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第32話 もう二度と

 それにしても、敵の数が多い。

 地を這う者、壁を伝う者、天井から降り注ぐ者。

 それはまるで、壊れた堤防から溢れ出した汚泥のようだった。

 意志を持たない肉の塊が、ただ生存者の温もりだけを求めて波のように押し寄せてくる。

 一体一体は、私やバロックさんの敵ではない。

 けれど、この終わりのない物量は、私達を確実に削っていく。


 私は、バロックさんの周囲に引き寄せられた、亡者の群れを処理することに専念した。

 

(……やっぱり、アルトの判断は正しかった)

 

 もし、他のダンジョンを先に攻略していたら。

 この異様な「数」に、さらに「強化」まで重なっていたとしたら。

 ……想像しただけで、指先が冷たくなる。


 私たちは、きっと押し潰されていた。

 どれだけ連携が噛み合っても、どれだけ剣を振るえたとしても、限界はあったはずだ。


 アルトは、全部考えてた。

 敵の性質も、私たちの戦力も。

 そして――きっと、私たちの弱ささえも。


 合理的で、冷静で、ときどき冷たく見えるくらいなのに。

 本当は誰よりも、仲間を死なせない道を探し続けている。


 ……そんなところは、昔のアルトのままなんだなぁ。


 ここを初手に選んだ彼の判断は、正しかった。

 いいえ――正しくするつもりで、彼は選んだのだろう。


 なら、私はその剣になる。

 彼が描いた作戦を、迷いなく切り開く。

 きっと私たちは、魔王討伐を成し遂げる。

 アルトが、そう決めたのだから。




 

「大きいの、行きまーす! 光と水の大精霊様、よろしくお願いしますっ!」

 

 ミリアの澄んだ声が、死臭の漂う空洞に響き渡った。

 

 次の瞬間、ダンジョンの通路いっぱいに、キラキラと宝石を散りばめたような聖水の津波が出現した。

 押し寄せる光の奔流。それはダンジョンそのものを洗い流す清浄な嵐となって、群がっていた亡者たちを呑み込み、次々と消滅させていく。

 

 凄まじい光景だった。

 

 嵐が去った後には、あれほどいた亡者の影一つ残っていない。


「アルトさん! やりましたーっ!」


 弾む声。

 顔を紅潮させ、汗で額に髪を張り付かせたミリアが、その勢いのままアルトに抱きついた。


 大呪文成功の高揚を、そのまま形にしたような、真っ直ぐで、ためらいのない好意をアルトにぶつけている。


 アルトは一瞬だけ目を丸くして、それでもすぐに柔らかな苦笑を浮かべる。

 拒まない。受け止める。その横顔。


 胸の奥が、ちくりと痛んだ。


 ……眩しい。


 あんなふうに、喜びをそのまま彼に預けられるなんて。

 あんなふうに、迷いなく彼に触れられるなんて。


 今の私には、できない。

 できるはずがない。


 頭では仲間だと分かっているのに、胸の奥で生まれた小さな棘を、私は一瞬でも数えてしまった。

 そんな自分が、何よりも嫌になる。


 ミリアの輝きは、曇りを知らない。

 それに比べて私は――汚いな…




 

 聖なる津波によって一掃された通路を進む。

 亡骸も、瘴気も、ほとんど跡形もなく消え失せているのが、かえって不気味だった。


 やがて辿り着いた最奥。


 そこは、驚くほど広大な空洞だった。


 天井は視認できないほど高く、壁面は黒い岩肌が剥き出しのまま、幾筋もの亀裂が蜘蛛の巣のように走っている。

 足音が、遅れて反響する。

 私たちの呼吸すら、やけに大きく聞こえる。


 そして――天井近く。


 空間の一点に、不自然な闇が淀んでいた。


 黒い霧。

 煙のようでいて、風に流されない。

 ゆっくりと脈打つように収縮を繰り返し、まるでこちらを観察しているかのように、静かに漂っている。


 光が届かないのではない。

 あそこだけが、光を拒んでいる。


 ぞくり、と背筋が粟立つ。

 さっきまでの自己嫌悪が、すっと引いていく。

 代わりに、戦士としての本能が浮かび上がる。


 ――来る。


 私は剣の柄を、強く握り直した。

 

