第34話 今日は俺のターン
晩秋の午前。澄んだ空気の中に、腐敗した木材と湿った土の匂いが混じる。
目の前に建つ貴族の館の廃屋は、かつての栄華を無残に剥ぎ取り、今はただ悪意を煮詰めたような沈黙を纏っていた。
嫌なタイプの静けさだ。
「……さて。地獄の入り口へご案内だ」
冗談になってないな、自分で言ってて、笑えない。
俺は、乾いた声で指示を出す。
「バロックは前に出てくれ。フィオナは浄化の準備、ミリアは聖光の準備を頼む。グラムは扉を開けてくれ」
俺は最後に、視界の端に映るリーネへ視線を向けた。
「リーネ、遊撃を頼む。扉から悪魔が出てきたら、対応してくれ。
「……分かったわ、アルト」
リーネが短く応じる。
「全員いいな、俺が許可するまで、誰も館には入るなよ」
念押しする。
こういう時に限って、誰かやらかす。
主に一人、心当たりがある。
「グラム、行け」
「おうよ! 開けるぞーっ!」
いつも元気なそのテンション、別の場所で使ってくれ。
重厚な扉が軋む。悲鳴みたいな音を立てて、ゆっくり開いた。
……ほら来た。
分かりやすく、嫌な気配が溢れてくる。
喉を焼くような刺激臭がする、黒い霧のような瘴気が、染み出してきた。
全員が息を呑み、扉の向こう――「館の内部」を覗き込む。
扉の中は、上下左右の概念が崩壊を起こした、悪夢や狂気が具現化したような空間だった。
物理法則を無視した異次元の魔窟となった屋敷は、一歩足を踏み入れれば、終わりのない迷宮だ。
視界に飛び込んでくるのは、無数に交差する梁、天に向かって聳え立つ柱、そして何処までも続く扉の群れ。
しかも、それらは正常な形で配置されてはいない。ある天井からは逆さに廊下がぶら下がり、ある壁面からは垂直に階段が伸び、その先は虚空へと消えている。
重力が狂い、上下の感覚が一瞬にして喪失する。
平衡感覚は悲鳴を上げ、立っていることさえ困難な、悍ましい目眩に襲われる。
ここは単なる建物ではない。
侵入者を翻弄し、絶望へと誘う、生きた巨大な罠だった。
「……何これ、お化け屋敷?」
「悪魔の魔法による迷宮ね。踏み込めば二度と戻れなくなるわよ」
怯えるミリアを背に、フィオナは一歩前に出る。
流石、聖女。悪魔にも戦意満々だな。
「解呪する。離れていろ」
俺はフィオナに目配せして前に出た。
詠唱を始める。
敵性魔法解析
陣構造分析
悪魔言語理解
脆弱性検索
対抗魔法構築
魔法範囲拡大
通常の魔法体系からは逸脱した、幾重にも重なる魔術解析と、効率化した対抗魔法構築。
独特な韻を踏んだ俺の声が、瘴気に満ちた空間に響き渡る。
「うわぁ……すごいです、アルトさん。魔法の粒子が、踊ってるみたい……!」
ミリアが頬を染めて感嘆の声を漏らす。
一方で、リーネの表情は対照的に強張っていた。
彼女は知っている。
俺がかつての「金級冒険者アルト」ではなく、悪魔と契約し、人外の理に手を染めた「深淵の賢者」であることを。
その不安げな視線が胸を僅かに突くが、俺はそれを無視して詠唱を完了させた。
「――解呪・破幻」
分厚いガラスがと割れるような音と共に、世界が割れた。
屋敷内に存在していた迷宮は霧散し、カビの生えた絨毯が敷かれた、ただの広間が現れた。
そこには、突然の迷宮消失に混乱した数体の下級悪魔――蝙蝠の羽を持つ小鬼たちが、醜い顔を引き攣らせて立ち尽くしていた。
「グラム、リーネ、バロック、突撃! ダンジョン攻略開始だ!」
前衛三名が弾かれたように広間へ飛び込み、俺とフィオナ、ミリアがその後に続く。
広間は瞬時に戦場へと変貌した。
グラムとリーネが、並んで切り込んで行くのが見える。
——一瞬、嫌な映像が脳裏を掠める。
グラムとリーネが寝室に居る。
ああ、最悪だ。
……却下。
即座に思考を切る。
今は魔法だけ考えろ。
小鬼たちがギャアギャアと耳障りな声を上げ、魔法を詠唱しようと魔力を練り始める。
「させるか」
(アビス、敵詠唱予測。マジックキャンセラーおよびジャマー、並列コード作成)
《了解。生成コードを網膜に投影します。……確認後、実行をお願いします、アルト》
脳内に響くアビスの無機質な声。
次の瞬間、俺の視界を膨大な敵性魔法の構造図、魔法数式が埋め尽くした。
普通なら処理できないほどの情報量だが、アビスが陣の脆弱性を瞬時に洗い出し、コンマ数秒で最適解のコードを打ち出す。
「悪いが、ここからは俺のターンだ」
投影されたコードをなぞり、超高速でカウンターの詠唱を叩き込む。
今の俺にはこれくらいが丁度いい「現実逃避」になる。
余計なことを考えなくて済む。実に健康的で助かる。
悪魔が炎を放とうとすればその構築を崩し、氷を呼ぼうとすればその起点を暴発させる。
次々と不発に終わる魔法に、小鬼たちはパニックに陥った。
牙も爪も持たない魔法頼りの雑魚が、魔法を封じられればどうなるか。
聖剣を振るうグラムと、『神速の舞剣』リーネの敵ではなかった。
二人の剣閃が、まるで演舞のように小鬼たちを次々と切り伏せていく。
