第59話 泣いて泣かれて
窓の外では、音もなく雪が降り積もっていた。
城塞都市メルキドは、何度目かの降雪で白く染まっていた。
俺はバルツァー辺境伯爵の城内、その一角にある救護所の一室に居た。
一点を見つめたまま、椅子に座っている。
意識は覚醒しているが、思考はひどく曖昧だ。
今を見ているのに、遠い昔の記憶を思い出しているような、そんな奇妙な乖離感の中にいた。
「……アルト、今日は一旦、ここまでにしましょう」
その、ひどく掠れた声に、俺の意識がようやく現実に引き戻された。
視線を上げると、そこにはげっそりとやつれたフィオナが立っていた。
いつもなら、穏やかな慈愛の微笑みを湛えているはずの彼女だが、今は見る影もない。
目の下には色濃い隈が刻まれ、その声は疲労の極致に達して震えていた。
「ああ……フィオナ。気づかなくてすみません」
俺は、錆び付いた心を無理やり動かすようにして、顔の筋肉を吊り上げた。
他人から見て「笑顔」と判別できるかどうかの、安っぽい仮面。
「毎日、治療ありがとうございます。無理、されてますよね。貴女こそ、ちゃんと身体を労ってください」
本心だった。
……まぁ、四徹してる男に言われても説得力は皆無だろうが。
自覚くらいはある。
俺はそのまま、フィオナの隣に立つ小さな少女へ視線を向けた。
「ミリアも、毎日治療をありがとう。……最近冷えるから、ちゃんと暖かくしてな」
「…………」
返事がない。
見ると、ミリアは俯いたまま唇をきゅっと噛んでいた。
いつもなら飛び散っている謎のキラキラ演出も、今日は妙に大人しい。
ああ、こいつも限界近いんだな、と嫌でも分かる。
大きな瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
ミリアは何度も首を横に振ってから、掠れた声を絞り出した。
「アルトさんこそ……無理しないでください……お願い、ですから……」
純粋妖精少女の直球は、今の俺には少し刺さる。
というか、かなり痛い。善意100パーセントって、下手な説教より効くんだよな……。
「ミリアの言う通りですよ、アルト」
フィオナが、溜息混じりに言葉を重ねる。
「貴方が倒れては意味がありません。もう、峠は超えましたから、少しは横になってください」
「……すみません。心配をかけましたね」
俺は一度、深く息を吐き出した。
肺に溜まった冷たい澱を吐き出すように。
「わかりました。……今晩だけ、あと少しだけ付き添わせてください。明日からは必ず、時間を決めて休むようにします。約束です」
フィオナとミリアは、互いに顔を見合わせた。俺の頑固さを知っている二人は、それ以上強くは言えなかったのだろう。
彼女たちは居堪れない、それでいてどこか諦めたような表情を浮かべ、「……わかりました」と言い残して、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、病室の静寂をより一層際立たせた。
一人になった俺は、再び視線を前方へと固定した。
結果から言うと、俺たちは魔王討伐に成功した。
災厄は滅び、世界は救われた。
そして、討伐パーティーは、誰一人欠けることなく生還した。
生還。
ああ、間違いない。俺たちは全員生き残った。
生きている。
心臓は鼓動を刻み、肺は空気を求め、身体は水分を消費している。
たとえ、外側がどれほどボロボロに砕け散っていようとも、生物学的な意味での「生」は維持されている。
俺の目の前にあるベッドには、一人の人間が横たわっていた。
いや、それを「人」と認識するには、あまりに包帯が多過ぎた。
頭の先から足の先まで、隙間なく巻き付けられた白い布。
そこから、弱々しい喘鳴が漏れている。
そして――布団の上に置かれた、あるはずの場所にない「左手」。
俺が戦場で意識を失った後、パーシバル参謀に依頼しておいた救護部隊が、魔王討伐後の俺達を救い出した。
そして、三日後にこの救護所で目覚めた時、事態は全て終わっていた。
頭の中に寄生していた魔王の分体は駆除され、右足に残っていた麻痺も、今は軽い痺れを感じる程度にまで回復している。
