりをつけ、壁際に鞄を置き、安い食事を温めた。


部屋に、かすかなカレーの匂いが広がる。


僕は小さなテーブルに座った。


向かい側には、空いた椅子があった。


祖父が使っていた椅子だ。


何年もの間、僕は何も考えずに、その椅子へ話しかけていた。


「ただいま。」


「おはよう。」


「行ってくる。」


最近は、やめていた。


誰かが聞いているふりを続ける理由など、なかったからだ。


僕は数学の教科書を取り出すために、通学鞄を開いた。


美優のノートが、まだ中に入っていた。


返すのを忘れていた。


一瞬、翌朝学校へ持っていこうかと考えた。


そのとき、最後のページに小さなメモが貼られていることに気づいた。


――まだ二問目が分からなかったら、私に聞いてね。


僕は、その言葉を見つめた。


要求はない。


期待もない。


隠された条件もない。


ただの誘いだった。


僕はノートを丁寧に閉じた。


その時の僕は、それを小さな親切にすぎないと思っていた。


小さな親切が、危険なものになり得るなんて知らなかった。


傷つけるからではない。


誰かが温かさを見せてくれると、自分の世界がどれほど冷たかったのかに気づき始めてしまうからだ。


---


翌朝、僕は一限目のチャイムが鳴る前に、美優のノートを返した。


彼女が教科書を整理しているところへ、僕はノートを置いた。


「これ、忘れてた。」


彼女が顔を上げる。


「ああ、そうだった。どこに置いたのかと思ってた。」


「僕の鞄の中。」


「それは怪しいね。」


「盗んだわけじゃない。」


「盗んだなんて言ってないよ。」


「そういう意味に聞こえた。」


美優は笑いながらノートを開き、ページを確認した。


「全部あるね。」


「傷つけないと言っただろ。」


「分かってる。冗談だよ。」


「そうか。」


「中村って、冗談に返すの苦手だよね。」


「必要なときは返している。」


「それ、人生哲学?」


「たぶん。」


彼女は声を押し殺すように笑った。


僕は会話が続く前に、自分の席へ戻った。


けれど、午前中ずっと、窓の方へ視線を向けてしまっていた。


ずっとではない。


時々だ。


少なくとも、僕はそう自分に言い聞かせていた。


---


昼休み、僕はいつものように一人で過ごしていた。


学校の売店で一番安いパンを買い、スマートフォンで勤務表を確認しながら食べていた。


店長からメッセージが届いていた。


――今日の夕方のシフト、代わってもらえる?


