第6話 晩餐は砂の味
序章6/9です
立食形式というのは、実に社交性が試される。
皿を片手に、誰と話し、どの派閥に属するかを無言で誇示する戦場だ。
もっとも、これから魔王を倒しに行こうという決死隊の面々にとっては、派閥とか、あっては困るはずなのだが。
王城の夕食会場。最高級の銀食器に盛られた贅を尽くした料理の数々。
だが、俺はその贅沢を楽しんではいなかった。
「……アルト、食わんのか。この肉は悪くないぞ」
隣から、低い地鳴りのような声がした。
バロック=グランデル。
結成されたばかりの、魔王討伐パーティの重戦士だ。
五十五歳になる彼だが、隣に立ってくれているだけで、物理的な防御力だけでなく、精神的な支柱としての安心感が凄まじい。
俺は彼の巨躯の陰に隠れるようにして、サラダを口に運んだ。
「食欲がないんです。なので軽いものから食べています。流石、王宮の晩餐ですね。サラダも瑞々しくて、美味しいですよ」
《補足:アルトのストレス値は基準の三倍を推移中。消化酵素の分泌が低下しています。大量の食事摂取は嘔吐のリスクを伴います。
(わかってる。だからこうしてサラダから食ってるんだ)
ふと、会場の隅に目をやる。
そこには、一人でテーブルに座り、幽霊のように青白い顔でスープをかき混ぜるリーネの姿があった。
銀髪はなんとなく艶を失い、紫色の瞳は焦点が合っていない。
かつて、俺の隣で「これ美味しいね!」と太陽のように笑っていたリーネ=カーティスの面影は、そこには微塵もなかった。
(……暗いな。側から見ていても、呪いの装備でも着けているんじゃないかってくらい暗い)
《分析:個体名リーネから、高出力な負のオーラが放出されています。その為、他の出席者が無意識に彼女を避けています。……状態異常『ぼっち』判定》
一瞬、胸が軋む音が聞こえた気がしたが、アビスの沈静によって、一瞬でそれは飲み込まれた。
その対極に位置するのが、会場の中央で賑やかに皿を積み上げている一団だ。
「なぁミリア! これ食ってみろよ、スゲーうまいぜ!」
金髪を揺らし、場違いな明るさで声を張り上げているのは、勇者グラムだ。
彼と一緒にいるのは、十三歳の精霊使いミリア。
娘を連れた若き父親、といった微笑ましい光景に見えなくもないが、その会話の内容は最悪の一言に尽きた。
「いやぁ、参ったぜ。さっきワトキンスのおっちゃんに、めちゃくちゃ怒られてさぁ、『しばらくアルトとリーネには近づくな』って大目玉食らっちゃってさ」
グラムは、大きな肉を頬張りながら、周囲に丸聞こえの音量でぼやいた。
「俺はただ、三人で仲直りしようと思っただけなんだけどなー。なぁミリア、お前もそう思うだろ? パーティは和が一番大事なんだからさ!」
悪意ゼロ。完全なる無邪気。
それがどれほど人の心を削るか、この聖剣のオマケは生涯理解することはないのだろう。
だが、その無神経な剛速球を、小さな精霊使いが正面から受け止め、さらに鋭い返球を放った。
「グラム様。それは、グラム様が『間男』だからなんですよね?
でしたら、今はやっぱり距離を置かれた方がいいと思いますよ。先程、アルト様も言ってましたけど、軋轢はあるでしょうし」
ミリアの声は、鈴を転がすようにハッキリと、そして残酷なまでに澄み渡っていた。
ハキハキとした、実に優等生らしい真っ当な指摘。
会場の空気が、一瞬にして絶対零度まで凍りついた。
楽団の演奏さえもが、不協和音を奏でた気がした。
《警告:周囲の音量レベルが極静寂域まで急降下しました。…個体名グラム、個体名ミリアによる『無自覚精神攻撃』の影響と推測されます》
静まり返った会場に、さらにグラムの快活な声が追い打ちをかける。
ミリアに「間男」と定義されたことに対し、彼は傷つくどころか、まるで「今日の天気は晴れですね」とでも言われたかのような気軽さで笑い飛ばした。
「ははは! ミリアは真面目だなぁ。でもさ、『間男』なんて人聞きが悪いぜ。別に俺が無理やりどうこうしたわけじゃないんだ」
グラムは酒杯を傾け、さらに大きな爆弾を平然と放り込んできた。
「だってさ、そもそもリーネの方から誘ってきたんだぜ?
