第3話 信頼できない
序章3/9です。
視界の端に、あの「金髪」が映る。
グラム=ハルバード。
聖剣に選ばれた勇者であり、そして——私の人生を、アルトとのすべてを、壊す一因となった男。
あの男は厳粛な空気などどこ吹く風で、列に並びながら私の方を見て、ニカッと白い歯を見せた。
そして、誰にも見えないような低い位置で、ひらひらと軽く手を振ってみせる。
(……やめて)
胸の奥が、冷たい針で突かれたようにひくりと痛んだ。
あの男のその無邪気さが、悪意のない明るさが、今の私には猛毒のように突き刺さる。
あいつはきっと、今この瞬間も何も考えていないのだ。
かつて私と重ねた不貞も、それを目撃したアルトの絶望も、彼にとっては「過ぎ去った楽しい思い出」の一つに過ぎないのだろう。
ふと、グラムの隣に居るアルトの背中に目をやる。
彼は微動だにせず、虚空を見つめている。その漆黒のローブは、周囲の華やかな装飾をすべて拒絶するように暗く、沈んでいた。
もし、私がもっと強ければ。
もし、私が愚かでなかったら。
あの孤独な夜を耐え抜くことができていれば。
今、あの漆黒の背中の隣で、誇らしく胸を張っていたのは私だったはずだ。
——私が壊したのは、あの人との未来だけじゃない。
あの人の心そのものだった。
まぶたの裏に、陽炎のようにあの頃の景色が立ち上がる。
アルトが王都の学院へと旅立ち、私の中に芽生えた小さな、けれど決して無視できない「穴」が開いた、あの日々の記憶が。
アルトが賢者の学院の寮へと移り、一人になった部屋は、驚くほど広かった。
二人で使っていたダブルベッド。
彼がよく腰掛けていた書斎の椅子。
彼が淹れてくれた紅茶の香りだけが、いつまでも消えずに残っているような気がして、私はあえて掃除を怠るようになった。
金級冒険者、リーネ=カーティス。
周囲は私を称賛する。けれど、その称賛は私の耳を素通りしていった。
私が本当に欲しかったのは、世界からの拍手じゃない。
アルトの瞳に映る、かつての「私」だった。剣を振り、彼の前を走り、彼に必要とされていた、あの頃の私。
賢者としての将来を約束されたアルトにとって、今の私はもう「守るべき対象」でしかない。
彼が送ってくる手紙。そこには、私の生活を案じ、引退後の安定を願う優しい言葉が並ぶ。
読むたびに、私は自分が無価値な存在に思えて仕方がなかった。
私の剣は、彼にとって「捨ててもいいもの」なんだと、そう思い込んでしまったのだ。
そんな時だった。騎士団長の甥であり、新進気鋭の天才剣士と噂されていたグラム=ハルバードに出会ったのは。
ある大規模な魔物討伐の依頼で、私は彼のパーティに臨時メンバーとして招かれた。
グラムは、眩しすぎるほどの男だった。
アルトのように思慮深くはなく、ただひたすらに陽気で、距離感がおかしいほどに近い。
「よお、金級のリーネ! 噂は聞いてるぜ、すげー速いんだってな!」
初対面でいきなり肩を組んできた彼に、私は最初、不快感すら覚えた。
けれど、戦闘が終わった後の、彼の何気ない一言が、私の枯れ果てていた心に恐ろしいほどの速度で浸透していった。
「すっげえ……! リーネ、お前の剣、今の見たか!? 最高にクールだぜ! 俺、あんな速い斬撃、初めて見た!」
グラムは、私の剣そのものを、純粋に、そして無責任に褒めちぎった。
それは、アルトが長い間忘れていた言葉だった。
安定や将来のためではなく、今、この瞬間、戦場で輝いている私への、直球の称賛だった。
気がつけば、私はグラムに、アルトとの悩みをこぼすようになっていた。
アルトが遠くへ行ってしまったこと。
置いていかれるのが怖いこと。
守られるだけの存在になりたくないこと。
グラムは、私の話を「難しいなー」と笑いながら、けれど最後には必ずこう言ってくれた。
「でもさ、リーネは十分頑張ってると思うぜ? そんなに難しく考えなくていいだろ。お前は今、ここにいて、こんなに強いんだからさ」
その「軽さ」が、当時の私には救いだった。
重苦しい未来から解放してくれる、ただ「今」だけを肯定してくれるグラムの温度。
彼と一緒に依頼を受ける時間が増えるにつれ、私は自分の罪悪感を麻痺させていった。
——誰かに必要とされている気がした。
たとえそれが、表面的な言葉だったとしても。
それだけで、私はようやく、まともな呼吸ができたような気がしていたのだ。
※
その夜、私たちは大規模な討伐依頼を完璧な成果で終えた。
祝勝会の会場となった酒場は、熱狂と酒精の匂いに包まれていた。
仲間たちが私の剣技を称え、次々に杯を差し出してくる。
