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第61話 新しい生活

「私はもう、一人でも平気だから。だから……私のことは忘れて、これからは、アルトの好きなように生きてほしいの」

 

 リーネの肩が、小さく震えていた。

 

 帽子とマスクに隠された顔。

 唯一見えるのは、その瞳だけだ。

 右目は瞼が閉じていて、左目は白く濁っている。

 春の光の中で、瞳がはっきりと覚悟を映している。

 

 少し、胸が軋んだ。

 .....ああ、こいつは色々と諦めたんだな。

 

「アルト、今まで本当に……ありがとうございました」

 

 泣きそうな声だった。

 頭を下げながら、無理して笑おうとしているのが分かった。

 俺はゆっくりと息を吐く。

 

「そうか……わかったよ」

 

 リーネの気持ちは判った。

 

 これから、俺の気持ちも伝えよう。

 ちゃんと話せるうちに。もう後悔しないように。

 

「お前が一人で生きていく覚悟を、決めたのは分かった」


 俺は手元の書類に一度視線を落としてから、改めてリーネを見た。


「ただ……もし良ければ、一年だけ待ってくれないか」


 リーネが、はっとしたように顔を上げる。


「……えっ?」

「お前には、お前の考えがあるんだと思う。俺は、それをちゃんと大事にしたい」


 そこで一度、言葉を切った。


「だけど、俺にも考えがあるんだ。正直、まだお前にしてやりたいことが残ってる。だから……よければ、俺の話も聞いてくれないか」


 リーネはしばらく黙っていた。

 揺れるみたいに視線を伏せて、それから、小さく息を吐く。


「……分かった」

「ありがとう、リーネ」


 俺は手にしていた書類を、ベッド脇のテーブルへ置いた。


「一応、資料は持ってきたんだが……読むのもしんどいだろ。だから、口で説明するよ」


 書類を軽く叩きながら続ける。


「これは研究計画書なんだ。内容は錬金術の分野なんだが、大きく分けて、三つある」


 リーネにも見えるよう、俺は指を一本立てた。


「一つ目は、『皮膚の再生術』」


 次に二本。


「二つ目は、『欠損部位補完を目的とした人工臓器の開発』」


 そして三本目。


「最後は――『毛髪の再生術』だ」


 リーネが、小さく息を呑んだ。

 絶句している。


「……これって」

「魔王討伐で、馬鹿みたいに金を貰えたからな」


 俺は肩をすくめる。


「折角だし、新しい研究でも始めようかと思ったんだよ。それで、何をやりたいか考えてたら、こうなった」


 ははっと、乾いた笑いが出る。


「実はもう、メルキドに家も買ってある。研究設備も、大体揃えた」


 リーネが何かを言いかけて、言葉を失った。

 俺は少しだけ声を落として続ける。

 リーネの瞳を見つめる。


「一年あれば、最低限一つは形にできると思ってる。リーネ。よければ、俺の研究の被験者になってくれないか」


 一度、間を置く。息を吸って続ける。


「時間はかかると思う。多分、痛い思いも、しんどい思いもさせる。錬金術なんて、基本的に試行錯誤の塊だからな」


 それでも、と俺は言った。


「……それでも良ければ、考えてほしい」


 しばらく沈黙が落ちた。

 やがて、リーネが掠れた声を零す。


「な、なんで……こんなの、無理だよ」


 その声は、怯えているみたいだった。


「フィオナ様とミリアちゃんでも……駄目だったんだよ」

「神と精霊で無理でも、悪魔なら何とかなるかもしれないだろ」


 俺はわざと少し大げさに肩をすくめてみせる。


「『深淵の賢者』を、舐めるなよ」

《……心配は要りません。個体名リーネ》


 突然、アビスが俺の顔の横に顕現した。半透明の青紫の正十二面体が、ゆっくりと回転している。


 ……いきなり出てきたな、コイツ。


《深淵の叡智には、今アルトが挙げた事を可能にする知識があります。実現可能性は担保されています》

「ナイスフォローだ、アビス。珍しいな」

《アルト。私は事実を提示しているだけです》

「悪魔と賢者が本気を出すんだ、どうだい?リーネ」

 

