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第1話 これ、なんて地獄?

序章1/9です。

 指先に触れる羊皮紙の感触は、驚くほど冷ややかだった。

 

 王家の紋章が刻印された封蝋。

 そこに記された「魔王討伐パーティ選定」という文字を見つめても、俺の心には石ころ一つ投げ込まれたような波紋すら起きない。

 

 かつての俺なら、これを見て「世界を救う栄誉だ」と震えていたかもしれない。

 あるいは、隣にいたはずの銀髪の彼女と手を取り合い、希望に満ちた未来を語り合っていたかもしれない。

 

 だが、今の俺にとってそれは、単なる業務連絡以上の意味を持たなかった。

 

「……行くか」

 

 重い腰を上げ、俺は王城へと足を向けた。

 


 ※


 

 赤絨毯が敷かれた王城の廊下は、無駄に広く、そして静かだった。

 規則正しく響く自分の足音が、高い天井に反響しては虚空へと吸い込まれていく。その孤独な響きが、今の自分にはひどく心地よかった。

 

《個体名:アルト=ヴェルクレイン。

 バイタルチェック完了。精神の安定は「凪」を継続中。……実に合理的な状態です》

 

 脳内に、抑揚のない無機質な声が響く。

 

 深淵叡智端末アビス=レイザル。

 

 妻に浮気され離婚という、人生の足場が根底から崩れ去るような絶望の果てに、俺が契約した禁忌の悪魔。深淵の知識集合体。

 

 感情を一部、演算処理の代償として削り取られた俺の脳内には、今やこの「同居人」が住まわっている。

 

(アビス、皮肉か? 世界を救う勇者の一行に選ばれたんだ。もう少しお祝いっぽい事でも言ったらどうだ)

《否定します。私は意思や感情を持つ存在ではありません。最適解を算出・提示するための演算端末です。

 現在、私が提示可能な情報のうち、契約者アルトにとって最も価値が高いと推定されるのは――推定選定メンバーのデータ、戦闘履歴、能力値、心理傾向、過去損耗率を統合解析した結果による、本遠征の『全員生存確率』です。

 算出は完了しています。表示しますか?》

(……聞こうか)

《——1.2%です》

 

「……はは、縁起でもない」

 

 思わず、乾いた笑いが漏れた。

 

 世界を救うはずのドリームチームの生存率が、宝くじの当選確率に近い。

 それがアビスの導き出した答えだ。

 だが、その絶望的な数字を聞いても、俺の心拍数は一拍も跳ね上がらない。

 

 死ぬなら、それもいい。

 妻を失い、感情を削り、それでもなお「賢者」という役割を演じ続けるだけの人生に、どれほどの価値があるのか。

 

 長い回廊の突き当たり。巨大な黒檀の扉が、口を開けて待っていた。

 ここが、魔王討伐パーティの待合室だ。

 

 扉の向こう側には、これから地獄を共にする「仲間」たちがいる。

 俺は、無造作に指先を、重厚なドアノブにかけた。

 

 アビスが、脳の深層でチリリと警告音を鳴らしたような気がしたが、俺はそれを無視して、ゆっくりと扉を押し開いた。


 重厚な扉が、低い呻き声を上げて開いた。

 部屋の中に漂っていたのは、緊張感と、それ以上に濃厚な「個」の気配だ。

 

 まず視界に飛び込んできたのは、部屋の隅に鎮座する巨大な岩のような男だった。

 厳つい岩石みたいな顔には、幾つもの傷跡が深い皺と共に刻まれ、髪の毛にも白いモノが混じっている。

 五十路を過ぎているだろうか。

 使い込まれた重厚な甲冑を纏い、脇には城の門扉ほどもある大盾が置いてある。

 男は俺を一瞥したが、何も言わず、ただ深く重い沈黙を保っていた。

 

《個体照合……データなし。ですが、その筋量と立ち居振る舞いから推定されるクラスは『重戦士』。極めて高度な防御能力を保持していると推測されます》

(なるほど、パーティーの盾役か。頼もしそうではあるな)

 アビスの冷静な分析に、俺は内心で頷く。

 

 その隣、長椅子に腰を下ろしていたのは、対照的に柔らかな空気を持った女性だった。

 亜麻色の髪を緩く編み込み、清楚な法衣に身を包んでいる。祈るように組まれた指先と、どこか憂いを帯びた茶色い瞳。

 彼女からは、高位の神聖魔法を操る者に特有の、清廉な魔力の残滓が感じられた。

 しかし、法衣を押し上げる豊かな双丘が、色々と台無しにしている。

 

 (……けしからん……サキュバスかな?)