僕は頭の中で時間を計算した。


引き受ければ、仕事が終わるのは九時を過ぎる。


宿題もある。


洗濯もある。


週末までに提出しなければならないレポートもある。


けれど、断れば数時間分の給料を失う。


僕は返信を打った。


――はい。働けます。


「それ、お昼ご飯?」


顔を上げると、美優が僕の机の横に立っていた。


手には弁当箱を持っている。


「ああ。」


「それ、食事とは言いにくいよ。」


「カロリーは含まれている。」


「そういうことを聞いてるんじゃないんだけど。」


「十分だ。」


彼女は僕の手にあるパンを見て、眉をひそめた。


それから、僕の机の隣にある空いた椅子へ座った。


僕は彼女を見つめた。


「何か用か?」


「ないよ。」


「じゃあ、どうして座る?」


「空いてる椅子があるから。」


「それでは説明になっていない。」


「もっと複雑な理由が必要?」


僕には答えられなかった。


彼女は弁当箱を開いた。


中には、ご飯、焼き魚、野菜、そして卵焼きが入っていた。


その匂いで、自分が思っていたよりも空腹だったことに気づいた。


美優は、僕の視線が弁当箱へ向いたのを見逃さなかった。


「少し食べる?」


「いや。」

「何を差し出すつもりなのか、まだ聞いてないんだけど。」


「食べ物だろ。」


「じゃあ、ちゃんと理解してるじゃん。」


「僕は平気だ。」


「いつもそう言うよね。」


「君もいつもそれを指摘する。」


「だって、いつもそう言うから。」


彼女は箸で卵焼きを一切れつまみ、僕の方へ差し出した。


僕は反射的に身を引いた。


「何をしてる?」


「食べ物を勧めてるの。」


「どうしてそんな持ち方をする?」


「机に置いたら、断るかもしれないでしょ。」


「今、断ってる。」


「じゃあ、私が食べるね。」


彼女は卵焼きを口に入れ、考え込むように咀嚼した。


僕は視線を逸らし、パンをもう一口かじった。


数秒後、彼女が再び口を開いた。


「ねえ、誰かから何かを受け取ることは、別に弱いことじゃないよ。」


「そんなこと、一度も言ってない。」


「全部を口に出して言う必要はないでしょ。」


僕は噛むのを止めた。


彼女の口調には、責めるような響きがなかった。


だからこそ、適当に聞き流すことが難しかった。


僕は彼女を見た。


彼女はまだ昼食を食べていて、意識は弁当箱に向いているようだった。


「普通、人は何かをただで渡したりしない」


僕は言った。


「食べ物はただじゃないよ。両親が買ってくれたものだし。」


「そういう意味じゃない。」


「分かってる。」


彼女は少し黙った。


それから、弁当箱の縁に箸を置いた。


「人を助けたいから助けることだってあるよ。」


僕は何も言わなかった。


「理由なんて必要ないこともある。」


「非効率的だな。」


「何もかも効率的である必要はないよ。」


僕は手元のパンへ視線を落とした。


人生のほとんどの時間、僕が頼りにできたのは効率だけだった。


仕事は、給料に見合うものでなければならない。


食べ物は、安くなければならない。


時間は、慎重に使わなければならない。


必要なら、睡眠さえ犠牲にしなければならない。


けれど、親切というものは、僕の理解できるどんな計算にも当てはまらなかった。


美優は弁当箱を閉じた。


「とにかく、今夜はちゃんとしたものを食べた方がいいよ。」


「夕飯はある。」


「何?」


「コンビニのカレー。」


「そういう意味じゃないんだけど。」


「ご飯は入ってる。」


彼女はため息をついた。


「中村って、本当にどうしようもないね。」


「そう言われたことはある。」


「ほかに返事はないの?」


「たぶん、ある。」


彼女は首を振った。


けれど、笑っていた。


そのとき、教室の扉が開いた。


何人かの生徒が、近づいている学校行事について大声で話しながら入ってきた。


その中に、見覚えのある男子生徒がいた。


背が高く、身だしなみが整っていて、特に努力しているようには見えないのに、いつも人に囲まれている。


成績はよく、バスケットボール部に所属し、教師たちから褒められることも多い。


彼の名前は、森山海斗。


僕は、教室で交わす簡単な挨拶以外に、彼と話したことはなかった。


美優は、すぐに彼に気づいた。


彼女の表情が変わった。


ほんのわずかな変化だった。


姿勢が伸び、視線が必要以上に半秒ほど長く、彼の後を追った。


「海斗」


美優が声をかける。


男子生徒が振り返った。


「ああ、白崎。」


「放課後の委員会、来る?」


「ああ。たぶん。」


「行事の書類、持ってきてくれる? 確認したいことがあるの。」


「分かった。持ってくるよ。」


「ありがとう。」


「いいよ。」


彼は美優に笑いかけてから、自分の席へ向かった。


美優は彼が去っていくのを見ていた。


それから、僕へ視線を戻す。


「何?」


「別に。」


「見てるでしょ。」


「見てない。」


「見てるよ。」


「そっちの方向を見ていただけだ。」


「それを別の言い方で言えば、見てたってことだよね。」


僕はスマートフォンへ意識を戻した。


美優は首を傾げた。


「私に何か用があった?」


「ない。」


「じゃあ、どうして急に黙ったの?」


「僕は最初から静かだった。」


「それもそうだね。」


彼女は立ち上がり、弁当箱を手に取った。


「じゃあ、またあとでね、中村。」


「ああ。」


彼女は自分の席へ向かって数歩歩いた。


それから、振り返った。


「あ、それと、夕飯を食べるの忘れないでね。」


「忘れない。」


「パン以外のものをね。」


「考えておく。」


「それ、食べないって意味でしょ。」


「考えておくという意味だ。」


彼女は疑わしそうな目を僕へ向けてから、自分の席へ戻った。


僕はしばらく彼女を見ていた。


それから、海斗の方へ視線を向けた。


彼は二人のクラスメイトと話しながら、そのうちの一人が言ったことに笑っていた。


美優が、もう一度彼の方を見た。


今度は、僕にも分かった。


どうして彼女があんなふうに海斗を見ていたのか、僕には分からなかった。


そして、どうしてその小さなことが、昼休みが終わった後もずっと頭に残っていたのかも、分からなかった。


---


その日の夕方、仕事中に僕は飲み物を補充していて、ミスをした。


何本かのボトルを間違った棚に置いてしまい、並べ直さなければならなくなった。


店長がそれを指摘した。


「アキラ、今日は何だか上の空だな。」


「すみません。すぐ直します。」


「疲れてるのか?」


「はい。」


「なら、できるときにちゃんと休めよ。」


「そうします。」


けれど、働いている間も、僕の意識は教室へ戻ってしまった。


美優の笑顔。


彼女の声。


海斗を見ていたときの、彼女の表情。


どうして、それらのことが気になるのか、僕には説明できなかった。


彼女は、ただのクラスメイトだ。


親切なクラスメイト、といったところだろう。


ノートを貸してくれて、昼食を分けてくれた人。


それだけだ。


少なくとも、僕はそう自分に言い聞かせていた。


ようやく帰宅した僕は、鞄をテーブルの横に置き、腰を下ろした。


アパートは静まり返っていた。


僕は向かい側にある空いた椅子を見つめた。


そして、何気なく想像した。


美優がそこに座り、僕の夕飯に文句を言いながら、もっと健康的なものを食べろと説教している姿を。


その想像はあまりにも鮮明で、僕は思わず笑いそうになった。


笑いそうに、なっただけだった。


僕はすぐに視線を逸らした。


「……僕は何をしてるんだ?」


言葉は、誰もいない部屋の中へ消えていった。


答えはなかった。


ただ、長い間なかったことだけは分かっていた。


誰かの存在が、僕と一緒に家までついてきたのだ。


そして僕は、その存在に、ここにいてほしいとどれほど願っているのかを、恐れ始めていた。


---


その後数日間、美優は僕の机の近くに、以前よりも頻繁に現れるようになった。


毎日ではない。


ただ、僕が気づく程度には頻繁に。


時には、課題を終えたかどうか尋ねてきた。


時には、天気について文句を言った。


一度など、消しゴムを借りたまま、週の終わりまで返すのを忘れていた。


「五日間も持ってたのか」


僕は消しゴムを掲げて言った。


美優はそれを見た。


「ああ。自分のだと思ってた。」


「僕の名前が書いてある。」


彼女は側面を確認した。


「あ、本当だ。」


「どうして自分のものと間違えた?」


「私の消しゴムとよく似てるから。」


「僕のには名前が書いてある。」


「それ、さっきも聞いたよ。」


彼女は僕の手から消しゴムを取り、自分の机の上に置いた。


「明日返すね。」


「今度はわざとやってるだろ。」


「そうかもね。」


彼女の笑顔を見ていると、冗談なのかどうか判断しづらかった。


僕は昔から、人の意図を理解するのが得意ではなかった。


けれど、彼女の意図には、少しずつ慣れてきていた。


美優は話すのが好きだった。


質問するのが好きだった。


沈黙が気まずくなる前に、そこへ言葉を埋めるのが好きだった。


そして、理由は分からないが、彼女は僕を、話す価値のある相手だと決めたらしい。


僕には、それにどう応じればいいのか分からなかった。


だから、答えられる質問には答えた。


答えられないときは、ただ聞いていた。


それで十分だったらしい。


---


ある日の午後、担任教師が、翌週から学校祭の準備を始めると発表した。


何人かの生徒が、すぐに委員会や役割について話し始めた。


僕は顔を伏せた。


学校祭には時間が必要だ。


僕には、その時間がなかった。


「中村」


教師が呼んだ。


僕は顔を上げた。


「お前は装飾委員会だ。」


僕は教師を見つめた。


「どうしてですか?」


「出席率がよく、成績も安定していて、ほかの仕事に立候補していないからだ。」


「それは十分な理由とは思えません。」


「学校という環境では、十分な理由だ。」


何人かの生徒が笑った。


僕はため息をついた。


「最初の集まりはいつですか?」


「明日の放課後だ。」


僕は仕事の予定を計算した。


明日は、すでに長めのシフトが入っている日だった。


「参加できないかもしれません。」


教師は眼鏡を直した。


「それなら委員長に伝えて、自分の担当を調整しなさい。」


言うのは簡単だ。


授業が終わった後、僕はほとんどの生徒が帰るのを待ってから、委員会の掲示板へ向かった。


教室の扉の近くに、手書きの名簿が貼り出されていた。

装飾委員会委員長:白崎美優。


僕はその名前を見つめた。


もちろん、そうなるよな。


「あなたも委員会なの?」


背後から彼女の声が聞こえた。


僕は振り返った。


美優は色紙の束と、いくつかのファイルを抱えていた。


「どうやらな。」


彼女は名簿を見た。


「あ、よかった。私たち一緒だね。」


「それはよかったとは思えないな。」


「どうして?」


「僕は、装飾が特別得意なわけじゃない。」


「紙を切れる?」


「ああ。」


「箱を運べる?」


「ああ。」


「指示に従える?」


「たいていは。」


「じゃあ、合格。」


「基準が低すぎないか?」


「学校祭だよ。国家規模の計画じゃないんだから。」


彼女は色紙の半分を僕に渡した。


僕は反射的に受け取った。


「明日の集まり、参加できる?」と彼女が尋ねた。


「仕事がある。」


「あ……」


彼女は一瞬だけ、残念そうな顔をした。


「何時から?」


「四時。」


「じゃあ、最初の三十分だけ来られるね。」


「四時前には出ないといけない。」


「集まりは三時半に終わるよ。」


「そこから移動する時間が必要だ。」


「どこで働いてるの?」


「難波の近く。」


「学校からそんなに遠くないじゃん。」


「時間はかかる。」


美優は静かに僕を見つめた。


それから、頷いた。


「分かった。無理に来なくていいよ。」


僕は彼女が言い返してくると思っていた。


けれど、彼女は何も言わなかった。


それが、なぜか余計に気分を悪くさせた。


「……少しなら参加できる」


僕が言うと、彼女の目が明るくなった。


「本当?」


「ああ。三十分だけ。」


「じゃあ、重要なことは最初に終わらせるね。」


「僕のために予定を変えるな。」


「私、委員長だから。好きにしていいの。」


「それは無責任に聞こえる。」


「じゃあ、責任を持って無責任になるね。」


僕は彼女を見た。


彼女はにやりと笑った。


僕は、顔に浮かびかけた小さな笑みを見られる前に、視線を逸らした。


---


翌日の午後、僕は委員会の集まりに参加した。


全部で八人の生徒がいた。


ほとんどの生徒は活気に満ちていて、すぐに横断幕や装飾、教室の展示について意見を出し始めた。


僕はテーブルの端に座り、黙々と備品を整理していた。


美優は一枚の紙を手に、前に立っていた。


「入口を夜空のテーマにするのはどう?」


「難しそう」と誰かが言った。


「折り紙で星を作ればいいんじゃない?」


「それはもっと難しそう。」


「ほかの生徒にも手伝ってもらえばいいよ。」


「それは仕事が増えるだけでは?」


美優は腰に手を当てた。


「みんな、学校祭は楽しむためのものだよ。」


「楽しさは主観的だ。」


僕が口を挟むと、部屋が一瞬静かになった。


美優が僕の方を向く。


「協力してるの? それとも批判してるの?」


「両方。」


何人かの生徒が笑った。


美優は僕を指差した。


「じゃあ、星を作る係は中村ね。」


僕はすぐに、口を挟んだことを後悔した。


「どうして?」


「紙の扱いに慣れてるから。」


「コンビニで時々、紙を切ってるだけだ。」


「それで十分だよ。」


「絶対に十分じゃない。」


けれど、美優はすでに作業分担表へ僕の名前を書き込んでいた。


僕は時計を見た。


三時十五分。


そろそろ出なければならない。


美優がそれに気づいた。


「必要なら、いつでも帰っていいよ。」


「これを終わらせてから帰る。」


「無理しなくていいのに。」


「分かってる。」


彼女は少し黙った。


それから、微笑んだ。


「ありがとう。」


その言葉は、単純なものだった。


それでも、僕の内側で何かが動いた。


劇的なものではない。


嵐が突然ぶつかってくるようなものでもない。


忘れていた部屋のどこかで、扉が開くような感覚だった。


僕は帰る前に、紙の星をいくつか折り終えた。


立ち上がると、美優は僕の隣に積まれた小さな山を見た。


「意外と上手だね。」


「指示に従っただけだ。」


「それだけじゃないよ。」


「指示が明確なら、同じことだ。」


彼女は星を一つ手に取った。


「これ、少し歪んでる。」


「急いでいたからな。」


「かわいいよ。」


「不良品だ。」


「完璧じゃないものが、全部不良品とは限らないよ。」


僕は答えなかった。


彼女はもう一度、紙の星を見た。


それから、ほかの星の上に丁寧に置いた。


「これは私がもらうね。」


「そうする必要はない。」


「分かってる。」


また、その答えだった。


僕にノートを貸してくれたとき。


食べ物を勧めてくれたとき。


僕の隣に座ることを選んだとき。


分かってる。


彼女は、そうする必要がないことを知っていた。


それでも、そうしていた。


僕はその言葉を背負うように、廊下を歩いて教室を出た。


外の空気は冷たかった。


校庭には、部活や活動の準備をしている生徒たちが大勢いた。


開いた窓からは、彼らの声が流れてくる。


靴が舗道を踏む音も混ざっていた。


スマートフォンが振動した。


店長からのメッセージだった。


――今日は遅れるなよ。


僕は短く返信し、駅へ向かって歩き始めた。


背後から、誰かが僕の名前を呼んだ。


「中村!」


振り返ると、学校の入口付近に美優が立っていた。


手には、あの歪んだ紙の星を持っている。


「これ、忘れてるよ!」


「忘れてない。君が持っていくって言っただろ。」


「じゃあ、返すね。」


「どうして?」


彼女は星を差し出した。


「だって、これはあなたのだから。」


僕は紙の星を見た。


折り目は不揃いで、先端の一つが少し横へ傾いている。


美しいものではない。


価値のあるものでもない。


ただの小さな紙切れだった。


それでも、僕は受け取った。


「ありがとう。」


美優が笑った。


「また明日ね。」


「ああ。また明日。」


僕は駅へ向かって歩き続けた。


紙の星は、教科書と仕事用の制服の間、通学鞄の中に収まっていた。


あとで捨てよう。


僕はそう自分に言い聞かせた。


けれど、捨てなかった。


その夜、僕はそれをベッド脇の小さなテーブルに置いた。


そして眠りにつく前に、もう一度だけ眺めた。


僕はまだ、胸の中で育ち始めた感情に名前をつけられなかった。


けれど、それが彼女と関係していることだけは、少しずつ理解し始めていた。


---


紙の星は、三日間、僕の机の上に置かれ続けた。


捨てるつもりだった。


それが最初の予定だった。


実用性はない。


場所もほとんど取らない。


安い色紙で作られていて、いずれ形も崩れていくだろう。


持っておく理由などなかった。


それでも、毎朝、学校へ行く前に僕はそれに気づいた。


そして毎晩、仕事から帰ると、同じ場所へ戻していた。


やがて僕は、それが一時的なものだと偽るのをやめた。


「まだ持ってたんだ。」


美優の声が、僕の思考を遮った。


僕は教科書から顔を上げた。


彼女は僕の机の横に立ち、筆箱の近くに置かれた小さな紙の星を見つめていた。


「何?」


「その星。」


僕は視線を落とした。


「ああ。」


「まだ持ってるんだね。」


「ただの紙だ。」


「そういうことを聞いてるんじゃないよ。」


「捨ててない。」


「そこに気づいたの。」


彼女は笑った。


僕は教科書へ視線を戻した。


「無駄にするのはよくないと思った。」


「そうだね。」


「まだ使えるものを捨てるのは、無責任だからな。」


「何に使うの?」


僕は黙った。


答えはなかった。


美優は身を寄せ、紙の星を観察した。


「毎日、机に置いてるの?」


「違う。」


「嘘だ。」


「時々置いている。」


「つまり毎日だね。」


「決めつけだ。」


「かなり合理的な決めつけだよ。」


彼女は星を指先でそっとつまんだ。


「残してくれて、嬉しい。」


僕は彼女を見た。


「どうして?」


「だって、私があなたと一緒に作ったものだから。」


「ほとんど君が作っただろ。」


「あなたも紙を折ったよ。」


「君の指示に従っただけだ。」


「それでも、作ったことには変わらないよ。」


彼女は星を僕の机へ戻した。


しばらく、僕たちは何も話さなかった。


それから、彼女が尋ねた。


「今日の放課後、暇?」


「いや。」


「まだ考えてもいないのに。」


「仕事がある。」


「そうだよね。」


彼女の声が、少しだけ小さくなった。

気づいていた。


「何が?」


「何でもない」


「それって、だいたい何かある時の言い方だよね」


彼女は小さくため息をついた。


「文化祭の飾り付け、終わらせないといけないの。星の飾りを手伝ってもらえたらと思ってたんだけど」


「明日なら少しできるよ」


「明日は、みんな教室の展示で忙しいの」


「それが終わった後なら手伝える」


「毎日働いてるの?」


「ほとんどね」


「たまには休まないの?」


「必要になったら」


「その必要って、いつ?」


「ちゃんと働けないくらい疲れた時」


美優は眉をひそめた。


「それって、休んでるっていうより限界に達してるだけじゃない?」


「結果的には休めてるよ」


彼女はしばらく、じっと僕を見つめていた。


「ねえ。いつも自分を機械みたいに扱わなくてもいいんだよ」


僕は答えなかった。


その言葉は、彼女が思っていた以上に深く突き刺さった。


機械には家族なんて必要ない。


機械には友達なんて必要ない。


機械には、帰りを待ってくれる誰かなんて必要ない。


機械に必要なのは、ただ動き続けることだけだ。


「自分を機械みたいに扱ってるつもりはないよ」


僕はそう言った。


「じゃあ、何みたいに扱ってるの?」


視線を教科書へ落とす。


「……分からない」


美優の表情が、少しだけ柔らかくなった。


珍しく、彼女は冗談でごまかそうとはしなかった。


それ以上、何かを言う前にチャイムが鳴った。


彼女は自分の席へ戻っていく。


僕は、紙の星を見つめた。


歪んだ先端が、窓の方へ傾いている。


午後の授業中、僕はなかなか集中できなかった。


先生の声が教室中を漂い、近代文学について何かを説明している。


僕はノートを写し、指名されれば答え、適切なタイミングでページをめくった。


けれど、思考は何度も美優の質問へ戻ってしまう。


――自分を、何みたいに扱ってるの?


