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第31話 亡者の穴の中で

 湿った土と、何かが腐敗したような、鼻を突く冷たい臭い。

 洞窟の奥から吹き抜ける風が、私の頬をなでるたびに、心臓が嫌な跳ね方をする。

 

 私は、幽霊が苦手だ。

 

 一度はこの世での生を終えたはずの存在が、執着や未練だけで現世に留まっているなんて、あまりに理不尽で、あまりに不気味だと思う。

 死者は、安らかに眠るべきだ。……あるいは、私のような罪びとが、その報いとして死んだ後も彷徨い続けるのは自業自得なのかもしれないけれど。

 

 思えば、小さな頃からそうだった。

 

 おばあちゃんから聞いた古臭い怪談話に、夜も眠れなくなるほど怯えていた。

 目を閉じれば闇の中に誰かが立っているような気がして。

 耐えられなくなって、夜中に枕を抱えて、お隣のアルトの部屋に突撃したことが何度もあった。

 アルトはいつも、「仕方ないな」と呆れた顔をしながら、ベッドの端を空けてくれた。


 彼の隣にいれば、どんな化け物も怖くなかった。

 

 つい、先日だってそうだ。

 メルキドのお城で、アルトから「幽霊が出るらしい」と冗談を聞かされただけで、私は情けなくも、夜に何度か彼の部屋を叩いてしまった。

  ――それなのに。


 アルトは、また昔と同じように、何も言わず私を迎え入れてくれた。

 震える私のために温かいお茶を淹れて、カップを包む指先の震えが止まるまで、ただ隣に座っていてくれた。


 まるで、何も変わっていないみたいに。

 私には……そんな資格はもうないのに。


 裏切ったたのは私だ。

 あのとき、彼の手を振り払ったのは、私のほうだ。

 それでも彼の隣にいる自分でいたいなんて、都合が良すぎる。

 甘えていい立場じゃない。


 それなのに――


 温かい湯気の向こうで、何事もない顔をしている彼を見るたびに、胸が締めつけられる。

 その優しさに縋りたくなる自分が、いちばん許せない。

 

 足元の地面が、不自然に盛り上がる。

 

 乾いた音を立てて、土の中から白く汚れた指の骨が突き出された。一つ、また一つと、地中から這い出してくる骸骨たち。

 

 普段の私なら、悲鳴を上げてその場に蹲っていただろう。

 

 でも、今は不思議と、足が震えていない。

 

 ダンジョンに入る直前、アルトが私にしてくれた「おまじない」が、まだ身体の芯に熱として残っている。

 

 背中合わせになって、深く、長く呼吸を合わせるルーチン。

 あれは、私とアルトがまだ駆け出しの冒険者だった頃、初めて死を覚悟した戦いの中で生まれたものだ。


 雪山で、飢えた狼の群れに囲まれたあの時。

 体力はとっくに限界で、指先の感覚もあやふやになっていた。


 気づけば私たちは、どちらからともなく背中合わせになっていた。

 背中を預け合い、互いの鼓動と体温を感じながら、ただ必死に剣を振るう。

 怖かった。何度も、もうだめだと思った。


 それでも――背中に、アルトがいた。


 彼の息遣い。

 心臓の鼓動。

 かすかに伝わる熱。


 それを感じるたびに、私は剣を振り続けることができた。


 あの時、背中から伝わってきたアルトのぬくもりだけが、凍えかけていた私を、この世界に繋ぎ止めてくれていた。

 

 戦いが終わった後、二人で雪の上にへたり込んで笑い合った日のことを、昨日のことのように思い出せる。

 

 あの頃は、私たちが離れ離れになるなんて、一秒だって想像もしなかった。

 

 アルトを裏切り、その心を壊し、離婚を突きつけられてから二年近く。

 

 背中に触れる、この懐かしくて、泣きたくなるほど愛おしい温もり。

 ……もう、二度と戻れないと思っていた。

 

 アルトを感じる。

 

 それだけで、あんなに怖かった亡者たちへの恐怖が、霧が晴れるように消えていく。

 彼が後ろにいてくれるなら、私は何百、何千の化け物に囲まれても、剣を振り続けることができる。

 

 視線を落とすと、握りしめた二本の剣が、淡い青紫色の光を放っていた。

 アルトがかけてくれた付与魔法。

 これがあれば、実体を持たない霊体であっても、切り伏せられる。

 

「……っ!」

 

 私は地面を蹴った。

 滑るように、迫りくる骸骨の群れに飛び込む。

 右手の剣で首を跳ね、左手の剣で肋骨を砕く。

 光の軌跡が洞窟の闇を切り裂き、亡者たちは声なき悲鳴を上げて霧散していく。

 怖いものなんて、何もない。アルトの魔法が私の剣に満ちている。アルトと戦っている安心感が、私の剣をかつてないほど鋭く、速く研ぎ澄ませていた。

 

 重厚な金属音が洞窟内に轟く。

 

 バロックさんが盾を打ち鳴らし、大声を上げて亡者たちの意識を引きつけた。

 タンクスキル『挑発』。

 周囲の骸骨や幽霊を磁石のように惹きつけていく。

 