 

 失礼な事を考えていると、彼女は俺に控えめながらも丁寧な会釈を返してくる。

 その瞳の奥に「常識人」ゆえの苦労が透けて見えた気がして、俺はわずかに胸が痛んだ。……いや、痛んだ気がしただけだ。

 アビスがその感情の芽を即座に摘み取っていく。

 

《推定クラス:『聖女』精神状態は安定していますが、微細な胃腸の不調反応を検知。このパーティーの将来を既に危惧している可能性があります》

(お前、健康診断までできるのかよ。……まあ、彼女とはまともに話ができそうだ)

 

 そして、最後の一人。

 その少女は、部屋の中で最も異質な光を放っていた。

 年は十二、三歳か。透き通るような銀に近い白髪を揺らし、好奇心に満ちた赤い瞳で俺をじっと見つめている。

 彼女の周囲には、視覚化されるほど濃密な精霊の加護が渦巻いていた。

 少女は椅子から飛び降りると、無邪気な足取りで俺の前に立ち、綺麗なカーテシーを見せる。

 ぐいっと顔を覗き込んできた。

 

「あなたが、『賢者さま』?」

「……恐らくは、そうだろう。アルト=ヴェルクレインだ」

「わあ、やっぱり! アルト様っ、わたしはミリアです。よろしくお願いします!」

 

 ミリアと名乗った少女が、花が綻ぶような笑顔を見せる。

 その瞬間、アビスが脳内で激しい警告音——というよりは、情報処理の過負荷によるスパークのような音を鳴らした。

 

《警告:個体名ミリアより、想定外の魔力出力を確認。風、光、水——三大精霊との生得的な完全同時接続を検知しました。……アルト、この個体は歩く戦略兵器です》

(……すごいな。こんな化け物じみたメンバーまで揃っているのか)

 

 俺は心の中で小さく溜息をつく。

 寡黙で経験豊富な重戦士、慈愛に満ちた聖女、そして天賦の才を持つ精霊使い。

 

 初対面の印象としては、悪くない。どころか、これ以上ないほど「まとも」で「強力」なメンバーだ。

 

 アビスが算出した生存率「1.2%」は何かの間違いだったのではないか。

 そんな、淡い希望が、俺の胸にわずかな温もりを宿した。

 

 だが、その希望は、廊下から響いてきた「二人の足音」によって、一瞬で打ち砕かれる事になる。



 ※


 

 カツン、カツンと、硬いブーツの音が廊下に響く。

 その足音のリズムを、俺の脳は——記憶の最深部から引きずり出していた。

 

 聞き慣れた、そして二度と聞きたくなかった、軽やかで迷いのない足取り。

 

 扉が開く。

 

 そこに立っていたのは、陽光を反射して輝く銀髪と、吸い込まれるような紫の瞳を持つ、スレンダーな女剣士だった。

 

「遅くなってごめんなさ——」

 

 快活な声が、途中で掠れて消えた。

 彼女——リーネ・カーティスは、俺と目が合った瞬間、雷に打たれたように硬直した。

 手に持っていた装備の目録が、音もなく床に落ちる。

 

(……マジか)

 

 胸の奥が、焼け付くように熱い。

 

 幼馴染。

 同じ夢を追いかけたパーティメンバー。

 愛を誓い合った妻。

 

 ——そして、俺を裏切り、他の男の腕に抱かれた女。

 

 一年半前の記憶が、鮮烈な色彩を伴って脳裏を過る。

 幸せだった筈の結婚記念日に、最悪な形で突きつけられた浮気の証拠。

 あの日、俺の心は一度死に、その欠落を埋めるためにアビスと契約したのだ。

 

「あ……アルト……? なんで、ここに……」

 

 リーネの声が震えている。紫の瞳が激しく揺れ、みるみるうちに涙の膜が張っていく。


 後悔、困惑、そして、縋るような期待。

 

《警告:対象個体『リーネ』の心拍数が急上昇。平常時の180%に到達。瞳孔の散大、末梢血管の収縮を確認。極度の動揺状態にあります》

(……報告しなくていい。見ればわかる)

 

 俺は、彼女から視線を外した。感情を削り取ったはずの胸の奥で、どろりとした黒い何かが蠢く。

 だが、それを表に出すことはない。

 アビスの感情削除が、即座に俺の表情を「賢者」の仮面へと固定する。

 

「久しぶりだな、リーネ。……いや、今はカーティス卿と呼ぶべきか。同じパーティに配属された以上、私情は挟まないつもりだ。よろしく頼む」

 

 事務的。あまりに冷徹な俺の声。

 

 リーネは、まるで物理的な衝撃を受けたかのように、小さく肩を震わせた。

 彼女は気づいたのだろう。

 かつて彼女に向けられていた、温かな眼差しが、今や一滴も残っていないことに。

 

