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第8話 聖女の告解室

序章8/9です

 きらびやかなシャンデリアの光が、銀食器に反射して視界を刺す。

 王城の夕食会場には、贅を尽くした料理の香りが満ちていた。本来なら、人類の希望として選ばれた者たちが、その結束を固めるための輝かしい祝宴になるはずだった。

 けれど、私は今、果物一欠片すら食べたくない。

 

 視界の端に映る「彼」の姿が、私のすべての感覚を麻痺させていたから。

 

 アルト=ヴェルクレイン。

 

 かつての私の夫。そして、私が世界で一番傷つけ、世界で一番愛している人。


 黒い衣に身を包んだ彼は、少し離れた席で、見たこともないほど冷ややかな横顔を晒していた。

 賢者の学院での生活が彼を変えたのか、あるいは私との別離が彼を塗り替えたのか。

 新しくかけられた眼鏡の奥にある瞳には、かつての穏やかな光など微塵も残っていない。

 

(……見られない。でも、目を逸らすこともできない)

 

 彼が他の誰かと淡々と会話を交わすたび、私の胸の奥に鋭い棘が突き刺さる。

 

 かつてその瞳は、私だけを特別に映してくれていた。

 その唇は、私にだけ優しい愛の言葉を紡いでくれていた。

 

 そのすべてを、私は自らの身勝手で、泥の中に投げ捨てたのだ。

 

 私がどれほど後悔の檻の中で震えていようと、時間は無情に過ぎていく。

 そして、その「終わり」は、あまりに無遠慮で、暴力的な声と共にやってきた。


「……だってさ、そもそもリーネの方から誘ってきたんだぜ?

 俺たちは合意の上だったんだ。誰にも無理強いしてないし、お互い楽しかった。……なのになんで、アルトと喧嘩しなきゃならないんだ……」

 

 会場を切り裂くような、グラムの大きな声が響く。

 

 彼は上機嫌に酒杯を煽り、周囲の注目を集めることを楽しむかのように、信じられない言葉を放った。

 

「理由がないだろ、理由が!お互い合意の上で、楽しくやってたんだ。いまさら蒸し返すようなことじゃないぜ!」

 

 心臓が、跳ねた。

 一瞬で、会場から音が消えた気がした。

 

 ――リーネの方から、誘ってきた。

 ――合意の上で、楽しくやっていた。

 

 否定したかった。そんな安い、薄っぺらな快楽だけのために彼を裏切ったわけじゃないと、叫びたかった。

 けれど、言葉が喉に張り付いて出てこない。

 なぜなら、グラムに縋り、アルトを裏切るきっかけを作ったのが私自身であるという事実は、紛れもない真実だったから。

 

 恐る恐る、アルトの方を見た。

 彼は、怒っていなかった。

 

 軽蔑の眼差しを向けることさえせず、ただ、割れた陶器の破片でも眺めるような、ひどく無関心な目で私を一瞥しただけだった。


 初めて見るアルトの、人形のような視線は、どんな罵倒よりも深く、私の魂を切り刻んだ。

 

 感情を削ぎ落とした彼の冷淡さが、今の私の居場所を、この世界にはもうどこにもないのだと告げていた。

 

 胃の奥から、熱い塊がせり上がってくる。

 口元を片手で押さえ、私は椅子を蹴るようにして立ち上がった。

 

 周囲の好奇の視線、同情の囁き、そしてグラムの無神経な笑い声。

 そのすべてから逃げるように、私は化粧室へと駆け出した。

 

 視界が涙で滲み、足元がおぼつかない。


 ただ、今の自分自身の存在が、この世の何よりも汚らわしく、吐き気を催すものに感じられてならなかった。





 冷たい陶器の感触が、額に伝わる。

 個室に駆け込んだ直後、私は胃の中にある「罪悪感」をすべて吐き出そうと、激しくえずいた。

 

「……っ、げ、……はぁ、……っ」


 胃液が喉を焼き、涙と鼻水で視界がぐちゃぐちゃになる。


 けれど、どれだけ吐き出しても、胸の奥にこびりついたドロドロとした汚れが消えることはなかった。

 耳の奥で、グラムの声がリフレインする。――リーネの方から誘ってきた。合意だった。


 嘘じゃない。

 それが一番、自分を殺したくなる理由だった。

 よろよろと立ち上がり、洗面台の鏡に向き合う。

 そこに映っていたのは、銀髪を乱し、紫の瞳を充血させた「汚い女」だった。

 

「……本当に、馬鹿な女……」


 震える手で水を掬い、顔を洗う。

 かつてアルトが「綺麗だね」と微笑んで撫でてくれたこの髪も、頬も、今はただ忌々しい。


 外見だけを整えて、中身は寂しさに耐えかねて他の男に縋った、空っぽの器。

 鏡の中の自分を、私は嫌悪のままに睨みつけた。

 

「……リーネさん」


 背後から、静かな声がした。

 振り返ると、そこには聖女フィオナが立っていた。

 彼女は何も言わず、ただ私のそばに歩み寄ると、震える私の背中を温かい手でゆっくりとさすってくれた。

 

 その手の温もりが、張り詰めていた私の心を溶かして、よりいっそう惨めな気持ちにさせた。

 また、涙が出てきて嫌になる。私に泣く資格なんかないのに。

 

