第32話 もう二度と
それにしても、敵の数が多い。
地を這う者、壁を伝う者、天井から降り注ぐ者。
それはまるで、壊れた堤防から溢れ出した汚泥のようだった。
意志を持たない肉の塊が、ただ生存者の温もりだけを求めて波のように押し寄せてくる。
一体一体は、私やバロックさんの敵ではない。
けれど、この終わりのない物量は、私達を確実に削っていく。
私は、バロックさんの周囲に引き寄せられた、亡者の群れを処理することに専念した。
(……やっぱり、アルトの判断は正しかった)
もし、他のダンジョンを先に攻略していたら。
この異様な「数」に、さらに「強化」まで重なっていたとしたら。
……想像しただけで、指先が冷たくなる。
私たちは、きっと押し潰されていた。
どれだけ連携が噛み合っても、どれだけ剣を振るえたとしても、限界はあったはずだ。
アルトは、全部考えてた。
敵の性質も、私たちの戦力も。
そして――きっと、私たちの弱ささえも。
合理的で、冷静で、ときどき冷たく見えるくらいなのに。
本当は誰よりも、仲間を死なせない道を探し続けている。
……そんなところは、昔のアルトのままなんだなぁ。
ここを初手に選んだ彼の判断は、正しかった。
いいえ――正しくするつもりで、彼は選んだのだろう。
なら、私はその剣になる。
彼が描いた作戦を、迷いなく切り開く。
きっと私たちは、魔王討伐を成し遂げる。
アルトが、そう決めたのだから。
※
「大きいの、行きまーす! 光と水の大精霊様、よろしくお願いしますっ!」
ミリアの澄んだ声が、死臭の漂う空洞に響き渡った。
次の瞬間、ダンジョンの通路いっぱいに、キラキラと宝石を散りばめたような聖水の津波が出現した。
押し寄せる光の奔流。それはダンジョンそのものを洗い流す清浄な嵐となって、群がっていた亡者たちを呑み込み、次々と消滅させていく。
凄まじい光景だった。
嵐が去った後には、あれほどいた亡者の影一つ残っていない。
「アルトさん! やりましたーっ!」
弾む声。
顔を紅潮させ、汗で額に髪を張り付かせたミリアが、その勢いのままアルトに抱きついた。
大呪文成功の高揚を、そのまま形にしたような、真っ直ぐで、ためらいのない好意をアルトにぶつけている。
アルトは一瞬だけ目を丸くして、それでもすぐに柔らかな苦笑を浮かべる。
拒まない。受け止める。その横顔。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
……眩しい。
あんなふうに、喜びをそのまま彼に預けられるなんて。
あんなふうに、迷いなく彼に触れられるなんて。
今の私には、できない。
できるはずがない。
頭では仲間だと分かっているのに、胸の奥で生まれた小さな棘を、私は一瞬でも数えてしまった。
そんな自分が、何よりも嫌になる。
ミリアの輝きは、曇りを知らない。
それに比べて私は――汚いな…
※
聖なる津波によって一掃された通路を進む。
亡骸も、瘴気も、ほとんど跡形もなく消え失せているのが、かえって不気味だった。
やがて辿り着いた最奥。
そこは、驚くほど広大な空洞だった。
天井は視認できないほど高く、壁面は黒い岩肌が剥き出しのまま、幾筋もの亀裂が蜘蛛の巣のように走っている。
足音が、遅れて反響する。
私たちの呼吸すら、やけに大きく聞こえる。
そして――天井近く。
空間の一点に、不自然な闇が淀んでいた。
黒い霧。
煙のようでいて、風に流されない。
ゆっくりと脈打つように収縮を繰り返し、まるでこちらを観察しているかのように、静かに漂っている。
光が届かないのではない。
あそこだけが、光を拒んでいる。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
さっきまでの自己嫌悪が、すっと引いていく。
代わりに、戦士としての本能が浮かび上がる。
――来る。
私は剣の柄を、強く握り直した。
霧の中に、赤く濁った二つの光が灯った。
浮かび上がったのは、巨大な髑髏。その眼窩に宿る邪悪な光が、私たちを呪うように見下ろしている。
「……っ、来ます!」
