第5話 自己紹介という名の修羅場
序章5/9です
次の自己紹介の為、リーネが顔を上げた。
一瞬、唇が震える。彼女は俺を見ようとして、耐えきれずに視線を円卓の中央へと落とした。
「……リーネ=カーティスです。スピード特化の剣士です」
それだけで終わればよかった。だが、彼女は震える声で、絞り出すように続けた。
「……アルトとは、その、以前……一緒に冒険していました」
その瞬間、円卓に氷を流し込んだような沈黙が走った。
グラムが何か無神経に補足しようとしたが、フィオナが視線で黙らせた。
バロックは無言で俺を見つめ、ミリアだけが「えっ、そうなんですか!?」と目を輝かせている。
何が楽しくて、地雷の上でスキップするような事をするんだ?
俺は、彼女の告白を、興味のない絵画を見つめるような、温度のない視線で受け流した。
かつて、俺たちは一緒に冒険していた。
夫婦だった。
愛し合っていた。
——そして、彼女は俺を裏切り、俺達は離婚した。
それだけの話だ。
たった、それだけ。
その後、俺は悪魔と契約して、代償に感情を削った。
怒りも。
哀しみも。
愛しさも。
あの時の俺には、耐えられなかった。
そうやって削り落とされたはずの過去が、説明されない「行間」となって、泥濘のような沈黙となって円卓を覆い尽くす。
(……どうするんだよ、これ。次の自己紹介――俺なんだが)
《アルト。ストレス値が上昇しています。『沈静』を実行しますか?》
(要らん。黙れ)
視線が俺に集まる。
俺は椅子から立ち上がらず、ただ座ったまま、凍りついた円卓を見渡した。
「アルト=ヴェルクレインだ。賢者の学院所属の魔法使いだ。……このパーティでは、戦術構築と広域魔法攻撃を、主に担当する事になると思う」
それだけで終わらせるつもりだった。だが、脳内のアビスが未来のノイズを予測する。
《予測:個体名リーネとの過去の関係を秘匿した場合、作成行動中の会話、または外部からのリークにより、パーティの士気に致命的な悪影響を及ぼす確率は87パーセントです。今のうちに処理しておくことを推奨します》
(……分かっている)
俺は一つ、深く息を吐いた。
「先ほど彼女が言った内容に、付け加えておく。……俺とカーティス卿はかつて婚姻関係にあった。
一年半前、一身上の理由で離婚したが、法的な清算はすべて済んでいる。任務に支障をきたすことはない。……以上だ」
室内の温度が、物理的に数度下がったような錯覚に陥った。
リーネは顔を伏せ、膝の上で握りしめた拳を震わせている。
その時、円卓を支配する沈黙を、一瞬で粉砕する声があった。
「ええっ!? マジかよアルト、リーネ!
離婚したのか!? なんでだよ、あんなに仲良かったじゃん!」
グラムが、信じられないものを見たという顔で身を乗り出してきた。
その顔には驚きしかない。
揶揄うような色も、ましてや俺から妻を寝取ったという自覚も、塵ほども存在しなかった。
「嘘だろ。だってリーネ、最近夜中にうなされながら、寝言でお前の名前呼んでたんだぜ? 『アルト、行かないで』とか『ごめんなさい』とかさ!
あんなに想われてるのに、男がそんな簡単に捨てちゃダメだろー!」
——頭の奥で、何かがパチンと弾ける音がした。
視界が真っ赤に染まる。
「寝言」
その言葉が意味する現実。
こいつが、俺の名前を呼ぶ妻を抱いていたという、吐き気を催すような事実が俺の中のスイッチを押した。
「やめて……グラム、お願い、止めて……ッ!!あなたとは、あの夜以来、会ってないでしょう!?」
リーネが、堪えきれなくなったように声を張り上げた。その声は悲鳴に近く、ブリーフィングルームの高い天井に虚しく反響する。
リーネの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「グラムとは、あれ以来、一年半以上会っていません……!ここに来るまで、同じパーティになるなんて、知らなかったんですっ!」
必死に首を振りながら、彼女は俺を見て訴えてくる。
涙と嗚咽混じりの声。
全身全霊の“無実アピール”。
周囲の視線が痛いほど突き刺さる中、リーネは縋るように一歩踏み出した。
「信じてください……アルト……」
その一言で、場の空気は完全に凍りついた。
だが、グラムは「え、なんでそんなに怒るんだ?」と不思議そうに首を傾げ、さらに地獄へ燃料を投下する。
「あれ?そんなに昔だったっけ?
