第60話 笑ってあなたにさよならを
メルキドの長かった冬が、ようやく終わった。
ここ数日は、春爛漫と言っていい陽気だ。
南向きの窓から射し込む光は、もう冬の頃の青白い痩せた光ではない。黄味を帯びて、温かくて、部屋の隅々まで丁寧に照らしている。
こんなに眩しい日差しを、私は少し羨ましい気持ちで見ていた。
私はようやく、ベッドの上で座っていられるようになっていた。
でも、まだそれだけだ。それ位しかできなかった。
傷は癒えた。
それだけは間違いない。
でも、左手は失われ、右目も光を失った。
左目の視力も、ひどく落ちている。
至近距離でなければ、人の顔もはっきりとは見えない。
ただ視力が落ちたのは、悪いことばかりでもなかった。
自分の顔を、見なくて済んだ。
顔はひどい火傷で爛れていた。
髪は後頭部にすこし残っているだけで、あとはほとんどない。
さすがに、それを鮮明に見るのは、私にも辛かった。
だから、ぼんやりとしか目に映らないのは、ありがたかった、というのが正直な気持ちだ。
火傷の引き攣れで、右足も思うように動かない。
部屋の中くらいは杖をついてどうにか移動できるが、長く立っていることはできない。
移動はもっぱら車椅子だ。
——それが、今の私だった。
こんな状態ではあったが、私は来週、退院することにした。
幸い、魔王討伐に貢献したとして、王国と辺境伯爵から相当の額の報酬が出た。
多分負傷手当も入っているのだろう。討伐パーティの中でも一番の報奨金だった。
メルキド市内に部屋を借りて、家政婦を雇って、贅沢さえしなければ、女一人が一生暮らしていけるくらいの額が手元にはある。
それに魔王討伐英雄の一人、などという肩書きがついているおかげで、家政婦の希望者もすぐに見つかった。
パーティはもう、随分前に解散していた。
バロックさんは、魔王討伐の報告もあって、早々に王都へ戻っていった。
家族を王都に残しての単身赴任だったのだから、当然だろう。
お別れの日の夜、バロックさんの送別会の後、アルトが酔っ払って私の病室の床で寝ていた。
翌朝、看護師さんに正座させられて反省文を書かせられていたのは、面白かった。
そして先日、アルトと私宛に手紙が届いた。
娘さんが今度、結婚するそうだ。
私が動けないので、お祝いを送っただけになってしまったが、今でも、あの寡黙で大きな背中を、ふと思い出す時がある。
先週、フィオナ様とミリアちゃんも王都へ旅立った。
フィオナ様は教会へ魔王討伐の報告をしなければならないらしく、同時に『悪魔契約者』であるアルトについても説明を求められているそうだ。
ミリアちゃんは、アルトの口利きで賢者の学院への入学が決まっていた。
春から新学期が始まるので、私の治療が一段落したタイミングで、二人は一緒に出立していった。
本当は、ちゃんとお礼を渡したかった。
でも二人とも、「お金はリーネさん自身に必要ですから」と言って、最後まで受け取ってくれなかった。
ミリアちゃんなんて、途中から半泣きで首を振っていたくらいだ。
闘病中、二人には本当によくしてもらった。
眠れない夜には、フィオナ様が静かに手を握ってくれて。
痛みで苦しむ時には、ミリアちゃんが泣きそうな顔で治癒魔法をかけ続けてくれた。
私が命を繋げたのも、ここまで回復できたのも、間違いなく二人のおかげだ。
だから私は、一生、二人に感謝しようと誓った。
……きっと本人達は、そんなこと全然気にしていないのだろうけれど。
二人の出立の日は、結局、三人で泣いてしまった。
ミリアちゃんなんて、馬車が出る直前まで私の服の裾を掴んで離してくれなくて、フィオナ様も困ったように笑いながら、ずっと私の背中を撫でてくれていた。
「また会いに来ますから」
そう約束してくれたけれど、きっと二人ともこれから忙しくなる。
