表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

第2話 愛しているのに

序章2/9です。

 高い天井から降り注ぐような国王陛下の重々しくも熱のこもった演説も、今の私にとっては、ただ耳元を通り過ぎていく無意味な音に過ぎなかった。

 

 豪華な装飾が施された謁見の間。

 赤い絨毯の上に膝をつき、形式通りに深く頭を垂れる。視線の先には、磨き抜かれた石床に映る自分の影。

 そして、その少し前にある、もう一つの影。

 

 ——アルト。


 一年半ぶりに再会した夫……いえ、元夫の横顔を、私は先ほどから盗み見るように追っている。

 

 彼は少し、痩せたようだった。

 かつて私の指が好んで触れていた、柔らかな頬のラインは削げ、代わりに峻烈な理知がその表情を支配している。

 そして、何よりも私の胸を刺したのは、彼の鼻梁にかかった銀縁の眼鏡だった。

 

 あんなもの、昔はかけていなかった。

 彼がいつから視力を落としたのか、どんな時にそれを必要とするようになったのか。

 そんな些細なことすら、今の私は知らない。


 愛している。

 今でも。

 狂おしいほどに。

 

 けれど、視線の先にいるアルトは、まるで遠い異国の歴史書に記された人物のように、冷たく、静かで、手の届かない場所にいた。

 

 陛下の声が、「人類の希望」という言葉を強調する。

 周囲の騎士たちが感極まったように拳を握る中、私はただ、自分の胸の奥がじりじりと焼けるような感覚に耐えていた。

 

 どうして、こんなふうになってしまったんだろう。

 

 かつて、私たちの間には、言葉なんていらないほどの暖かい絆があったはずなのに。

 私が笑えば彼も笑い、彼が困れば私がその手を引いた。

 あんなに眩しかった日々が、今はもう、泥沼の中に沈んだ銀貨のように、手を伸ばしても指先に触れることさえ叶わない。

 

 俯いた視界の中で、私の指先が微かに震える。

 

 記憶の扉が、音もなく開いていく。

 そこにはまだ、純情で「裏切り」という名の絶望を知らなかった頃の、幼い私たちの姿があった。



 ※


 

 目を閉じれば、今でもあの村の土の匂いや、吹き抜ける風の冷たさを思い出すことができる。

 

 王国の端にある、名前も持たないような小さな村。

 そこが、私とアルトの世界のすべてだった。

 

 あの頃の私たちは、今とは正反対だった。


 私はいつも生傷の絶えないお転婆で、アルトはその後ろを、重そうな本を抱えながらトボトボとついてくる気弱な少年。

 

「ほら、アルト! 早くしなさいよ、置いていっちゃうわよ!」

「待ってよ、リーネ。……そんなに急がなくても、森は逃げないよ」

 

 主導権は、いつだって私にあった。

 私の機嫌一つでその日の遊びが決まり、アルトは困ったように笑いながらも、決して私の手を離さなかった。


 私はそんな彼の「弱さ」を、自分が守ってあげなければならないと、自分の義務のように思い込んでいたのだ。

 

 十歳の夏、村外れにある大きなナラの木に登った時のことを覚えている。

 向こう見ずな私は、自分の背丈の何倍もある高さまでスルスルと登り、得意げにアルトを見下ろした。けれど、ふと下を見た瞬間に足がすくんだ。

 

 風が吹くたびに枝がしなり、私の勇気は一気に霧散した。

 

「……アルト。……降りられない。怖いよ」


 情けない声で泣き出した私を、アルトは叱ることも、慌てることもなかった。

 彼はただ、静かに木を見上げ、枝の張り方や私の足の位置をじっと観察していた。

 

「大丈夫だよ、リーネ。僕の言う通りにして。まず左足を、その節っ節に置いて。……そう、次は右手を少し下げて」

 

 彼の声は、驚くほど冷静で、そして温かかった。

 

 パニックに陥る私の心を、彼の言葉が一つずつ紐解いていく。

 地上に降り立ち、震える私を彼がそっと支えてくれた時、私は初めて気づいたのだ。

 手を引いているのは私だけれど、本当の暗闇で私を導いてくれるのは、この穏やかな少年なのだと。

 

