第54話 聖女の涙、泣く勇者
救護所のベッドに横たわったまま天井を見ていると、白いカーテン越しの明るさだけが、私の中の寒さを静かに際立たせていく。
傷口に触れるフィオナ様の手は、今日も正確で、やさしい。
けれど、その頬は少しこけて見えた。目の下にも、うすく疲れが落ちている。
昨日、カレンを蘇生させ、重症のメンバーを癒したのだ。やつれていて当然だろう。
「……すいません、私の傷まで診ていただいて」
そう言うと、フィオナ様は小さく首を振った。
「いえ。私こそ、昨日は魔力が尽きてしまって、申し訳ありませんでした」
その言葉に、胸がきゅっと痛む。
フィオナ様は、心停止したカレンさんを蘇生して、重傷を負ったアルトまで治してくれた。その果てに魔力枯渇になり、今朝まで動けなかったのだ。
謝る必要なんてなかった。
「……そうですか、アルトは強制退院になったんですね」
傷に癒やしの光を流し込みながら、フィオナ様が静かに言う。
「そうなんです。まだ、本調子じゃないのに、心配で……」
口にした途端、自分がひどく烏滸がましく思えて、少しだけ目を伏せた。
「それは心配ですね。後でアルトに声をかけておきますね」
やわらかな声音だった。
つい、そのやさしさに甘えてしまい、私は慌てて頷く。
「ありがとうございます。フィオナ様に見ていただけるなら、安心です」
言ってから、ほんの少しだけ沈黙が落ちた。
フィオナ様が目を伏せる。
睫毛の影が頬に揺れて、その横顔がひどく苦しそうに見えた。
「……実は、リーネに話しておきたい事が、あります」
胸が、ひやりとした。
何を言われるのだろうと思うより先に、聞きたくない、と一瞬だけ思ってしまい喉が詰まる。
私はフィオナ様の次の言葉を待った。
「……あなたを傷つけるかもしれません。それでも、伝えさせてください。
……私は、アルトに惹かれています」
その声は静かだったのに、私の中では、ひどく大きく響いた。
けれど不思議と、驚きはなかった。
いつか、そうなるかもしれないと思っていた。
あの人の痛みを見て、それでも側にいた人が、何も感じないはずがない。
「……ごめんなさい」
フィオナ様が、私に頭を下げて声を落とす。
「リーネの気持ちも、アルトの覚悟も知っていたのに、本当にごめんなさい。
……何度も、こんな気持ちは違うって、否定しようとしたんです。
でも、第六サブダンジョンで、アルトが倒れた時……もう、誤魔化せませんでした」
声が震えて、そこで涙がこぼれた。
フィオナ様は拭おうともせず、そのまま続ける。
「ラスウェルさんが火に巻かれたあの時、私はアルトの側を離れる事ができませんでした」
責めることなんて、できるはずがなかった。
だってその言葉は、私にも分かるから。
選んではいけないと分かっていても、心は従わない。
……その不格好さなら、よく知っている。
「……人を好きになることが、こんなに理不尽な感情だとは知りませんでした」
私は少しだけ息を吸って、それから言った。
「……教えてくれて、ありがとうございました」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
泣きそうなくせに、案外ちゃんと喋れてしまうところが、余計に惨めだった。
「私は、アルトが誰かを好きになっても、何も言う権利はありません」
ひとつ言うたびに、胸の奥が削れる。
でも、それは当然の痛みだった。
「それに、誰かがアルトを好きになっても、何か言う権利もありません」
そう。ない。
そんなもの、もうどこにも残っていない。
捨てたのは自分だ。
「フィオナ様、謝らないでください。そんな資格、私にはありません。
一番、悪いのは私なんです。
あんなことをしておいて、それでもまだアルトを想っているなんて……本当に、どうしようもない女なんです」
言いながら、少しだけ笑おうとした。
でも、哀しい形に歪んだだけだったと思う。
「だからフィオナ様は、そんなにご自分を責めないで、苦しまないでください」
込み上げてくるものを無理やり飲み込んで、何とか言葉を紡ぐ。
「アルトがフィオナ様を、選ぶなら……私は安心できます。だから、私の事は気にしないでください」
嘘ではなかった。
嘘ではないけれど、それで平気になれるわけでもない。
安心と痛みが両立するなんて、なんて矛盾なんだろうと思う。
フィオナ様は涙の残る目で、私を見た。
「リーネ……変わりましたね」
「まだまだです。フィオナ様みたいには、なれません」
するとフィオナ様は、少しだけ困ったように笑った。
「私だってまだまだです。好きになってはいけない人を、好きになって……諦められずに、悩んでいます」
私は頷く事しかできなかった。
「……辛いですね」
「辛いですね」
お互い、あまりにも救いのないことを、ひどく穏やかに言い合って。
それが可笑しいのか、悲しいのか、もうよく分からなくなって。
気づけば二人で、少しだけ泣いて、少しだけ笑っていた。
アルトを好きでいることは、きっとやめられない。
やめるべきだと分かっていても、願うべき形が別にあると分かっていても、それでもこの未練は、私の中で静かに息をしている。
だからせめて、せめてこれ以上、私の未練が誰かの痛みにならないように。
そう胸の中で呟きながら、私はフィオナ様の涙に濡れた微笑を、見つめていた。
※
初冬の夕暮れは、憲兵隊舎の地下に冷えを運んでいた。
石造りの拘禁房は湿気を含んだ薄闇に沈み、鉄格子は鈍く冷えびえと弱い灯りを反射して世界を区切っている。
壁際には黴と古い血の匂いがわずかに残り、足音だけが硬く反響していた。
拘禁房の前で足を止めた瞬間、俺は小さく眉をひそめた。
中にいたグラムは、武器を取り上げられている。
しかし、奴は何も持たない両手で延々と剣の型をなぞっていた。
踏み込み、捻り、振り抜き、残心。
狭い牢の中だというのに、動きだけは妙に伸びやかだ。
まるで見えない敵と、本当に斬り結んでいるみたいだった。
「……グラム」
呼んでも反応はない。
視線すら寄越さない。
……不貞腐れてんのか?