そんなこと、考えたこともなかった。


僕はあまりにも長い間、生き残ることだけを考えてきた。


そのせいで、生き残った先に何かがあるはずだということを、忘れてしまっていた。


放課後、僕は鞄に荷物を詰めて立ち上がった。


美優は教室の出入り口付近で、海斗と話していた。


文化祭の飾り付けについて話し合っているらしい。


海斗は印刷されたデザイン案を何枚か持ち、美優はその中の一つを指差していた。


「これは入り口の近くに置いた方がいいかもしれないね」


「うん、俺もそう思う。色が見やすいし」


「海斗って、こういうの得意だよね」


「パソコンの使い方を知ってるだけだよ」


「それだけでも、私よりずっとすごいよ」


海斗が笑った。


美優もつられて笑う。


僕と一緒にいる時と同じ笑い方だった。


けれど、なぜか違って聞こえた。


あるいは、違って聞こえていたのは僕の方なのかもしれない。


僕は視線を逸らし、鞄の肩紐を直した。


二人の横を通り過ぎようとした時、美優が僕に気づいた。


「中村くん」


僕は足を止めた。


「帰るの?」


「うん」


「仕事?」


「うん」


彼女は頷いた。


「頑張ってね」


「ありがとう」


海斗が僕を見る。


「また仕事?」


「らしいね」


「うわ、それは大変そうだな」


「まあ、何とかなるよ」


海斗は同情するように笑った。


「たまにはゆっくりした方がいいぞ」


僕は、危うく笑いそうになった。


その忠告には、聞き覚えがあった。


「……そうかもね」


美優が僕を見る。


一瞬、言葉にならない何かが、僕たちの間を通り過ぎた。


そして、僕は教室を出た。


外へ出ると、空はオレンジ色に染まり始めていた。


校庭は夕方の日差しに照らされ、風が部活動に励む生徒たちの遠い声を運んでくる。


僕は駅へ向かって歩き出した。


途中で、夕食を買い忘れていたことに気づいた。


財布を確認する。


コンビニで割引された弁当を買うくらいのお金は残っていた。


僕は店の入り口で足を止めた。


しかし、中へ入る前にスマートフォンが振動した。


美優からのメッセージだった。


『昨日、ちゃんと家に帰れた?』


僕は画面を見つめた。


何でもない質問だった。


あまりにも普通すぎて、逆におかしいくらいの質問。


こんなことを聞かれたのは、ずいぶん久しぶりだった。


僕は文字を打ち込む。


『まだ帰ってないよ』


すぐに返信が届いた。


『昨日のことだよ』


『ああ。ちゃんと帰れた』


『よかった』


数秒が過ぎる。


それから、もう一通メッセージが届いた。


『夕飯、ちゃんと食べてね』


僕はコンビニの窓越しに店内を見た。


棚には、きれいに並べられた弁当やサンドイッチ、お菓子、飲み物が並んでいる。


僕は返信した。


『食べるよ』


そこで一度、指が止まった。


そして、付け加える。


『美優もね』


送信ボタンを押した後で、取り消そうかと思った。


数秒間、返信はなかった。


やがて、メッセージが表示される。


『うん。お母さんがまた作りすぎちゃったから』


僕は、その文章を見つめた。


彼女の母親。


料理を作りすぎる人がいる家。


彼女が食事をしたかどうか、気にかけてくれる場所。


いつ帰ってくるのか、尋ねてくれる人がいる場所。


そういうものが存在することは知っていた。


他人の人生の中で、何度も見てきた。


けれど、僕自身がそれを持ったことは一度もなかった。


僕はスマートフォンをポケットにしまい、店の中へ入った。


その夜、僕はパンではなく、ちゃんとした食事を買った。


いつもより少し高かった。


会計をする前に、僕は一瞬ためらった。


その時、美優の声を思い出した。


――いつも自分を機械みたいに扱わなくてもいいんだよ。


僕はその食事を持って、家へ帰った。


食べ終わった後、容器を洗い、宿題を終わらせ、翌日の制服を準備した。


何もかも、普通だった。


いつもと何も変わらなかった。


――紙の星を除けば。


スマートフォンに届いたメッセージを除けば。


そして、頭の中で少しずつ大きな場所を占め始めた少女のことを考えるたびに、胸の奥に浮かぶ、奇妙で慣れない温かさを除けば。


僕はベッドに横になり、天井を見つめた。


「白崎美優……」


小さな声で、彼女の名前を口にする。


部屋から返事はなかった。


それでも、僕は笑っていた。


ほんの一瞬だけ。


そして目を閉じる。


自分がこれまで欲しいと願うことさえ、怖くてできなかった何かに対して、すでに期待を抱き始めていることにも気づかないまま。


その日を境に、僕の日常は少しずつ変わり始めた。


劇的なことが起きたわけではない。


僕は相変わらず日の出前に起きた。


相変わらず授業を受けた。


相変わらず放課後に働き、街が静かになった頃に帰宅した。


食べ物を買う前には、今でもお金を数えた。


ただ、時々楽しみにするものが、一つ増えていた。


最初に気づいたのは、教室のことだった。


以前は、早く登校するのは教室が静かだからという理由だけだった。


けれど今では、美優がすでに来ているかもしれないから、早く登校することもあった。


彼女はたいてい窓際の席に座り、ノートを整理したり、クラスメイトと話したりしていた。


時々、何かを書きながら小さく鼻歌を歌っていることもあった。


時々、頬杖をつきながら外を眺めていることもあった。


僕から話しかけることはなかった。


ただ、自分の席に座るだけだ。


けれど、彼女が僕に気づくと、手を上げて挨拶してくれる。


そして僕は、次第にその小さな仕草を待つようになっていた。


ある朝、彼女が僕の机の上に何かを置いた。


視線を落とす。


包まれたサンドイッチだった。


「これは?」


「朝ご飯」


「朝ご飯なら、もう食べたよ」


「じゃあ、追加の朝ご飯」


「追加の朝ご飯なんて必要ないよ」


「昨日、朝ご飯抜いてたでしょ」


「どうして知ってるの?」


「一時間目、寝そうになってたから」


「あれは授業が退屈だっただけかもしれないよ」


「面白い歴史上の出来事についての授業だったけど?」


「それは主観の問題だね」


美優は腕を組んだ。


「食べて」


僕はサンドイッチを見た。


「何味?」


「卵」


「いくらだった?」


美優は僕を見つめた。


「どうしてそれが気になるの?」


「お金を払うべきだと思って」


「余ったものだから」


「余った?」


「お母さんがサンドイッチを作りすぎたの」


僕は彼女を見た。


彼女は無邪気な笑顔を浮かべる。


「前にも同じことを言ってなかった?」


「前も本当だったから」


「今回は?」


「今回も本当」


「同じ言い訳を使ってるよね」


「もしかしたら、私のお母さんはサンドイッチを作りすぎる人なのかもしれないよ」


「それは、ちょっと考えにくいね」


「君は私のお母さんを知らないでしょ」


それを言われると、反論できなかった。


それでも、僕はためらっていた。


美優が身を乗り出し、声を落とす。


「断ったら、私、傷つくからね」


「それは不公平じゃない?」


「世の中は不公平なの」


「ひどい argument だね」


「でも、効果はあるよ」


彼女はサンドイッチを、少しだけ僕の方へ押し出した。


僕はそれを受け取った。


「ありがとう」


彼女の表情が明るくなる。


「どういたしまして」


僕は教科書の横にサンドイッチを置いた。


美優が僕を見つめる。


「食べないの?」


「後で食べるよ」


「いつ?」


「昼休みに」


「それじゃ朝ご飯じゃないよ」


「それでも食べ物ではあるよ」


彼女はため息をついた。


「本当に、何でも難しくするよね」


僕はサンドイッチの包みを開き、一口かじった。


美優は満足そうに笑った。


「ほら。難しくなかったでしょ?」


僕はそのまま食べ続けた。


シンプルなサンドイッチだった。


卵とパン、それに少しのマヨネーズ。


けれど、誰かがつい最近作ってくれたものだと分かる程度には、温かかった。


僕より先に、誰かが食べ物のことを考えていた。


その事実に気づくと、胸の奥が妙な感覚になった。


チャイムが鳴る前に、僕はサンドイッチを食べ終えた。


美優は嬉しそうだった。


午前中、僕はそのことを考えないようにしていた。


けれど、無理だった。


昼休み。


窓際の席で、美優が何人かの女子と一緒に座っているのが見えた。


彼女は文化祭の話をしていて、時々、誰かの言葉に笑っている。


僕は一人で昼食を食べた。


いつものことだった。


がっかりする理由なんてない。


彼女と一緒に座ることなど、最初から期待していなかった。


彼女の世界の一員になれるとも、思っていなかった。


それでも、彼女がこちらを見て手を振った時、僕は小さく、不合理な安堵を覚えた。


僕も手を上げて応える。


彼女の隣にいた女子の一人が、その視線を追った。


そして、美優に何かを言った。


美優は首を横に振り、それからもう一度僕を見た。


僕は弁当へ視線を落とした。


彼女たちが何を話しているのか、想像したくなかった。


それは、長い年月をかけて身につけた僕のルールの一つだった。


――誰かが親切にしてくれたからといって、自分がその人にとって大切な存在だと思い込まないこと。


親切は、好意とは限らない。


気にかけてくれることは、執着や親密さとは違う。


そして、笑顔は、その瞬間以上の意味を持つとは限らない。


そのルールは、以前の僕を守ってくれた。


だから、これからも守り続けるつもりだった。


放課後、装飾委員会が再び集まった。


今回は、僕も何枚かの色紙とハサミを持ってきていた。


美優はそれらを見る。


「自分で持ってきたの?」


「学校のハサミは切れ味が悪いから」


彼女はハサミを手に取り、調べるように眺めた。


「これ、高そう」


「よく切れるよ」


「中村くんって、ハサミに詳しいんだね」


「コンビニで働いてるから。荷物を開ける時に使うんだ」


「なるほど」


彼女はハサミを机の上に置いた。


「じゃあ、ハサミの達人さん。これを完成させるの、手伝ってくれる?」


「達人じゃないよ」


「達人はみんな、そう言うんだよ」


委員会は、その後一時間ほどかけて、紙の星や垂れ幕、紐状の飾りを作った。


他のメンバーは、ずっと話し続けていた。


僕はほとんど作業に集中していた。


けれど、美優は時々、僕の隣へ身を寄せて進み具合を確認した。


「丁寧に作りすぎじゃない?」


「形が不揃いだと、見栄えが悪くなるから」


「手作りなんだから、不揃いでいいんだよ」


「それは言い訳に聞こえるけど」


「デザイン哲学だよ」


「都合のいいデザイン哲学だね」


彼女は笑った。


「人をからかうの、上手くなってきたね」


「美優から学んでるから」


「じゃあ、私はいい先生だね」


「そこまでは言ってないよ」


「そういう意味で言ったんでしょ?」


しばらくして、海斗も作業に加わった。


彼は大量の備品が入った大きな箱を抱えて、遅れてやって来た。


「悪い。バスケの練習が長引いた」


「大丈夫だよ」と美優が言う。「明日、飾り付けを吊るすのを手伝ってくれる?」


「もちろん」


「ありがとう」

海斗は箱を床に置き、紙の星を見た。


「これ、いいじゃん」


「ほとんど美優が作ったんだよ」と、女子の一人が言った。


美優は首を横に振る。


「中村くんも手伝ってくれたよ」


海斗が僕を見る。


「いい仕事してるな」


「ただ紙を折ってるだけだよ」


「それでもさ。俺にはこんなに均等に作れないし」


美優はすぐに、積み上げられた星の山を指差した。


「ほら。海斗も中村くんが役に立つって認めてるよ」


「そんなこと言ってないけど」と海斗が返す。


「そういう意味で言ったんでしょ?」


彼が笑った。


美優も笑う。


僕は作業を続けた。


何もおかしな光景ではなかった。


海斗は気さくな性格だった。


美優は楽しそうだった。


他のメンバーも、みんな楽しんでいる。


僕はただ、その部屋にいる生徒の一人にすぎない。


それでも、海斗が話すたびに美優の表情が変わることに気づいてしまった。


瞳の奥に浮かぶ、わずかな輝き。


少しだけ熱心に話を聞く仕草。


彼が口にした些細なことまで、覚えているような様子。


僕は、その表情を知っていた。


自分が何度も経験したからではない。


物語や映画の中で見たことがあったからだ。


そして、自分の気持ちは誰が見ても明らかなものだと信じている人たちの顔にも、同じものが浮かんでいた。


美優は、海斗のことが好きなんだ。


その考えは、静かに浮かんだ。


何の前触れもなく。


そして一度浮かんでしまうと、消すことができなかった。


僕はもう一つ、星を折った。


先端が少し曲がる。


「中村くん?」


顔を上げる。


美優が僕を見ていた。


「大丈夫?」


「うん」


「手が止まってるよ」


「考え事をしてた」


「何について?」


「大したことじゃないよ」


彼女は少しの間、僕を観察した。


それから手を伸ばし、僕の前にある紙を整えた。


「全部の星を完璧に作らなくてもいいんだよ」


「分かってる」


「じゃあ、そんなに睨まないの」


「睨んでないよ」


「睨んでたよ」


彼女は笑った。


僕は再び視線を落とす。


手の中の紙の星は、歪んでいた。


なぜか、うまく直せなかった。


集まりが終わると、僕は荷物をまとめた。


美優が隣を歩き、昇降口へ向かう。


「今日は静かだったね」


「いつも静かだよ」


「いつも以上に静かだった」


「疲れてたから」


「何かあったの?」


「何もないよ」


彼女は注意深く僕を見た。


話すことはできた。


海斗のことが好きなのか、尋ねることもできた。


彼を見る時の美優の表情に気づいていたと、伝えることもできた。


けれど、その質問は危険なものに感じられた。


答えが傷つけるからではない。


そんなことを尋ねれば、自分が彼女を見ていたことが知られてしまうからだ。


気にしていたことが。


彼女の気持ちを、自分にとって意味のあるものだと思っていたことが。


だから、僕は何も言わなかった。


美優は昇降口の近くで足を止めた。


「じゃあ、今夜はちゃんと休んでね」


「仕事があるんだ」


「もちろん、そうだよね」


「その後に休むよ」


「それは休むって言わないと思うけど」


「僕には、それしか予定がないから」


彼女はため息をついた。


それから、また笑う。


「じゃあ、また明日ね。中村くん」


「また明日」


僕は、校舎へ戻っていく彼女の背中を見つめた。


海斗が階段の近くで待っていた。