 軽口のつもりだった。

 けれど、リーネは俯いたまま、肩を震わせている。


「……どうして?私、もう……アルトに返せるものなんて、何もないんだよ」


 絞り出すような声だった。


「いやいや」


 俺は首を振る。

 なるべく重くならないように。

 出来るだけ、いつも通りの感じで。


「研究に付き合ってくれるだけでも、十分返してもらってると思うけどな。むしろ被験者なんて、普通に貴重だぞ。こっちがお礼払う側だろ」


 少し冗談っぽく言う。


「賢者の研究って、協力してくれる人少ないんだよ。よく爆発するし」


 ……半分くらいは事実だ。


「わ、わたし……やっと、諦められたんだよ」


 リーネの声が、小さく震える。


「諦めようとしてたのに……こんなことされたら、わたし――」


 そこで言葉が途切れた。

 俯いたまま、肩が細かく震えている。


「……やっと、アルトのことを諦めようって思えたの」


 掠れた声だった。

 泣くのを堪えながら、ひとつひとつ無理やり言葉にしているみたいだった。


「もう、アルトに甘えるのやめようって。

 一緒にいたいなんて、思わないようにしようって。

 そうしないと……苦しくて、生きていけないから」


 そこで一度、息を詰まらせる。


「なのに、こんなふうに手を差し伸べられたら……私、怖いよ」


 白く濁った左目に、涙が滲んだ。


「もし駄目だったら、とか。

 やっぱり無理だったら、とか。

 そうなった時、今度こそ、わたし……ちゃんと諦められる自信、ないよ」

「ごめんな、リーネ」


 俺は静かに言った。

 リーネを変に慰めるんじゃなくて、ただ自分の気持ちだけは誤魔化さないように。


「お前が諦めようとしてたものを、また揺らすようなことを言って、本当にごめん」


 一度、息を吐く。


「それでも、言わないまま終わる方が、俺は嫌だった」


 リーネは俯いたまま、肩を震わせてた。


「もちろん、お前が嫌なら無理にとは言わない。

 お前が、一人で生きていくって決めたことも、本気なんだろうって分かってる」


 でも、と続ける。


「俺はまだ、諦めきれてない」


 その一言に、リーネの肩がびくりと揺れた。


「お前の傷も、失ったものも、全部元通りにできるなんて、そんな都合のいいことは言えない。

 けど、まだ出来ることがあるなら、俺はやりたい」


 ベッド脇の書類へ視線を落とす。

 そして、もう一度リーネを見る。


「お前と一緒に」

「なんで……」


 涙声だった。


「なんで、そこまでしてくれるの」

「そんなの――」


 俺は立ち上がり、そっとリーネの右手を取った。


「お前が、リーネだからに決まってるだろ」


 まっすぐ、彼女を見る。


「俺たちは、“剣士リーネ”がいたから魔王を倒せたんだ」


 一度息を吐いて、続ける。


「……もちろん、誰一人欠けてても無理だったと思う。グラムも、バロックも、フィオナも、ミリアも。全員が必要だった。

 ……でも、俺は忘れてない。この遠征で、何度もお前に命を救われたことを」


 リーネの指先が、小さく震える。


「それに――」


 俺は少しだけ苦笑した。


「俺とお前、元夫婦で、今も幼馴染だろ?」


 ずっと一緒にいた。

 誰よりも長く。

 

 俺の情けないところも、格好悪いところも、面倒臭いところも知ってる女だ。……それでも、お前は一緒にいた。


 俺だって、お前のことを嫌というほど見てきた。


 その上で、決めたんだ。


「リーネ=カーティス」


 春の光が、静かな病室へ差し込んでいる。

 冷え切っていた空気が、少しずつ温まっていく。


「もう一度やらないか。二人で、一緒に」


 一度、言葉を区切る。


「……最後まで、一緒に」


 リーネは、ぽろぽろと涙を零しながら、何度も首を横に振りかけて――

 それでも最後には、小さく頷いた。


「……ひどいよ、アルト」


 泣き笑いみたいな声だった。


「そんなこと、言われたら……もう、諦められない」

「うん。諦めなくていい」


 俺は静かに答える。


「俺も最後まで諦めないから」


 リーネは嗚咽を堪えるみたいに唇を震わせ、それから、ようやく小さな声で言った。


「お、お願いします……アルト」

「ありがとう、リーネ」


 俺は少しだけ笑う。


「俺の我儘に付き合わせて悪いな。こちらこそ、よろしく」


 窓の外では、春の風が吹いていた。

 長かったメルキドの冬が、ようやく終わったんだと思う。


 これから一年。


 また、新しく始めるんだ。


 二人で。

 最後まで一緒に。





 それから、俺とリーネの生活が始まった。


 リーネの希望もあり、細々したリーネの身の回りの世話は、家政婦に頼む事にした。

 なので、厳密には二人きりではなかったが、久しぶりに二人で過ごす毎日は、驚くほど違和感がなかった。


 朝食を一緒に取るのが、いつの間にか当たり前になった。

 

