プロローグ: 全創造の最後の希望
最初の星が生まれるよりも前。
時間が動き方を知るよりも前。
光と闇に名が与えられるよりも前。
創造の境界を超えた場所に、ひとつの領域が存在していた。
そこは天界ではなかった。
深淵でもなかった。
存在の法則が何の権威も持たない場所。
現実そのものが息を潜めているかのような、静寂に包まれた空間だった。
そこには星がなかった。
惑星もなかった。
風も、音もなかった。
それでも、果てのない静寂の中を、何かが動いていた。
闇の中に、一つの人影が立っていた。
その身体を理解することは容易ではなかった。
半身は、千の太陽よりも眩い、輝く光によって形作られていた。
もう半身は、銀河と銀河の間に広がる虚空よりも深い、生きた闇でできていた。
光と闇は、互いを滅ぼしてはいなかった。
それどころか、神性と闇は同じ存在の中で共存していた。
まるで、かつては敵同士だった二つが、自分たち自身よりも大きな目的によって、一つに結ばれたかのように。
その腕の中には、生まれたばかりの赤子が抱かれていた。
赤子は、静かだった。
目は閉じられ、小さな手は穏やかにその存在の胸元に添えられている。
その姿は、完全に普通の赤ん坊に見えた。
か弱く、無垢で、そして自分を取り巻く広大な世界のことなど何も知らない。
だが、赤子の周囲の空間が震えた。
遠く離れた場所で、見えざる力が揺れ動く。
何かが、彼の誕生に気づいたのだ。
光と闇の存在は、その領域のさらに向こうに広がる虚無へと視線を向けた。
その表情に、初めて、神々でさえ滅多に経験することのない感情が浮かんだ。
恐怖。
自分自身のためではない。
この子のための恐怖だった。
片方の目から光の涙が流れ落ち、もう片方の目から闇の雫がこぼれた。
どちらも地面に届くより前に、無数の粒子へと溶け、虚空へと消えていった。
「時が来た」
存在が、静かに呟いた。
その声には、二つの響きが同時に宿っていた。
一つは優しく温かな声。
もう一つは、古代の記憶を思わせる、虚ろで深い声。
壁のないその領域に、声が反響した。
存在の前に、円形の門が開いた。
その向こうには、揺らめく蝋燭の明かりに照らされた、小さな石造りの部屋があった。
そこは、地球から遥か遠く離れた世界のどこかに隠された、古い修道院の一室だった。
壁にはいくつもの紋様が刻まれていたが、その多くは長い年月によって色褪せていた。
若い修道女が、簡素な木製の祭壇の傍らに跪き、祈りを捧げていた。
その言語は、地球では何千年も前に語られなくなったものだった。
突然、蝋燭の火が消えた。
修道女は顔を上げた。
奇妙な圧力が、部屋を満たしていく。
空気が重くなり、壁に映った影が、部屋の中央へ向かって伸び始めた。
そして、門が現れた。
光と闇の存在が、その門をくぐった。
修道女は凍りついた。
身体が動かない。
声も出ない。
その身に宿る本能のすべてが、跪け、逃げろ、目を閉じろと叫んでいた。
だが、どの行動が自分を生き残らせるのか、彼女には分からなかった。
存在は彼女へと近づき、赤子を差し出した。
「この子を受け取れ」
修道女は、赤子を見つめた。
「こ……この子は、誰なのですか?」
震える声で、彼女は尋ねた。
存在は、すぐには答えなかった。
ただ、眠る赤子を見下ろした。
その表情には、どこか悲しげなものが浮かんでいた。
「すでに一つの人生を失った魂だ」
存在は言った。
「そして、間もなく新たな人生を始める」
修道女は、ゆっくりと両腕を差し出した。
彼女が赤子を抱き取った瞬間、部屋を満たしていた圧力が弱まった。
背後の奇妙な門が、崩れ始める。
「よく聞け」
存在は、言葉を続けた。
「この子は、普通の子供として育てなければならない。出自を隠せ。正体を隠せ。こいつが何者なのか、決して誰にも知られてはならない」
修道女は、眠る赤子へと視線を落とした。
「子供一人に、いったいどんな危険があるというのですか?」
存在の光り輝く目が、わずかに翳った。
「危険ではない」
もう片方の目を覆う闇が、蠢いた。
「数多の危険だ」
低い振動が、修道院を駆け抜けた。
壁に刻まれた紋様が一瞬だけ輝き、そしてひび割れた。
修道女は、赤子を抱く腕に力を込めた。
「なぜ、この子を私に託すのですか?」
存在は、閉じゆく門へと身体を向けた。
「この子を探す者たちに、見つけさせるわけにはいかないからだ」
「もし、見つかったら?」
存在は、しばし沈黙した。
そして、静かに答えた。
「逃げろ。修道院を守ろうなどとするな。奴らと戦おうとするな。子供を連れて、ただ逃げるのだ」
修道女の顔から、血の気が引いた。
「この子は……いったい、何者なのですか?」
一瞬、存在は彼女の目をまっすぐに見つめた。
「この子は、全創造に残された最後の希望となるかもしれない」
その最後の言葉が、修道院の土台さえも揺るがしたように響いた。
そして、門が消えた。
存在の姿も、消えた。
蝋燭の火が、一つ、また一つと再び灯っていく。
部屋に、静寂が戻った。
そこに残されたのは、生まれたばかりの赤子だけだった。
修道女は、長い間、赤子を見つめていた。
赤子の顔は穏やかだった。
彼女の心に入り込んだ恐怖など、何一つ知らないかのように。
修道院の外で、夜空が変わり始めた。
雲の向こうで、見知らぬ星が淡い瞳を開いた。
二つの月が、ゆっくりと闇の中から姿を現した。
そして地平線の彼方では、地球が決して見たことのない空の下で、二つの太陽の最初の光が昇り始めていた。
赤子が、目を開いた。
ほんの一瞬。
その瞳の奥で、計り知れない何かが動いたように見えた。
だが、それはすぐに消えた。
修道女は、赤子をさらに強く抱き寄せた。
「あなたを、何と呼べばいいのでしょう?」
彼女は、囁いた。
赤子は、答えなかった。
しかし、その世界の境界を遥かに超えた場所で、何か古きものが、すでに目覚めていた。
そして、その子の到来によって、すべてが始まった。