彼は美優に気づくと、片手を上げた。


美優は笑い、彼の方へ小走りで向かっていく。


僕は視線を逸らした。


夕方の空は淡いオレンジ色で、ゆっくりと青へ変わり始めていた。


僕は駅へ向かって歩き出す。


その途中、店長からメッセージが届いた。


またシフト。


また確認の連絡。


また、いつもと変わらない夕方。


けれど、世界は以前ほど単純には感じられなくなっていた。


初めて、努力だけでは手に入らないものを欲しいと思った。


お金で買うこともできないもの。


計算することもできないもの。


そして心の奥底で、僕は薄々感じ始めていた。


それを望むことが、いつか自分にとって最大の痛みの原因になるのではないか、と。


翌週の月曜日は、雨で始まった。


激しい雨ではない。


ただ、細くしつこい雨が降り続き、学校の窓をぼんやりとした筋で覆っていた。


朝の交通の下、道路は濡れて光っている。


僕が学校に着いたのは、最初のチャイムが鳴る十分前だった。


美優はすでに教室にいた。


窓の近くに立ち、折り畳み傘を手に外を眺めている。


僕に気づくと、彼女は手を上げた。


「中村くん。おはよう」


「おはよう」


「早いね」


「美優もね」


「私が先に聞いたんだけど」


「だからって、君の質問の方が重要になるわけじゃないよ」


彼女は笑った。


「今日は少し機嫌がよさそうだね」


「いつもと同じだよ」


「じゃあ、いつもの機嫌が改善されたのかもね」


「それはどうかな」


彼女は笑い、自分の席へ戻った。


僕は鞄を机の横に置き、教科書を取り出す。


数分後、美優が再びこちらへ歩いてきた。


「中村くん、傘持ってる?」


「うん」


「どこに?」


「鞄の中」


彼女は僕を見つめた。


「鞄、開いてるけど」


「知ってるよ」


「じゃあ、傘はどこ?」


僕は鞄の中を確認した。


教科書、ノートが二冊、財布、コンビニの制服、半分ほど残った水のペットボトル、そして何枚かのレシート。


傘はなかった。


僕は少し黙った。


「……家に置いてきたみたい」


美優はため息をついた。


「信じられない」


「雨が降ってるだけだよ」


「けっこう降ってるよ」


「そのうち止むでしょ」


「傘って、そういう問題じゃないと思うけど」


彼女は手に持っていた傘を掲げた。


「私の傘、一緒に使えばいいよ」


僕は彼女を見た。


「いや、いいよ」


「どうして?」


「放課後に買えるから」


「放課後は仕事でしょ」


「仕事の前に買うよ」


「それまでに濡れるよ」


「早歩きすれば大丈夫」


美優は、まるで僕が雲に言い争いを仕掛けて雨を解決しようと提案したかのような顔で、僕を見つめた。


そして、僕の机の上に傘を置く。


「これ、使って」


僕はすぐに首を横に振った。


「美優のを借りるわけにはいかないよ」


「家にもう一本あるから」


「じゃあ、こっちを使うべきじゃない?」


「今、外に出るわけじゃないし」


「放課後に必要になるよ」


「電車で帰るから」


「駅まで外を歩くでしょ」


彼女は腕を組んだ。


「中村くんって、本当に人を助けにくいね」


「僕は助けてほしいなんて言ってないよ」


「知ってる」


また、その答えだった。


あまりにも自然に言うものだから、僕は抵抗するのをやめそうになった。


――そうなりかけただけだ。


「明日、返すよ」


僕が言うと、彼女は頷いた。


「うん」


「それから、新しい傘を買う」


「そこまでしなくていいよ」


「返すから」


「買わなくても返せるよ」


「自分用の傘を買うってこと」


美優は笑った。


「分かった」


僕は傘を鞄の横に置いた。


美優は自分の席へ戻っていく。


これで話は終わるはずだった。


けれど、僕は一時間目の間、そのことを何度も考えてしまった。


彼女は、僕に何かを借りさせたという負い目を感じさせることなく、役に立つものを渡してくれた。


それは珍しいことだった。


そして、それを僕が受け取ったという事実は、さらに珍しかった。


昼休み。


美優が何度もスマートフォンを確認していることに気づいた。


何かを打ち込み、待ち、それからまた画面を見る。


メッセージが届くたびに、彼女の表情が変わった。


笑っている。


誰と連絡を取っているのか、僕には分かっていた。


名前を見なくても分かる。


海斗だ。


僕は視線を昼食へ落とした。


数分後、美優が僕のところへやって来た。


「中村くん、ちょっと聞いてもいい?」


「いいよ」


「これ、どう思う?」


彼女はスマートフォンの画面を見せてきた。


そこには、青い紙で包まれた小さな贈り物の写真が映っていた。


「何?」


「プレゼント」


「それは見れば分かるけど」


美優は眉をひそめた。


「中村くんって、あまり役に立たないね」


「どんなプレゼント?」


「誕生日プレゼント」


「誰に?」


彼女は一瞬ためらった。


それから、口にする。


「海斗」


その名前が、僕たちの間に落ちた。


僕は表情を変えなかった。


「……そう」


「今週末が誕生日なの。何か渡したいんだけど、これって重すぎないかなって」


僕は写真を見た。


包み方はきれいだった。


上には小さな銀色のリボンが結ばれている。


「中身は?」


「キーホルダー」


「どんな?」


「バスケットボールの形をしたやつ」


「それなら、ちょうどいいんじゃないかな」


「そう思う?」


「うん」


「変じゃない?」


「変じゃないよ」


「子供っぽすぎない?」


「そんなことない」


「分かりやすすぎない?」


僕は彼女を見た。


美優はすぐに視線を逸らした。


「その……変に思われたくないだけ」


彼女が本当に聞きたいことは、明らかだった。


海斗が、自分の気持ちに気づいてくれるかどうか。


僕には、それが分かっていた。


そして、分かってしまう自分が嫌だった。


「普通のプレゼントだと思うよ」


そう言うと、美優の肩から力が抜けた。


「本当に?」


「うん」


「じゃあ、渡してみる」


彼女は笑った。


「ありがとう、中村くん」


「どういたしまして」


彼女は立ち去ろうとした。


けれど、すぐに足を止める。


「そうだ。もう一つ聞いてもいい?」


「何?」


「海斗に、自分が好きだって伝えた方がいいと思う?」


教室が静かになったように感じた。


窓を叩く雨音が聞こえる。


僕の後ろでは、二人の生徒がゲームについて言い争っていた。


椅子が床を擦る音がする。


すべては、いつも通りに続いていた。


ただ、僕だけが動きを止めてしまったようだった。


美優は僕を見つめ、返事を待っている。


イエスと言うこともできた。


ノーと言うこともできた。


告白したら、関係がややこしくなるかもしれないと伝えることもできた。


海斗は、たぶんもう気づいているんじゃないかと話すこともできた。


けれど僕は、代わりに尋ねた。


「どうして僕に聞くの?」


美優が瞬きをする。


「だって、中村くんは正直だから」


「正直だからって、詳しいわけじゃないよ」


「詳しいなんて言ってないよ」


「じゃあ、どうして?」


彼女は少し考えた。


「中村くんって、私のことを笑ったりしなさそうだから」


僕は彼女を見た。


その答えは、思っていた以上に痛かった。


意地悪な言葉だったからではない。


優しかったからだ。

美優は、僕を信頼して大切なことを打ち明けてくれた。


そして僕は、その信頼をどう受け止めればいいのか分からなかった。


「伝えたいと思うなら、伝えればいいんじゃないかな」


僕がそう言うと、美優の目がわずかに見開かれた。


「それが中村くんのアドバイス?」


「うん」


「もし、断られたら?」


「その可能性はあるね」


「全然励ましてくれないね」


「正直な答えを聞かれたから」


彼女はスマートフォンへ視線を落とした。


それから、かすかに笑う。


「分かってる」


僕はプレゼントへ目を向けた。


「伝えなかったら、きっと長い間、どうなっていたんだろうって考え続けると思うよ」


美優は黙った。


そして、頷く。


「……そうだね」


彼女は再び僕を見た。


「中村くんは、誰かを好きになったことある?」


あまりにも直接的な質問だったので、僕は一瞬、息をすることさえ忘れそうになった。


「あるよ」


僕が答えると、彼女の瞳が好奇心に輝いた。


「本当に?」


「うん」


「誰?」


僕は窓の方へ視線を向けた。


「まだ、その人には伝えてない」


「どうして?」


「同じ気持ちじゃないと思うから」


美優の表情が柔らかくなる。


「確かなの?」


「分からない」


「じゃあ、どうしてそう決めつけるの?」


「その方が安全だから」


彼女は眉をひそめた。


「それって、寂しいね」


僕は答えなかった。


彼女は、僕の言葉と自分の状況が似ていることに気づいたらしい。


「中村くんも、いつかその人に伝えた方がいいかもね」


「そうかもしれない」


「そうしないと、後悔するかもしれないよ」


僕は彼女を見た。


美優は優しく微笑んでいた。


その皮肉は、耐えがたいほどだった。


彼女は僕に告白を勧めている。


自分は別の誰かに告白しようとしているというのに。


そして、彼女は何も知らない。


チャイムが鳴った。


美優は自分の席へ戻り、僕を考えの中に一人残した。


その日の残りの時間、僕は授業に集中できなかった。


紙の星のことを考えた。


サンドイッチ。


傘。


メッセージ。


彼女が僕の名前を呼ぶ時の声。


美優が海斗に向ける、あまりにも自然な笑顔。


そして僕は、普通の親切を、何か特別なものと勘違いしていたのではないかと思った。


答えは、おそらくそうだった。


そうでなければならない。


それが一番、理にかなった説明だった。


それが一番、安全な説明だった。


それでも、放課後になると、僕は美優の傘を手にしたまま、昇降口の近くで彼女を待っていた。


数分後、美優が校舎から出てくる。


「中村くん? まだいたの?」


「傘を返そうと思って」


「家まで持って帰ってもよかったのに」


「返すって言ったから」


彼女は傘を見て、それから雨へ視線を移した。


「そんなに律儀じゃなくてもいいのに」


「律儀にしてるつもりはないよ」


「してるよ」


彼女は傘を開き、その下へ入った。


そして僕を見る。


「駅まで行くんでしょ?」


「うん」


「じゃあ、一緒に行こう」


僕はためらった。


「入る場所、ちゃんとあるから」


彼女にそう言われ、僕は美優の隣で傘の下へ入った。


肩は近かった。


けれど、触れてはいなかった。


雨は僕たちの周囲に降り続き、学校の敷地と外の世界を隔てる、柔らかな幕のようになっていた。


数秒間、僕たちは何も話さなかった。


やがて、美優が口を開く。


「今週末、海斗に伝えてみようと思う」


僕は前を向いたまま答えた。


「それは、いいと思うよ」


「緊張するなあ」


「普通のことだよ」


「その後、気まずくなったらどうしよう?」


「そうなるかもしれないね」


「中村くんは、人を安心させる方法を覚えた方がいいと思う」


「現実的に考えてるだけだよ」


「分かってる」


彼女は横目で僕を見た。


「それでも、聞いてよかった」


僕は答えなかった。


駅の入り口が見えてきた。


風が通り過ぎ、傘が少し傾く。


美優は持ち手を握り直した。


「話を聞いてくれてありがとう」


「どういたしまして」


「アドバイスも」


「お礼なんていいよ」


「分かってる」


彼女は笑った。


それから、傘の下から離れる。


「じゃあ、また明日ね」


「また明日」


美優は駅の入り口へ向かい、一度振り返って手を振った。


僕も手を上げる。


そして彼女は、人混みの中へ消えていった。


僕はしばらく、その場に傘を差したまま立っていた。


雨水が舗道を流れていく。


濡れた道路を車が通り過ぎる。


人々は顔を伏せ、足早に通り過ぎていく。


僕は手の中の傘を見た。


この傘は、雨から僕を守ってくれた。


けれど、真実から僕を守ってくれることはない。


白崎美優は、森山海斗が好きだ。


そして僕は、美優が好きだ。


初めて、僕はその気持ちを言葉にしたまま、否定しようとしなかった。


その自覚は静かだった。


ほとんど、優しいとさえ感じられた。


だからこそ、余計につらかった。


一度その感情に名前をつけてしまえば、もう存在しないふりはできないのだから。


土曜日は、思っていたより早くやって来た。


多くの人にとって、週末とは遅くまで眠ったり、友達と会ったり、買い物をしたり、翌朝のことを気にせず家で過ごしたりする時間なのだろう。


僕にとって、土曜日は仕事が増える日だった。


朝六時に起き、顔を洗い、簡単な朝食を用意する。


そして、スマートフォンで予定を確認した。


午前――コンビニのシフト。


午後――配達の仕事。


夕方――小さな飲食店でのシフト。


家に帰る頃には、一日がほとんど終わっているはずだった。


僕はスマートフォンをテーブルに置き、その隣にある紙の星を見た。


星は、少しずつ形を失い始めていた。


先端の一つが内側へ折れ曲がっている。


僕は慎重に、それを元へ戻した。


そこで、手を止める。


どうして、こんなことをしているんだろう。


ただの紙なのに。


僕は小さく息を吐き、星を元の場所へ置いた。


その時、スマートフォンが振動した。


美優からのメッセージだった。


『おはよう! 今日も仕事?』


僕は画面を見つめた。


そして、返信を打つ。


『うん』


すぐに、もう一通届いた。


『一日中?』


『ほとんど』


『それは大変そう』


『慣れてるから』


『慣れてるからって、いいこととは限らないよ』


僕は、かすかに笑った。


彼女には、反論しにくいことを言う癖がある。


その直後、またメッセージが届いた。


『今日の午後、少し時間ある?』


僕は予定表を確認した。


仕事と仕事の間に、四十分ほど空きがあった。


『どれくらい?』


『三十分くらい?』


『どこで?』


『駅の近くの商店街』


僕はためらった。


会う理由なんてなかった。


おそらく、海斗について相談したいのだろう。


あるいは、プレゼントを選ぶのを手伝ってほしいのかもしれない。


どちらにしても、断るべきだった。


けれど、考え終わる前に指が動いていた。


『分かった』


すぐに返信が届く。


『本当? やった! 二時に会おうね』


僕はスマートフォンを伏せて置いた。


