第7話 再会は離婚のあとで
序章7/9です
「アルト。お前は……リーネと、ちゃんと話し合ったか?」
「……話し合う?」
「ああ。感情をぶつけ合うのではない。
彼女がなぜあんな愚行に走ったのか。お前が何を欠落させていたのか。……あるいは、お前が彼女に何を期待しすぎていたのか。
底の底まで、泥水を啜りながら話をしたか?」
話し合う、なんて。
あの日、寝室の光景を見た瞬間、俺の心は焼き切れた。
その後の離婚手続きは、事務的な処理に過ぎなかった。
俺は、彼女に弁明の機会を与えただろうか。彼女の言葉を、ただの「言い訳」として切り捨ててはいなかっただろうか。
「…………」
返せる言葉が、見つからない。
バロックの問いかけは、俺の胸の奥にある「空洞」に、ひどく重たい石を投げ込んだようだった。
ちゃんと、話し合ったか。
「……話し合う、ですか」
俺は自嘲的な笑みを浮かべ、空になったグラスを見つめた。
あの日、寝室の扉を開けた瞬間の映像は、今でも網膜に焼き付いている。
俺の理解を超えた光景。
思い出したくもない裏切り。
その後、俺がやったことといえば、震える手で離婚届を書き、弁護士を雇って、あとは全部丸投げしただけだ。
人生の大事な分岐点を、外注で済ませる男か……なかなか情けない。
でも、あの時は――それしかできなかった。
本当に、限界だった。
離婚後も耐えきれず、俺は悪魔《アビス=レイザル》と契約した。
代償に自分の感情を差し出した。
悲しみも、怒りも、未練も、まとめて削り取ってもらって。
おかげで今こうして立っていられる。
……まあ要するに。
俺は今、感情を質に入れて日常を買っている。
それでようやく、自分を保っている。
「俺にできたのは、事務的な処理だけですよ。……彼女が何を言い、何を言い訳しようとしても、俺の耳にはただの『雑音』にしか聞こえなかった。
話し合いなんて、対等な人間同士がやるものだ」
そう、あの時の俺にとって、リーネはもはや「愛する妻」ではなく、壊れて修復不可能な「何か」に成り果てていたのだ。
《補足:アルトの深層心理をスキャン。個体名リーネに対する愛 (Love)の残存を確認。……一方で、信頼(Trust)の項目はマイナス域です》
(……知っているよ、アビス。俺にそれを突きつけるな)
再構築。
バロックが選んだ、地獄のような、それでいて尊い道。
一度粉々に砕け散った硝子の器を、血を流しながら繋ぎ合わせ、歪な形のまま使い続ける覚悟。
今の俺には、そんな熱量は残っていない。
感情を沈静化させ、人形のように振る舞うことでようやく立っていられる男に、泥水を啜りながら話し合う気力など、あるはずもなかった。
「……バロックさん。俺は、あなたほど強くはない」
「強さの問題ではない。……ただ、選ぶか選ばないか、それだけだ」
彼はワインをグラスに注ぎ、話しを切り替えた。
「……お前の妻だった女だ。変わってしまったところもあれば、きっと――変わっていないところもある。
まだ、彼女に愛が残っているなら……すべてを否定しなくてもいいんじゃないか」
諭すでもなく、押し付けるでもなく。
ただ、長い年月を生き抜いてきた男の実感として。再構築をした男の経験として。
「傷は消えん。信頼も、簡単には戻らんだろう。だがな、アルト。
人は全部無くしても、また積み上げることはできる。
少なくとも俺は、この魔王討伐パーティに――
『深淵の賢者』アルト・ヴェルクレインと、
『神速の舞剣』リーネ・カーティス。
その二人ともが必要だと考えている」
バロックはまっすぐ俺を見て、静かにそう告げた。
バロックはそれ以上、何も言わなかった。
彼は大きな手で最後の一杯を飲み干すと、
「先に失礼する。明日は八時だ。遅れるなよ」とだけ言い残し、会場を去っていった。
いつのまにか、夕食会場には音楽が戻ってきていた。
グラムはミリアに「もう寝る時間ですよ!」と叱られながら引きずられていき、会場には俺と、給仕の従者たちの足音だけが残った。
バロックが去った後の静寂は、妙に重かった。
そんな時だ。会場の入り口から、二つの人影が戻ってきたのは。
フィオナに付き添われるようにして、リーネが歩いてくる。
《データ解析開始。対象個体:リーネ=カーティス。
結膜充血レベル:重度。眼瞼浮腫を確認。
涙腺活動過多により角膜表面の反射率低下を認めます。
鼻腔粘膜の浮腫反応および断続的な吸気ノイズを検出。声帯振動の不安定化が推測されます。
推定:直近十分以内における長時間の号泣、および急性情動ストレス負荷があった模様。
心理状態モデル照合:羞恥、自己嫌悪、喪失感、絶望感が同時多発的に進行。
結論:対象は現在、“感情的臨界点”を越えた直後の回復初期段階にあります》
(……ほんと、お前は容赦ないな。アビス)
清楚な美人と評されるリーネの面影は、今や「完膚なきまでに叩きのめされた者」のそれだ。
俺の向かいまで来ると、フィオナがこちらを窺うように、穏やかに、だがどこか祈るような声で尋ねてきた。
「アルトさん……よければ、リーネと一緒に夕食を取ってもらえませんか?」
「……どうぞ」
感情の起伏を排した、短く平坦な返諾。
それだけで、リーネの肩がビクリと跳ねた。
彼女は一瞬、戸惑いと驚きが混ざったような表情を見せたが、やがて幽霊のような足取りで俺の正面にある椅子に腰を下ろした。
「食べるもの、取ってきますね。温かいスープがいいかしら」