「……フィオナ、様……」

「ここでは話せませんね。少し、場所を変えましょう」


 彼女に支えられながら、私は会場から離れたゲストルームへと導かれた。


 ふかふかのソファに座らされ、湯気の立つ温かい紅茶が差し出された。


 カモミールの香りが、室内の空気をわずかに和らげる。

 フィオナ様は私の向かいに座り、ただじっと、私が落ち着くのを待ってくれた。


 沈黙が、逆に私の罪を浮き彫りにする。

 

「……少し、話せますか?」


 彼女の穏やかな、促すような一言。

 それが引き金だった。

 

「私、っ……あ、アルトに、あんな顔をさせて……っ!」


 一度溢れ出した感情は、もう止められなかった。


 紅茶の入ったカップを握りしめ、私は子供のように声を上げて泣きじゃくった。

 喉を締め付けるような嗚咽が、静かな客室に響き渡る。


 私が失ったものの大きさを、あの穏やかな日々を、そしてもう二度と戻れない場所を思いながら、意味のない涙を流し続けていた。


 嗚咽が次第に途切れ、部屋に静寂が戻る。冷めかけた紅茶の表面に、自分の情けない顔が揺れていた。

 私は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

 今まで、誰にも、そしてアルトにさえ言えなかった汚い本心を。

 

「……アルトが、賢者の学院に入ってから……世界が変わってしまったんです」


 彼はもともと、私には勿体ないほど聡明な人だった。

 そして、学院へ通うようになってからの彼は、より高みへと登っていった。

 難しい魔導書を読み、高潔な賢者たちと議論を交わし……私の知らない言葉を使い、私の届かない場所を見つめるようになった。

 

「私はただ、剣を振ることしかできない。……隣にいても、彼が何を見ているのか分からなくて。

 彼が手に入れた新しい世界に、私の居場所なんてどこにもないように見えたんです」

 

 不安だった。

 孤独だった。


 一人で居る時は自分が無価値な、ただの「おまけ」になったような気がした。

 

「いつか、『君はもう、いらない』って言われるのが怖くて……。

 もう疲れてしまって、そんな時に、グラムが……」


 あの日、明るいだけの笑顔だけの男。

 あいつは、私を「剣士」として、あるいは「女」として必要としてくれる。

 誰かに必要とされているという実感が欲しくて、私は最低な手段でその穴を埋めようとした。

 

 フィオナ様は、紅茶のカップを置くと、静かに私に問いかけた。

 

「……勇者グラムに対して、好意はあったのですか?」

「……ないです」

 

 迷いはなかった。吐き捨てるように、私は言葉を続けた。


「……優しくしてくれるなら、誰でもよかったんです。

 寂しさを埋めてくれるなら……あいつである必要なんて、最初からなかった」


 声はかすれ、笑いとも嗚咽ともつかない息が混じる。


「ただ……そのくせ、罪悪感だけは、日に日に強くなっていって…最後のほうは……もう、自分から壊してしまえば、これ以上傷つかなくて済むんじゃないかって……そんな馬鹿なことまで考えてました」


 自嘲気味に、唇の端を歪める。


「最低でしょう? わたし。本当にクズだわ」


 フィオナはゆっくりとリーネの正面に座り直し、祈るように両手を組んだ。

 亜麻色の髪が、ランプの光を柔らかく反射する。


「……リーネ」


 静かで、澄んだ声。

 慰めでも、叱責でもない。

 聖女の声だった。


「貴女は――間違えましたね」


 胸に、まっすぐ突き刺さる言葉に、私は小さく肩を震わせる。


「はい……」

「寂しさを理由にして、貴女は逃げて、大事な人の心を裏切った。貴女自身わかっているように、貴女は過ちを犯しました」


 フィオナ様は目を逸らさない。

 私も目を逸らさない。


 フィオナ様の声は、糾弾ではなく、断罪でもなく、慈愛に満ちていた。


「でも。だからといって、全部諦めて捨てていい理由にはなりません」


 私の喉がひくりと鳴った。


「……でも、わたしは」

「ええ。弱かった。逃げました。自分勝手でした。それは否定しません。貴女の言う通りです。

 それでも――今こうして、自分の罪と向き合って泣いている」


 フィオナ様は、そっと私の手を包んだ。


「……それは、なぜですか?」


 不意に投げかけられた問いに、私は瞬きをする。


「……なぜ、ですか?」

「貴女が泣いているのは――自分が可哀想だからですか?」


 私の瞳から、また涙があふれ落ちる。彼女は小さく首を振った。


「……違います」

「では、なぜですか?」


 詰まった喉を押し開くように、私は絞り出す。


「……アルトに、申し訳なくて……」


 言葉にした瞬間、堪えていた感情が決壊した。


「わたし……もう、アルトに近づいちゃいけないのにっ……!

 私みたいな女は……アルトの視界に入っちゃダメなの。迷惑なだけで……汚してしまうだけだから……!」


 嗚咽が、部屋に落ちた。


「……わかりました。では、リーネ」


 フィオナ様は握ったままの手を、ゆっくりと撫でながら問いかけた。


「貴女は――なぜ、そんなにも辛いのですか?」

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