フィオナ様の凛とした声とともに、神聖魔法の加護が私たち全員を包み込んだ。
温かく、白い光。
戦いで蓄積していた疲労や、冷たい空気による苦痛が、嘘のように解けていく。
不安に沈んでいた心が、強制的に前向きな色に塗り替えられていくような、力強い慈愛の波動。
「攻撃開始!バロックは正面前に、グラムは左、リーネは右に展開!ミリアはグラムとリーネに風の加護を頼む。フィオナは神罰の準備を!」
アルトの指示が飛ぶ。
その瞬間、私の手にある双剣の輝きが、一層強く、鋭く増した。
アルトが、私だけに、付与魔法を掛け直してくれたのだ。
伝わる、彼の魔力の脈動。
(全部、切り捨てる。アルトの剣として――)
私は唇を噛み締め、黒い霧の主へと向かって、鋭く踏み込んだ。
天井に巣食う巨大な髑髏が、その口を不気味に歪めた。
黒い霧が幾十もの触手となって、鞭のようにしなり、空気を切り裂いて襲いかかる。
「ふんっ……!」
最前線に立つバロックさんの巨躯が、逃げ場のないほどの大量の触手群に呑み込まれ、一瞬全身が見えなくなった。
しかし、彼は丸太のような太い腕で、巻き付く黒い霧を強引に掴み、力任せに引きちぎった。
霧が散り、死霊の怨嗟が耳元で鳴り響く。
バロックさんは顔に冷や汗を浮かべながらも、重い盾を構え直して咆哮した。
「気をつけろ! こいつに触れられると、強制的に『恐怖』を植え付けられるぞ!」
挑発のスキルで敵の注意を引きつけながら、バロックさんはその精神汚染に耐えていた。
私はミリアがかけてくれた『風の加護』を受け、加速する。
不規則な機動で触手の隙間を縫い、ボスの側面へと回り込む。
双剣を振るい、霧の本体に鋭い斬撃を刻む。けれど、ボスも黙ってはいない。
中心核から全方位に向けて、黒い触手が爆発するように射出された。
「――っ」
回避が間に合わない。
私の左脇を、冷たい触手が掠めていった。交差の瞬間にその一本を切り飛ばし、距離を取る。
ふと横を見ると、グラムの動きが止まっている。グラムも触手に被弾していたのだ。
彼は自分の手が震えていることに困惑するように、白い顔で首を捻っている。
「なんだ……これ? 手が、動かねぇ……?」
グラムは「恐怖」を感じた事が無いのだろうか?自分の変調に戸惑っているようだ。
「お、おい、なんだこれ……足が、震えてる……」
グラムの声が、珍しく弱々しい。
無邪気な勇者が、初めて「怖い」という感覚を知った瞬間。
でも――今は、それを気にしている余裕はない。
バロックさんが、迷いなく私たちの前へ、一歩を踏み出した。
崩れかけた陣形を、押し留める為に。
次の瞬間、触手がバロックさんに殺到した。
黒い霧をまとったそれが、鎧を打ち、軋ませ、隙間からじわりと侵食していく。
何かが焦げるような匂い。
金属が軋む、嫌な音が鳴る。
それでも――バロックさんは退かない。
「――おおおおおッ!」
腹の底から絞り出すような雄叫びが、空洞を震わせた。
空気が、びりびりと震える。
胸の奥を掴まれるような感覚がある。
震えていた指先に、力が戻る。
遠くなっていた意識が、強引に引き上げられる。
恐怖が、塗りつぶされていく。
――ウォークライ。
仲間の心を戦場に引き戻す、バロックさんのスキルだ。
私は歯を食いしばり、剣を握り直した。
……その瞬間。
『……リーネ』
耳元で、冷たい、けれど鮮明な声がした。
その瞬間、掠めた傷口から『恐怖』が私の内側へと侵食を始めた。
怖い。
嫌。
逃げなきゃ。
喉がひくりと鳴る。
視界の端が、暗く滲む。
心の奥。
私が鍵をかけて、見ないふりをしてきたものに触れてくる。
――失うのが怖い。
――また、間違えるのが怖い。
――拒まれるのが、怖い。
胸の奥に沈めていた声が、次々と浮かび上がる。
忘れたはずの失敗。
目を逸らしてきた後悔。
それらが形を持って、私の足首を掴む。
膝が、笑う。
戦場にいるのに、頭のどこかが囁く。
もういい。
頑張らなくていい。
逃げれば楽になる、と。
この黒い触手は、私の心の奥底に隠していた、色々な恐怖を引きずり出した。
その時だった。
(また、裏切るの?)
