第28話 元夫との後朝(きぬぎぬ)
微睡みの底で、最初に触れたのは、淡い温もりだった。
柔らかく、静かな熱。そして、懐かしい匂い。
——アルトだ。
私は彼の胸に顔を埋めたまま、眠っていたらしい。
規則正しい鼓動が、頬越しに伝わる。
ゆっくりと上下する呼吸に合わせて、私の身体も、波に揺られるみたいに静かに揺れている。
背中には、そっと添えられた手をかんじた。
強くもなく、縋るでもなく、ただ“そこにある”と分かるだけの重み。
そのささやかな重みが、昨夜の出来事が夢ではなかったのだと、静かに教えてくれていた。
……夢じゃ、ない。
昨晩、アルトは言ってくれた。
「今度こそ、二人で」と。
あの声。
困った時に、少し照れたように低くなる、私のよく知る声。
けれど同時に、どこか遠くまで澄みきってしまった、熱を失った平坦な声。
知っているのに、知らない。
失ってしまったものと、まだ残っているものが、同じ音の中に混ざっていた。
それでも。
確かにこの人は、昨日、私を見てくれていた。
胸の奥が、ふわりとほどける。
崩れてしまいそうなほど、やさしい感覚が私を浸す。
アルトは、割れ物を両手で包むみたいに慎重に、私に未来を差し出してくれた。
嬉しかった。
泣き疲れて眠りに落ちる直前まで、それが奇跡のように思えていた。
まだ半分眠ったままの私は、二年近く触れることのなかった体温と匂いに、身を委ねる。
今だけ。
微睡みの中でしか許されない、この静かな幸福を――
壊さないように、息をひそめて抱きしめた。
――ああ、でも。
この温もりが、永遠ではないことを、私は知っている。
まぶたの裏に、ゆっくりと光が滲む。
意識が浮上するにつれて、やわらかな夢の膜が、薄く剥がれていく。
そして、その下から現れるのは――
私の、汚い過去と醜い現実だ。
昨夜、私は知ってしまった。
私の裏切りが、どれほどアルトを追い詰めたのかを。
彼がその絶望から立ち上がるために、自らの感情を代償に、悪魔と契約したことを。
『18回』。
その数字が、静かな朝の空気の中で、ひどく冷たく私を刺す。
私という存在が、彼を死の淵まで追い込んだ回数。
氷の礫のように、胸の奥を、ごつり、ごつりと打つ。
……私は、まだここにいていいのだろうか。
許されてはいけないはずなのに。
赦しを求める資格すら、持っていないはずなのに。
怖い。
あれほど残酷な真実を共有したあとの朝が、こんなにも静かで、穏やかであることが。
世界は何事もなかったみたいに明るくて、彼の体温は暖かくて。
それが、たまらなく恐ろしい。
私は、この幸せを受け取っていい人間じゃない。
そう思いながら、そっと、顔を上げる。
すぐ近くに、アルトの寝顔があった。
朝の光に透ける黒髪。長く、繊細な睫毛。
整った横顔は、あまりに静かで。
けれど、その眉間には、消えない傷跡のように、かすかな皺が寄っている。
眠っていても、完全にはほどけない痛み。
……私が刻んだんだ。
喉の奥が、ひりつく。
「……ごめんなさい。アルト」
声にならないほど小さな囁きが、彼の胸元に溶ける。
昨夜、彼は私を抱きしめてくれた。
でも、それは赦しではない。
ただ、前を向こうとする決意だった。
ふとした瞬間に――私の顔を見て、耐えきれなくなる日が来るのではないか。
「やっぱり、お前なんて」と、あの静かな瞳に、憎しみが宿るのではないか。
想像しただけで、奥歯が震えそうになる。
動けない。
私が少しでも身体を離せば、この微かな繋がりが、あっけなく切れてしまいそうで。
彼の眠りを乱した瞬間に、昨夜の約束が朝靄のように消えてしまいそうで。
だから汚い私は、息を潜めた。
壊れ物を抱くみたいに、この儚い温もりに、そっと額を寄せたまま。
仮初めの幸福を、目覚めの光から、必死に隠すように。
でも――。
「……起きたのか」
掠れた低い声が降ってきて、私は小さく肩を跳ねさせた。
いつの間にかアルトが目を開け、私をじっと見つめていた。
その瞳には、かつてのような熱はない。
でも、以前のような氷の冷たさも、今は鳴りを潜めている。
ただ――静かに、私を見つめている。
「……おはよう、リーネ」
「お、おはよう、アルト」
声が震えてしまった。
アルトは、少しだけ目を細めた。
笑ったのか、それとも――。
分からない。
でも、その表情は、決して冷たくはなかったように見えた。
彼はそれ以上何も言わず、ゆっくりと腕を解き、ベッドから身を起こした。
その瞬間に訪れた「冷え」に、私は胸を締め付けられるような喪失感を覚える。
「あー、その、なんだ……昨日は、遅くまで付き合ってくれて、ありがとな」
横顔だけで、少し照れたようにアルトが声をかけてきた。昔と変わらない顔が、胸に沁みる。
「……う、ううん。私の方こそ、ごめんなさい。色々、言いにくいことを……聞いてしまって」