 十四歳で村を出る時も、私は強がっていた。

 

「こんな狭い村、もう飽き飽きだわ。アルト、あんたも来るんでしょ? 私がいなきゃ、あんたは何にも出来ないんだから」

 

 そう言って笑った私に、彼は「そうだね」とだけ答えて、小さな荷袋を背負った。

 

 町に出て冒険者ギルドの門を叩いた時、私の剣士としての才能はすぐに認められた。

 一方で、アルトは目立たない魔法使いとしてのスタートだった。

 

 初めて受けた依頼の報酬は、驚くほど少なかった。

 安宿の固いベッドに二人で座り、一本の固いパンを分け合った。

 

「ごめんね、リーネ。僕がもっと強い魔法を使えたら、お肉だって食べさせてあげられたのに」

「何言ってるのよ。私がもっと魔物を倒せばいいだけの話でしょ。あんたは私の後ろで、ちゃんと魔法を当ててくれればいいの」

 

 固いパンを半分こにして、どちらが大きいかで笑い合った夜。

 狭いベッドの中で、背中合わせに眠りながら感じた彼の体温。

 その温もりがあれば、世界中の何だって斬り伏せられる気がしていた。

 

 アルトの魔法の才能が、少しずつ、けれど確実に開花し始めていることに、当時の私はまだ気づいていなかった。

 

 ただ、この幸せな「主従関係」が、永遠に続いていくものだと信じて疑わなかった。

 

「ずっと一緒にいるのが、当たり前だと思っていた」

 

 その「当たり前」を、自分自身で壊すことになるなんて、あの頃の私に教えたとしても、きっと鼻で笑い飛ばしていただろう。




 

 十八歳になって私たちは、冒険者として一つの頂である「金級」へと登り詰めた。

 

 若すぎる成功に周囲は湧き立ち、その勢いに背中を押されるようにして、私たちは結婚した。

 

 式は、町外れの小さな教会で挙げたささやかなものだった。

 ドレスも借り物で、参列者も数えるほどしかいなかったけれど、祭壇の前で交換した銀の指輪は、どんな宝石よりも綺麗で、私の左薬指に馴染んだ。

 誓いのキスをした時、アルトの耳まで真っ赤になっていたのを覚えている。

 あの時の私は、間違いなく世界で一番、自分が価値のある人間だと思えていた。

 

 幸せだった。


 胸を張って、そう言える思い出ならいくらでもある。

 例えば、初めて私が高熱を出して寝込んだ時。

 アルトは一晩中、私の手を握って、何度も冷たいタオルを替えてくれた。

 

「……リーネがいなくなったら、僕は魔法の唱え方さえ忘れちゃうよ。だから、早く良くなって」

 

 普段は冷静な彼が、消え入りそうな声で漏らした本音。

 それが嬉しくて、私は熱に浮かされながら、「私が守ってあげなきゃ」と心の底から思ったのだ。

 

 例えば、夕暮れの露店で買った一本の串焼き。

 お金がなかった頃の癖が抜けなくて、一つしかない肉を交互に突き出し合って、最後の一切れをどちらが食べるかで、子供みたいに言い争ったこと。

 

「アルトが食べなよ。魔法使いは頭を使うんだから」

「いいよ、リーネが食べて。剣士は体が資本だろう?」

 

 結局、彼が私の口に強引に肉を押し込んで、二人で顔を見合わせて笑った。

 あの香ばしい脂の匂いと、彼の柔らかな眼差し。

 

 けれど、そんな宝石のような日々が重なれば重なるほど、私の心には小さな、けれど暗い「穴」が開き始めていた。

 

 アルトは、変わっていった。

 いいえ、正しくは、彼は「成長」していったのだ。

 

 かつて私の後ろを怯えながらついてきた少年は、いつの間にか、誰よりも冷静に戦場を支配する魔法の使い手となっていた。


 彼は暇さえあれば難解な魔導書を読み耽り、より高みを目指して研鑽を積む。

 それは誇らしいことのはずなのに、隣にいる私は、焦燥感に焼かれるようなっていた。

 

「ねえ、アルト。……私のこと、ちゃんと見てる?」

 

 本に視線を落とす彼の背中に、私は何度、その言葉を飲み込んだだろう。

 