 一体の幽霊が、バロックさんの肩に透ける手をかけ、生命力を奪おうとする。エネルギードレイン――本来なら一瞬で衰弱してしまうような凶悪な攻撃。

 

 けれど、バロックさんは大きな山のように、微動だにしなかった。

 

 そして――触れられた瞬間、逆流が起きた。

 幽霊の魔力が、逆にバロックさんに吸い込まれ、幽霊は悲鳴を上げて消えていく。


「……さすが、ですね」

 

 その背中の頼もしさに、私は改めてため息を漏らす。


 バロックさんの向こう側で、淀んだ空気の中に、聖剣の鋭い光が爆ぜる。

 目の前では、グラムが聖剣の輝きを纏い、襲い来る数体のグールを瞬時に薙ぎ払っていた。

 聖剣の余波が、周囲に蠢く亡者たちの動きを阻害する。泥を固めたような鈍重な動きになったそれらを、グラムは文字通り、伸び放題の草でも刈るかのように易々と切り倒していく。

 無駄のない、最小の動きで最大の効果を叩き出す剣。……認めたくはないけれど、やはり彼は天才なのだと思う。

 かつての私が、その「強さ」という光に目を焼かれてしまったように。


 突出したグラムは、気が付けば敵のただ中に孤立していた。

 夥しいグールの群れが、全方位から彼を押し包む。

 

「あ――」

 

 鋭い爪が、グラムの背中を浅く抉った。

 グールの爪に含まれる強力な麻痺毒により、瞬時に彼の身体が強張る。

 急激に動きの落ちたグラムに、大量の亡者たちが、腐った肉の山となって覆い被さろうとした。

 

 その時。

 

 薄暗いダンジョンの天井を、無数の光弾が塗り潰した。

 それはまるで横殴りの雨か、意志を持った流星群の乱舞だ。

 アルトが放った大量の魔法弾が、グラムの周辺を埋め尽くしていたグールの群れを、精密に、かつ暴力的なまでの高火力で一瞬にして駆逐していく。


「下がれ、グラム!」

 

 アルトの鋭い指示が響く。

 

「……っ、すまねぇ、助かった!」

 

 グラムがよろめきながら、こちらへと逃げ戻ってくる。

 そんな彼の身体を、キラキラと輝く光の水が包み込んだ。


 ミリアの精霊魔法だ。

 水と光の大精霊を同時に使役する合成魔法――その聖なる水は、グラムに回っていた麻痺を解き、背中の傷さえも瞬く間に塞いでいく。

 

 若干十三歳にして、これだけの合成魔法を苦もなく操る彼女もまた、規格外の才能の持ち主なのだ。

 

「よっしゃあ! 全快だ、ありがとなミリア!」

 

 グラムは再び聖剣を掲げると、凝りもせずにまた単身で敵陣へと突撃していった。

 

 ……馬鹿なの?

 

 アルトが短く舌打ちをする音が聞こえた。

 彼は先行しすぎるグラムを援護するために、次々と追撃の魔法を編み上げていく。

 

 そして、グラム援護の為、左隣から眩いばかりの輝きを放つ女性が飛び出した。

 

「主の光よ、迷える魂に安らぎを!」

 

 フィオナ様だ。

 手に持った銀色のメイスが、聖なる炎を纏って激しく燃え上がっている。

 彼女の戦いは、普段の緩い雰囲気からは想像もつかないほどだった。

 

 動きはしなやかで、躍動感に満ちている。

 手首を軸に、円を描くようにメイスを回転させる。

 それはまるで、メイスで見えない模様を空中に描く舞踏のようだった。

 

 爪先立ちで軽やかにステップを踏み、重力を感じさせない跳躍で亡者の頭上を舞う。

 翻る法衣の裾と、銀色の武器が描く優美な放物線。その一振りが骸骨の頭を粉砕し、その一蹴りが幽霊を浄化する。

 力任せの打撃ではない。

 指先まで意識の行き届いた、芸術的なリズムの連動だ。

 

 彼女が舞うたびに、死臭に満ちた空気が清浄な光へと書き換えられていく。

 フィオナ様は着地の衝撃を、しなやかな前方回転で逃がすと、すぐさま祈りを捧げた。

 

「天光よ、降り注げ!」

 

 彼女の呼び声に応えるように、漆黒の天井から何本もの光の柱が突き刺さった。

 地下の深層であるはずなのに、まるで天から直接裁きが下されたかのような、圧倒的な神聖魔法。

 

 光の柱に触れた十体以上の亡者たちは、抵抗する間もなく、雪が溶けるようにその姿を消していった。


 強い。

 聖女としての奇跡も。

 戦士として積み上げた技も。


 そして――あんなにも、美しい。


 祈る姿も、戦う姿も、誰かを守る覚悟も。

 汗に濡れた横顔さえ、どうしてあんなに絵になるのだろう。

 

 きっと、アルトの目にも、あんなふうに映っている

 

 ……すごいな。


 フィオナ様が左を照らすなら、私は右を斬り払う。

 

 この場所で、私もアルトと仲間と並んで立ってるんだ。

 せめて役割を誠実に果たそう。


 尊敬と、少しの悔しさを抱えて。

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