フィオナはそう言い残し、気遣わしげな視線を一度だけ俺に投げてから、ビュッフェカウンターへと去っていった。
二人きり。
卓上には、飲みかけのワインと、冷めた料理。
つまみは、取り返しのつかない過去、か。
沈黙が、物理的な圧力を持って俺たちの間に居座る。
リーネは何かを言おうと唇を震わせたが、結局言葉は形にならず、逃げるように視線をテーブルの木目へと落とした。
俺は一度、肺に溜まった澱みを吐き出すように、小さく息を吐いた。
「……自己紹介の時は、すまなかった。冷たく言い過ぎた」
淡々と、事務的に告げる。
それは謝罪というより、パーティの運用を円滑にするための「環境調整」に近かった。
……だが、リーネにとっては、そう簡単な話じゃなかったらしい。
彼女は再び、その大きな紫の瞳いっぱいに涙を溜めて、声にならない声を零しながら、ぶんぶんと必死に首を横に振った。
……多分「そんなことない」って言いたいんだろう……付き合い長いからなぁ……幼馴染経由元夫スキル、無駄に高いままだな。
「そういえば……ちゃんと挨拶もしてなかったな」
自分でも驚くくらい、自然な声が出た。
……たぶん、バロックさんのおかげだ。ありがとう。本気で。
「久しぶり。その……慰謝料の支払い、お疲れ様でした。……えーっと……元気だったか?」
夫としてじゃない。
幼馴染でもない。
赤の他人でも、敵でもない。
我ながら、立ち位置が迷子だ。
どう接すればいいのか分からないまま、とりあえず“数年ぶりに再会した知人”という、一番無難そうな距離感を選んでみる。
「……ありがとう。元気、だった」
掠れた声で、ようやく絞り出された一言。
そこには“元気”なんて単語は、まるで釣り合わない、後悔とか未練とか自己嫌悪とか、色々な感情が雑多に詰め込まれていた。
……ああ。やっぱり全然、元気じゃないじゃないか。
考えてみれば、こうして正面から言葉を交わすのは、あの日——彼女の不貞が発覚した最悪の夜以来のことだ。
リーネは震える手で、空になった自分の膝を握りしめた。
悲しみと、後悔と、自己嫌悪。
それらが入り混じった顔で、彼女は椅子から立ち上がると、俺に対して深々と頭を下げた。
「……まず、謝らせて。
今まで、たくさん迷惑をかけたこと。裏切って、あなたを傷つけたこと。本当に……本当に、ごめんなさい」
いつの間にか、楽団も演奏をやめており、リーネの涙が床に落ちた音が聞こえた。
俺は、震えている彼女の折れそうな細い背中を眺め、小さく笑った。
……悪魔と契約しても、この程度の情けなさは消えないらしい。
「いいさ。……もう、終わったことだ」
そう口にしてみる。
一年半。
決して長いとは言えない。
けれど、怒りを最大出力のまま維持し続けられるほど、俺の神経は丈夫ではなかった。
もちろん、昇華できたわけじゃない。
ただ、焼き尽くすほどの激情は、時間と一緒に少しずつ冷えて、今は鈍い痛みに変わっているだけだ。
要するに――
忘れたんじゃない。
疲れただけだ。
俺は手元のグラスを軽く揺らし、再会を祝うわけでもない、ごく自然な調子で尋ねる。
「……飲むか? 少しは落ち着くぞ」
「……ありがと。でも、お酒は……もう、辞めたの」
リーネは顔を上げ、弱々しく首を振った。
きっかけが酒だったからだろうか。彼女なりの、贖罪の形なのかもしれない。
会話はそこで途切れ、気まずい沈黙が卓上を支配する。
俺は、これ以上彼女の悲愴な顔を見ているのが苦しくなり、逃げるように立ち上がりかけた。
「……まだ殆ど食べてないだろ。俺も、何か追加で取ってくるよ」
その時だった。
「……っ」
不意に、俺のローブの裾が引かれた。
見れば、リーネが縋るような手つきで、俺の裾を小さく摘んでいた。
彼女自身、無意識の行動だったのだろう。俺と目が合った瞬間、リーネは弾かれたように手を引っ込めた。
そして、俺に触れた自分の右手を、もう片方の手で強く握りしめ、顔を真っ赤にして俯く。
「ご、ごめんなさい……! 私、変なこと……」
俺は戸惑いながらも、浮かせていた腰をゆっくりと椅子に戻した。
どうしたんだ、と視線で問いかける。
リーネは消え入りそうな声で、だが、必死に言葉を紡いだ。
「あの……私なんかが言える立場じゃないって分かってるの。でも……もし許されるなら、もう少しだけ話せない…かな。嫌なら、すぐやめるから……」
切実な願いだった。
俺は、自分の中に残っている「情」の残滓が、それを拒絶できないのを感じていた。
リーネは、俺の顔を盗み見るようにして、少しだけ明るい話題を探す。
「アルト……眼鏡、かけたんだね。よく似合ってる」
「ああ。この一年、賢者資格試験や論文やらで研究漬けでさ。気づいたら視力まで持っていかれてた。
……似合ってるなら、まあ報われたってことで」
自虐的に笑いながら、俺はワインを一口含んだ。
アビスによる感情沈静、ワインの適度な回り具合、そして先ほどのバロックとの会話。
それらが奇妙に噛み合って、俺は今、驚くほど穏やかに彼女と話せている。
(……悪くない)
心からそう思った。
憎しみに狂うでもなく、絶望で目を背けるでもなく、ただの「元・夫婦」として、淡々と、けれど少しだけ温度のある時間を過ごせている。
愛はまだ死んでおらず、信頼は依然として灰のままだ。
それでも、今夜のこの微かな平穏だけは、今の俺にとって唯一の救いのように感じられた。