 彼が魔法使いとしての才能を開花させ、周囲から賞賛されるたびに、私は自分がただの「剣を振るだけの女」に成り下がっていくような気がしてならなかった。

 

 アルトに褒められたい。

 アルトに、「私がいなければダメだ」と認めてもらいたい。

 その承認欲求は、彼が隣にいない夜の、静かな部屋の中でどろどろと膨れ上がっていく。

 理由のない不安に襲われて、深夜に彼を揺り起こし、衝動的に泣き叫んだこともあった。

 アルトは困惑しながらも、私を抱きしめて「大丈夫だよ、リーネ。愛してるよ」と囁いてくれた。

 

 けれど、その言葉さえ、あの頃の私には足りなかった。

 彼の深い愛情は、私にとっての「救い」から、いつしか私を腐らせる「毒」へと変わっていった。

 

 彼が成熟すればするほど、私は子供のように退行し、彼に依存し、そして——彼が居ないと置いてきぼりにされるような、激しい孤独に怯えるようになった。

 

 支え合っていたはずの私達の関係は、いつの間にか、私が彼の優しさに縋り付くだけの、歪な形へと変質していた。




 

 私たちの決定的な「終わり」は、アルトが賢者の学院への特別入学を決めた日から始まったのだと思う。

 

 王都にある魔導の最高学府。本来なら門を叩くことさえ許されないその場所に、彼は「金級冒険者としての実績」と「天賦の魔導適性」を認められ、特待生として招かれた。

 

 知らせを聞いた時、私は誇らしさよりも先に、心臓が冷たく凍りつくような感覚を覚えた。

 

「……どうして? 私たちは、二人で一流の冒険者になったじゃない」

 

 震える声で尋ねた私に、アルトはいつものように穏やかに、けれど未来をしっかりと見据えた瞳で答えた。

 

「リーネ。僕たちもいつかは、歳を取るだろう?……いつまでも、命を削りながら魔物と戦い続けることはできないよ。だから、今のうちに資格を取って、安定した職を得たいんだ」

 

 彼は私の手を優しく包み込み、指先の銀の指輪を愛おしそうに撫でた。

 

「そうすれば、君が剣を置きたくなった時……。例えば、子供を授かったとしても、君を何不自由なく支えてあげられる。君に、安心して家を守ってもらえるような、そんな場所を僕は作りたいんだ」

 

 それは、究極の愛情だった。

 彼は自分の名誉のためではなく、私と、まだ見ぬ家族の幸せのために、その人生を捧げようとしてくれていた。

 

 私という人間が、いつか剣を振れなくなる日を、一番近くで案じてくれていた。

 ……けれど、当時の私にとって、その優しさは何よりも残酷な「拒絶」に聞こえた。

 

 彼が語る幸せな未来図の中に、私の「剣」は入っていなかった。

 彼を助け、背中を守るパートナーとしての私ではなく、ただ守られるだけの「妻」としての私。

 

 アルトが賢者へと駆け上がっていく一方で、私は過去の栄光に縋り付くしかなくなるのではないか。

 彼が眩しい世界へ行くほど、私は日陰に置き去りにされるのではないか。

 

 そんな幼稚で身勝手な恐怖が、私の理性を塗り潰していった。

 

 アルトが王都へ発ち、物理的な距離が生まれたあの日から、私の世界は色を失った。

 

 一人で挑む依頼。

 静かすぎる部屋。

 

 手紙は届く。愛しているという言葉も、いつか一緒に暮らそうという誓いも。けれど、文字は私の肌を温めてはくれない。

 

 誰でもいいから、今の私を、剣を振るう私を「必要だ」と言ってほしかった。

 アルトのような未来の約束ではなく、今この瞬間の、私の存在価値を叫んでほしかった。

 

 そんな、精神の地盤沈下が極限に達していた頃。

 

 私は、あの男に出会ってしまった。

 

 アルトとは正反対の、眩しすぎる金髪と、明け透けな太陽のような笑顔。

 私の苦悩も、アルトの献身も、何も知らないまま、「お前の剣は最高だ!」と無責任に笑いかけてきた、あの男——。


 グラム=ハルバードに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