「……っ。……うん、久しぶり、アルト。……元気、だった?」

「ああ。君のおかげで、以前よりもずっと『効率的』な人間になれたよ」

 

 皮肉が、自分でも驚くほど滑らかに口をついて出た。

 

 リーネは顔を伏せ、唇を噛み締める。

 その痛々しい姿に、ミリアや聖女が不安げな視線を投げかけてくるが、俺は構わずに背を向けた。

 

《アルト。個体名リーネから、強い後悔と未練の思念波を検知しました。再構築(復縁)の可能性を計算しますか?》

(黙れ。……二度と言うな)

 

 思考を遮断する。

 この場に満ちる、耐え難いほどの沈黙。

 

 だが、地獄の底はまだここではない。

 廊下から、もう一つの足音が聞こえてくる。

 

 リーネの足音よりも重く、より傲岸で、より騒がしい足音が。


「あーーっと! 俺が最後か? 悪い悪い、聖剣の調整に手間取っちまってさ!」

 

 爆音のような声と共に、扉が勢いよく開けられた。

 

 部屋に差し込んだのは、窓からの陽光よりも眩しく、そして暴力的な「黄金の輝き」だ。

 そこに立っていたのは、眩い金髪をなびかせ、背中に光輝く聖剣を背負った男だった。


 グラム=ハルバード。

 当代最高の剣才を持ち、聖剣に選ばれし者、人類の希望と謳われる「勇者」。

 

 そして——俺の妻を寝取った男だ。

 

 彼は部屋を見回すと、俺の姿を見つけるなり、破顔して大股で歩み寄ってきた。

 

「おいおいマジかよ! アルトじゃん! お前が魔法使い枠か? 最高だぜ、またお前と組めるなんてよ!」

 

 ガシッ、と。

 親友にでも接するような気軽さで、グラムの大きな手が俺の肩を叩く。

 その屈託のない笑顔には、一点の曇りも、罪悪感の欠片も存在しなかった。


 彼にとってリーネとの情事は「その時のノリ」であり、終わったことは「過去のこと」なのだ。

 

《警告:外部衝撃による精神の不安定化を検知。個体名グラムの接触。アルト、対象の意図を推測。98.2%の確率で、純粋に再会を喜んでいます。過去の因縁について、再教育しますか?》

(……いい。こいつが何も考えていないのは、知っている)

 

 俺は無機質な手つきで、グラムの手を肩から退けた。


「訂正するぞ、お前とパーティを組んだ事があるのは、カーティス卿だけだ。俺はお前と組んだ事は、一回もない」

「あれ?そーだったかぁ⁉︎まぁ、どっちでもいいな」

 

 視界の端では、リーネが幽霊でも見たかのような顔で震えている。

 彼女にとって、かつての不倫相手と、今の自分を冷たく突き放す元夫が同じ空間に揃うことは、文字通りの拷問だろう。

 

「あ、リーネも元気そうだな! またよろしく頼むぜ、相棒!」

「あ……。う、うん……。よろしく、グラム……」

 

 リーネの声は今にも消え入りそうだった。

 それを見たミリアが、不思議そうに首を傾げ、無邪気に爆弾を投下する。

 

「ねえ、グラム様とリーネ様、アルト様はみんなお友達だったの?」

「おうよ! 俺たちは最高のパーティだったんだぜ、なあアルト!」

「……だから、俺はお前とパーティを組んだ事は無い」

 

 致死量の瘴気が漂ってきそうな沈黙の中、グラムが親指を立てて笑う。

 

 聖女は、もはや見ていられないと言わんばかりに顔を覆い、

 重戦士は黙って天井を仰いだ。

 この部屋の空気の重さは、もはや物理的な質量を持って、俺の肺を押し潰そうとしている。

 

 魔王。

 

 そうだ、俺たちは魔王を倒しに行くのだ。


 だが、これから向かう戦場よりも、この狭いパーティ内の方が、よほど致命率が高いのではないか。

 

《アルト。現在のパーティ状況を定義する状態異常名を定義しますか?》

(……なんだ)

《了解。『地獄』。以上です》

(皮肉の精度が上がったな、アビス)

 

 俺は、震えるリーネと、笑うグラム、そして困惑する仲間たちを見回した。


 悪魔との契約で感情を削り、冷淡な賢者を気取っても、この「最悪」すぎる状況だけは、演算処理では解決しきれない。

 

 世界を救う旅路。

 

 その第一歩目にして、俺は自分の胸の奥が、かつてないほど重く沈んでいくのを感じた。

 

「……辛い」

 

 ボソリと漏れたその一言は、誰にも届くことなく、冷え切った空気の中に溶けて消えた。

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