ま、いいや! 色々事情があんだろうけどさ、俺に出来ることなら何でも相談に乗るぜ!
俺だってこのパーティのリーダーなんだからな、仲間を支えるのは当然だろ!」
——は?
相談に乗る?
俺の家庭を壊した張本人が。俺の妻の寝顔を見ていた男が。
どの口が、どの面が、俺を「仲間」と呼び、「支える」と言った?
「アビス」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、地這う蛇の毒のような怨嗟を孕んでいた。
全身からすべてを侵食する泥のような、漆黒の魔力が溢れ出す。
膨大な魔力圧に、ブリーフィングルームの壁がミシミシと軋み、テーブルに置かれたグラスが粉々に砕け散った。
(……アビス。教えろ。今すぐ、こいつを、その聖剣ごと完全に……塵一つ残さずぶち壊す方法を)
《警告:アルトの感情指数、許容限界を突破。
情動による魔力回路の暴走を確認。脳細胞焼損の危険。
および王城内での攻撃魔法禁止条項に抵触します》
(構わない。殺す。こいつだけは、今、ここで……!)
《契約者保護条項により、コマンドを拒絶します。……緊急プロトコル:『強制沈静』を実行》
脳の奥に、冷たい氷の針が突き刺さったような痛みが走る。
真っ赤に燃えていた視界が、一瞬にしてモノクロームの画像へと塗り替えられた。
……一呼吸。
……二呼吸。
溢れ出していた魔力が、嘘のように俺の体内に吸い込まれていく。
怒りも、憎しみも、殺意も、哀しみも、すべてが深い海の底へ沈められ、代わりに無機質な「合理性」だけが意識の表面に浮かび上がった。
俺は、無表情になった。
リーネの涙も、フィオナの戦慄も、バロックの警戒も、グラムの困惑も。
それらすべてが、ただの「観測データ」として処理されていく。
「……お前に相談することはない」
口から出たのは、自分の声とは思えないほど平坦な、人形のような音だった。
俺はグラムを見据えた。
そこにあるのは軽蔑ですらない。
ただ、効率的に魔王を討伐するための「聖剣を振るう部品」に対する、冷淡な確認作業だ。
「任務を遂行しろ。それ以外に、お前の存在価値はない」
ブリーフィングルームに、先ほどよりもさらに質の悪い、逃げ場のない沈黙が完成した。
俺は構わず、リーネに顔を向けた。
「カーティス卿にも、言っておく。過去の経緯がどうであれ、今は他人だ。
貴女が誰と付き合おうと、俺は関知しない。だから、貴女も俺を気にする必要はない」
リーネの顔が、はっきりと悲嘆に歪んだ。
……だから何だ。
胸の奥で何かが動く気配はあったが、アビスの鎮静が即座に消去する。
痛みも、躊躇も、慕情も――綺麗に削ぎ落とされる。
今の俺に残っているのは、事実を整理するための冷え切った思考だけだ。
俺は視線を外し、この地獄みたいなパーティ人選を実現させた張本人へと向き直った。
「ワトキンス閣下。もうご理解いただけたと思いますが」
声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「俺とカーティス卿は、夫婦でしたが離婚しました。残念ながら、離婚理由はカーティス卿の不貞によるものです。
そして、カーティス卿の不倫相手は、そこにいる勇者です」
淡々と告げる。
「人類の期待を背負う討伐パーティに選定されたこと自体は、光栄に思います。
ですが、心理的な軋轢という、無視できない不確定要素が発生しています」
冷静に。
「このパーティ構成で困難な任務を遂行するとなると、合理性の観点から見て、懸念があります。閣下のご見解を伺いたい」
感情を抜いた言葉は、鋭利だった。
誰かを責める響きすらなく、ただ事実を並べて、”問題点”を切り出しただけ。
——それが、今の俺だった。
「……まず」
宰相ワトキンスは、喉を整えるように小さく咳払いをした。
「事前調査が不十分だった。これは我々の落ち度だ」
そう言って、円卓の全員に向けて深く頭を下げる。
国家中枢の人間が、一個人相手にここまでするのは珍しい。
少なくとも“形式だけ”ではない謝罪だった。