 霧の中に、赤く濁った二つの光が灯った。

 浮かび上がったのは、巨大な髑髏。その眼窩に宿る邪悪な光が、私たちを呪うように見下ろしている。

 

「……っ、来ます!」

 

 フィオナ様の凛とした声とともに、神聖魔法の加護が私たち全員を包み込んだ。

 

 温かく、白い光。

 

 戦いで蓄積していた疲労や、冷たい空気による苦痛が、嘘のように解けていく。

 不安に沈んでいた心が、強制的に前向きな色に塗り替えられていくような、力強い慈愛の波動。


「攻撃開始!バロックは正面前に、グラムは左、リーネは右に展開!ミリアはグラムとリーネに風の加護を頼む。フィオナは神罰の準備を!」

 

 アルトの指示が飛ぶ。

 

 その瞬間、私の手にある双剣の輝きが、一層強く、鋭く増した。

 アルトが、私だけに、付与魔法を掛け直してくれたのだ。

 伝わる、彼の魔力の脈動。

 

(全部、切り捨てる。アルトの剣として――)


 私は唇を噛み締め、黒い霧の主へと向かって、鋭く踏み込んだ。


 天井に巣食う巨大な髑髏が、その口を不気味に歪めた。

 黒い霧が幾十もの触手となって、鞭のようにしなり、空気を切り裂いて襲いかかる。

 

「ふんっ……!」

 

 最前線に立つバロックさんの巨躯が、逃げ場のないほどの大量の触手群に呑み込まれ、一瞬全身が見えなくなった。

 しかし、彼は丸太のような太い腕で、巻き付く黒い霧を強引に掴み、力任せに引きちぎった。


 霧が散り、死霊の怨嗟が耳元で鳴り響く。

 バロックさんは顔に冷や汗を浮かべながらも、重い盾を構え直して咆哮した。

 

「気をつけろ! こいつに触れられると、強制的に『恐怖』を植え付けられるぞ!」

 

 挑発のスキルで敵の注意を引きつけながら、バロックさんはその精神汚染に耐えていた。

 

 私はミリアがかけてくれた『風の加護』を受け、加速する。

 

 不規則な機動で触手の隙間を縫い、ボスの側面へと回り込む。

 双剣を振るい、霧の本体に鋭い斬撃を刻む。けれど、ボスも黙ってはいない。

 中心核から全方位に向けて、黒い触手が爆発するように射出された。

 

「――っ」

 

 回避が間に合わない。

 私の左脇を、冷たい触手が掠めていった。交差の瞬間にその一本を切り飛ばし、距離を取る。

 ふと横を見ると、グラムの動きが止まっている。グラムも触手に被弾していたのだ。

 彼は自分の手が震えていることに困惑するように、白い顔で首を捻っている。

 

「なんだ……これ? 手が、動かねぇ……?」


 グラムは「恐怖」を感じた事が無いのだろうか?自分の変調に戸惑っているようだ。


「お、おい、なんだこれ……足が、震えてる……」


 グラムの声が、珍しく弱々しい。

 無邪気な勇者が、初めて「怖い」という感覚を知った瞬間。

 でも――今は、それを気にしている余裕はない。

 

 バロックさんが、迷いなく私たちの前へ、一歩を踏み出した。


 崩れかけた陣形を、押し留める為に。


 次の瞬間、触手がバロックさんに殺到した。

 黒い霧をまとったそれが、鎧を打ち、軋ませ、隙間からじわりと侵食していく。


 何かが焦げるような匂い。

 金属が軋む、嫌な音が鳴る。


 それでも――バロックさんは退かない。


「――おおおおおッ!」


 腹の底から絞り出すような雄叫びが、空洞を震わせた。


 空気が、びりびりと震える。

 胸の奥を掴まれるような感覚がある。


 震えていた指先に、力が戻る。

 遠くなっていた意識が、強引に引き上げられる。


 恐怖が、塗りつぶされていく。


 ――ウォークライ。


 仲間の心を戦場に引き戻す、バロックさんのスキルだ。


 私は歯を食いしばり、剣を握り直した。

 ……その瞬間。

 

『……リーネ』

 

 耳元で、冷たい、けれど鮮明な声がした。

 その瞬間、掠めた傷口から『恐怖』が私の内側へと侵食を始めた。

 