 研究の進み具合だとか、今日の天気だとか、本当にどうでもいい話をしながら、同じ卓を囲む。

 無理に沈黙を埋めなくても苦しくない時間が、そこにはあった。

 

 時々、リーネが新しくできるようになった事を教えてくれた。

「今日は部屋から一人で歩いてこれた」とか、「今日のコーヒーは私が淹れた」とか……そんな、朝が、少しずつ積もっていった。


 皮膚の再生と左目の視力回復は、比較的順調だった。

 幸い、健常な皮膚が一部残っていたし、左目も眼球そのものは無事だったからだ。


 季節が巡り、夏が来る頃には、左目の視力も戻った。

 皮膚も、ぱっと見では分からない程度には回復している。


 髪の再生が遅れており、リーネが帽子に凝り出したのは、ちょうどこの頃からだった。

 帽子が増えて、研究室の一角が地味に帽子置き場になっている。

 賢者の研究室って、普通もっと胡散臭い薬品とか置かれる場所なんだけどな。


 髪の再生は、正直かなり手こずった。

 初回なんて、ショッキングピンクの巻毛が爆誕した。

 流石にあの時は、研究者として頭を抱えた。


 なお、当のリーネは鏡を見ながら「これはこれで可愛い気がする」とか言っていた。

 しかし、却下である。


 その後も試行錯誤を重ねた結果、髪質自体はほぼ元通りになった。

 ただ、色だけは微妙にズレて、青銀色になってしまった。


 もっとも、リーネはかなり気に入っているらしい。

 秋になり、髪も肩まで伸びた頃、地毛の銀色が一房だけインナーカラーみたいに混じっていて、「ちょっとおしゃれじゃない?」と上機嫌だった。

 ……まぁ、本人が嬉しそうなら、それはそれでいいのかもしれない。


 いや、良くないな。

 賢者として敗北感がある。

 なので、いずれ説得して再挑戦する予定だ。


 冬に入り、木枯らしが吹く頃には、リーネの日課も随分増えていた。


 リハビリを兼ねたジョギング。

 それから、毎朝の素振りだ。


 左手の義肢は、現在マーク4だった。

 初めて五指の完全稼働を実現し、理論上は人体とほぼ同じ動作が可能になっている。

 ……まぁ、“理論上は”だが。


《アルト。神経伝導速度は右手比82パーセント。出力は113パーセントです》

(出力だけ無駄に高いな……。やっぱり反応速度の改善が先か)


 剣士にとって、僅かな遅延は致命的だ。

 握力だけオーガでも困る。


「アルト。少し出力が下がってもいいから、反応速度を上げてくれた方が好みかな」

「了解だ、リーネ。ちょっと左手見せてくれ」


 差し出された義手を掴みながら、俺は内心で小さく唸った。

 ……マーク5、設計やり直しだな、これ。


 日差しが、少しずつ暖かくなってきた。

 雪解けもゆっくり進み、景色にも、ようやく春の色が混じり始めている。


 もう少しで――約束の一年だった。


 リーネの左義手は、現在マーク7。

 マーク4の頃と比べれば、別物と言っていい。


 刃が閃いた。

 ……そう認識した数瞬後に、空気を裂く音が後から来た。

 斬撃の速度が衝撃波になり、縦木が抵抗する間もなく三つに裂ける。

 木片が宙を舞った後、遅れて鞘鳴りだけが静かに響いた。


 正直、剣筋は見えなかった。


「……うん、いい感じ。流石アルト。生身の時より馴染んでる」

「……いや、凄いのはリーネの方だと思うけど」


 本音だった。

 普通、義肢なんて慣れるだけでも一苦労だ。

 なのにコイツは、この短期間で義手の特性を利用した新しい剣技を作り始めている。

 義手による片手抜き打ち。俺は抜刀術と名付けた。


 ……順応力が高いとかいうレベルじゃないな。そろそろ、実戦を試してみる時期か。

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