その喧騒の中にいれば、王都の研究室にいるはずのアルトの、静かすぎる愛を思い出さずに済むような気がした。
私は、自分がどれだけ飲んだのかさえ覚えていない。
ただ、隣に座るグラムの体温がひどく心地よかったことと、彼が私の肩を抱きながら「今日はリーネが主役だ!」と叫んだ、その無責任な熱に身を任せていたことだけを覚えている。
次に目を開けたとき、視界に飛び込んできたのは、見覚えのない木目の天井だった。
体が、鉛のように重い。
横を向けば、乱れたシーツの間から、眩しいほどの金髪が覗いていた。全裸のグラムは安らかな寝息を立てて眠っている。
その光景を理解した瞬間、心臓が凍りつき、胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。
(……ああ。やって、しまったんだ)
言い訳はできなかった。罠に嵌められたわけでも、強要されたわけでもない。
ただ、孤独と不安に耐えきれなかった私が、アルトからの「重い愛」という名の未来から逃げ出し、目の前の「軽い温もり」に縋り付いただけ。
目が覚めたグラムは、気まずそうにする私を見て、いつもと変わらない……いいえ、昨日よりも少しだけ甘ったるい笑顔を見せた。
「ごめん、グラム。私、どうかしてた。……本当に、ごめんなさい」
布団を握りしめ、震える声で謝る私に、あいつは事も無げに言った。
「え? なんで謝るんだよ。楽しかっただろ? まあ、こういうのはさ、依頼達成の『イベント』みたいなもんだろ。そんなに深刻になんなよ、リーネ」
イベント。
グラムにとって、私と過ごした一夜は、その程度の重みしかなかったのだ。
アルトが何年もかけて積み上げてきた、私という一人の人間への敬意や慈しみ。
それを、グラムは一晩の余興として、軽々と踏み越えていった。
殺してほしい、と思った。
けれど同時に、そんなふうに私の価値を「軽いもの」として扱ってくれるあいつが、ひどく魅力的に見えてしまったのも事実だった。
アルトと一緒にいると、私は「愛されるに足る立派な人間」でいなければならなかった。
けれど、グラムの前では、私はただの、都合の良い、剣の強い「女」でいられた。
愛しているのは、アルトだった。
今でも、それだけは断言できる。
私を今すぐ満たしてくれるなら、グラムでなくてもよかった。
私の剣を褒め、私という存在を「今この瞬間だけ」肯定してくれるなら、誰でもよかったのだ。
グラムには、他にも何人か、同じような関係の女性がいることは知っていた。
私はその「その他大勢」の一人に過ぎなかった。
けれど、それが心地よかった。
私のような汚れた人間には、特別な愛など不相応なのだと、自分に言い聞かせることができたから。
グラムが優しいのは、私に責任を負うつもりがないから。
無邪気に褒めるのは、私の行く末なんて、微塵も考えていないから。
頭の隅でそう理解しながらも、私はあいつとの関係を断つことができなかった。
一度麻痺してしまった感覚は、もはや真っ当な「愛」が解らなくなっていた。
私は泥沼の中で、アルトへの裏切りを重ねることでしか、自分の孤独を飼いならすことができなくなっていた。
※
二回目の結婚記念日だった。
あの日、私が左薬指に銀の輪を受け取ってから、ちょうど二年。
本来なら、王都の学院にいるはずのアルトを想って、静かに祈るべき夜だった。
けれど、私はその夜も、自宅の寝室にグラムを招き入れていた。
記念日だという意識はあった。
けれど、それが逆に私を追い詰めたのだ。
清らかなまま彼を待つには、私はもう汚れすぎていた。
誰かに抱かれていないと、罪悪感で押し潰されそうだった。
深夜。
雨音に紛れて、玄関の扉が開く音がした。
あり得ない、と思った。彼は来月まで帰らないはずだった。
カチリ、と寝室のドアノブが回る。
そこには、ずぶ濡れの外套を羽織り、手に小さな花束と包みを持ったアルトが立っていた。
私を驚かせようと、無理をして休暇を取って帰ってきてくれたのだと、その絶望的なほどに優しい表情を見た瞬間に理解した。
時間は、永遠に続くかと思うほど凍りついた。
アルトの手から、花束が音もなく床に落ちる。
「……あれ? 旦那さん? 初めまして。今日はお邪魔してます」
隣で、グラムが事も無げに言った。
彼は悪びれる様子もなく、全裸のまま寝台から降りて、アルトに握手を求めた。
そのあまりの温度差に、私は叫ぶことさえできなかった。
「違うの。アルト、これは違うの……。愛してるのは、あなただけ。本当に、あなただけなの。ごめんなさい、ごめんなさい……!」