 怖い。

 嫌。

 逃げなきゃ。


 喉がひくりと鳴る。

 視界の端が、暗く滲む。


 心の奥。

 私が鍵をかけて、見ないふりをしてきたものに触れてくる。


 ――失うのが怖い。

 ――また、間違えるのが怖い。

 ――拒まれるのが、怖い。


 胸の奥に沈めていた声が、次々と浮かび上がる。

 忘れたはずの失敗。

 目を逸らしてきた後悔。


 それらが形を持って、私の足首を掴む。

 膝が、笑う。

 戦場にいるのに、頭のどこかが囁く。


 もういい。

 頑張らなくていい。

 逃げれば楽になる、と。

 この黒い触手は、私の心の奥底に隠していた、色々な恐怖を引きずり出した。


 その時だった。

 

(また、裏切るの?)

 

 もう一人の私が、冷ややかに問いかけてくる。

 

(背中にアルトがいるのに。あんなに誓ったのに)

(もう、女として彼を裏切った。アルトを、今度は剣士として、仲間としても裏切るの?)

 

 視界が歪む。

 あの夜。雨の音。

 

 私がグラムに抱かれていた寝室に、予定より早くアルトが帰ってきた夜。

 

 扉を開けた彼の瞳。優しさに満ちていた黒い瞳が、見る間に絶望で曇っていった、アルトが壊れた瞬間の顔。

 

 暗い廊下の奥から流れてきた、彼の嗚咽。

 強くて、いつも冷静だったアルトが、声を押し殺して泣いていた。

 

 私のせいで。

 私が、彼を壊した。

 

 ――また、彼を裏切る?

 グラリと、世界が揺れた。

 

 ダメだ。

 

 嫌だ。

 

 そんなこと、許さない。

 

 私は、もう二度と、アルトを裏切らない。

 

 もう二度と、彼にあんな顔をさせない。

 彼が泣くくらいなら、私の心がここで擦り切れたって構わない。

 

「あああああぁぁぁぁっっっ!!」

 

 喉が張り裂けるような叫びを上げ、私は自分を縛り付けていた恐怖を、力ずくで振り払った。

 

 怖い? なら声を出せ!

 足が竦む? なら自分の足を剣で刺してでも前へ進め!

 

 私は、もう二度と、私を裏切らない!

 

「主よ、この汚れを浄化し、神罰を……!」

 

 背後で、フィオナ様の祈りが響く。

 天から降り注ぐ純白の輝きが、ダンジョンボスの漆黒を焼き払った。

 霧が薄れ、その核が剥き出しになる。

 

「いけぇっ!」

 

 私は弾丸のように突っ込んだ。

 息の続く限りの連撃。

 右、左、右、右、右、左、左。

 付与された魔力が火花を散らし、ボスの本体をズタズタに引き裂いていく。

 

 一太刀ごとに、過去の罪を、後悔を、自分自身への嫌悪をぶつけるように。

 

 最後の一撃。

 ボスの中心から、どす黒く脈動する心臓のような塊――ダンジョンコアが抉り出され、宙を舞った。

 

 コアは、まだ立ちすくんでいるグラムの足元へと落ちる。

 

「そいつを切れ、グラム! とどめだ!」

 

 背後から、アルトの鋭い指示が飛ぶ。

 

「お、おぅ……っ!」

 

 グラムは我に返ったように、震える手で聖剣を握り直し、足元のコアを一刀両断にした。

 

 ダンジョン全体が、断末魔のような低い鳴動に包まれる。

 激しい振動と、大気が震えるような音。

 それから数分――すべてが鎮まり、耳が痛くなるほどの静寂が辺りを支配した。

 

 魔王の第一のサブダンジョンが、その機能を完全に停止した。

 

 私は肩で息をしながら、力なく視線を落とす。

 震えは止まっていたけれど、指先はまだ冷たいままだ。


 変わってしまったことは、たくさんある。

 二度と元には戻らない、取り返しのつかない傷跡も消えない。

 

 それでも。


 今度は裏切らなかった。


 こうして背中を合わせて、戦うことができる。

 ……それだけで、今は、十分だった。


 この背中の温もりがある限り、私は、私自身が刻んだ罪と向き合い続けるんだ。

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