第49話 お酒は楽しくほどほどに
宴もたけなわだった。
ラウンジの幾多の夜を重ねた深い琥珀色の木肌が、鈍い光を湛えている。
長年使い込まれたテーブルの角は優しく丸みを帯び、指先で触れればしっとりと肌に馴染む質感だ。
頭上の柔らかな灯りが真鍮のタップを淡く照らし、琥珀色のエールがグラスに満たされる音が響く。
城塞都市メルキドで最も大きな酒場のホールは、百人近い熱気と喧騒に包まれていた。
辺境伯領騎士団や街の有力者たちが主催する、魔王の第五サブダンジョン攻略の慰労会に、俺達は参加していた。
「いやぁ! あの飛んでる竜をよぉ、俺がドカンとジャンプして、聖剣で叩き落としてやったってわけさ!」
ホールの中心では、老若男女に囲まれた勇者グラムが大ジョッキを片手に、身振り手振りを交えて武勇伝を語っていた。
俺は少し離れた席から、その上機嫌な様子を眺めながら、酒をちびちび舐めていた。
「やっぱり、ドラゴンスレイヤーってのはモテるなぁ……」
《アルト。個体名グラムの記憶力は低いため、適当な作り話をしていると推測されます》
(だよなぁ。さっきのテーブルじゃ『目からビームを出して撃墜した』って言ってたし)
「アルト、俺はそろそろ失礼させてもらう」
向かいの席から、バロックが立ち上がった。彼が動くと部屋の空気も動く。分厚い壁が移動するみたいだ。
「ああ、すまない。お疲れ様、気をつけてな。俺とリーネは、もう少しだけ居るよ」
「ミリアは帰るか?」
バロックが視線を向けると、隣に座っていたミリアが小さく首を振る。
おじいちゃんと孫娘みたいだな。
「ありがとうございます。バロックさん、楽しいので、まだ居たいです」
「そうか、わかった」
バロックが、皆に手を挙げて扉に向かう。
「ミリア、帰りたくなったら言ってくれ、送るよ」
俺の言葉に、ミリアは少しだけ頬を赤くして「は、はい。ありがとうございます」と頷いた。
そのやり取りを、隣のリーネが静かに見つめている。よく見ると、どこか眩しそうな、寂しそうな目をしている。
「リーネ、酒場で飲むのは久しぶりだな」
酒を一滴も口にしていない彼女を気遣い、話を振る。
リーネはハッとして気を取り直したように笑った。
「そうね。冒険者をしてた頃は、大体夕飯は酒場だったわね。懐かしいわ」
「お二人の冒険者時代のお話し、聞きたいです!」
ミリアが身を乗り出し、リーネと和やかに話し始めた。
二人が盛り上がっている隙に、俺はそっと視線をずらし、『不滅の焔』のテーブルを観察する。
なぜかフィオナが招かれていて、ラスウェルがやたら熱心に話しかけていた。
瞳にハートマークが浮いてるな。
(アビス。ラスウェルは、フィオナにやられてないか?)