彼が、こちらを向き、視線が正面から重なる。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメなんだ。
こんな私に、機会をくれたアルトにちゃんと向き合え。
「……まぁ、これから、改めてよろしく」
簡素で、飾り気のない言葉だけど、アルトの決意が分かった。
「こ、こちらこそ。不束者ですが……改めて、よろしくお願いします」
自然と、背筋が伸びていた。
私も、精一杯やろう。
私は、自分がどれだけ酷いことをしたのかわかっている。
私は、自分がどれだけ愚かなのかわかっている。
たとえ、アルトが一生私を許せなかったとしても。
アルトが苦しんでいるなら、私はその隣で、彼と共に苦しもう。
アルトがいつか、心から笑える日が来るように。私が、そのための杖になれるように。
今度こそ。
二人で。
※
宿の階下で行われた朝食は、ひどくぎこちないものだった。
昨夜の感情の爆発を隠すために、私はいつも以上に髪を丁寧に整え、俯き加減でスープを口に運ぶ。
「おっ、お前ら。昨日はよく眠れたか?俺はなんか、寝違えたみたいでさぁ。首が痛いんだよな」
グラムが、相変わらずの無神経な明るさで声をかけてくる。
首が痛いのは、昨日バロックさんにどつかれたからだろう。
かつての私なら、そんな彼に愛想笑いを返したのかもしれない。けれど今は、その声を聞くだけで胃の底がせり上がるような不快感を覚えた。
「……ああ」
アルトは短く答え、黒パンを淡々と咀嚼している。
その横顔からは、彼の中にアビスが居座っていることなど、微塵も感じられない。
完璧すぎるマナー、無駄のない動き。それが逆に、今の彼の「不自然さ」を強調していて、私はまた視線を落とした。
「……リーネ。少し、顔色が良くなったかしら」
隣に座るフィオナ様が、小さな声で私にだけ聞こえるように囁いた。その茶色の瞳には、隠しきれない心配の色がある。
「フィオナ様……。そう、でしょうか」
「ええ。昨日の朝は、今にも消えてしまいそうな顔をしていたもの」
彼女の優しさが、今の私には痛い。
聖女である彼女は、私の汚濁を知ってもなお、こうして寄り添ってくれる。
私はその手を握り返したい衝動を抑え、小さく頷くことしかできなかった。
※
出発の準備が整い、私たちはルッカ村を後にした。
目指すは、魔王討伐の最前線拠点、城塞都市メルキドだ。早ければ、今日の昼過ぎには着くだろう。
今日騎乗しているのは、私とグラムとフィオナ様だった。
フィオナ様が、馬車だと乗り物酔いするので、この組み合わせになった。
アルトは最後尾の馬車の御者台でバロックさんと何かを話していた。
巨漢の重戦士であるバロックさんは、アルトの肩に大きな手を置き、静かに、けれど深く頷いている。
浮気された夫の「先輩」として、彼はアルトに何を語っているのだろうか。
私は、少し離れたところを歩くフィオナ様に、意を決して話しかけた。
「フィオナ様。……アルトが、私ともう一度向き合ってくれると、言ってくれました」
フィオナ様が、私を見つめた。静かな暖かい視線だ。
「彼に、取り返しのつかないことをしたのだと、改めて知りました。私が彼を壊したのだと。……それでも、彼は私に『二人で考えよう』と言ってくれたんです」
「……そう」
「私、怖いんです。いつかまた彼を傷つけるんじゃないか、彼に突き放されるんじゃないかって。でも、本当に勝手なんですけど、彼に背負わせてしまった地獄を、私も半分、背負って歩きたいんです」
フィオナ様は、隣りでそっと私に語りかける。
「……いばらの道ね、リーネ。でも、あなたがそう決めたなら、頑張りなさい」
「はい……。ありがとうございます」
頬を撫でる風はまだ冷たい。
けれど、昨日までの、暗がりを歩くような空虚な寒さとは、どこか違っていた。
※
小高い丘の向こうに、聳え立つ巨大な城壁が姿を現した。
バルツァー辺境伯爵領の領都、城塞都市メルキド。
魔王討伐の最前線。
ここを拠点に、魔王のダンジョンと、五つのサブダンジョンを攻略していくことになる。
高く積み上げられた石壁は、空を切り取るようにそびえ立ち、幾重にも重ねられた防壁が、この地がいかに長く戦い続けてきたかを物語っていた。
「着いたな。……ここからが、本番だ」
隣で、アルトが静かに呟く。
その声に熱はない。
けれど、門を見据える視線は真っ直ぐで、決意だけが、そこにあった。
——ここからが、本番。
それはきっと、魔王討伐のこと。
けれど私には、
「俺たちも、ここからだ」と言われたように聞こえた。
私は、剣の柄を強く握りしめる。
私の罪が消えることはない。
それでも、その隣に立ち続けることはできると信じよう。
やがて、城門が重々しい音を立てて開きはじめる。
軋む鉄と石の響きが、胸の奥まで震わせる。
その先に待つのが、どれほど過酷な運命であろうと。
迷いながらでも。
恐れながらでも。
彼の傍で。