もう一人の私が、冷ややかに問いかけてくる。
(背中にアルトがいるのに。あんなに誓ったのに)
(もう、女として彼を裏切った。アルトを、今度は剣士として、仲間としても裏切るの?)
視界が歪む。
あの夜。雨の音。
私がグラムに抱かれていた寝室に、予定より早くアルトが帰ってきた夜。
扉を開けた彼の瞳。優しさに満ちていた黒い瞳が、見る間に絶望で曇っていった、アルトが壊れた瞬間の顔。
暗い廊下の奥から流れてきた、彼の嗚咽。
強くて、いつも冷静だったアルトが、声を押し殺して泣いていた。
私のせいで。
私が、彼を壊した。
――また、彼を裏切る?
グラリと、世界が揺れた。
ダメだ。
嫌だ。
そんなこと、許さない。
私は、もう二度と、アルトを裏切らない。
もう二度と、彼にあんな顔をさせない。
彼が泣くくらいなら、私の心がここで擦り切れたって構わない。
「あああああぁぁぁぁっっっ!!」
喉が張り裂けるような叫びを上げ、私は自分を縛り付けていた恐怖を、力ずくで振り払った。
怖い? なら声を出せ!
足が竦む? なら自分の足を剣で刺してでも前へ進め!
私は、もう二度と、私を裏切らない!
「主よ、この汚れを浄化し、神罰を……!」
背後で、フィオナ様の祈りが響く。
天から降り注ぐ純白の輝きが、ダンジョンボスの漆黒を焼き払った。
霧が薄れ、その核が剥き出しになる。
「いけぇっ!」
私は弾丸のように突っ込んだ。
息の続く限りの連撃。
右、左、右、右、右、左、左。
付与された魔力が火花を散らし、ボスの本体をズタズタに引き裂いていく。
一太刀ごとに、過去の罪を、後悔を、自分自身への嫌悪をぶつけるように。
最後の一撃。
ボスの中心から、どす黒く脈動する心臓のような塊――ダンジョンコアが抉り出され、宙を舞った。
コアは、まだ立ちすくんでいるグラムの足元へと落ちる。
「そいつを切れ、グラム! とどめだ!」
背後から、アルトの鋭い指示が飛ぶ。
「お、おぅ……っ!」
グラムは我に返ったように、震える手で聖剣を握り直し、足元のコアを一刀両断にした。
ダンジョン全体が、断末魔のような低い鳴動に包まれる。
激しい振動と、大気が震えるような音。
それから数分――すべてが鎮まり、耳が痛くなるほどの静寂が辺りを支配した。
魔王の第一のサブダンジョンが、その機能を完全に停止した。
私は肩で息をしながら、力なく視線を落とす。
震えは止まっていたけれど、指先はまだ冷たいままだ。
変わってしまったことは、たくさんある。
二度と元には戻らない、取り返しのつかない傷跡も消えない。
それでも。
今度は裏切らなかった。
こうして背中を合わせて、戦うことができる。
……それだけで、今は、十分だった。
この背中の温もりがある限り、私は、私自身が刻んだ罪と向き合い続けるんだ。