《はい、アルト。個体名ラスウェルは現在、状態異常『魅了』です》
(マウストゥマウスの人工呼吸だったからなぁ……まあ、無理もないが)
問題はその隣だ。
三白眼を吊り上げたカレンが、ラスウェルを無言で射抜いている。
ヨシュアが気を遣って会話を振っているが、効果は皆無だな。
見事に地獄のテーブルが完成していた。
「……ルチアはどうしたんだ? あいつ、ああいう場は得意そうだが」
そう呟いた直後だ。
「だーれだっ」
背後から、いきなり両目を塞がれた。
誰だ?って声でバレバレだ。ルチア。
「何しに来たんだよ、ルチア」
手を払いのけると、ルチアは口を尖らせる。不満顔もわかりやすい。
「だってあっちの席、空気悪いんだもん。ラスが、アンタんとこの聖女様にやられちゃっててさー」
ルチアは許可してないのに、俺の隣りに座る。
「カレンが居るってのに、ラスのバカ!」
「ラスウェルとカレンは、そういう関係なの?」
会話を拾ったリーネが、静かに問いを挟む。
無視はできない話題だ。
「幼馴染みたいよ。ラスがへたれだから付き合ってはいないみたいだけど、両想いなのは見え見え」
「そうなのね……」
リーネが、わずかに苦い表情を浮かべた。
……まあ、連想するよな。
「そんなことより、飲みましょうよぉ」
ルチアが強引に俺のジョッキへ酒を注ぎ、そのまま肩に体重を預けてくる。
距離が近い。こいつ、なんでいつもこうなんだよ。
「うわ、酒くさっ! お前、いつも酔っ払ってないか? 離れろよお前」
「そうです! アルトさんから離れてくださいっ!」
ミリアが頬をぷくっと膨らませて、割って入ってくる。
小動物が勇敢に突撃してきた感じだ。
「あらぁ? お酒も飲めないお子ちゃまは、早く帰ってネンネしなさいなー」
「馬鹿にしないでください! お酒位、飲めますっ!」
止める暇もなく、ミリアはジョッキをひったくって一気にあおった。
ごっごっと、ミリアらしからぬ音を立てて飲んでいるが、嫌な予感しかしない。
「……プハーッ!」
ダンッ、と机に置いて、ルチアを睨みつける。
顔色はすでにレッドゾーンだ。
「どうでふか! 私はもう、こどもりゃ、ありまへん……っ」
言い切る前に、机に突っ伏して沈黙。
……はい、戦闘不能一名。
「うわっ、やばい! ルチア、お前何やってんだよ!」
「知らないわよ、この子が勝手に飲んで……」
「どうされたんですか?」
そこへ、少し顔を赤らめたフィオナが戻ってきた。
足取りがふわふわしているあたり、あっちも平和ではなかったらしい。
「いいところに! フィオナ、ミリアが酒飲んで倒れたんだ」
「あらあら、大変」
フィオナはいつもの調子で微笑むと、そのまま解毒の加護をかけて、自分の席に座る。
数秒後、ミリアはすぅすぅと寝息を立て始めた。対応が早い。
「フィオナ様、おかえりなさい。『不滅の焔』の方は、もう大丈夫ですか?」
リーネの問いに、フィオナはにこにこと頷く。
あっちはあっちで、たぶん別種の地獄だったんだろう。
「ありがとうございます。ラスウェルさんが酔い潰れてしまったので、戻ってこれました」
視線を遠くのテーブルに向けると、突っ伏したラスウェルをヨシュアが真面目に介抱している。
カレンの姿は見当たらない。……まあ、察しろってことだ。
「フィオナ様、お酒強いんですね」
「はい。実は」
フィオナは満面の笑みで、ドンッと新しいジョッキを置いた…だけなのに、何か嫌な音だった。
なんか、地獄の釜の蓋が開いた的な響きだ。
「さぁ、飲み直しますよ、アルトさん?」
あれ?目が据わってない?
「えっ、俺?」
「だって、リーネさんは飲まないでしょう?」
ニコニコしている。これ以上ない程に。
だが怖い。何だこれ、喰われそうだ。
「イェーイ!」
ルチアが無責任に囃し立てる。
逃げ道は、無かった。
※
《おはようございます、アルト。本日のコンディションを確認しますか?》
脳内に響く無機質な声で、意識が引き戻される。
見知らぬ天井と、割れるような頭痛。
朝から最悪だ。
「……頼む。それから、今の時間と状況説明を」
ベッドの上で身を起こすと、床には毛布にくるまったフィオナ、ミリア、ルチアが綺麗に川の字になっていた。
そんで、ベッドの脇ではリーネが壁に背を預けたまま、座り込んで眠っている。……何で、剣を抱えてるんだ?
