第50話 修羅場でフラバ
《警告:アルト。呼吸をしてください》
脳内に響くアビスの無機質な声は、どこか遠くの出来事のように聞こえた。
グラムとカレン、そして怒り狂うラスウェル。
その修羅場を前にして、俺はただ立ち尽くしていた。
脳が、眼前の光景を理解することを全力で拒絶していたのだ。
(アビス? ああ、呼吸か。呼吸、しなきゃな……)
浅く、肺に空気を引き込んだ。
息をした途端、凍りついていた思考が強制的に融解し、頭が眼前の光景を正確に『理解』してしまった。
「……ッ!」
強烈な吐き気が込み上げ、俺はその場に蹲って嘔吐した。
元々最悪だった二日酔いの吐き気に、キャパオーバーの精神的ショックが乗算された結果だった。
何度も、何度も胃液を吐き出す。
周りで誰かが叫んでいる気がするが、鼓膜が膜を張ったように何も聞こえない。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。焦点が合わない。現実が一歩遅れてついてくる感じだ。
あの夜だ。
ご丁寧に、雨の匂いまでセットで、勝手にフラッシュバック再生される。
ベッドの隅でシーツを抱きしめて震えているカレンが、あの日のリーネに重なる。笑えないレベルで、構図が一致してる。
カレンはシーツを胸元まで引き上げ、己の浅ましさに耐えるように肩を震わせていた。
怯えているというより、自分のしたことを直視できずに潰れかけている顔だった。
あの日のリーネと同じ顔だった。
カレンは自分でグラムを選んだのか?
なら、なんであんなに辛そうなんだ?
分かってる。
分かってるから、余計に胸糞が悪かった。
壊れかけた時に、自分から地獄へ歩いていく。
その手触りを、俺は知っている。
全裸のグラムの上で狂ったように拳を振り下ろすラスウェルが、あの日の『俺』に見えた。
いやに、腑に落ちた。
――あぁ、そうか。
俺はあの時、グラムを殴り殺したかったんだな。
今さら理解が追いつくあたり、処理遅延にもほどがある。
《アルト、状態異常『恐慌』と判断します。契約者保護条項により、強制鎮静を実行します》
――来る。
思考が一瞬だけ空白になる。
頭に冷たい針が刺さるという予感だけが、妙に鮮明だった。
(待て、アビス)
感情を削りにくる気配に、ぎりぎりで踏みとどまる。
(一分待ってくれ。立て直す。頼む)
呼吸を整えながら短く願う。
《了解、アルト。カウントダウンを開始します》
律義な悪魔の秒読みを聞かながら、心の中で唱える。
違う。あれは俺とリーネじゃない。
……あれは過去だ。
…終わったことだ。
……違う。
必死に言い聞かせても、胸の奥から真っ黒で熱い、どろどろとした感情が込み上げてくる。
激しい動悸が身体を揺らし、視界がじんわりと赤く染まり始めてくる。
(だから、そうじゃないって言ってるだろ……ッ!)
俺は自分の喉の奥深くに指を突っ込み、無理やりえずいた。
もう胃には何も残っていない。
出るのは汚い声と、みっともなさくらいだ。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、ひたすらえずく。
感情を物理で押し出す。
行き場のない怒りと悲しみを、物理的に外へ絞り出そうとした。
何度も。
何度も。
馬鹿みたいだが、おかげで余計なことは考えずに済んだ。
俺は荒い息を吐きながら、無理やり感情の蓋を閉める。
(………少し、落ち着いたぞ。アビス、強制鎮静はキャンセルだ)
《了解、アルト。状態異常『恐慌』の回復を確認。強制鎮静をキャンセルします。引き続き、状態異常『二日酔い』は継続しています。早急な対応を推奨します》
(……オカンか、お前は)
《否定。私は深淵叡智端末です》
憎まれ口を叩ける程度には、理性が戻ってきた。
その時、背中にふわりとした暖かみを感じて振り返る。
フィオナが手を当てて、『解毒』の加護をかけていた。
顔が、見てて申し訳なくなるレベルで心配そうだ。
「アルトさん、大丈夫ですか……?」
声まで優しいとか、反則だろ、これ。
「……ありがとうございました、フィオナ。おかげで、頭がスッキリしました」
若干、見栄を張ってみた。
口元を乱暴に拭って立ち上がる。足元が少しだけ裏切って、ガクつく。
こういう所、身体は正直だな。
すかさずフィオナが支えてくる。
流石、聖女様。
普通に寄りかかりたくなる。
支えてくれる手の温かさから、なかなか離れられない。
少しだけ、このままでいたかった。
……あー、いかん。弱ってるな、俺。
——その瞬間、リーネの顔が浮かんだ。
今朝の果実水。
差し出された手。
「アルト、お酒飲み過ぎた時は、いつもこれだったよね」という、あの声。
……全く。
タイミングのいいブレーキだな、こいつは。
逃げようとした自分への、情けなさと。
それを止めたのが、リーネのフラッシュバックだったことに、乾いた笑いが浮かぶ。
衝動を押し込めて、自力で姿勢を戻す。
深呼吸を一つ。空気がちゃんと入ってくる。
よし、状況確認だ。
現実逃避はここまでにする。
※
ルチアは、ラスウェルとグラムには目もくれず、ベッドで震えているカレンの元へ大股で歩み寄った。
「……カレン。どうして、こんな事になってんの?」
「……私が、グラムを誘ったの……ラスに、もういらないって言われた気がして……どうでもよくなって……」
乾いた破裂音が部屋に響く。
ルチアは、カレンの頬を思い切り張っていた。
「誰もあんたを縛っちゃいない。あんたが誰と何しようが、私には何にも言う権利はないよ?
