第27話 サレ男は辛いよ
「ま、まぁ……ってなわけで。俺は感情を削るために、悪魔――深淵叡智端末『アビス=レイザル』と契約した。で、そいつは今も俺の頭の中に棲んでる」
……便利だな、「ってなわけで」。
細部を雑に圧縮して、アビスと契約に至るまでを説明できた。
だがリーネは、完全に停止した。
比喩じゃなくて、本当に、止まった。
幽霊でも見たみたいな顔色で、唇だけがかすかに震えている。呼吸が浅い。目の焦点が、合っていない。
「あ、悪魔……? 感情を、削られた……? そんな、そんなこと……」
言葉が、途中でほどけて消える。
ああ、これはショックが限界値を超えて、脳が処理を拒否してるやつだな。人間、理解不能な情報を浴びると、とりあえず思考を閉じるからな。
「分かりにくいか。……アビス、視覚化できるか?」
《了解、アルト。屈折率を調整し、視覚認識を可能にします》
俺の顔の横、空間がわずかに歪み――半透明の青紫色の結晶体が、静かに顕現した。
正十二面体の整ったフォルム。無駄に美しい。ゆるやかに回転しながら、冷たい光を放っている。
《初めまして、個体名リーネ=カーティス。私は深淵叡智端末アビス=レイザルです。禁忌の悪魔と呼ばれています。お気軽に“アビス”とお呼びください。
現在は契約者アルトの補助として、深淵に蓄積された情報を基に魔法術式の構築・最適化を行っています。他にも多数の機能を有しています》
礼儀正しい。こういうのを慇懃無礼っていうんだろうな。
リーネは、かすれた声で「うそ……」と呟いたきり、完全に言葉を失った。
視線が、俺と結晶体を行ったり来たりする。何度か瞬きをして、状況が夢かどうか確かめているらしい。
「それ……じゃあ、アルトが変わった……のは……」
両目が、ゆっくりと見開かれる。
理解が、あと一歩で辿り着きそうなのに――脳みそが全力でブレーキを踏んでいる顔だ。
ああ、これ以上先は見たくない、ってやつだな。
肩がわなわなと震えはじめる。
自分の裏切りが俺を悪魔と契約させた。
その因果関係を、必死で否定しようとしているのが分かる。
……まずいな。完全に“自分が元凶ルート”に入りかけている。
少しフォローしておくか。できるだけ軽く。世間話みたいな温度で。
「安心しろ。全部がお前のせい、ってわけじゃない。俺も、ちょっと極端だっただけだ。昔からそういう所あったろ?俺。ほら、ゼロか百か、みたいな」
自分で言ってて、わりと本気で反省点だなと思う。
声が妙に醒めている。自分の話をしているはずなのに、他人の症例を解説している医者みたいだ。
リーネは、まだ現実を受け止めきれていない。
まるで、目の前で俺が死んで、死亡診断書を渡されたみたいな顔をしている。
「まぁ、そんな顔するなよ。そこまで悪い話じゃない。こいつのおかげで、学院もトップクラスで卒業できたし、賢者の資格も一発だ。効率は最高だぞ?」
自虐を混ぜて、空気を薄める。
——が。
《安心してください、個体名リーネ》
ゾワっとした。
経験上、こいつはこういう時、碌な事を言わない。
(アビス、やめ……)
《私の介在により、アルトは精神崩壊に伴う憤死、自死を18回、回避することに成功しています。私は、契約者保護条項に基づき、アルトの生命維持は最優先で実行します。
私が、アルトに不利益をもたらすことはありません》
18回。
その数字が、空気を凍らせた。
客観的な数字。
感情を排した、無慈悲な事実。
俺がどれだけ追い詰められていたかを示す、冷たいカウントだった。
リーネの瞳から、光が消えた。
表情が抜け落ちる。瞬きもしない。
やがて、ゆっくりと一筋の涙が頬を伝った。
力が抜けたみたいに、その場に膝をつく。
呆然と、俺を見る。
「……そう。そうだったんだ。私は……アルトを、18回も殺したのね……」
あー……まずいな。完全に折れた。
その顔、知ってる。リーネの裏切りを目撃した夜の俺と、同じ顔だ。
「違う、リーネ、そうじゃない。俺が壊れたのは、俺の問題だ」
「……私はもう、あなたの側にいる資格なんて、無かったんだ……もう、消えた方がいい、よね」
掠れた声と共に、ポロポロと再び涙が溢れ出す。
それは自らの裏切りが招いた、取り返しのつかない結果に対する「絶望の涙」だった。
膝をつき、今にもこの世から消え入りそうなほど縮こまったリーネを見下ろす。