目覚めて最初にしたのは、仲間たちの安否確認だった。
全員が無事だと聞き、俺は這うようにして、リーネのいるこの病室へやってきた。
正直、最初はこれが彼女だとは気づかなかった。
いや、認めたくなかったんだ。
銀糸のように美しかった髪も、しなやかだった四肢も、今は全て包帯の下に隠されている。
看護師に問い質し、フィオナやバロックから戦場での顛末を聞き、そして……この包帯の塊が、うなされながら俺の名を呼ぶのを聞いて、ようやく理解した。
ああ、これが、リーネなんだ。
それからずっと、俺はこのベッドサイドに座り続けている。
今日で四日目の夜だ。
何度も移動を促され、休息を指示されたが、俺は絶対にここを動かなかった。
離れられなかったんだ。
目を離すと、リーネが消えてしまいそうで。
眠るのが怖かったんだ。
起きたら、リーネが冷たい骸に変わっていそうで。
《アルト。既に87時間連続で活動しています。肉体的、および精神的限界を超えています。速やかに睡眠をとることを強く要請します》
脳内で、アビスの無機質な声が響く。
(アビス……ダメだ。『覚醒』をかけてくれ)
《推奨しません。当該術式の連用は、術後の強烈な反動を伴い、心身に不可逆な悪影響を及ぼす可能性があります》
(知ってるよ、そんなこと。……だが、今夜だけだ。明日は休む。頼むよ、アビス)
数秒の演算の後、アビスは淡々と告げた。
《……了解、アルト。『覚醒』を実行します。但し契約者保護条項に基づき、明朝八時をもって、強制的に睡眠状態へ移行させます》
(……ああ。それでいい。ありがとう、アビス)
脳を刺すような鋭い魔力が奔り、鉛のように重かった瞼が、無理やり持ち上がる。
神経が過敏に研ぎ澄まされ、リーネの苦しげな呼吸音が、鼓膜に強く響く。
「あ……る、と……っ」
包帯の奥から、掠れた声が漏れた。
俺を呼ぶ声。何度も聞いたリーネの声だ。
ただ今のその声は、消え入りそうなほどに掠れ、震えていた。
「…………っ」
気がついたら、視界が滲んでいた。
雫が頬を伝い、膝の上に落ちていく。
……泣くなんて、何年振りだろうか。
そうだ。あの日。あの雨が降る夜。
寝室の扉を開け、彼女の裏切りをこの目で見た、あの夜以来だ。
俺は不思議な感覚に包まれていた。
涙が溢れるたびに、俺の脳裏にこびりついていた「あの日」の光景が、少しずつ洗われていくような気がした。
ドロドロとしていて、黒くて熱かった記憶の色が、溶けて透明になっていく。
悲しみ。怒り。失望。
それらが消えていくわけじゃない。
けれど、焼けて小さくなってしまった彼女を見ていたら。
……今は、そんなことを数える気にもなれなかった。
だから。
今夜は、泣くことにした。
「リーネ」という一人の人間だけを想って。
泣けるだけ泣く。
窓の外では、まだ雪が降り続いていた。
静かな夜だった。
俺は暗闇の中、ずっと自分の泣き声を聞いていた。
※
声が聞こえる。
一番聞きたい声。
アルトの声だ。
……でも、聞きたくない声だった。
あの日。あの雨の夜に聞いた声。
泣き声だった。
あの強いアルトが。決して諦めない人が。
堪え切れずに溢す嗚咽が、真っ暗な中で私に染み込んでくる。
泣かないで。
思わずアルトを探すのに。
何も見えない。
泣かないで。
アルトに手を伸ばすのに。
何も掴めない。
ああ、そうだった。
全部、燃えたんだ。
私にはもう、アルトに返せるものが残っていないんだ。
悲しかった。
アルトが泣いているのが悲しい。
アルトに返せるものが無いのが悲しい。
気がつけば、私は泣いていた。
涙も出ないし、声も挙げられないけれど。
私は泣いていた。
不思議だった。
泣いていると。
私の中にこびりついていた、未練や執着が解けていく。
粘ついていた想いが、さらさらと流れていく。
だから。
今は、泣くことにした。
「アルト」という一人の人間だけを想って。
泣けるだけ泣く。
私は暗闇の中、アルトの泣き声をずっと聞きながら。
声を出さず、涙も流さずに、泣き続けていた。