俺たちは合意の上だったんだ。誰にも無理強いしてないし、お互い楽しかった。……なのになんで、アルトと喧嘩しなきゃならないんだ? 理由がないだろ、理由が!」
その瞬間、会場の時間が物理的に静止した気がした。楽団も曲を止めていた。
夜の砂漠のような沈黙の中、皆が視線を一点に集中させる。
——隅のテーブルで、死人のように固まっていたリーネへと。
「……っ、……あ」
リーネの顔から、血の気が一滴残らず失われたようだった。
彼女は、自分の犯した過ちを――よりにもよって、その相手だった男の口から、
「全部お前のせいだ」と、人前であっさり言い切られた。
弁解の余地はない。逃げ道も、綺麗な幕引きも用意されていない。
ただ、自分の罪だけがテーブルの上に並べられた。
……少々、残酷な公開反省会だった。
愛ゆえの迷いでも、抗えぬ運命でもない。
ただの「合意」で「楽しかった」から。
その言葉が、彼女が抱えていた「罪悪感」を更に汚し尽くし、ただの汚物に貶めた。
「う、……ぇ……っ」
リーネは口元を片手で押さえ、椅子を派手にひっくり返して立ち上がった。
その瞳は涙で潤み、絶望と羞恥が入り混じった顔で、彼女は会場の出口——化粧室の方へと全速力で駆けていった。
「あ、リーネさん!」
聖女フィオナが、胃を押さえながらも瞬時に反応した。
彼女は俺を一瞬だけ、何とも言えない悲痛な目で見つめた後、法衣を翻してリーネの背を追っていった。
残されたのは、首を傾げる勇者と、真顔の精霊使い。
そして、バロックの巨躯の陰で、握りしめたフォークを歪ませる俺だ。
視界が真っ赤に明滅する。
こめかみの血管が破裂しそうなほどの怒気が、内側から俺を焼き焦がそうとした。
《警告:アルトの血圧、および心拍数が危険圏内に突入。……契約者保護条項により、コマンドを待たずに、強制沈静プロトコル実行します》
——ドクン、と心臓が一度大きく跳ね、直後、頭のてっぺんから氷水をぶっかけられたような感覚が突き抜けた。
煮え滾っていた怒りが、瞬時に「無」へと変わる。
俺の感情は、再び冷たい水底へと沈められた。
「……ふう」
俺は、無造作に折れ曲がったフォークを静かに皿の上に置いた。
周囲の視線が、憐憫や好奇の混ざった不快な熱を持って俺を刺している。
だが、今の俺にはそれさえも「背景ノイズ」にしか聞こえない。
「……アルト。大丈夫か?」
バロックが、低い声で尋ねてきた。その瞳には、男としての、深い静かな同情が宿っている。
「……ええ。問題ありません。……ただ」
俺は、食べかけていた最高級の仔羊のローストを一口、口に運んだ。
宮廷料理人が腕によりをかけた逸品のはずだ。
(……うわー、味がしねえ。砂食ってるみたいだ、これ)
「折角の食事が、不味くはなりましたね」
ははっと笑う、やけに渇いた自分の声が、どこか遠くで鳴っている。
アビスの強制沈静の作用は、味覚にまで影響していた。
(アビス。強制沈静は感謝するが……ついでに味覚まで削る必要はあるか? 今、何食っても砂みたいだぞ)
《仕様です。アルト。味覚は情動と強く連動します。現在は感情遮断モード優先。結果として“無味”が発生しています》
(無味って、言い方が軽すぎだろ。俺の晩飯が犠牲になってるんだが)
《三十分程度で鎮静効果は解除されます。それまでの間は栄養摂取と割り切ってください》
(……はいはい。人間やめた気分で耐えますよ)
俺は、飲み込むことさえ困難な「砂」を、ただ機械的に咀嚼し続けた。