《了解。現時刻は午前8時43分。状態異常『二日酔い』です。
昨夜、個体名フィオナ、個体名ルチアの圧迫により、過剰に摂取したアルコールが原因と考えられます》
(フィオナと飲み始めたところまでは、覚えてるな…)
《純アルコール摂取量262gの時点で、自律行動不能となったアルト、ミリア、フィオナを、個体名リーネがこの部屋に搬入しました。
その後、個体名ルチアがアルトとの性行為目的で部屋に侵入しましたが、個体名リーネが交戦の末、撃破しました。動画を確認しますか?》
「……いや、いいわ。あー、やらかしたな」
情報量が多い上に、いくつか聞きたくなかった単語が混ざっていた。
とりあえず、昨夜の事は考えないことにする。
《状態異常回復のため、水分摂取と、個体名フィオナから、『解毒』を受けることを推奨します》
床のフィオナを見る。寝顔は女神だが、昨夜の元凶でもある。
……起こすか。
だが、声を出したせいで先にリーネが目を覚ました。
タイミングが良いのか悪いのか、判断に困る。
「お、おはよう、リーネ。昨夜は迷惑かけたみたいで……」
「おはよう、アルト、大丈夫?水、飲む?」
リーネは手慣れた動きでコップに水を注ぎ、差し出してくる。
この流れ、既視感がひどい。
「ああ、すまない」
「アルト、お酒飲み過ぎた時は、いつもこれだったよね」
柔らかく微笑むリーネ。差し出されたのは果実水だった。
……効く。
体にも、別の意味でも。色々と沁みる。
「ああ、ありがとうリーネ。わざわざ、すまないな」
「いえいえ」
まずいな、完全に調子が狂う。リーネがやけにキラキラして見える。
何だこの、元嫁ムーブ。
そんなこっちの空気をぶち壊すように、床の三人も順番に呻きながら起き上がった。
まあ、そりゃそうなるよな。
「うぅ、頭痛い……ヒッ、リ、リーネ…さん?ご、ごめんなさい、もうしません」
「あ、あれ?私、何でこんなとこで…あれ、皆さん?あれ?ごめんなさい?」
「アルトさん、無理に飲ませてすみませんでした……」
――はい、始まりました。
全員参加型、不毛な謝罪大会だ。
――その時だった。
「ふざけんなァァァッ!!」
突然、凄まじい破砕音と男の怒声が響き渡った。
俺たちは、慌てて廊下に飛び出した。
少し離れた部屋の扉が半壊して開いており、そこから怒鳴り声が響いてくる。
皆連れ立って、恐る恐る中を覗き込むと――そこには修羅場があった。
「やめてっ、ラス……! お願い、やめて……っ!」
半裸のカレンが、今にも飛びかかりそうなラスウェルの腕に必死に縋りついていた。
髪は乱れ、後悔と羞恥、焦燥に小刻みに震えている。
泣き腫らした目で何度も首を振りながら、それでも彼を止めようとしている。
その視線の先では、全裸のグラムが床に転がったまま、状況をまるで飲み込めていない顔でこちらを見上げていた。
「離せ、カレン……!」
ラスウェルの怒声は、部屋そのものを揺らすみたいに響いた。
今にも理性が焼き切れそうな形相だった。
「違うの……っ、お願いだから……やめて……!」
カレンは縋る手にさらに力を込める。
その声は震えていて、懇願なのか、後悔なのか、もう判別がつかない。
俺は、息の仕方を忘れた。
目の前の光景が、脳の奥に焼きついた過去を、容赦なく引きずり出してくる。
「……どけ」
低く、押し殺した声でラスウェルが言った。
カレンは首を振る。
それでも離れない。泣きながら、必死に彼を止めようとしている。
「止めてラス……お願い……っ。わ、私が悪いの!」
「そーだよ、ラス。こんなのただのイベントじゃんか。そんなに怒るなよ」
グラムの責任を感じさせない一言の直後。
「――っ!!」
ラスウェルはカレンの手を荒々しく振りほどいた。
跳ね除けられたカレンが、短い悲鳴と一緒によろめいてベッドへ倒れ込む。
そしてラスウェルは、そのまま獣みたいな勢いでグラムへ飛びかかった。
「てめぇぇぇぇッ!!」
言葉なんて、何一つ出てこない。
俺たちは、ただその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。




