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第56話 魔王

 冷たい朝日が辺りを照らし出す。

 前夜の降雪により、ボスルーム周辺はうっすらと雪化粧を纏っていた。

 肌を裂くような凍てついた風が吹き、吸い込むだけで肺が凍るほどの冷気が森全体を支配している。


 ここは俺たち人間が安易に踏み入ることを許さない、死と隣り合わせの領域だと思わせる、凍えるような風景だった。


「皆、行くぞ」


 俺は感傷を振り払って、皆とボスルームに入った。

 

 ボスルームは、一本の巨木の内側でありながら、意思を持って増殖する異形の森でもあった。

 見上げれば、空は大蛇のようにうねる太枝と、無数に垂れ下がる不気味な気根に覆われた、巨大なドーム状の空洞になっている。

 

 空間を喰らい尽くそうとする、魔王の暴力的なまでの生命力。

 圧倒的な魔王の生への執念を前にすると、底知れぬ恐怖と畏怖を覚える。

 

 ボスルームを構成する木の根本に、直径10メートルにも及ぶ常軌を逸した巨大な『花』が鎮座している。

 赤黒くぶよぶよとした肉厚な花弁は、まるで生きた内臓が脈打っているかのような生々しさだ。

 そこから絶え間なく湧き上がるのは、周囲の空気を汚染するほど強烈で、吐き気を催す腐肉の悪臭だ。

 

 その毒々しい匂いに狂わされたように、無数の巨大な羽虫が黒い雲となって群がり、花の奥深くでも嫌悪感を掻き立てる節足動物たちが不気味に蠢き続けている。

 圧倒的な存在感と悍ましさに、ただ息が詰まる。

 

 この花が魔王か。


 辺りを侵食し染め上げる、毒々しい魔力。

 間違い無い。

 コイツが世界の癌細胞の親巣だ。


 初手は魔王だった。


 魔王に群がっていた無数の羽音。

 不快なシルエットの群れ――蟲たちが、侵入者である俺たちに気づき、一斉に襲い掛かってきたのだ。


 虹色に染まった無数の眼球を妖しく明滅させながら、怒りに狂った大小の異形の蟲たちが、草木を薙ぎ倒し、黒い津波のごとく押し寄せる。

 

 空を完全に覆い尽くした巨大な羽虫の群れが発する羽音は、空気を物理的に揺さぶり鼓膜を直接劈くような轟音となって、脳髄を揺らす。

 足元では硬質な甲殻を軋ませながら地を這う無数の節足が、雪を激しく巻き上げ、大地震のような不気味な震動を、ひっきりなしに響かせていた。


 容赦のない蟲の濁流が、一切の希望を飲み込もうと迫ってきた。

 

「ひっ……!」


 背後で短い悲鳴が上がった。

 見ると、フィオナが顔面を蒼白にし、狼狽えて一歩後ずさっている。

 小刻みに身体が震え、ついでにいろんなところも揺れている。

 

(……そういえば、フィオナは虫が苦手だったな)


 蟲は完璧超聖女たる彼女の、数少ない弱点だ。

 こんな状況だが、少しだけ俺の胃の痛みが和らいだ気がする。

 ……あの揺れには、癒し効果があるんだろうか?

 

 俺はすかさず一歩前に出て、フィオナを庇うように立ち塞がった。

 

「いつもの定番の出だしだな。陣形を展開するぞ!」


 俺の声を合図に、パーティが動く。

 

「バロックは前に出て、ヘイトを稼いでくれ!」

「承知した」


 バロックが、巨躯を軋ませ大盾を構えて前に出る。何度見ても安心感が半端無い。

 

「ミリアは全体に加速バフを! フィオナは聖なる加護と勇気の加護を頼む!」

「はいっ、風の精霊よ!」

「わ、わかりました……っ! 大いなる光よ!」


 ミリアの風が、俺たちの身体を軽くする。

……いや、「軽くする」で済ませていい代物じゃない。

 ミリアのバフは時間の流れまで加速してる。毎度ながら、とんでもない反則だ。


 その上から、フィオナの加護が降り注ぐ。

 物理防御と精神耐性を同時に、しかも広範囲に付与。

 さすが聖女。伊達じゃない。燃費どうなってるんだ、本当に。

 

「ヨシュアはアタッカーに剛力の加護を! 