それから、もう一度手に取る。


『遅れないでね』


追加のメッセージが届いていた。


僕は返信する。


『遅刻することは、ほとんどないよ』


『朝ご飯を食べる時は遅いけどね』


『それは関係ないよ』


『完全に関係あるよ』


僕は返信しなかった。


けれど、また笑っていた。


最初の仕事は、ゆっくりと過ぎていった。


コンビニには、お菓子や飲み物、昼食を買いに来る客が多く訪れた。


僕はレジを打ち、棚に商品を補充し、入り口を掃除し、年配の客が探していた特定の銘柄のお茶を見つけるのを手伝った。


ある時、店長が僕をちらりと見た。


「今日は機嫌がいいな」


「普通ですよ」


「もう二回も笑ったぞ」


「それくらい、珍しくないでしょう」


「お前にとっては珍しい」


僕はペットボトル飲料を並べる作業へ戻った。


「店長の気のせいじゃないですか」


店長は笑った。


僕は時計を確認する。


一時三十五分。


作業を終え、制服から着替え、駅へ向かって急いだ。


商店街は、週末の人波で賑わっていた。


家族連れが店の間を歩き、相合い傘をしているカップルが通り過ぎ、学生たちが屋台の周りに集まっている。


僕は二時ちょうどに到着した。


美優は本屋の近くに立っていた。


淡い青色のカーディガンをシンプルなワンピースの上に羽織り、片手には小さな買い物袋を持っている。


僕に気づくと、彼女は手を振った。


「来てくれた!」


「美優が呼んだからね」


「来てくれないかと思ってた」


「どうして?」


「だって、中村くんはいつも仕事してるから」


「時間を作ったんだ」


その言葉は、自然に口から出ていた。


美優はしばらく僕を見つめた。


それから、笑う。


「ありがとう」


僕は視線を逸らした。


「それで、何の用?」


「いきなり本題なんだね」


「三十分しかないから」


「そうだった。ごめん」


彼女は買い物袋を持ち上げた。


「プレゼント、買ってきたよ」


「海斗に?」


彼女は頷いた。


袋の中には、小さな青い箱が入っていた。


「渡す前に、中村くんに見せたかったの」


僕は箱を見た。


「いいんじゃないかな」


「まだ中身を見てないのに?」


「箱に入ってるからね」


美優は眉をひそめた。


「真面目に考えてくれてないでしょ」


「考えてるよ」


「じゃあ、開けてみて」


彼女は箱を僕に渡した。


僕は蓋を開ける前に、少しためらった。


中には、黒っぽい金属で作られた、小さなバスケットボール型のキーホルダーが入っていた。


シンプルだが、よくできている。


側面には小さな銀色の装飾が施されていた。


「いいと思うよ」


僕が言うと、美優は尋ねた。


「本当に?」


「うん」


「男の子が喜びそう?」


「そう思う」


「高そうに見えない?」


「見えないよ」


「告白用のプレゼントっぽくない?」


僕は箱を閉じた。


「それは、メッセージに何を書くかによるんじゃないかな」


美優の頬が、わずかに赤くなった。


「まだ何も書いてないんだ」


「そのまま渡してもいいと思うけど」


「そのまま?」


「うん」


「それは気まずいよ」


「じゃあ、短いメッセージを書けばいい」


「何て書けばいいかな?」


僕は彼女を見た。


「聞く相手を間違えてるよ」


「どうして?」


「誰かに告白用のプレゼントを渡したことなんてないから」


「私もないよ」


「美優の方が慣れてそうだけど」


彼女は僕を見つめた。


それから、笑い出す。


「そういうものじゃないと思うけどな」


商店街を風が通り抜け、近くの屋台から焼き物の香りを運んできた。


美優は箱へ視線を落とす。


「私、本当に海斗のことが好きなんだ」


彼女は静かに言った。


僕は答えなかった。


「去年から好きだったの。優しいし、何でもできるし、いつも自信があるように見えるから。海斗のそばにいると、私ももっといい人になりたいって思うんだ」


その声は穏やかだった。


嘘のない声だった。


僕は口を挟まずに聞いていた。


「たぶん、海斗は私のことをそういう目で見てないと思う。それでも、伝えたいんだ」


「それは、いいと思うよ」


「いいと思う?」


「うん」


彼女は僕を見る。


「中村くんって、何でも学校のレポートみたいに話すよね」


「応援してるつもりなんだけど」


「もう少し感情的なことを言ってもいいんじゃない?」


「うまくいくといいね」


「それなら、まあいいかな」


彼女は笑った。


僕も、無理に笑顔を返した。


本当は、うまくいってほしくなかった。


彼女に気持ちを変えてほしかった。


海斗を見る時と同じ目で、僕を見てほしかった。


僕が彼女からのメッセージを待っていることを伝えたかった。


彼女が口にした些細なことまで覚えていることを。


ベッドのそばに、歪んだ紙の星を置いていることを。


けれど、そんな願いをこの会話の中に持ち込むことはできなかった。


それは僕の願いだ。


美優は、僕に何も約束していない。


美優は箱を買い物袋へ戻した。


「話を聞いてくれてありがとう、中村くん」


「それ、前にも言ってたね」


「じゃあ、もう一度言う」


「何度も言わなくていいよ」


「分かってる」


彼女は通りの入り口にある時計へ目を向けた。


「あと、どれくらい時間あるの?」


「十五分くらい」


「じゃあ、何か食べようよ」


「無理だよ」


「どうして?」


「次の仕事に行かないといけないから」


「そうだよね」


「後で食べるよ」


彼女はため息をついた。


「中村くんって、急がずに何かすることあるの?」


「……あまりないかな」


「じゃあ、せめて私に何か買わせて」


「いいよ」


「中村くん」


「お金ならあるから」


「そういう意味じゃないよ」


「分かってる」


美優は目を細めた。


「私の言葉を利用してるでしょ」


「効果がありそうだったから」


彼女は笑った。


それから、近くのパン屋を指差す。


「五分だけ。何か選んで」


「必要ない――」


「五分」


僕はパン屋を見た。


それから、彼女を見る。


「……分かった」

店内には、焼きたてのパンの香りが満ちていた。


美優はすぐに棚を見始め、僕は入口の近くで立っていた。


彼女が菓子パンを一つ手に取る。


「これは?」


「高い」


「菓子パンだよ?」


「それでも高い」


彼女は別のパンを手に取った。


「じゃあ、これは?」


「それも高い」


「食べ物を値段で判断してるんだね」


「一般的に、買い物ってそういうものだと思うけど」


美優はため息をつき、シンプルなロールパンを選んだ。


「これは安いよ」


「それなら自分で買える」


「私が買うの」


「そこまでしなくても」


「分かってる」


僕が反論するより先に、彼女は会計を済ませてしまった。


店の外に出ると、美優は紙袋を僕に差し出した。


中を覗く。


パンが二つ入っていた。


「……なんで二つ?」


「今食べる分と、あとで食べる分」


「一つだけって話だったと思うけど」


「五分だけ付き合うって言ったでしょ? その五分を有効活用してるの」


僕は彼女を見た。


美優は笑った。


僕はパンを一つ取り出す。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


僕たちはパン屋の隣に立ったまま、周囲を行き交う人々を眺めていた。


ほんの短い間だけ、午後の時間が不思議なほど穏やかに感じられた。


教室もない。

仕事の制服もない。

誰もいないアパートもない。


ただ、人々の歩く音と、隣で美優がパンを食べる音だけがあった。


そのとき、美優がスマートフォンを確認した。


彼女の表情が変わる。


メッセージが届いたらしい。


誰からなのか、聞く必要はなかった。


「海斗?」


僕が尋ねると、美優は驚いたように顔を上げた。


「うん」


「なんて?」


「明日、会わないかって」


僕は手の中のパンを見つめた。


「それはよかったね」


「話したいことがあるんだって」


「それはよかった」


美優は僕の顔を注意深く見た。


「……さっきから、そればっかり言ってるね」


「だって、よかったことだから」


「本当に?」


僕は彼女の目を見た。


ほんの一秒だけ。


すべてを伝えてしまおうかと思った。


彼女が好きだということ。

何週間も前から、ずっと好きだったということ。

彼女と過ごす何気ない時間が、いつの間にか大切なものになっていたということ。

海斗にプレゼントを渡してほしくないということ。

僕を選んでほしいと思っているということ。


けれど、その言葉たちは歯の裏側に引っかかったまま、外へ出てこなかった。


「うん」


僕は言った。


「本当だよ」


美優は安心したように微笑んだ。


「じゃあ、明日伝えるね」


僕は頷いた。


駅前の時計塔は、二時二十八分を示していた。


僕は紙袋の口を折りたたむ。


「……そろそろ行かないと」


「そっか」


彼女はまた少し残念そうな顔をした。


けれど、今度はそれを隠そうとしていた。


「仕事、頑張ってね」


「ありがとう」


「それと、二つ目のパンもあとでちゃんと食べてね」


「分かった」


「無理しすぎないように」


「努力する」


美優は笑った。


「じゃあ、月曜日にね。中村くん」


「うん。また」


僕は彼女から離れ、駅へ向かって歩き出した。


振り返らなかった。


振り返れば、そこに彼女が立っているのが見えるだろう。


そして、もし彼女の姿を見てしまったら。


僕には望む資格のない何かを、願い始めてしまう気がした。


午後の仕事は三時からだった。


僕はいつも通り働いた。


客の対応をし、箱を運び、テーブルを拭き、指示に従う。


けれど、意識だけは別の場所にあった。


明日、美優は海斗に告白する。


明日、彼女は望んでいた答えを受け取るかもしれない。


明日、僕たちの間にある距離は、永遠に縮まらなくなるかもしれない。


その夜、帰宅した僕は、手つかずの二つ目のパンをテーブルの上に置いた。


その隣には、紙の星があった。


僕は二つを長い間、じっと見つめていた。


それから、誰もいない部屋の中で小さく呟く。


「……明日」


その言葉は、必要以上に重く感じられた。


何が起こるのか、僕には分からない。


海斗が美優の気持ちを受け入れるのかも分からない。


美優がいつか、僕を違う目で見てくれるのかも分からない。


けれど、生まれて初めて。


僕は、明日が来ることを怖いと思った。


そして、その恐怖が教えてくれた。


僕がずっと理解しないふりをしていたことを。


僕はもう、とっくに彼女を好きになっていたのだ。


     ◇


日曜日は、いつもよりゆっくりと過ぎていった。


朝の仕事を終え、午後には荷物を配達し、日が沈む前に帰宅した。


何も問題は起こらなかった。


客から苦情を受けることもなかった。

店長から呼び戻されることもなかった。


宿題だって、早めに終わらせた。


あらゆる合理的な基準で考えれば、良い一日だった。


それなのに、僕は何度もスマートフォンを確認していた。


美優から新しいメッセージは届いていない。


それが普通なのだと、自分に言い聞かせる。


彼女はきっと忙しいのだろう。


海斗と話すための準備をしているのかもしれない。


緊張しているのかもしれない。


どんな言葉を選ぶべきか、考えているのかもしれない。


もしかしたら――


僕はスマートフォンを伏せて、テーブルの上に置いた。


そんなことを想像する理由なんてない。


彼女には、僕のいない生活を送る権利がある。


当たり前のことだ。


それでも、沈黙がいつも以上に大きく感じられた。


午後七時頃。


スマートフォンが振動した。


僕はすぐに手に取った。


美優からだった。


『明日、話せる?』


僕はそのメッセージを見つめた。


指がキーボードの上で止まる。


『もちろん。何かあった?』


今度は、返信が届くまでに少し時間がかかった。


『ちょっと伝えたいことがあるの』


僕は入力した。


『分かった』


それから待った。


もう一通、メッセージが届く。


『ありがとう』


それだけだった。


僕はスマートフォンを置いた。


部屋は静かだった。


冷蔵庫の低い駆動音だけが聞こえている。


机の上に置かれた紙の星を見る。


角の一つが、また折れ曲がっていた。


僕はそれを丁寧に伸ばした。


そして、自分が何をしているのかに気づき、慌てて手を離した。


捨ててしまえばよかった。


けれど僕は、代わりにそれをスマートフォンの隣へ置いた。


     ◇


翌朝、僕はいつもより早く学校に着いた。


教室には、まだほとんど人がいなかった。


窓際にある美優の席も空いている。


僕は自分の席に座り、教科書を取り出した。


読もうとした。


同じ段落を三回も読んだ。


八時十分。


美優が教室に入ってきた。


少し疲れているように見えた。


仕事のあとでいつも疲れている僕とは違う。


身体的に消耗しているというより、心がどこか遠くに置き去りになっているような、そんな表情だった。


僕に気づくと、彼女は足を止めた。


「中村くん」


「おはよう」


「おはよう」


美優は僕の机へ歩いてきた。


しばらく、何も言わなかった。


それから、僕の隣の空いている椅子に腰を下ろす。


僕は教科書を閉じた。


「……昨日、何かあった?」


美優は自分の手元を見下ろした。


「海斗と話した」


それが何を意味するのか、僕にはすでに分かっていた。


それでも、尋ねる。


「それで?」


美優はゆっくりと息を吸った。


「好きだって伝えた」


教室が、遠くなったように感じられた。


僕は表情を変えないようにした。


「海斗は、なんて?」


「驚いてた」


「それは、そうだろうね」


「それから、伝えてくれて嬉しいって言ってくれた」


僕は黙って待った。


美優の指が、袖の端をきゅっと握りしめる。


「……それから、謝られた」


僕は彼女を見た。


「もう、好きな人がいるんだって」


何と答えればいいのか、分からなかった。


その言葉を聞けば、僕は安心するはずだった。


そこに隙間が生まれるはずだった。


チャンスが。

可能性が。


けれど、目の前の美優があまりにも傷ついているように見えて、安心することさえ残酷に思えた。


「……大丈夫?」


僕が尋ねると、彼女はかすかに笑った。


「たぶん」


「説得力がないね」


「まだ、自分でも分からない」


彼女は窓の外へ視線を向けた。


「海斗は優しかったよ。笑ったり、恥ずかしい思いをさせたりもしなかった。ただ、ごめんって言ってくれた」


