第9話 剣の居場所
序章終了
「貴女は――なぜ、そんなにも辛いのですか?」
その声音は責めるでもなく、導くように問いかけられた。
「……私が、辛い?」
「はい……とても。今にも胸が張り裂けてしまいそうなお顔をしています」
フィオナ様の声は穏やかだった。けれど、その優しさが、かえって胸に刺さる。
「よかったら、教えてください。なぜ、そう感じているのか」
私は思わず視線を落とした。
答えなんて、最初から分かっている。
それでも、言葉にする勇気がなくて――床の絨毯の模様をぼんやりと見つめる。
沈黙が、やけに長く感じられた。
私は、必死で自分の心の底に手を伸ばす。
もう何度も掘り返して、血だらけになったはずの場所を、また抉る。
……本当に、馬鹿な女だ。
やがて。
私は喉の奥をぎゅっと締めつけるようにして、かすれた声を零した。
「……アルトを……愛しているから……」
たったそれだけの言葉なのに、喉が震えて、息が詰まる。
愛している。
前から。ずっと。まだ。今も。
その事実が、胸の奥で鈍く痛んだ。
「アルトを苦しめたのに……それでも、傍にいたくて……また一緒にいられるかもしれないって思うだけで……嬉しくなってしまって……」
声が、勝手に裏返る。
言葉の途中で詰まり、私は唇を強く噛んだ。
こらえきれず、視界が滲む。
ぽろ、ぽろ、と。
床に落ちる涙の音が、やけに大きく感じられた。
「そんな自分が……許せないんです……傷つけたくせに……まだ、自分勝手で……
最低ですよね……ほんと……救いようのない、馬鹿女……」
胸を押さえながら、必死に続ける。
自嘲が、自然と滲む。
私は、自分で自分を切り刻みたくて、その言葉を吐き出した。
ただ、自分自身を裁くための――血を吐くような告白だった。
「……なるほど。お話しくださって、ありがとうございます」
フィオナ様は一度だけ、静かに息を整えた。
それから少し考えるように視線を伏せ、やがて穏やかな声で続ける。
「では、いくつか確認させてくださいね」
私は背筋を伸ばす。
フィオナ様が、ただ、事実を一つずつ並べていく――そんな空気だった。
「貴女は、ご自身の過ちを認めています。後悔もしている。そして……法的な償いも、すでに終えている」
胸の奥が、きゅっと縮む。
私は小さく頷いた。
逃げていない。そこだけは、誇れるほどじゃなくても……ちゃんと向き合った。
「次です。貴女は、今もアルトを愛していますね」
「……はい」
心臓が跳ねる。
声は、思ったよりも素直に出た。
「では、その想いを――捨てることはできますか?」
その問いの瞬間、私は反射的に首を振っていた。
考えるまでもなかった。
「……できません……。生まれた時から、ずっと一緒でした。
アルトとの時間は……私の全部なんです。捨てるなんて……考えられません」
惨めなくらい、正直に言った。
言葉にするほど、自分の未練深さが浮き彫りになる。
依存なのか、執着なのか。
これが私。
醜くて、気持ちが悪くなる。
「……ですよね」
フィオナ様は否定しなかった。
ただ静かに受け止めてから――
まるで祈るように一度まばたきして、淡々と結論を組み立てていく。
私は、その続きを待ちながら、膝の上で自分の指を強く握りしめた。
自分がどんな裁きを下されるのか。
それを聞く覚悟だけは、もう決めていた。
「そうすると、貴女の苦しみの正体は、こうなります」
フィオナ様の声は、あくまで静かだった。
「――自分が傍にいることで、アルトを苦しめてしまうのではないか。そこですね。
では、もう一つだけ」
胸の奥が、ひやりと冷える。
フィオナ様は、そっと私に視線を合わせた。
「アルトは、貴女のすべてを否定しましたか?それから……こう言いましたか?――二度と近づくな、と」
その瞬間。
思考が、雷に撃ち抜かれたみたいに真っ白になった。
息の仕方さえ、わからなくなる。
次の瞬間、心の奥底から――あの日の声が、否応なく浮かび上がってきた。
何度も繰り返し思い出して、そのたびに胸を掻きむしってきた、あの言葉。
私は唇を噛みしめる。
忘れたくても、忘れられない。
許されたいと願いながら、それでも――自分には、許される資格なんてないのだと思いながら聞いた声。
『僕も……まだ、君を愛しているよ、リーネ。
……でも。女として、妻としては、もう君を信頼することができないんだ。
信頼できない人間と、夫婦として隣り合って生きていくことはできない』
胸の奥が、きゅっと縮む。
息が詰まりそうになるほど痛いのに、それでも――。
「……言われては、いません」
かろうじて掠れた声を絞り出す。
フィオナ様は、小さく安堵の息をついた。
「よかった……」
そのまま、慈愛を宿した眼差しで、次の問いを静かに投げかけてくる。
「それでは――過去の過ちを悔い、償い、なおアルト=ヴェルクレインを愛している。
そのうえで、彼の傍にいることを完全には拒まれていないリーネ=カーティスは……どう在るべきでしょう?」
私は唇を噛みしめた。
恋人としてでもなく。
妻としてでもない。
もう戻れない場所を、心の中で何度もなぞりながら――それでも、今の私に残されている“立場”を、必死に探す。
逃げたい気持ちと、支えたい想いが、胸の中で絡み合う。
……考えろ。
自分勝手な女でもいい。
それでも、アルトの役に立てる形を。
私は俯いたまま、小さく息を吸い込んだ。
「……女として、じゃなくて。一人の人間として……私は、アルトを支えたいです」
声はまだ震えていたけれど、何とか口に出せた。
フィオナ様は、静かに頷く。
「では――『神速の舞剣』は、魔王討伐パーティで。『深淵の賢者』に、何ができますか?」
その問いに、私は思わず背筋を伸ばした。
胸の中で絡まっていた迷いが、一本ずつほどけていく。
「……私は、自分の役割を果たします。
剣士として。仲間として……命を懸けて」
言い切った瞬間、胸の奥に小さな灯りがともった気がした。
——あ。
我に返って、慌てて頭を下げる。
「……っ!あ、ありがとうございます……フィオナ様……!」
「はい。よくできました」
その声は、とても静かで、あたたかかった。
深く頭を下げた私を、フィオナ様はそっと見守っている。
責めるでもなく、甘やかすでもなく。
ただ――迷える私の魂を、正しい場所へと導くように。
「さて。それでは、アルトと夕食を食べに行きましょうか。夕食会場に戻りますよ」
えっ?