でもね、こんなやり方で自分を捨てていい訳はないだろうが!」
ルチアの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「ラスがぽっと出の聖女にちょっとよろめいたくらいで、当てつけみたいに! こんな中身空っぽの人形に股開いて! 馬鹿じゃないの!?」
湿った絶叫が、部屋を揺らす。
「私は……あんたがラスの隣にいるから、身を引いたんだよ……っ?!」
「ルルゥ……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
カレンはシーツを握りしめたまま、ベッドの上で崩れ落ちるように泣きじゃくった。
ルチアは、歯を食いしばりながら、ラスウェルに向かった。
ラスウェルはいつの間にか、ヨシュアに背後から羽交い締めにされ、動きを止められている。
鈍い音が響いた。
ルチアが、ラスウェルの顔面を思い切り、拳で殴り飛ばしていた。
眦を吊り上げてラスウェルの胸元を掴み上げる。
「ルチア……」
頬を腫らしたラスウェルは、カレンの話しを聞いて固まっている。
「ガタガタ取り乱しやがって、自分のせいだろうが! お前がカレン放ったらかして、他の女にふらふらしてたから――こんな馬鹿に逃げ込んだんだよ!」
「……俺が、カレンを突き放した?……俺のせい、なのか……」
俯き、力無く膝をつくラスウェル。
「……俺は……何してたんだ」
ルチアは乱暴に自分の涙を拭うと、ヨシュアに向き直る。
「ヨシュア、ラスを連れて頭を冷やしてやって。私はカレンを見るから」
「……ああ、わかった」
ヨシュアが蹲るラスウェルを引きずっていく。
ルチアは最後に、冷え切った目で俺を見た。
「アルト。そこに転がってる『粗品野郎』、持って帰って」
「あ、ああ……」
気絶している全裸のグラムへ向けて踏み出そうとした瞬間、ひどい目眩に襲われて俺はまたふらついた。
さっき吐いた分のツケが、きっちり来てる。
《アルト、状態異常『脱水』です。早急な水分補給を推奨します》
「ソイツの運搬は、俺がやろう」
野太い声に振り向くと、部屋の入り口にバロックが立っていた。
厳つい顔が、深い皺に埋もれている。
絵に描いたような渋面だ。
そりゃ、そうなるよな…
「バロック? どうしてここに?」
「パーシバル殿から、緊急の言伝があってな。お前たちの帰りが遅いので、迎えにきた」
バロックは軽々と片手でグラムの首根っこを掴み上げると、静かに周囲を見渡した。
「状況は、途中ですれ違ったリーネ達から大体聞いた」
……リーネ?
俺はハッとして周囲を見渡す。
見慣れた銀髪が見当たらない。
「リーネさんは……」
フィオナが、痛ましそうに眉を下げて口を開いた。
「『私が居ると、アルトのフラッシュバックに良くない』と言って、後を私に託されました。ミリアちゃんと一緒に、先に城へ戻られましたよ」
「……」
「リーネさん、とても辛そうでしたよ。……大丈夫そうなら、後で、顔を見せてあげてください」
正しい判断だと思う。が、ズキリと、胸の奥が痛んだ。
俺がフラッシュバックで嘔吐している間、彼女はどんな顔で俺を見ていたのだろう。
そして、リーネには分かるのだ。
捨てられたと思い込んで、どうでもいいみたいに自分を投げた後悔が。
自分の意思で踏み外したからこそ、誰にも責任転嫁できない苦さが。
彼女は、どんな思いでこの場から立ち去ったのだろう。……やり切れないな。
「……わかりました」
小さく頷き、俺はバロックへ視線を向ける。
「バロック。パーシバル殿の言伝とは?」
問いかけると、バロックは部屋をぐるりと見渡した。壊れた扉、気絶した全裸、ぶち撒けられた吐瀉物に、滲んでくる泣き声。
中々、見事な地獄絵図だ。
それから、重たい溜息をひとつ。
「この状況で言うのも酷だが、逆に今しかないか……」
前置きがもう嫌な予感しかしない。
バロックは静かに告げた。
「魔王のサブダンジョンが、もう一つ発見された」
――全員、止まった。
思考も、呼吸も、一瞬だけ。
六つだと言われていたダンジョンが、増えた。
これで七つ目だ。
流石、世界の癌細胞。知らない所に転移していた。
笑えない。
いや、本当に笑えない。
俺たちの修羅場は、どうやら延長戦に入ったらしい。しかも休憩はなさそうだ。
《アルト。流石にお察しします》
(珍しいな、お前が気配りなんて)
《私に感情はありません》
アビスの平坦な声が、やけに脳内に響く。
《ただ、アルトの不運フラグ発生確率は、平均を大幅に上回っています。一般的に、同情されるレベルです》
(……どうしろって言うんだよ)
修羅場と脱水と絶望の豪華三点セット。
全く嬉しくない。
俺は天井を仰いだ。
現実から目を逸らすには、ちょうどいい高さだった。
……辛い。