「それなら、まだよかったね」


「うん」


美優は少し間を置いた。


「振られたら泣くと思ってた」


「泣いた?」


「そのときは、泣かなかった」


「いつ?」


「家に帰ってから」


彼女の声が、少しだけ小さくなる。


「一緒にどこかへ行くとか。放課後に話すとか。毎日メッセージを交換するとか……そういう、想像してた小さなことをずっと考えてた」


彼女は少し恥ずかしそうに笑った。


「……馬鹿みたいだよね」


「そんなことない」


「無理にそう言わなくてもいいよ」


「無理に言ってるわけじゃない」


美優は僕を見た。


一瞬、彼女の瞳が潤んだように見えた。


けれど、すぐに視線を逸らす。


「私、馬鹿だなって思う」


「馬鹿じゃないよ」


「断られる可能性があることくらい、分かってたのに」


「起こるかもしれないって分かっていても、実際に起きたら痛いものだよ」


美優は黙り込んだ。


自分が、普段よりずいぶん多く話していることに気づく。


彼女は再び僕を見た。


「……中村くんって、意外と優しいこと言うんだね」


「僕だって優しいよ」


「たまにね」


「ごくたまに」


美優は小さく笑った。


いつもより弱々しい笑い声だった。


それでも、それは確かに彼女の笑い声だった。


胸の奥で、何かが少し緩む。


嬉しい、というのとは違う。


彼女がまだ笑えることへの、安堵に近かった。


「プレゼントは渡したの?」


僕が尋ねると、彼女は頷いた。


「受け取ってくれた」


「じゃあ、無駄にはならなかったね」


美優は視線を落とした。


「気まずいなら、返してくれてもいいって言ったんだけど」


「海斗はなんて?」


「持っておくって」


「じゃあ、そのまま持っててもらえばいいよ」


美優はゆっくりと頷いた。


そのとき、教室の外から足音が近づいてきた。


何人かの生徒が、週末の話をしながら教室へ入ってくる。


美優は僕の隣の椅子から立ち上がった。


「ねえ、一つ聞いてもいい?」


「うん」


「中村くんは、どうして好きな人に伝えなかったの?」


不意を突かれた。


僕は彼女を見た。


美優は、僕が答える前に続ける。


「好きな人がいるって言ってたよね?」


「うん」


「どうして告白しなかったの?」


僕は机の上の教科書を見つめた。


「……その人が、僕を好きじゃないと思ったから」


「それでも、私は告白したよ」


「美優のほうが、僕より勇気があるんだよ」


彼女は首を横に振った。


「私だって、怖かった」


「じゃあ、どうして?」


「黙ったままだと、後悔すると思ったから」


僕は何も言わなかった。


美優は僕の顔をじっと見つめる。


「今でも、その人のことが好き?」


「うん」


「じゃあ、伝えたほうがいいよ」


僕は彼女を見た。


美優は真剣な表情をしていた。


からかっているわけでもない。

冗談を隠しているわけでもない。


ただ、本心から僕を励ましていた。


「……伝えたほうがいいと思う?」


「うん」


「もし、断られたら?」


「傷つくと思う」


「それ、あまり慰めになってないね」


「正直に言おうとしてるから」


僕は、少しだけ笑いそうになった。


美優は続ける。


「でも、少なくとも答えは分かるでしょ。ずっと考え続けなくて済む」


僕は窓の外へ目を向けた。


朝の日差しが机の上に差し込み、空中を漂う埃を金色に染めていた。


ほんの一瞬、彼女に伝える場面を想像する。


美優。

僕は、君が好きだ。


頭の中では、簡単な言葉だった。


けれど、声に出すことは不可能に思えた。


まだだ。


僕には、まだその覚悟ができていなかった。


「……考えてみる」


僕が言うと、美優は笑った。


「それだけでも、一歩だよ」


始業のチャイムが鳴った。


美優は自分の席へ戻っていく。


僕はもう一度、教科書を開いた。


今度は、文字を読むことができた。


けれど、彼女の言葉が頭から離れなかった。


少なくとも、答えは分かる。


もしかしたら、美優の言う通りなのかもしれない。


沈黙は、身を守るためのものではないのかもしれない。


まだ手に入れてもいない何かを、失う前に諦めるための、別の方法に過ぎないのかもしれなかった。


     ◇


昼休み、美優はいつも通り友達と一緒に過ごしていた。


以前より口数は少なかったけれど、会話には参加していたし、一度か二度は笑ってもいた。


僕は自分の席で昼食を食べた。


しばらくすると、美優がこちらを見た。


僕は軽く手を上げる。


彼女も笑って、手を振り返した。


小さな仕草だった。


いつもの、見慣れたやり取り。


けれど今、僕には分かっていた。


美優が僕に向けてくれた優しさは、約束なんかではなかった。


彼女が密かに僕を待っているという意味でもなかった。


僕が望んでいたような意味で、僕が特別だったということでもなかった。


彼女は、ただ優しかっただけだ。


そして僕は、孤独だったから。


その優しさを、希望へと変えてしまった。


その事実は痛かった。


けれど同時に、ひどく正直なものにも感じられた。


放課後、僕は昇降口の近くで美優を見つけた。


彼女は文化祭の飾りをいくつか抱えていた。


「中村くん」


「手伝おうか?」


美優は驚いたような顔をした。


それから、笑う。


「うん。お願い」


僕は彼女から飾りの半分を受け取った。


僕たちは一緒に倉庫へ向かって歩いた。


しばらく、どちらも何も話さなかった。


やがて、美優が口を開く。


「……海斗に伝えてよかったと思ってる」


「振られたのに?」


「それでも」


「どうして?」


美優は少し考えた。


「自分に正直になれたから」


僕は頷いた。


「それは、大切なことだね」


美優がちらりと僕を見る。


「中村くんも、覚えておいてね」


僕は前を向いたまま答えた。


「……うん」


倉庫の中に飾りを置く。


作業が終わると、美優は手についた埃を払い、笑った。


「じゃあ、また明日ね。中村くん」


「また明日」


彼女は歩き去っていった。


僕は数秒だけその背中を見つめ、それから駅へ向かって歩き出した。


午後の空は晴れていた。


空気は涼しかった。


スマートフォンが仕事の通知を知らせる。


画面を確認し、返信をしてから、僕は再び歩き始めた。


けれど、街のありふれた音の下で、一つの思いだけが残っていた。


僕は美優が好きだ。


彼女は僕と同じ気持ちではない。


そしていつか、僕は決めなければならない。


彼女に伝えるのかどうかを。


僕を選んでほしいと期待しているからではない。


優しくされたから、愛される資格があると思っているわけでもない。


ただ、初めて。


僕は自分にとって大切なことを、正直に認めたいと思っていた。


ただ、その決断をするまでに、僕があまりにも長く待ってしまうことを、このときの僕はまだ知らなかった。


     ◇


それから数日間、僕は一つの文章を持ち歩いていた。


たった五つの言葉。


美優。

僕は、君が好きだ。


学校へ向かう途中、心の中で何度も繰り返した。


昼休みに伝える場面を想像した。


委員会のあとに伝える場面を想像した。


一度など、日が沈んだあと、駅の明かりの下で伝えるところまで想像した。


そのたびに、言葉自体は簡単に聞こえた。


けれど、そのたびに、言わない理由が一つずつ見つかった。


一つ目の理由は明白だった。


美優は、すでに別の人へ告白している。


海斗に振られたからといって、彼女の気持ちが一晩で消えるわけではない。


人の心は、そんなに都合よくできていない。


二つ目の理由は、もっと現実的だった。


そのあと、何が起こるのかがまったく分からない。


もし断られたら、彼女は僕に話しかけなくなるだろうか。


会話は気まずくなるだろうか。


僕に優しくしたことを、後悔するだろうか。


最近、学校を少しだけ空虚ではない場所にしてくれた、たった一人の相手を失ってしまうだろうか。


そして三つ目の理由。


それだけは、決して口に出して認めなかった。


告白すれば、僕は真実と向き合わなければならなくなる。


美優についての真実だけではない。


自分自身についての真実とも。


僕は、誰かに選ばれたかった。


誰かに見つめられて、自分には価値があるのだと決めてほしかった。


けれど、何かを望むことと、それを与えられる資格があることは同じではない。


保証できないものを期待しないように。


僕はあまりにも長い間、そうやって生きてきた。


「……何か嫌なことでも考えてる?」


美優の声が、僕を教室へ引き戻した。


僕はノートから顔を上げた。


彼女は、ジュースの缶を二本持って僕の机の隣に立っていた。


「いや」


「眉間にしわが寄ってたよ」


「集中してただけ」


「何に?」


「数学」


美優は開いたままのページを覗き込む。


「同じ問題を十分も見つめてるけど?」


「難しい問題なんだよ」


「それとも、嫌な問題?」


「……美優はしつこいね」


「中村くんは、すごく evasive――じゃなくて、逃げるのが上手だよね」


彼女は僕の机に缶を一つ置いた。


僕はそれを見る。


「……何これ?」


「ジュース」


「ジュースなのは見れば分かる」


「それなら話が早いね」


「どうして買ったの?」


「安売りしてたから」


「いくらだった?」


美優はため息をついた。


「優しさをいちいち計算しなくてもいいんだよ」


「ただ聞いただけ」


「文化祭の飾り付けを手伝ってくれたら、それで返してくれればいいよ」


「それは釣り合ってないと思うけど」


「交換じゃないから」


僕が彼女を見ると、美優は笑った。


「ほら、飲んで」


僕は缶を開けた。


リンゴジュースだった。


少しだけ口をつける。


美優は満足そうな表情で僕を見ていた。


「ねえ」と、彼女が言った。


「中村くん、前より少し話しやすくなったよね」


「少し?」


「ほんの少し」


「それは残念だね」


「それに、冗談も上手くなった」


「冗談なんて言ってないけど」


「そこが面白いんだよ」


僕はジュースを飲み続けた。


美優は椅子を僕の机の近くへ引き寄せ、腰を下ろす。


「文化祭、何をするか決めた?」


「仕事」


彼女は僕を見つめた。


「文化祭で何をするかって聞いたの」


「飾り付けを手伝う」


「そのあとは?」


「仕事」


「……中村くんって、本当にどうしようもないね」


「よく言われる」


「せめて、少しは残ってくれる?」


「分からない」


「飾り付けを手伝ったんだから、飾られたところくらい見たほうがいいよ」


「写真で見られる」


「写真と実物は違うでしょ」


美優は身を乗り出した。


「お願い」


僕は彼女を見た。


からかっているわけではなかった。


だからこそ、断りにくかった。


「……努力する」


彼女の顔が明るくなる。


「本当?」


「仕事のシフト次第だけど」


「それでも、約束ね」


「約束にするほどのことじゃないと思うけど」


「でも、約束だよ」


彼女は立ち上がり、自分の席へ戻っていった。


僕はその背中を見送った。


そして、あの言葉が再び頭に浮かぶ。


美優。

僕は、君が好きだ。


あのとき、言うこともできた。


彼女はほんの数歩先にいた。


教室には、まだほとんど人がいなかった。


朝の光が床に差し込んでいた。


ごく普通の瞬間だった。


たぶん、だからこそ言えなかったのだと思う。


物語の中で告白が起こるときは、いつも美しい空の下だったり、文化祭の最中だったり、桜の花びらが舞っていたり、世界そのものが一瞬止まったような場所だったりする。


けれど、現実はそんな都合のいいタイミングを用意してくれない。


現実にあるのは、終わっていない宿題や、仕事のシフト、騒がしい教室。


そして、自分が伝えたい言葉を聞く余裕さえないかもしれない相手だけだ。


昼休み、僕は窓際で美優が海斗と話しているのを見かけた。


海斗は文化祭のポスターを何枚か持ってきていた。


美優は彼の説明を聞きながら、ポスターに目を通している。


何度か頷いた。


それから海斗が何かを言い、美優が笑った。


僕は視線を逸らした。


見たくなかった。


けれど、少しあとになって、美優の声が聞こえてきた。


「手伝ってくれてありがとう」


「いいよ。美優のほうが、ほとんど作業してるし」


「そんなことないよ」


「本当だって」


「大げさだよ」


「まあ、少しはね」


二人の会話は、ごく普通のものだった。


そこに恋愛感情があるわけではない。


秘密の告白もなければ、特別な仕草もない。


それでも、胸の奥にいつもの苦しさが広がった。


僕は、その感覚が嫌いだった。


痛いからではない。


子供じみているからだ。


美優が誰と話そうと、彼女の自由だ。


海斗と笑い合ってもいい。


振られたあとでも、彼を好きでいてもいい。


明日、気持ちが変わってもいい。


そのどれも、僕には関係のないことだった。


僕は俯き、食事を続けた。


数分後、美優がこちらへやってきた。


「また静かになってる」


「食事中だから」


「食べながら話せるでしょ」


「今は食事に集中してる」


美優は海斗のほうへ目を向け、それから僕を見る。


「……怒ってる?」


「いや」


「私、何かした?」


「何も」


「じゃあ、どうしてそんな顔してるの?」


「どんな顔?」


「好きなテレビ番組が打ち切られた人みたいな顔」


「テレビは見ない」


「そういう問題じゃないよ」


僕は箸を置いた。


「美優。僕のことは、そんなに気にしなくていいよ」


彼女は瞬きをした。


「気にしてないよ」


「何度も聞いてくるから」


「だって、ずっと変なんだもん」


「僕はいつも変だよ」


「そういう答えじゃなくて」


「僕に言えるのは、それくらいだから」


美優はしばらく黙っていた。


それから、僕の向かいの席に座る。


「……仕事で何かあった?」


「ない」


「お金に困ってるとか?」


「いつも困ってるよ」


美優は眉をひそめた。


「それ、笑えないよ」


「冗談じゃないから」


「分かってる」


彼女の表情が真剣になる。


「何かあるなら、話してくれていいんだよ」


僕は彼女を見た。


その言葉は、あまりにも聞き慣れたものだった。


単純で、何気ない言葉。


それなのに、頭の中にある文章が、急に重く感じられた。


美優。

僕は、君が好きだ。


伝えることはできる。


もう、沈黙の後ろに隠れるのをやめることもできる。


けれど、その先に何がある?