 グラムとリーネは、向かってきた虫たちを迎撃してくれ。

 ただし、奥にいる魔王本体からの攻撃には十分に注意しろよ!」

「了解です、アルト!」

 

 ヨシュアが後方から術式を展開し、前衛の武器に淡い光を灯していく。


 指示を飛ばしながら、俺は横に立つリーネへ視線を向け、刃へ付与魔法『鋭刃』を掛けた。

 銀色の切っ先が、より一層鋭く研ぎ澄まされる。


 魔王討伐開始以来、この距離で並ぶのも、もう何度目になるのか。


 この遠征中、戦場に立つ剣士としてのこいつは、一度でも俺の信頼を裏切ったことはなかった。 

 ……こういうところは、昔のまんまだ。

 

「ありがとう、アルト。じゃあ行きます」

 

 鋭い踏み込みの轟音と共に、彼女は疾風のごとく戦場を駆け抜ける。

 

 ……いいかげん、俺も答えを出さないとな。

 

 リーネは猛烈なスピードから地面を蹴り上げると、その身体は重力を振り切って高さ数メートルの宙へと跳ね上がった。

 空中で鋭く空気を切り裂きながら羽虫の群れに突っ込み、空中で回転しながら手足四刀を使い、すり抜けざまに切り刻む。一瞬で羽虫の群れを全滅させて着地。

 

 着地の衝撃をそのまま推進力へと変え、そのまま圧倒的な遠心力を伴う高速スピンへと突入。もう俺の目では追いきれない。

 まるで刃の竜巻のように激しく回転する姿は残像を生み、進路上の蟲たちを巻き上げながら、撫で切りにしていく。

 

 その様子に安堵したのも束の間だった。

 

《――警告。個体名グラム、状態異常『恐怖』のため、戦闘不能と判断されます》

「……っ!」


 俺は慌ててグラムの方を見た。

 

(まだ駄目か……!)


 勇気の加護が発動しているのに、グラムは、剣を構えることすらできていなかった。


 両手がガタガタと震えている。

 呼吸は浅く、口を半開きにしたまま、呆然と奥の巨大な花――魔王を凝視して固まっていた。


 前回のダンジョンで自身の理解を超えた圧倒的な存在に触れ、生まれて初めての『恐怖』を味わったグラムは、戦闘時になるとこうしてフリーズしてしまうようになっていた。

 

「……グラム」


 俺は苦虫を何十匹も噛み潰したような顔で、その名前を呼んだ。


 俺の声にビクッと肩を跳ねらせたグラムは、縋るようにこちらを振り返った。

 

「あ、アルト……頼む。俺に、剣を振るえるようにしてくれ……。お、お願いだ……ッ!」


 顔面は蒼白で、必死の形相だった。

 そこには、かつてのヘラヘラと笑っていた陽キャ脳筋勇者の面影はない。

 ただひたすらに、己のアイデンティティである『剣』を振るえなくなる恐怖に怯える、壊れた人間がいた。


「……はぁ」


 思わず、肺の底から重たい溜息が漏れる。

 あまり、精神操作系のこの魔法はかけたくない。


 だが、放っておけばコイツは戦えない。

 対魔王戦で、それは流石に許容できない。

 

 正直、胃が痛くなる。

 ……全く、コイツは元気でも、元気じゃなくても、俺のメンタルを攻撃してきやがる。

 

 俺は苦い顔のまま、グラムへ魔法を向ける。


「――『高揚』」


 精神操作魔法。

 恐怖を力任せに上書きし、神経を無理やりショートさせる劇薬だ。

 詠唱した瞬間、グラムの身体に異変が起きた。

 

「ひゅっ……はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 怯えたような浅く早い呼吸が、獣のような深く荒い呼吸へと劇的に変わる。


 恐怖で泳いでいた瞳は、みるみるうちに赤く充血し、爛々と異常な輝きを放ち始めた。

 小刻みに震えていた両手は、今度は爆発しそうな力を抑えきれないかのように、わなわなと激しく震えだした。


「……ありがとう。アルト」


 勇者とは思えない、底の濁った声だった。

 グラムは充血した目で笑うと、聖剣を無造作に担ぎ、そのまま虫の群れへ突っ込んでいく。


 ……あんな顔で“ありがとう”とか言われても、全然嬉しくない。

 むしろ、医者を呼ぶべき類の笑顔だ。


 俺は、ひどく嫌そうな顔でその背中を見送った。


《アルト。個体名グラムは現在、精神状態が極めて不安定です。継続的な精神干渉魔法の使用は、悪影響を及ぼす可能性があります》

(……わかってるよ。俺もグラムも。皆もな)


 そんな事は、最初からわかっている。

 だが、聖剣を振れるのはグラムだけだ。


《補足。現状では、個体名グラムを戦闘不能とした場合、魔王討伐成功率が大幅に低下します。判断としては、現対応が最適解です》

(……フォローのつもりか?)

《事実の確認です》


 相変わらず、人道軽視の悪魔だった。

 だがまあ、戦闘中だ。

 生命のやり取りのど真ん中としては、間違った事も言っていない。

 ……賢者としては不快だが。


 俺は小さく息を吐き、前方へ視線を戻す。

 悩んでる間にも、虫は迫ってくる。嫌になるほど勤勉だ。


「……まずは、雑魚から片付けるか」


 乾いた声で呟き、俺は合成魔法の詠唱を開始した。

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