「おい、リーネ」
俺が呼びかけても、リーネは焦点の合わない虚な目で、ぶつぶつと何か呟いているだけだ。
……仕方ないな、荒療治だが。
俺は両手でリーネの顔を包んで、俺の顔に向けた。
「アビス。リーネに『覚醒』を掛けろ」
《警告。対象名リーネに『覚醒』を実行した場合、87%の確率でパニックを発症します》
「そしたら、『鎮静』を掛けろ」
《了解。対象名リーネに『覚醒』を実行します》
俺の目の前に据えられたリーネの瞳に、光が戻る。しかし次の瞬間、両目から涙が滂沱のように溢れ出す。戦慄く唇が絶叫を挙げようと開いた。
《対象名リーネに『鎮静』を実行します》
涙を湛えたリーネの瞳に、俺の顔が写った。
顔は俺が両手で挟んでいるので、お互いの吐息が分かる。よし落ち着いたな。
改めて他人で見るとすげーな『鎮静』。
……てか、『強制鎮静』が必要な俺って、どんだけなんだよ。ちょっと引くわ。
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「……リーネ」
引いてたせいか、俺の声は自分でも呆れるほど平坦だった。
「お前が消えたところで、俺は変わらないよ」
「……え?」
リーネが、驚いたように小さく声を挙げた。その瞳は、絶望の泥の中に微かな戸惑いを浮かべていた。
「お前がどこか遠くへ行って、俺の知らない場所で、今みたいに泣きながら暮らす…。
それ、俺が喜ぶと思うか?」
俺は、言葉を選んだ。できるだけ優しくならないように。俺が間違わないように。
「消えるなら、お前が笑えるようになってからにしてくれ。ちゃんと幸せになって、俺のことなんて鼻で笑えるくらいになってから、消えてくれ。
……お前が笑ってないと、俺も笑えないんだよ」
リーネの目に俺が写っているのが見える。
「……アルト」
「頼むよ、リーネ」
俺は屈み込み、彼女の目を見た。泣き腫らした瞳。最後にこいつの笑った顔を見たのはいつだったけな……
「今、お前がめちゃくちゃにショックを受けているのは分かる。
だけどそれは一人で抱えなくていい」
俺は、深く息を吐いた。
胸の奥に溜まっていた、黒くも熱くもない、ただ重たい何かを外に押し出すみたいに。
「俺達は間違えた。お互いが、自分勝手にやらかした。その結果が、今のこれだ」
なかなかの地獄絵図だ。本当にやれやれだよ。
「だから、今度こそ、二人でやろう」
声が、少しだけ柔らいだ。
「別に復縁しようとか、言ってる訳じゃない。次は、ちゃんと二人で一緒に笑えるように。お前と向き合う機会を、俺にくれないか」
リーネの顔が、ぐしゃりと歪んだ。
ああ、完全に決壊する前の顔だな。
「……いいの?」
それだけを、やっとの思いで絞り出してきた。
震える右手が、恐る恐る俺の手に触れる。
まるで、触れた瞬間に消えるかもしれない幻でも確かめるみたいに。
「お前がいいなら、俺は一緒にやりたい」
本心だ。驚くほどすんなりと出せた。
おずおずと、リーネが俺から手を離す。
俺に触れる事を恐れているように。
自分には、そんな資格は無いと言っているように。
だから。
俺がリーネの手を握った。
次の瞬間、リーネが勢いよく俺の首に腕を回してきた。
予備動作なし。神速の体当たり。
「あ……りがっ、ありがとう…ア、アルトぉ、アルトぉーっ!」
そのまま、二人でベッドに倒れ込む。
号泣しながら俺の名前を繰り返すリーネを抱きしめて、背中をゆっくりさする。
今日は、たくさんこいつが泣くような事をしたな…
ごめんな、リーネ。
どれくらい経っただろう。
すすり泣きが、だんだん小さくなって。
呼吸が、ゆっくりと一定になっていく。
俺の胸に額を押しつけたまま、リーネが穏やかな寝息を立てている。
リーネの吐息。
リーネの体温。
リーネの匂い。
物心ついた時。お互い意識し始めた時。初めて体を重ねた時。ずっと一緒に居ようと誓った時。これからも頑張ろうと言った時。
いつも感じてたリーネと同じだった。
何かがほぐれていく。
——気を抜きかけた一瞬、あの夜の光景がフラッシュバックして、体が強張る。
真っ黒い悲しみと怒りが、ごりごりと迫り上がってくる。
……ああ、でも、リーネが暖かくて、肌触りも良くて、いい匂いで……気持ちいいな、畜生。
……ホントに勘弁してほしい。
あー辛い。
俺は久しぶりに元嫁を抱きしめながら、意識を手放した。