何も得られないかもしれない。


恥ずかしい思いをするかもしれない。


この奇妙で、壊れやすい友情が終わってしまうかもしれない。


僕は視線を落とした。


「……何もないよ」


美優は長い間、僕を見つめていた。


それから、頷く。


「……そっか」


納得しているようには見えなかった。


けれど、無理に説明を求めてくることもなかった。


それが、僕が彼女を好きな理由の一つだった。


美優はしつこい。

少しうるさい。

質問も多い。


けれど、僕が本当に答えたくないとき、彼女はいつ止めるべきなのかを分かっていた。


     ◇


放課後、装飾委員会の集まりが教室で行われた。


文化祭まで、あと二日。


教室の中には紙や絵の具、段ボール、リボン、そして作りかけの看板が散らばっていた。


僕は椅子の上に立ち、長い紐に紙の星を取り付けていた。


美優は下で、紐の反対側を持っている。


「もう少し左」


彼女が言った。


僕は紐を動かす。


「君から見て左? それとも僕から見て左?」


「私から見て左」


「それは不便だね」


「反対の左」


「左は二つしかないけど」


「じゃあ、正しいほうを使って」


僕はもう一度、紐をずらした。


「……これで?」


「完璧」


「それなら、最初からそう言ってくれればいいのに」


「褒められるだけの仕事をしたか、確認したかったの」


「要求が厳しいね」


「中村くんは頼りになるから」


その言葉を聞いて、僕は動きを止めた。


美優が僕を見上げる。


「どうしたの?」


「……何でもない」


彼女は笑った。


「気をつけてね」


「椅子の上に立ってるだけで、崖の上にいるわけじゃないよ」


「それでも」


僕は最後の星を取り付け、椅子から降りた。


美優は飾り付けを見上げる。


紙の星が教室の中をゆるやかな線を描くように吊られ、夕方の光を受けて揺れていた。


「いい感じだね」


「少し歪んでるけど」


「手作り感があっていいじゃん」


「それ、前にも聞いた気がする」


「やっと分かってきたんだね」


僕は彼女を見た。


美優も僕を見返した。


一瞬、教室が先ほどより静かになったように感じられた。


他の生徒たちは反対側の壁の近くで作業をしている。


海斗は外で箱を運んでいた。


美優の瞳と、僕の視線が重なる。


あの言葉が、また込み上げてきた。


美優。

僕は、君が好きだ。


僕は、ほんの少し口を開いた。


「美優――」


そのとき、彼女が扉のほうを振り向いた。


「あ、海斗。テープ持ってきてくれた?」


その瞬間は、消えた。


海斗が箱を抱えて入ってくる。


「ああ。それと、予備のライトも持ってきた」


「ありがとう。あそこに置いてくれる?」


「分かった」


美優は海斗のほうへ歩いていく。


僕は口を閉じた。


言葉は、再び沈黙の中へ消えていった。


僕は頭上の紙の星を見上げる。


一つだけ、斜めに傾いていた。


手を伸ばして、それを直す。


けれど今回は、完璧に整えようとはしなかった。


集まりが終わると、扉の近くで美優が僕に声をかけてきた。


「さっき、何か言おうとしてたよね?」


僕は彼女を見る。


「……そうだっけ?」


「うん」


「何に見えた?」


美優は少し考えた。


「大切なこと」


僕は首を横に振った。


「違うよ」


美優は目を細める。


「また嘘ついてる」


「……かもしれない」


彼女はかすかに笑った。


「じゃあ、話せるようになったら教えてね」


僕は彼女を見つめた。


美優は、何でもないことのように言った。


無理に聞き出そうともせず、急かすこともなく。


まるで、僕がいつかきっと話すと信じているみたいに。

たぶん、美優のような人は、そういう小さな変化に気づくのが得意なのだろう。


「……アキラ?」


彼女が僕を見ていることに気づいた。


「何?」


「見つめてるよ」


「紙の星が落ちそうになっていないか確認してた」


美優は肩の近くにある星へ手を伸ばした。


「ちゃんと固定されてるよ」


「少し曲がってる」


「じゃあ、見なければいいんじゃない?」


「努力する」


彼女はまた笑い、それから教室の後ろを指差した。


「ねえ、あの箱を体育館まで運ぶの、手伝ってくれる? カフェの備品が入ってるの」


「何箱?」


「三つ」


僕は箱を見た。


五つあった。


「美優」


「何?」


「五つあるけど」


「あ……」


「三つって言ったよね」


「気持ちで数えてたの」


「それは一般的に認められた数え方じゃないよ」


「いいから手伝って」


僕はため息をつき、箱を二つ持ち上げた。


教室は、小さなカフェへと姿を変えていた。


天井からは紙のランタンが吊るされ、窓には色とりどりの絵が貼られている。いくつかの机は寄せ集められ、カウンターのようになっていた。


誰かが作った大きな看板には、少し歪んだ文字で『ムーンライト・カフェ』と書かれている。


その名前は、妙にしっくりきた。


それを提案した人は、外の空がいつもより白っぽく見えることを知っていたのだろうか。


たぶん、知らない。


その朝に、特別なことなんて何もなかった。


少なくとも、僕はそう思い込もうとしていた。


     ◇


文化祭は、断片的に過ぎていった。


一年生の集団が僕たちのカフェを訪れ、一度に大量の飲み物を注文した。


クラスメイトの二人が、どちらの順番で接客するかについて言い争った。


誰かがクッキーの載ったトレイを丸ごと落とし、その衝撃音よりも、周囲の全員が一斉に上げたうめき声のほうが大きかった。


僕は午前中のほとんどを、教室と倉庫と体育館の間を行き来して過ごした。


疲れた。


けれど、コンビニで働いたあとや、倉庫で重い箱を運んだあとの疲れとは、少し違っていた。


今回の疲れには、周囲の声があった。


誰かがいつもテープを必要としていた。


誰かが紙コップの場所を尋ねてきた。


誰かが音楽について文句を言っていた。


そして数分おきに、美優が別の仕事を持って僕のところへ現れた。


「アキラ、ナプキンをもっと持ってきてくれる?」


「アキラ、予備の延長コードがどこにあるか知ってる?」


「アキラ、この看板を直せる?」


「アキラ、コーヒーマシンがどうしてこんな音を出してるのか教えて」


「分からない」


「コンビニでアルバイトしてるんだから、機械のことくらい分かるんじゃないの?」


「それは雇用形態の問題ではないと思う」


美優は両手を合わせた。


「お願い」


僕は彼女を見つめた。


彼女も僕を見つめ返す。


僕はコーヒーマシンを受け取った。


コンセントを抜くと、音は止まった。


美優が瞬きをする。


「直った」


「音を出す機能を取り除いただけだよ」


「それでも直したことになるよ」


「本当はならない」


彼女は笑い、機械を確認するために身を寄せた。


距離が近かった。


彼女のシャンプーから漂う、かすかな甘い香りが分かるほどに。


僕はすぐに視線を逸らした。


それは、すでに習慣になりつつあった。


危険な習慣だ。


彼女が僕に笑いかけるたび。

僕の名前を呼ぶたび。

何気ないことを僕に任せてくれるたび。


抑え込もうとしていた感情が、少しずつ膨らんでいく。


僕は美優が好きだ。


そこまでは、もう認めていた。


けれど、感情を認めたからといって、それを抱えて生きることが楽になるわけではなかった。


     ◇


正午頃、僕は校庭の近くで、美優が紙コップを二つ持って立っているのを見つけた。


彼女は、そのうちの一つを僕に差し出した。


「はい」


「どうして?」


「朝からずっと働いてるから」


「僕はジュースで給料をもらってるの?」


「報酬は一杯」


「ひどい契約だね」


「受け入れる前に交渉すればよかったのに」


僕はカップを受け取った。


ジュースは冷たく、プラスチックの表面が指にしっとりと触れた。


校庭の向こうでは、海斗が何人かのクラスメイトと一緒に立っていた。


彼は年下の生徒たちが輪投げのゲームを準備するのを手伝っているらしい。


木製の枠を運ぶという単純な作業をしているだけなのに、彼は自然と人目を引いていた。


近くにいた何人かの女子が、互いに小声で話している。


海斗はそれに気づくと、気まずそうにすることもなく、軽く手を振った。


美優が僕の視線を追う。


「ああ、海斗は運動部の手伝いをしてるんだね」


「気づくのが早いね」


「同じクラスだから」


「なるほど」


美優は、かすかに笑いながら僕を見た。


「なんか変だよ」


「ジュースを飲んでるだけだけど」


「しばらく前から変だよ」


「もしかしたら、ジュースに問題があるのかもしれない」


「アキラ」


僕は彼女を見る。


美優は何か言おうとしたようだった。


けれど、そのとき海斗が彼女の名前を呼んだ。


「美優!」


彼女が振り向く。


海斗が、小さな紙袋を手に近づいてきた。


「これ、委員長に渡してくれる? 追加のマーカーを頼まれたんだけど、職員室で見つからなくて」


「分かった。渡しておくね」


美優が答える。


「ありがとう。それと……」


海斗が僕を見る。


「君、中村だよね?」


「うん」


「朝からずっと荷物を運んでるのを見たよ。手伝ってくれてありがとう」


「別に」


「それ、よく言うね」


「だいたい本当に大したことじゃないから」


海斗は笑った。


「僕もそう言えるようになりたいな。さっき、紙コップの箱を丸ごと落としそうになったんだ」


「たぶん、誰かが手伝ってくれるよ」


「いや、落とす速度が十分に速かったら、誰も助けられないと思う」


あまりにも自然な答えだったので、僕は思わず笑いそうになった。


海斗は、傲慢な人間ではなかった。


それが、問題の一つだった。


もし彼が意地悪で、自信過剰な人間だったなら、嫌うのは簡単だっただろう。


けれど、彼は気さくで、人に褒められることを期待せずに誰かを助ける。


誰もが自然に彼と話していた。


まるで、彼の近くに立つために資格を得る必要なんてないかのように。


美優は、以前にも見たことのある明るい目で彼を見ていた。


ほんのわずかな変化だった。


瞳の奥が少しだけ変わる。


声に、ほんの少しだけ多くの関心が混じる。


海斗が話し終える前に浮かぶ笑顔。


僕は手の中のジュースへ視線を落とした。


胸の奥が締めつけられる。


それでも、表情は変えなかった。


海斗が校舎のほうへ目を向ける。


「そういえば、副校長先生を見なかった? ステージの近くの音響設備が、また変な感じなんだ」


「また?」


美優が尋ねる。


「また」


「じゃあ、一緒に探すよ」


美優は僕のほうを振り向いた。


「アキラも来る?」


僕は、ほとんど反射的に「うん」と答えかけた。


その返事は、自然に口元まで上がってきた。


けれど、海斗を見る。


彼はすでに美優を待っていた。


「いや」


僕は言った。


「まだカフェの備品を確認しないといけないから」


美優の表情が、ほんの少し変わる。


「本当に?」


「うん」


「分かった。無理しないでね」


「分かってる」


彼女は頷き、それから海斗のあとを追って校庭を横切っていった。


僕は数秒だけ二人を見つめ、それから視線を逸らした。


嘘は小さなものだった。


備品を確認する必要なんてなかった。


ただ、二人の後ろを歩きたくなかっただけだ。


     ◇


午後になると、文化祭はさらに騒がしくなった。


体育館では生徒たちの発表が行われ、拍手の音が壁を震わせていた。


外では屋台が並び、焼きそばや焼き肉、甘い菓子の匂いが空気を満たしていた。


僕は教室の入口近くで、空になったトレイの束を抱えて立っていた。


その日、初めて急いでやらなければならない仕事がなくなった。


美優が僕の隣に現れる。


「どこに行ってたの?」


「倉庫」


「四十分も?」


「倉庫は広いから」


彼女は僕の手元のトレイを見る。


「まだ働いてるんだね」


「トレイを持ってるだけだよ」


「それも仕事でしょ」


「じゃあ、働いてる」


美優はため息をつき、扉の枠に寄りかかった。


しばらく、僕たちは何も話さなかった。


周囲では文化祭の騒音が続いている。


それなのに、僕たちの間だけは不思議なほど静かだった。


「ねえ」と、美優が言った。


「今日、来てくれてよかった」


「手伝いに割り当てられてただけだよ」


「そういう意味じゃない」


僕は彼女を見る。


美優は穏やかに微笑んだ。


「中村くんって、いつも授業が終わったらすぐ帰るでしょ。でも今日は残ってくれた」


「委員会の予定に含まれてたから」


「何でも報告書みたいに説明するの、やめてくれる?」


「正確に伝えようとしてるだけ」


「本当にどうしようもないね」


「よく言われる」


美優は校庭のほうへ視線を向けた。


「文化祭って楽しいけど、ちょっと不思議だよね」


「どうして?」


「みんな、明日なんて来ないみたいに振る舞ってるから」


僕は、廊下を走りながら友達と笑い、写真を撮り、互いの声に負けないように叫んでいる生徒たちを見た。


「それの何が悪いの?」


「悪くないよ」


美優の笑顔が少し柔らかくなる。


「ただ、普通の日もこんなふうに感じられたらいいのにって思う」


その言葉が、僕の中に残った。


普通の日。


何気ない言葉だった。


けれど僕は、普通の日が決して保証されていないことを知っていた。


レンは、ある朝学校へ行ったきり、二度と戻ってこなかった。


ダイチは、ある夜眠りについたまま、二度と目を覚まさなかった。


人は、何の前触れもなく、日常の真ん中から消えてしまうことがある。


僕はトレイを握る手に力を込めた。


美優がそれに気づく。


「アキラ?」


「大丈夫」


「いつもそう言うよね」


「みんなが何度も聞いてくるから」


美優はしばらく僕を見つめ、それから少し困ったような、苛立ったような笑みを浮かべた。


「ねえ、毎秒ちゃんとしてなくてもいいんだよ」


僕は視線を逸らした。


その言葉には、聞き覚えがあった。


以前にも、彼女は似たようなことを言っていた。


そして彼女がそう言うたびに、僕はその言葉を信じたくなった。


「……そうかもしれない」


僕が答えると、美優はその小さな返事で満足したようだった。


「ほら、文化祭ももうすぐ終わりだよ。そろそろ最後の放送があるんじゃないかな」


「まだ、これを戻さないと」


「じゃあ、早く戻してきて」


「僕に命令してる?」


「うん」


「慣れてきたね」


美優は笑った。


「中村くんも、言うことを聞くのに慣れてきたと思うよ」


僕は、彼女の言葉を聞いていた。


長い間、彼女の声を聞いていたい。


明日も。

その次の日も。


彼女と過ごすどんなに小さな時間でさえ、僕にとって大切なものになってしまった。


そんなことを伝えたかった。


けれど、言葉は歯の裏側に留まったままだった。


まだだ。


文化祭が終わってから。


すべてが落ち着いてから。


適切なタイミングを見つけてから。


僕は何日も、そう言い続けていた。


もしかしたら、何週間も。


窓の外の空が、少しずつ暗くなり始めていた。


文化祭の明かりが一つ、また一つと灯り、近づいてくる夕暮れの中で柔らかく輝いていた。


そのとき、ほんの一瞬だけ、靴の下の床が揺れたように感じられた。


あまりにも微かな揺れだったので、僕は自分の気のせいかと思った。


次の瞬間、窓ガラスが震えた。


一度だけ。


美優が窓のほうを見る。


「……今の、感じた?」


僕は窓を見つめた。


校庭はまだ人で賑わっていた。


生徒たちは笑い続けている。


体育館のほうから誰かが叫んでいる。


教師が、ステージの近くに集まるよう呼びかけていた。


何も変わっていない。


「たぶん、トラックじゃないかな」


僕が言うと、美優はゆっくり頷いた。


「……たぶんね」


僕たちのどちらも、納得しているようには見えなかった。


その直後、最後の放送が始まった。


スピーカーが雑音を発する。


生徒たちが歓声を上げる。


そして、ありふれた学校の文化祭の喧騒に囲まれながら、僕は自分自身に約束した。


明日、僕は美優に気持ちを伝える。


もう言い訳はしない。


先延ばしもしない。


明日こそ、長い間抱えてきた言葉を、ちゃんと口にする。


     ◇


翌朝、僕は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


数秒間、薄い毛布の下で身動きもせず、天井を見つめていた。


今日。


何よりも先に、その言葉が頭に浮かんだ。


今日、僕は美優に伝える。


何度も繰り返してきたせいで、それはもう決意というより、ずっと先延ばしにしてきた課題のように感じられた。


僕は身体を起こし、目をこすってから、テーブルの近くにある空の椅子を見た。


「おはよう、じいちゃん」


部屋から返事はなかった。


いつものことだ。


朝食を終えたあと、僕はスマートフォンを確認した。


美優からメッセージが届いていた。


『今日、早めに学校へ来る?』


『ちょっと手伝ってほしいことがあるの』


僕は画面を見つめた。


心臓が少しずつ速くなる。


『すぐ行くよ』


返信は、ほとんどすぐに届いた。


『分かった! 私が見つける前にいなくならないでね』


僕は、少しだけ笑いそうになった。


本当に、少しだけ。


     ◇


学校に着いたとき、校内はまだ人で賑わっていた。


文化祭の飾りは、いたるところに残っている。


手すりには紙のランタンが吊るされ、壁にはポスターが貼られ、いくつかの教室は扉を開けたままだった。


校舎は、前日の疲れからまだ立ち直っていないように見えた。


階段の近くで、美優が僕を見つけた。


「あ、いた」


「手伝ってほしいんだっけ?」


「うん」


「何を?」


彼女は壁際に置かれた箱を指差した。


「あの飾りを備品室に片づけたいの。自分で運ぼうと思ったんだけど……」


「また気持ちで箱を数えた?」


美優は胸に手を当てた。


「あれは一回だけだよ」


「箱は四つあるけど」


「今回は四つ数えた」


「進歩したね」


美優は不満そうな顔をした。


けれど、すぐに笑った。


僕たちは一緒に箱を運んだ。


作業は単純だった。


しばらくの間、どちらも何も話さなかった。


高い窓から差し込む日差しが、床の上に淡い長方形の光を作っていた。


備品室に着くと、美優は箱を置き、手についた埃を払った。


「ありがとう」


「他の人に頼んでもよかったんじゃない?」


「アキラに頼みたかったから」


その言葉は、何気ないものだった。


彼女の声も、いつも通りだった。


けれど僕の心は、それを何か特別な意味があるかのように掴んで離さなかった。


僕は自分の箱を、彼女の箱の隣に置く。


「どうして?」


美優は僕を見た。


「だって、いつも手伝ってくれるから」


「それは、あまりいい理由じゃないと思うけど」


「私にとっては、いい理由だよ」


胸の奥が締めつけられた。


まただ。


その優しさ。


その自然な温かさ。


それが、僕に学校を楽しみにさせた。


それが、今まで想像することさえ許さなかった未来を、思い描かせるようになった。


今なら言える。


美優。

僕は、君が好きだ。


言葉は、もう準備できていた。


何日も前から、ずっと準備できていた。


「美優――」


そのとき、突然、音がした。


最初は、床の下から響く低い唸り声のようなものだった。


次の瞬間、窓が揺れ始めた。


備品室の金属製の棚が激しく震える。


上段に置かれていた箱が一つ、床へ落ちた。


美優の目が大きく見開かれる。


「これって――」


建物が大きく揺れた。


足元の床が動く。


外をトラックが通ったときのような揺れではなかった。


小さな振動でもない。


学校全体が、軋み声を上げているようだった。


「地震だ!」


廊下から誰かの叫び声が聞こえた。


照明が明滅する。


その一秒後、揺れはさらに強くなった。


美優の身体がふらつく。


僕は彼女の腕を掴み、棚から引き離した。


その直後、彼女が立っていた場所へ、別の箱が落下する。


「伏せて!」


僕は叫んだ。


僕たちは壁際にしゃがみ込み、周囲の空間が揺れるのを耐えた。


音があまりにも大きかった。


金属と金属がぶつかる音。


窓枠の中でガラスが震える音。


外のどこかで、人々が叫んでいる声。


建物そのものが、倒れまいとして苦しんでいるかのように、天井が軋んでいた。


美優が僕の袖を掴む。


「アキラ!」


「ここにいる!」


「これ、止まるの?」


「分からない!」


それが、僕に答えられる唯一の正直な言葉だった。


揺れは、何分間も続いたように感じられた。


実際には、もっと短かったのかもしれない。


やがて、少しずつ揺れが弱くなっていく。


棚の音が止まった。


照明が安定する。


部屋の中に、不思議な静けさが落ちた。


本当の静寂ではない。


足音も、怯えた声も、建物中に響く警報音も、まだ聞こえている。


それでも、地震の最中と比べれば、ほとんど穏やかに感じられた。


美優は僕の隣でしゃがんだままだった。


彼女の指は、まだ僕の袖を掴んでいる。


「怪我は?」


僕が尋ねると、彼女は首を横に振った。


「ない」


「アキラは?」


「僕も……大丈夫」

彼女は落ちた箱を見つめ、それから出入口へと視線を向けた。


「外に出たほうがいいよね」


「窓には近づかないで」


僕たちは慎重に廊下を進んだ。


生徒や教師たちは、職員の指示に従いながら中庭へ集まっていた。泣いている生徒もいた。家族に電話をかけている生徒もいる。何が起きたのか理解できないとでもいうように、校舎を見つめたまま立ち尽くしている生徒もいた。