俺は怒気を込めて、少し大きめにもう一度呼びかけた。
……返事はない。ただの屍かな?
《アルト、個体名グラムは外部信号を受信していません》
(はっ? 目を開けて動いてるぞ。……また寝てんのか?)
《いえ、個体名グラムの脳波は覚醒状態です》
……どういうことだ。
聞こえていないわけじゃない。――ただ、認識していない?
「賢者様、そいつはしばらく前から、こんな感じなんです」
俺は看守の声を聞いて、数瞬グラムの演舞を眺めた。
……なるほどな、と一つ当たりをつける。
俺は看守に向き直る。
「悪い。棒か何か、貸してくれないか」
「……危なくないですか?」
「多分、大丈夫だと思う」
訝しげな顔をされたが、しばらくして箒が差し入れられた。
俺がそれを牢の隙間から滑らせると、グラムの手がぴたりと止まる。
箒の柄を握った、その瞬間だった。
虚ろだった目に、すっと光が宿る。
グラムの纏っていた気配が変わる。
俺たちに気がついた。
「……あれ。アルト?」
何でもない、朝の挨拶みたいな声だった。
そのいつも通りさに、胸の奥で何かが冷えた。
ああ、こいつは……そういう事か?
なら、試してみる価値はあるな。
「……グラム、お前このままだと、剣を持てなくなるぞ」
「えっ?」
初めて、グラムの笑顔が崩れた。
「な、なんで?」
焦った顔だった。いや、もっとひどい。
絶望に歪んでいた。
今まで見てきたどんな表情よりも切実で、生々しかった。
やっぱり「そこ」なのかよ、と思う。
だが、そこなんだろうな。こいつにとっては。
「出奔したとはいえ、ラスウェルは辺境伯の三男で、カレンは家臣の娘だ。
お前の敵前逃亡で死にかけたんだ。あいつらの親族が、お前をどうしたいか分かるか?」
グラムの喉が、ごくりと鳴った。
「聖剣の適合者は、今のところお前しかいない。だから、魔王討伐が終わるまでは猶予される。
ただ、その後は別だ。
敵前逃亡の罪で、何らかの罰を加える方向で調整されてる――パーシバル参謀殿がそう教えてくれた」
沈黙が落ちた。地下の冷気より、そっちの方がよほど冷たく感じた。
グラムは箒を握ったまま、指先を震わせる。
「アルト……なんとか、なんとかしてくれ。お前ならできるだろ?」
初めてだった。こいつが俺に、明確に助けを求めたのは。
俺は小さく息を吐く。
「何とかしてやってもいいが、条件がある」
「な、何でも、何でもするよ。だから頼む、剣だけは取り上げないでくれ」
必死の懇願だった。
本当に、初めて見る顔だった。
軽い笑顔でも、陽気な声でもない。
ただ切実に、縋り付いてくる顔。
「なら、今からする俺の質問に、正直に答えろ」
「わ、わかった」
グラムがこくこくと頷く。
俺は鉄格子越しに、まっすぐあいつを見た。
……そういえば、コイツとサシで話すのは初めてかもな。
「お前、他人の事、どう思ってる?」
「……他人の事?」
呆けたような顔だった。
しばらくの沈黙のあと、グラムは本当に困った顔をした。
「……よく、わからないんだ」
「わからない? 何が?」
「何がわからないのか、わからない。何で怒るのか、何で泣くのか、わからない。ガキの頃から、ヒトがわからない」
すらすらと、変に澱みなく出てきた。
これがこいつにとって当たり前すぎるからなのか?