リーネが去り、それを追ったフィオナの足音も消え、残されたのは無神経に肉を頬張る「聖剣運搬装置」と、困惑する精霊使い、そして——。
「……参考になるかはわからんが、少し昔話をしてもいいか。アルト」
バロックが、皿に残ったパンの端でソースを拭いながら、誰に聞かせるでもない低い声で切り出した。
「……バロックさん?」
「もう二十五年も前のことだ。……俺も、お前と同じように妻に浮気をされたことがある」
飲み込もうとしていた「砂」が、喉の奥で止まった。
俺は思わず、隣に立つ巨漢の横顔を見上げた。
二十五年前といえば、この男がまだ脂の乗り切った三十代前半、王国の軍事の中核を担っていた頃のはずだ。
「……あなたは、確か。前職は騎士団長でしたよね」
「ああ。当時は『鉄壁のバロック』などと、柄にもない二つ名で呼ばれていたよ」
《データ照合。二十五年前、王立騎士団第十二区第二代団長――バロック=グランデル。国境防衛戦において無敗。通称“王国最強の盾”。
英雄として記録されています。
突然の引退については、当時多数の憶測が流布しました。現在の情報を統合した結果、有意な因果関係が推測されました。
…報告を続けてもよろしいですか?》
(続けろ、アビス)
《突然の引退理由は、外敵に対しては完璧だった防壁が、身内から崩壊していたから、というありがちな因果関係です》
(……だから、お前はそういう言い方しかできないのか)
俺は小さく息を吐いた。
《反論。私は事実と計算結果の提示を優先しています。言語的表現の良し悪しは考慮しません》
(……わかった、わかりました。俺が悪かった。だから少しだけ、配慮ってやつを覚えてくれ)
《却下。私は心を搭載していません》
(はいはい、言ってみただけです)
俺はもう一度、小さく息を吐く。
隣で黙々と料理を口に運ぶ巨漢を横目で見る。岩みたいな背中。無駄にでかくて、無言で、妙に落ち着く。
バロックは自嘲気味に鼻で笑い、ワインを煽った。
「当時は仕事にかまけていた。魔物の脅威、国境の緊張……正義と義務を振りかざして、家庭を蔑ろにしていたんだ。
家に帰れば疲れ果てて眠るだけ。
妻がどんな顔で俺を待っていたか、何を求めていたか、考えようともしなかった。
……俺にも、至らないところが多すぎたんだ」
「……それでも、裏切っていい理由にはなりませんよ」
俺の言葉は、氷のように冷たかった。
自分の経験と重ね合わせ、反射的に拒絶が出る。
だが、バロックは静かに首を振った。
「理屈ではそうだが、心はそうはいかん。…それに、俺達には幼い子供がいた。
だから、俺たちは『再構築』の道を選んだんだ」
「再構築……」
それは、今の俺にとって、非現実的な響きを持つ言葉だった。
一度壊れた器を継ぎ合わせ、再びそれを使う。その際に生じる歪さや、修復の跡を一生見つめ続ける行為。
「何度も怒鳴り合い、何度も絶望し、何度も話し合った。
……だが、結果的には良かったと思っている。
今の俺があるのは、あの時、逃げずに妻と向き合ったからだ。俺は騎士団長を辞し、家庭との時間を取れる教導騎士へと退いた。
……プライドも名誉も捨てたが、一番失いたくないものは守れたよ」
バロックは、ようやく俺の方を真っ向から見据えた。
その瞳には、ただ、同じ地獄を歩いた者としての、ひどく静かで真摯な問いかけだけがあった。
「説教するつもりは、毛頭ない。ただな、アルト。お前は……リーネと、ちゃんと話し合ったか?」