「先ほどヴェルクレイン殿自身が説明していたが……書類上、離婚に関しては清算済みで、裁判や調停の記録は確認されなかった」
淡々と、しかし慎重に言葉を選びながら続ける。
「そのため、行政的には“個人的事情”の範疇と判断され、選定資料では重視されなかった。結果として、この構成になっている」
つまり。
紙の上では、俺たちはただの元夫婦でしかなかった、というわけだ。
……まぁ実際、国から見たらそんなところだろう。
「さて、ヴェルクレイン殿」
ワトキンスの視線がこちらに向く。
「貴殿の意見は、討伐パーティの編成を変更しろ、という要望かね?」
「必要とあらば」
俺の声は、アビスの強制沈静のおかげで、相変わらず平坦だった。
「対魔王戦において、聖剣は必須です。よって、勇者は外せません」
グラムの方は見ない。
「変更するのであれば、代替の効くパーツ——すなわち候補は俺か、カーティス卿になります」
その瞬間だった。
リーネの気配が、目に見えて萎んだ。
肩が僅かに震え、唇がかすかに開いたまま固まる。
《個体名:リーネ。情動値検出レベル以下まで急降下。絶望反応を検出》
(黙れ)
アビスの報告を、内心で切り捨てる。
ワトキンスは疲れたようにため息を吐いた。
「既に国王陛下への謁見は済んでいる。今この場でメンバーを入れ替えれば王国の威信に関わる。
……二週間の訓練期間を『試用期間』とする。その間、実際の連携状況を見て、必要と判断すれば交代を検討しよう。
これでどうかな?」
官僚らしい、段階的対応案の提示に、俺は小さく頷いた。
「了承しました」
それ以上、言うことはない。
現時点では、これが最善だろう。
そうやって俺は、また一つ、何かを切り捨てた。
リーネが、何故哀しそうにしているのか、自分でも気づかないふりをしながら。
ワトキンスは咳払いをし、事務的なトーンでタイムスケジュールを読み上げ始めた。
「予定を説明する。
今日から二週間、君たちには王城内の特別居室に宿泊してもらう。食事はすべて用意させるが、親睦を深めるため、特段の理由がなければ一緒にとってもらう。
明日は朝八時に演習場へ集合。グラム=ハルバードを主軸とした連携訓練を行う。
装備の要望がある者は、王国から貸与できる装備品がある。夕食後に宝物庫へ来てくれ。
予定では二週間後、準備が整い次第、王都を出発する。……他には異論はないな?」
淡々と告げられる「共同生活」の宣告。
ワトキンスの視線が、値踏みするように俺達を射抜く。
解散の指示の後、俺達はそれぞれブリーフィングルームから出ていく。
グラムは「よし! じゃあ二週間で仲直りだな!」と無神経に言い放って、俺とリーネに歩み寄ろうとする。
しかし、ワトキンス閣下に首根っこを掴まれ、引きずられながら退室していった。
リーネは俺に何かを言いたげに視線を彷徨わせたが、俺の能面のような無機質な貌を見て、絶望に顔を歪めたまま、逃げるように去った。
フィオナとミリアは、二人で楽しげに会話しながら、部屋を出ていく。
最後に、その場に残ったのはバロックだけだった。
巨岩みたいな体格のくせに、足音は驚くほど静かだ。いつの間にか隣に立ち、その岩のような手で、俺の肩を軽く叩く。
「……無理はするな」
低く落ち着いた声。興味でも同情でもない。長年、修羅場をくぐってきた人間の、飾り気のない気遣いだった。
「晩飯の時にでも、ゆっくり話そう。昔の話でも、愚痴でもいい。聞き役くらいにはなれる」
「……ありがとうございます。グランデルさん」
俺は小さく返す。
するとバロックは、ほんの僅かに口角を上げた。笑うと厳つい顔が一気に緩み、細い目が皺に埋もれて――なぜか妙に縁起の良さそうなエビス顔になる。
「これから生死を共にする仲だ。堅い呼び方はよせ。バロックでいい」
「わかった。俺もアルトでいい」
ご利益がありそうなバロックの表情に、思わず力が抜ける。この人、盾役じゃなくて厄除け担当でもいけるんじゃないか。
「短い付き合いかもしれないが……これからよろしく」
バロックは重く一度だけ頷いた。
二週間。
この地獄のようなモラトリアムの先に何があるのか。
俺はまだ答えを出せてはいなかった。