私は狂ったように謝罪を口にした。けれど、アルトは何も言わなかった。
怒声も、罵倒もなかった。
ただ、彼の瞳が、見たこともないほど深く、暗い淵へと沈んでいくのがわかった。
彼はグラムに「出て行ってくれ」とだけ告げ、背を向けた。
「少し、考えたい。……今日は別の所に泊まるよ」
去り際、彼の肩が小さく震えていた。
廊下を歩いていく彼の背中から、微かに、嗚咽のような音が漏れた。
静かな、泣き声だった。
私を導き、守ってくれた、あの強いアルトが、私のせいで、子供のように泣いていた。
膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになる。
壁に手をついて、どうにか立っている。
アルトの泣き声が、耳にこびり付いて離れない。
強い魔物が相手でも、例え仲間が倒れても、どんな絶望的な状況でも——アルトは決して泣かなかった。
いつも冷静で、的確で、誰よりも頼りになった。
そのアルトが。
声を殺して泣いていた。
「……っ」
喉の奥から、何かが込み上げてくる。
吐き気か、悲鳴か、自分でもわからない。
私は、何をしたんだ。
私は——。
頭を抱える。
爪が頭皮に食い込むが、痛みなんて感じない。
「……ごめん、なさい」
誰もいない部屋で、震える声が漏れる。
アルトの涙は、もう拭えない。
私は、取り返しのつかないことをした。
胸が、千切れそうに痛い。
口の中に、鉄の味が広がる。
愛していた。
今も、愛している。
なのに、裏切った。
理解したくなかった。
認めたくなかった。
自分がどれほど愚かで、浅はかで、クズな人間だったのか。
「……アルト」
もう傍には居ない。
あの優しい声も。
あの温かい手も。
あの、私だけを見てくれた眼差しも。
全部、私が捨てた。
自分の手で、粉々に壊したんだ。
「……っ、あ……」
声にならない嗚咽が、喉から漏れる。
でも、泣いてはいけない。
泣く権利があるのは、アルトだけだ。
私は——。
私は、ただ、これを抱えていくしかない。
翌日、憔悴しきった姿で帰宅したアルトが私に告げたのは、あまりに当然で、あまりに無慈悲な宣告だった。
「離婚しよう、リーネ」
耐え切れずに、私は彼の足元に縋り付いて泣いた。死んでお詫びするとさえ言った。
けれど、アルトは私の肩を優しく押し返し、死人のような声で言ったのだ。
「僕も……まだ、君を愛しているよ、リーネ。……でも。女として、妻としては、もう君を信頼することができないんだ。
信頼できない人間と、夫婦として隣り合って生きていくことはできない」
まだ愛しているから。
まだ愛されているから。
なおさら、辛かった。
憎まれて、罵られて、追い出されていれば、どれほど楽だっただろう。
私と彼は、愛する人を愛しているまま失う。
愛があっても、一緒にいられない。
愛があっても取り戻せないものがある。
もう、君を信頼できない。
全部、私のせいだった。
——取り返しのつかない現実だけが、それを、私に教えてくれた。
離婚の手続きは淡々と進んだ。
もうグラムとは、顔を合わせる気も起こらなかった。
私は家を去り、アルトに払うべき慰謝料と、自分への罰のために、がむしゃらにソロ冒険者として魔物を斬り続けた。
朝から晩まで、休むことなく。
危険な依頼も、誰も受けない依頼も、片っ端から引き受けた。
傷だらけになっても構わない。
死にかけたって構わない。
魔物を斬るたびに、自分を斬っているような気がした。
愚かで、弱くて、クズな自分を。
斬って、斬って、斬り続ける。
でも——どれだけ斬っても、あの夜に聞いたアルトの嗚咽は、私の耳にこびり付いて消えなかった。
※
神様は、本当に容赦がない。
償いのために積み上げた結果が、最悪の形で私を罰する。
魔王討伐パーティへの選定。
ごめんなさい。
私は、アルトの傍にいてはいけないのに。
ごめんなさい。ごめんなさい。
アルトは、私の事なんて忘れてしまった方がいいのに。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
またアルトと一緒にいられると、喜んでしまって。
そして――。
アルトと、私と、グラム。
三人が、同じパーティにいる。
……これは、なんていう地獄なのだろう。
私は、無意識に剣の柄を握りしめた。
冷たい感触が、指先に現実を思い出させる。
もし、これが地獄なら。
もし、この旅路が罰だというなら。
それでもいい。
私は、かつての夫の背中に向かって、心の内で言葉を零す。
(……愛しているの、アルト。私、本当に、あなたを愛しているのよ)