ベッドから動けない私は、せめて毎日、二人の活躍を祈る事にした。
護衛には『不滅の焔』が同行してくれたらしい。
ラスウェルさんとカレンさんも、無事に復帰したと聞いた。それだけは、素直によかったと思えた。
グラムは、アルトが奔走してくれたおかげで、死罪を免れ、十年間、戦闘奴隷として最前線で働くことになった。
本人は、剣が振れるから構わない、と気にしていなかったらしい。
判決早々に戦地へ連行されていった。
皆それぞれの道を、もう歩き始めている。
アルト以外は。
アルトは、毎日私のところに来ていた。
私の病室に机を持ち込んで、面会時間の最初から最後まで、何かを調べている。
自室に帰っても夜通し作業しているらしく、最近は寝不足が顔に出るようになっていた。
何を調べているの、と聞いても、教えてくれない。
ただ、毎日来てくれる。
そして、一緒に過ごす。
それだけだった。
それだけなのに、私はその時間がどうしようもなく心地よくて。
アルトが隣に居るだけで、痛みも不安も遠くなって、つい甘えてしまっていた。
……だからこそ。
今日こそ、ちゃんと話さなければならない。
もう、アルトを私から解放してあげる事を。
これ以上、過去に縛りつけないと。
私は、一人で生きていくと決めたのだと。
いつも通り、面会時間のはじまりと同時に扉が開いた音がした。
「おはよう、リーネ。今日の調子はどうだい」
アルトだ。声は変わらない。静かで、穏やかで、ひどく落ち着いた声だ。
......多分、手に数枚の書類を持っている。
「ありがとう、アルト」
私は帽子を被り、マスクをつけた。
右手だけでするのには、もうだいぶ慣れた。
アルトは気にしている様子を見せないが、好きな人にこの顔を見せるのは、どうしても辛かった。
「お天気がいいせいか、今日は痛みが少ないわ」
アルトは、私の帽子とマスクをみて、一瞬気配が沈んだようだ。
「それで、今日は何だい。話があるんだって?」
私は昨日、看護師さんに頼んで、アルトへ伝言を残していた。
逃げないように。
言葉を飲み込んでしまわないように。
胸の奥で震えるものを押さえ込みながら、大きく息を吸う。
「あのね、アルト。私、退院することにしたの」
アルトが目を見開いた。
「えっ、随分急だな」
「ごめんね、黙ってて」
謝りながら、胸の奥が痛んだ。
ずっと言えなかった。
言ってしまったら、本当に終わってしまうから。
「もう、ずっと前から準備してたの。住む場所も決まってるし、家政婦さんも見つかったから……大丈夫」
アルトが黙って、私を見つめている。
アルトの目が、好きだった。
昔からずっと、真っ直ぐで、優しくて。
だから私は、何度もその優しさに甘えてしまった。
「だからね、アルト」
平静でいようとした。
ちゃんと笑って伝えようと決めていた。
なのに、声が少し震える。
「私はもう、一人でも平気だから。だから……私のことは忘れて、これからは、アルトの好きなように生きてほしいの」
肩が小さく震えた。
目の奥が熱い。
泣いちゃ駄目だ、と必死に自分へ言い聞かせる。
これは、私が決めたことだから。
私はアルトを見つめ続けた。
滲んでいく視界の中で、それでも、その顔を焼き付けるみたいに。
「アルト、今まで本当に……ありがとうございました」
頭を下げる。さよならを告げる。
声が壊れそうだった。
涙が零れそうになる。
でも、泣いて縋ってはいけない。
アルトを困らせたくなかった。
安心して、自由になってほしかった。
だから私は、無理やり目元を笑う形にした。
アルトは、しばらく何も言わなかった。
静かな病室に、春の光だけが差し込んでいる。
やがて、アルトはゆっくり息を吐いて――
「そうか……わかったよ」
そう答えた。