だが、本番はここからだ。
広間の奥から、さらに異様な気配が押し寄せてくる。
節足動物のような多脚を持つ者、鱗に覆われた爬虫類人、獣の頭を持った怪物。中級悪魔の群れだ。
「バロック、陣形の維持を頼む」
「任せろ」
バロックが重厚な大盾を叩き、大声を出しながら、挑発スキルを発動させる。
中級悪魔たちが、バロックに殺到する。
悪魔達の牙や爪を、大楯と重鎧が全て受け止めた。
悪魔の増援と、バロックの踏ん張りで戦線が膠着する。
次の手だ――そう思った瞬間だった。
「――ちっ、埒があかねぇな!」
グラムが舌打ちを一つ。
次の瞬間、あいつは前に出た。
「おい、待て――!」
止めるより早い。
聖剣を振りかざし、バロックの横を強引にすり抜ける。
中級悪魔の群れを、単独で突破。
本気かよ。
「道、開けるぞ!」
叫びと同時に、聖剣が光を帯びる。
収束した魔力が、雑に、そして強引に解き放たれた。
直線上の悪魔がまとめて吹き飛ぶ。
――威力は十分。精度はお察しだ。
空いた穴に、逆に悪魔が雪崩れ込む。
突出したグラムに、複数の中級悪魔が殺到した。囲まれた。
「っ、馬鹿が……!」
舌打ちを噛み殺す。
(アビス、対象再設定。グラム周辺を最優先でカバーする。俺達で中級の魔法も封じるぞ。対象悪魔104、108、201にジャマー詠唱)
《了解、アルト。個別にマジックジャマーコード生成します》
即座に処理を切り替える。
グラムの周囲で、悪魔の詠唱が次々と潰れる。
炎も氷も、発動前に霧散した。
「おらぁっ!」
当人は気付いてないのか、気にしてないのか。
囲まれたまま、笑って剣を振り回している。
「グラム! 戻れ、前に出すぎだ!」
「はっ、悪ぃな! でも、こっちのが早ぇだろ!」
反省の色、ゼロ。
だが、確かに道は開いた。
リーネが、その隙を逃さない。
「——はぁっ!」
悪魔の群れの中を、リーネが舞うように駆け抜けた。
流れるような重心移動。一切の無駄を削ぎ落とした、美しい剣筋。
グラムに気を取られた悪魔の首を、彼女はすれ違いざまに次々と跳ね飛ばしていく。
グラムもまた、無駄のない動きで悪魔の群れの中央を強引に突破し、一撃ごとに悪魔の黒い血を撒き散らしている。
クズだが、剣士としての能力だけは本物だ。
――リーネとグラムの、連携になってしまっているのが、また腹立たしい。
「フィオナ、浄化! ミリア、聖光を広域展開しろ!」
俺は、後衛に指示を出して、二人をバックアップする。
「はいっ! 汚れし魂に安らぎを――!」
「精霊さん、みんなを照らして!」
フィオナの祈祷が、悪魔たちを内側から焼き焦がしていく。
同時に、ミリアが呼び出した光の柱が天から降り注ぎ、広間を聖なる輝きで満たした。
悪魔たちの動きが目に見えて鈍る。
(アビス、続けて悪魔の魔法を潰すぞ。対象204から209にジャマー詠唱)
《了解、アルト。個別にマジックジャマーコード生成します》
悪魔の魔法詠唱の先を読む。
予測して、解析して、潰す。
地味だが、この地味さがいい。
正面から撃ち合うより、こっちの方が性に合ってる。
相手の手札を、一枚ずつ破り捨てる感じ。
いや、実に気分がいい。
《アルト。陰湿ですね》
(放っといてくれ。ストレス発散してるんだ)
……性格が悪いのは自覚してる。
でも、まぁ、モンスターが強化されてたら、ここまで無双は出来なかっただろう。
このサブダンジョンを、二番目の攻略先にしたのは正解だったな。
滅多にない機会だ。
悪魔には悪いが、今日は付き合ってもらう。
俺が魔法の芽を摘む。
前衛が、その隙を刈り取る。
魔法の使えない悪魔なんて、獣に毛が生えた程度だ。
悪魔の群れの中を、リーネが舞うように、グラムが裂くように駆け抜けた。
戦況は完全にこちらの手の内にあった。
だが、その時。
《警告。高魔力反応が館奥より接近中。……推定、ダンジョンボスです》
「……向こうから来てくれたか」
俺は唇を歪める。
「フィオナ、前衛の疲労を回復してくれ!……全員、来るぞ! ボスだ!」
俺の声が響き渡った瞬間。
広間奥の重厚な扉が、内側からの暴力的な圧力によって木っ端微塵に砕け散った。
雄叫びを挙げながら、爆煙の中から現れたのは、悍ましい上級悪魔だった。
巨大な蝙蝠の羽。
咆哮を上げる獅子の顔からは、ねじくれた雄鹿のような角が突き出し、床を踏みしめる足は硬い蹄となっている。
キメラの如き異形が、血のように赤い瞳で、俺たちを射抜いた。
「光の精霊さんがっ…」
ミリアの怯えたような呟きが、広間に溢れた。
上級悪魔の周りだけ、黒い瘴気に押されて聖光が消えた。
バロックが盾を握り直す音が響く。
「……さて。第二のサブダンジョン攻略も、大詰めだな」
俺は、静かに魔力を練り始めた。
今日は、フラッシュバックがきついんだ。
八つ当たりも兼ねて、やらせてもらう。
——ちょうどいい的だ。感情の処理先としては、優秀すぎる。
《アルト。公私混同ですね》
(……わかってるよ。今はそっとしといてくれ)