あまりにも自然な口調で、そんな爆弾発言。
「……えっ!? え、ちょっ――待ってください、まだ心の準備が……!」
思わず素っ頓狂な声が出た。
けれど、フィオナ様は立ち止まらない。
そのまま私の手を取って、ずんずんと歩き出す。
え。
ちょっと待って。
本当に待って。
心はまだぐちゃぐちゃで、顔だってきっとぼろぼろで、
今アルトに会えるような状態じゃないのに――。
「ふふ。大丈夫ですよ、リーネ」
引かれるまま半歩遅れてついていきながら、私は必死に足を動かす。
待って、待ってください……!
ついさっきまでメソメソ泣いてた女を、そんな即席で“現実”に放り込まないで……!
胸の奥がきゅっと締め付けられる。
それでも。
握られたフィオナ様の手は、驚くほど温かくて。
強引なのに、不思議と嫌じゃなかった。
——ああ。
私は観念する。
これはきっと、優しさなのだ。
立ち止まる時間を与えない、前に進ませるための。
アルトのいる場所へ。
私が戻るべき、現実の中へ。
※
「……じゃあ、俺は先に休ませてもらうよ。今日は話せてよかった、カーティス卿。
……それから、ルミエール様。いろいろと、ありがとうございました」
そう言って、アルトは椅子から立ち上がった。
途中からフィオナ様が合流してからも――ぎこちなさは残りつつ、それでも私とアルトは、思っていた以上に言葉を交わすことができた。
私は感情が溢れてしまって、何度も途中で泣いてしまったけれど。
そのたびに、フィオナ様がさりげなく話題を変えてくれたり、間に入ってくれたりして。
……本当に、感謝しかない。
「“ルミエール様”だなんて。どうか、私のことはフィオナと呼んでください。
これから一緒に戦う仲間なのですから」
フィオナ様は、微笑みながらそう告げた。
その自然さ。
迷いのない距離感。
それを見て、胸の奥が、ちくりと小さく痛む。
——いいな。
私には、もう簡単には越えられない一線を、フィオナ様は、当たり前みたいに越えている。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、羨ましかった。
アルトは頬をかきながら、照れたように笑う。
「……わかりました、フィオナ。
それじゃあ、俺のことはアルトと呼んでください。これから、よろしく」
そのやり取りを、私は静かに見つめていた。
隣に並ぶことはできなくても。
恋人でも、妻でもなくても。
——せめて、同じ仲間として。
その想いが胸いっぱいに広がって、気づけば、私は声を上げていた。
「あ……あのっ……!わ、私も……リーネって……呼んで……もらって……も……」
途中で、言葉が喉に詰まった。
「……ごめんなさい……」
視線を落とし、指先をぎゅっと握る。
アルトは、ぱちりと目を見開いている。
……ああ。
やっぱり、困らせちゃったよね。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
——また、拒絶されるんだ。
それは仕方のないこと。
わかっているのに……やっぱり、痛かった。
けれど。
「……わかった。訓練期間中は、そう呼ばせてもらうよ。
また、よろしくな、リーネ」
そう言って、アルトは微笑んだ。
それは――昔と何ひとつ変わらない、私の知っている優しい笑顔だった。
胸の奥で、何かが音を立ててほどける。
その笑顔は、私にとっては奇跡みたいで。
壊れてしまった時間が、ほんの一瞬だけ、戻ってきた気がして。
……嬉しかった。
どうしようもなく、嬉しかった。
必死に抑えていたものが、溢れ出す。
気づけば私は、また泣いていた。
情けないくらい、ぼろぼろと。
でも。おかげで。
心の奥では、はっきりと決まっていた。
私はもう、何も望まない。
恋人でなくてもいい。
妻でなくてもいい。
ただ――
今度こそ、愛を。
全身全霊の愛を。
一心不乱の愛を。
剣に込める。
アルトに降りかかる危険があるなら。
アルトを苦しませる敵がいるなら。
全部。
全部、斬り伏せる。
それが――
今の私に許された、唯一の役割だから。
私は、私の全部をこの人に捧げるんだ。