「わからないなら、何であんなに笑って、人と仲良くできるんだ?」
そう聞くと、グラムはきょとんとしてから、あっさり答えた。
「殴られるからだ」
あまりに平然としていて、逆に一瞬意味が取れなかった。
「笑ってないと親父に殴られた。嫌がると叔父貴に殴られた。
だから笑ってる。だから、何でも受け入れる。どうせ、人なんかわからないから、どうでもいい。殴られないなら、それでいい」
そこで、箒を握る手に少しだけ力が籠る。
「……俺は剣の事しか解らない」
なるほど、と思った。
こいつは人の感情が解らないんだ。
いわゆる、共感性ってやつが決定的に薄い。
騎士団長の叔父と貴族の父親から見れば、こんな息子は矯正対象だったんだろう。
殴って、笑わせて、否定を消して、何でも受け入れる人間を仕上げた。
その結果できたのが、いつもニコニコしていて、誰も否定しない間男勇者様だ。
そういえば、不倫の謝罪の時もコイツの親父と叔父貴が、グラムをボコボコにしてたな……業が深い。主に教育の方向性が。
「グラム。お前にとって、剣とは何だ?」
今度の答えも、間髪入れなかった。
「俺に解る、たった一つのことだ。俺は剣だったら何でも解る」
「……なら何で、ダンジョンボス――首無し騎士から逃げた?」
その瞬間、グラムの肩がびくりと跳ねた。
箒を握る手が、ブルブルと震え出す。
「……アイツの剣は、解らなかった」
声が掠れる。顔が恐怖に歪む。涙が滲んでくる。
「あんなに解らない剣、初めてだった。どこを斬るか、どう動くか……全然解らなかった。だから逃げた。あんな奴には、二度と会いたくない」
……そういう事ね。
剣だけは解る。
だが、自分より遥かに上にいる“理解できない剣”を前にした瞬間、こいつの世界は壊れたわけだ。
《アルト。個体名グラムは、状態異常『恐怖』が持続しています》
アビスの無機質な補足が脳内に落ちる。
「グラム」
俺は静かに問い直した。
「お前、その状態で戦えるのか?」
グラムは箒を胸に抱えるみたいに握り締め、すがるように顔を上げた。
「剣を返してくれるなら、何でもする!だから、助けてくれ。お、お願いします」
深く、長いため息が漏れた。
面倒臭い。
理解したところで、コイツを許せるわけでもない。
だが、こいつがどういう壊れ方をしているのかは、ようやくわかった。
俺は鉄格子の向こうで震える勇者を見据えたまま、乾いた声で続けた。
「……お前にとって剣が大事なのは、よく分かった」
グラムが怯えたまま顔を上げる。
俺はそこで、胸の奥に沈めていたものを、わざわざ掘り返すみたいに言葉にした。
「俺にとっては、リーネがそうだった」
グラムの顔から、さっと血の気が引いた。
「……けん……?」
掠れた声が、ひどく幼く聞こえた。
「リーネ……? え……一緒……?」
そこで、ぴたりと止まる。
泣き崩れるでも、取り乱すでもない。
ただ、理解しようとして、理解の形に届かず、頭の中の歯車だけが空回りしているような硬直だった。
「俺のリーネは、お前に奪われて失った。二度と戻らない。……俺の気持ちが、分かるか?」
喉の奥が軋む。
あの夜の映像がフラッシュバックしてくる。
俺は、フラッシュバックに押されるままに、真っ黒く熱せられた呪詛を、グラムに叩きつけた。
今なら、コイツに突き立てる事が、できるんじゃないかと思って。
箒を握ったままの手が、小刻みに震える。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
剣と、女と、喪失と、奪うということ。
たぶんこいつの中では、その四つが今まで一度も同じ棚に置かれたことがなかった。
「……お、おれ……」
ようやく、自分の呼吸の音を思い出したみたいに、グラムが喉を引き攣らせた。
ヒュッと、悲鳴みたいに鳴った短い音が、理解の合図だった。
「俺は……なんて事を……」
箒が、からん、と石床に落ちた。
次の瞬間、グラムは両手で頭を抱えて、その場に蹲った。
「あ、ぁ……ぁあ……っ、ごめん……ごめんなさい……っ。アルト、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃぃ……っ」
ぐしゃぐしゃに泣きながら、何度も、何度も謝る。
泣き声は、すぐに号泣になった。
号泣は慟哭に変わり、地下牢の石壁にみっともない泣き声が反響した。
俺は黙って、それを見下ろしていた。
《アルト、個体名グラムは、重度の後悔に苛まれています》
……見れば分かるよ、アビス。
「……今更、遅いんだよ。バカやろー……」
そう呟いた自分の声が、思っていたよりずっと悲しそうで、少しだけ嫌になった。