美優は不安そうに周囲を見回した。


「海斗は?」


「分からない」


「体育館の近くにいたはず」


「まず先生を探そう」


「でも――」


「美優」


彼女が僕のほうを向く。


「校舎が壊れていたら、中に戻るのは危険だ」


彼女は唇を結び、それから頷いた。


「……分かった」


僕たちは、ほぼ一時間にわたって中庭に留まった。


教師たちは出席を確認し、生徒たちには、校舎の安全が確認されるまで建物から離れているよう指示が出された。


頭上の空は晴れていた。


何かが変わったことを示す雲すらない、どこか不自然なほど澄み切った空だった。


やがて教師の一人が、少人数のグループごとに教室へ戻り、荷物を回収してもよいと告げた。


美優は本校舎のほうを見た。


「教室にスマホの充電器を置いてきちゃった」


「あとで取りに行けばいいよ」


「スマホが必要なの」


「スマホなら持ってるだろ」


彼女は視線を落とした。


その端末は、すでに彼女の手の中にあった。


「あっ」


僕は彼女を見つめた。


彼女も僕を見つめ返す。


そして、こんな状況にもかかわらず、彼女は笑った。


緊張の混じった笑い声だった。


それでも、確かに笑っていた。


「今のこと、絶対にもう言わないでね」


「一生覚えておく」


「アキラ」


「分かったよ」


ほんの一瞬だけ、張り詰めていた空気が和らいだ。


その直後、また足元を小さな揺れが通り過ぎた。


最初の揺れよりは小さかった。


それでも、全員の動きを止めるには十分だった。


中庭が静まり返る。


美優の笑顔が消えた。


教師が、落ち着くように大声で呼びかける。


僕は空を見上げた。


太陽の光が、妙に白っぽく見えた。


校舎の反対側にある木々から、鳥の群れが一斉に飛び立った。四方八方へ散っていく。


そのとき、僕のスマホが震えた。


画面に、アルバイト先の店長からのメッセージが表示される。


《店長:今日は来なくていい。電車が運休になるみたいだ。安全を優先してくれ》


僕はそれを二度読んだ。


電車が運休。


つまり、地震は僕たちの近所だけで起きているわけではない。


最初に想像していたよりも、ずっと大きな地震だった。


美優が僕のスマホを覗き込む。


「大丈夫?」


「電車が運休になるって」


彼女の表情が真剣になった。


「じゃあ、私たちも帰ったほうがいいかもね」


「……そうだね」


だが、僕たちが動き出す前に、教師の一人が声を上げた。


「生徒の皆さん! 余震が続いているため、一人で帰宅することは禁止します! 保護者が到着するか、交通手段が確保されるまで、指定されたグループで待機してください!」


中庭に、「保護者」という言葉が響き渡った。


何人もの生徒が、すぐに両親へ電話をかけ始める。


僕はスマホを下ろした。


美優がそれに気づく。


「アキラ……」


「僕は大丈夫だよ」


「そんなこと、聞いてない」


「……分かってる」


彼女は少しだけ迷った。


それから、静かに言った。


「私と一緒にいてもいいよ」


その言葉は、必要以上に深い場所へ突き刺さった。


僕は彼女を見た。


彼女自身も、どう聞こえたのか気づいたらしい。慌てたように言葉を付け足す。


「えっと……全部が落ち着くまでって意味。アキラが一人で待つ必要はないから」


僕は頷いた。


「うん」


それから数時間後。


学校側が、本校舎は短時間なら立ち入っても安全だと確認したため、僕たちは荷物を取りに戻ることを許された。


中庭は人で混雑しすぎていた。


そのため、教室の確認が終わるまでの間、比較的安全と判断された開けた場所――屋上の展望スペースへ、教師がいくつかのグループを誘導した。


僕と美優も、ほかの生徒たちに続いて階段を上った。


屋上の扉が、金属の軋む音を立てて開く。


風が開けた空間を横切り、遠くから聞こえる街の音を運んできた。


そこから見える大阪は、見慣れない街のようだった。


車の流れは遅くなっていた。


いくつかの建物では停電が起きている。


遠くでは細い砂埃の柱が立ち上り、緊急車両のサイレンが街路の間で反響していた。


美優は手すりのほうへ歩きかけたが、安全な距離を保ったところで足を止めた。


「ここから見ると、全部がすごく小さく見えるね」


僕は彼女の隣に立った。


「小さくても、危険なものは危険だよ」


彼女が僕を見る。


「なんだか、おじいさんが言いそうなことだね」


「一人の老人から教わったんだ」


彼女の表情が柔らかくなった。


「おじいさん?」


僕は頷いた。


しばらく、彼女は何も言わなかった。


やがて、尋ねる。


「みんな、大丈夫だと思う?」


「そう願ってる」


「自信がなさそう」


「嘘をつきたくないから」


美優は再び街へ視線を向けた。


「……怖い」


あまりにも小さな声だった。


風にさらわれてしまいそうなほどに。


僕は彼女へ向き直った。


「怖くないふりをしなくてもいいよ」


彼女は驚いたように僕を見る。


それから、かすかに笑った。


「アキラもね」


僕は答えたかった。


僕も怖いのだと、伝えたかった。


地震だけが理由じゃない。


足元で世界そのものが揺らいでいるように感じるからだけでもない。


僕が、ようやく失いたくないと思えるものを見つけてしまったからだ。


そして、僕がこれまで失いたくないと願ったものは、いつだって最後には消えていった。


「美優」


僕が呼ぶと、彼女がこちらを向いた。


屋上が揺れた。


ほんのわずかに。


けれど今度は、僕たちのどちらも、それを通り過ぎるトラックのせいだとは思わなかった。


街の地下から、深い唸り声が響き始める。


手すりが震えた。


地面が傾く。


美優がよろめき、後ろへ下がった。


僕は彼女の手を伸ばして掴んだ。


「掴まって!」


彼女が僕にしがみつく。


僕たちは、さらに強さを増して戻ってきた地震の中で、どうにか立ち続けようとした。


空が回転しているように見えた。


屋上が叫び声で満たされる。


背後のどこかで、扉が激しく開いた。


僕たちの足元近くのコンクリートに、ひびが走った。


美優が僕の手を強く握りしめる。


「アキラ!」


「僕がついてる!」


だが、足元の地面は再び大きく揺れた。


そして今度は、僕の背後にあった手すりが崩れた。


その音を、僕は生涯忘れないだろう。


金属が支柱から引きちぎられる。


手すりの一部が外側へ倒れ、僕の背中と空中の間に何もなくなった。


ほんの一瞬、身体が浮いたように感じた。


そして、足が滑った。


「アキラ!」


地震の轟音を、美優の声が切り裂いた。


僕は後ろへ倒れた。


だが、手が残った手すりの縁を捉えた。


身体が屋上の外側へ振り出され、両腕に激痛が走る。


僕の下から、校舎が遠ざかっていく。


中庭が、ありえないほど遠くに見えた。


生徒たちは四方八方へ逃げていた。


けれど、その声は遠く、歪んで聞こえた。


学校の敷地の向こうでは、道路から砂埃が舞い上がっている。


空が突然、広すぎるものになったように感じられた。


その下で、街全体が震えていた。


僕は掴まっていた。


指に力を込める。


冷たい金属が、手のひらに食い込んだ。


「美優!」


彼女は屋上に伏せ、片手でコンクリートを掴んでいた。


顔は青ざめ、風に煽られた髪が目元を覆っている。


「手を離さないで!」


彼女が叫ぶ。


「分かってる!」


地震は続いていた。


彼女の下の屋上が揺れる。


美優は身体を低くしたまま、僕のほうへ這ってきた。


そのとき、彼女の背後にもう一人の人影が現れた。


海斗だった。


制服には埃が付着し、額の近くには切り傷があった。


それでも、彼は動いていた。


「美優!」


海斗が叫ぶ。


「大丈夫か!」


「私は大丈夫! アキラが、屋上の外に!」


海斗が僕を見る。


僕が彼を知って以来、初めてだった。


その表情から、落ち着きというものが完全に消えていた。


「引き上げられるか?」


「手が届かない!」


海斗は地面に伏せるようにして、美優の隣へ移動した。


「手を貸して」


美優が彼へ手を伸ばす。


海斗は彼女の手首を掴み、それから身体を前へ伸ばし、もう片方の手を僕へ差し出した。


「中村! 俺の手を掴め!」


僕は彼を見上げた。


その手は、ほんの少し先にあった。


僕は上へ手を伸ばす。


指先が触れた。


一秒だけ、戻れるかもしれないと思った。


だが、その瞬間、屋上が再び大きく揺れた。


海斗の身体が前へ滑り、美優が彼を支えようとして声を上げる。


「動くな!」


海斗が叫んだ。


「動いてない!」


僕の手が滑った。


海斗はさらに腕を伸ばす。


「早く! 俺の手を取れ!」


僕は、届く限り手を伸ばした。


指先が、もう一度触れ合う。


けれど、彼の手は遠すぎた。


そして、僕の身体は重すぎた。


僕の体重を受けて、残った金属が大きく曲がる。


頭上から、鋭い音が響いた。


見上げる。


手すりが、コンクリートから引き剥がされようとしていた。


「美優」


僕が言うと、彼女は僕を見つめた。


「お願い」


僕は続けた。


「もう少し後ろへ下がって」


「嫌!」


「これが壊れたら、美優も落ちる」


「私はアキラを置いていかない!」


彼女の声が震えた。


その瞬間、僕はほとんど信じてしまいそうになった。


それが、いちばん残酷な部分だった。


高さでもない。


揺れ続ける地面でもない。


恐怖ですらない。


彼女が僕を置いていかないと言ったとき、そこに生まれた小さくて脆い希望。


僕はずっと、人に何も期待しないようにしてきた。


それなのに、いつの間にか彼女に何かを期待し始めていた。


彼女に与えてほしいと、一度も頼んだことのない何かを。


海斗が、美優の手首をさらに強く握った。


「美優、俺の話を聞け! まずお前を縁から離さないと!」


「でも、アキラがまだ――」


「分かってる!」


海斗は再び僕を見た。


「中村、耐えろ!」


僕は耐えようとした。


本当に、必死に耐えた。


けれど、腕から力が失われていく。


指先の感覚が、少しずつ消えていく。


僕の上にある世界が、断片的に揺れていた。


怯えた美優の顔。


伸ばされた海斗の手。


その背後に広がる、白っぽい空。


二人の人間。


僕へ伸ばされる一つの手。


僕を救おうとしている一人の人間。


それでも、なぜか僕は、その場の外に立っているような感覚に陥っていた。


まるで、別の誰かに起きている出来事を眺めているようだった。


「美優」


僕はもう一度、彼女の名を呼んだ。


彼女が僕へ身を乗り出す。


「なに?」


言いたいことは、いくらでもあった。


ノートを貸してくれたあの日から、彼女のことが好きだったと伝えたかった。


彼女が見せてくれた小さな優しさを、一つ残らず覚えていると伝えたかった。


くれたサンドイッチも。


一緒に差した傘も。


彼女が大切にしまっていた、少し歪んだ紙の星も。


そのすべてが、僕にとってかけがえのないものになっていた。


彼女の人生の中で、自分が占めている小さな場所を失いたくなくて、告白するのが怖かったのだと伝えたかった。


けれど、今は慎重に言葉を選んでいる時間など残されていなかった。


明日を待つ時間もない。


だから僕は、ずっと先延ばしにしてきた言葉を口にした。


「美優……僕は、君が好きだ」


彼女の目が大きく見開かれる。


一瞬、地震の音が遠のいたように感じられた。


「ずっと前から好きだった」


僕は続けた。


「文化祭が終わったら伝えようと思ってた。まだ次の機会があるって、ずっと考えてた」


「アキラ……」


「待たせて、ごめん」


「そんなこと言わないで!」


彼女が叫ぶ。


「お願いだから、掴まってて!」


僕は笑った。


不思議だった。


こんなときでさえ、僕は自分のことより、彼女を泣かせてしまうことのほうを心配していた。


海斗が体勢を変え、コンクリートを掴み直そうとする。


「美優、両手が必要だ。後ろへ下がってくれ」


「嫌!」


「ここにいたら、全員落ちる!」


彼女は海斗を見た。


それから、僕を見る。


彼女の目の中に決断が浮かぶのを、僕は言葉が発せられる前に理解していた。


そのとき、僕は悟った。


彼女が僕を嫌っているからではない。


僕に消えてほしいと思っているからでもない。


ただ、彼女の心はすでに別の誰かを選んでいたのだ。


「アキラ……」


彼女が囁く。


分かっていた。


それでも、僕のどこかが待っていた。


彼女が否定してくれることを。


僕へ手を伸ばしてくれることを。


僕の名前を、僕が彼女にとって特別な存在なのだと分かるような声で呼んでくれることを。


けれど、彼女は海斗のほうへ身体を寄せた。


僕の手を離した。


支えを失った身体が、数センチ下へ落ちる。


僕は片手で縁を掴み直した。


美優は両手で海斗の腕を掴んだ。


「海斗!」


海斗は縁からさらに離れるように身体を引き、美優も彼にしがみついた。


僕は彼女を見上げた。


彼女は泣いていた。


「ごめんなさい!」


彼女の声が響く。


その言葉だけは、はっきりと聞こえた。


何よりも明瞭に。


僕は、ほんの数秒前まで僕の手を握っていた彼女の手を見つめた。


それから海斗を見る。


彼は、壊れた手すりから美優を遠ざけようとしていた。


二人とも怯えていた。


二人とも必死だった。


そして、二人とも僕を救うことはできなかった。


指の下にある金属が、再び大きく曲がる。


掴んでいる力が弱まっていくのを感じた。


その瞬間、僕はダイチのことを考えた。


家にある古い椅子。


無理をするなと僕に言っていた、レンの声。


美優が初めて僕に笑いかけてくれた日のこと。


どこかへ続いていると、僕が信じていた普通の日々。


僕は、生涯ずっと、自分ではどうにもできないものを耐え抜いてきた。


貧しさ。


喪失。


沈黙。


別れ。


そして、ようやく自分のために何かを望んだその瞬間、世界は僕に、それを手放せと迫ってきた。


指が滑った。


美優が僕の名前を叫ぶ声が聞こえた。


最後に見えたのは、屋上の上に広がる空だった。


ありえないほど青かった。


不公平に思えるほど、美しかった。


そして、僕は落ちた。


風が身体の横を駆け抜けていく。


考える時間はなかった。


すべての選択を後悔する時間もなかった。


ただ一つの思いだけが、鋭く、苦く残っていた。


どうして、僕じゃなかったんだ。


僕は目を閉じた。


世界が消えていく中で、最後の思いが影のように胸の奥へ沈んでいった。


誰も信じるべきじゃなかった。


特に、女の子なんて。


特に、恋なんて。


そして、すべてが闇に沈んだ。


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