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第26話 削られた月の下で

 静寂が、これほどまでに耳に痛いものだとは思わなかった。

 

 ルッカ村の宿屋『麦の穂亭』の一室。

 月光が差し込む沈黙の中で、リーネの嗚咽が溢れ、古びた床板を濡らしていく。

 

 彼女が吐き出した、裏切りの真相。

 それは勇者への愛などではなく、孤独という猛毒に耐えきれなくなった末の、無様な逃避だった。

 

 愕然とした。

 俺の胸の奥で、俺自身がひび割れ、音を立てて崩れていくのが分かった。


 俺は、俺達の大事な時間を壊してしまった一人として、リーネに語りかけた。

 

「……リーネ。少し、俺の話しを聞いてくれないか」

 

 彼女の肩が小さく跳ねる。

 俺はベッドに座ったまま、視線を窓の外に投げた。月明かりに照らされた夜の村は、ひどく寒々しい。

 

「お前がアイツに逃げた理由……。それを聞いて、今、ようやく理解したよ。

 俺は、自分が前に進むことばかりに夢中で、お前のことを見ていなかったんだ」

「アルト、それは……」

 

 俺は自嘲的な笑みを浮かべ、続けた。

 喉の奥が焼けるように熱い。

 

「賢者の学院に入学して、俺は舞い上がっていた。二人の将来のため、安定した収入を得るため……そんな大義名分を盾にして、一番大切なはずのお前をおざなりにしていた。

 お前が隣で、どれほどの不安に押し潰されそうになっていたかも知らずにな」

 

 魔法理論、学院の序列。

 俺にとっては輝かしい未来への階段だったものが、彼女にとっては、俺との距離を隔てる『壁』でしかなかったのだ。

 

 俺は彼女を置いてきぼりにし、彼女の寂しさを「リーネも同じ気持ちだろう」という身勝手な信頼で塗りつぶしていた。

 

「それから……離婚の時のことだ」

 

 その単語を出した瞬間、リーネが息を呑む気配がした。

 

「あの時、俺はお前と向き合うことから逃げた。……お前の顔を見る事ができなかった。

 だから、すべてを弁護士に丸投げして、事務的な手続きだけでお前を切り捨てた。一方的に、話し合いの余地すら与えずに」

 

 離婚届を突きつける冷徹な法的代理人。

 彼女が最後に俺に伝えたかった言葉も、謝罪も、弁解も、俺はすべて『言い訳』という名の盾で跳ね返した。

 

「……悪かった、リーネ。俺の独りよがりが、お前を追い詰めたんだ」

 

 静寂が戻る。

 謝罪の言葉は、宙を彷徨ってどこにも着地しない。

 

 謝ったからといって、裏切りの事実が消えるわけではない。

 彼女が他の男の腕の中にいた記憶が、俺の心から消去されるわけでもない。

 

「アルト……。違うの、違うのよ。私が弱かっただけ。あなたが頑張っているのを、応援できなかった私が……」

「いいや。お前を弱くさせたのは、俺にも原因があったと思う」

 

 俺は視線をリーネに戻した。彼女の紫色の瞳には、絶望と、後悔と、そして消えかかった縋るような光が混ざり合っている。

 

「……正直、お前を許したわけじゃない。今でも、あの夜の光景が目に焼きついて離れない」

 

 俺の率直な言葉に、リーネは悲しげに瞳を伏せた。

 

「だが……。俺もお前を傷つけていた。

 その事実を認めないまま、一方的に俺が被害者面をしてお前を責め続けるのは……卑怯だと思う」

 

 俺たちは、どちらかが一方的に悪かったわけではない。

 ただ、二人で歩むべき道を、互いに違う方向へ踏み外した。

 

 その結果、かつての幸せな日常は粉々に砕け散り、今の俺達には後悔と自己嫌悪の泥沼のような地獄しか残されていない。

 

「……だから、もう一度言わせてくれ。俺も悪かった。傷つけてごめん」


 リーネは、顔を伏せて両手で顔を覆っていた。肩が、小刻みに震えている。


「……なんでぇ」


 掠れた声が、指の隙間から漏れる。


「なんで、アルトがそんなこと言うのぉ……」


 リーネが、ゆっくりと顔を上げる。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔。

 赤く腫れた目元が震え、噛みしめた唇は白くなっている。

 後悔も、自責も、未練も、すべてが混ぜこぜになった顔だった。


「わ、私が、全部悪いのに……。私が、アルトを裏切ったのに……」

「リーネ――」

「なのに、なんで……なんで、謝ってくれるの……」


 絞り出すような声が、途中で崩れ、嗚咽へと変わっていく。

 言葉にならない音が、胸の奥から溢れ出す。


「……わ、わたしぃ……っ」


 肩が震え、呼吸が乱れる。

 リーネは、床に額がつきそうなほどに、その場で深く頭を下げた。


 もう取り繕いも何もない、子どもみたいな号泣だった。


 謝罪は、許しではない。


 けれど、俺たちを縛る鎖の色が、少しだけ別の色に変わったような気がした。

 俺はリーネの号泣を聞きながら、古びた窓枠に削られた、月を見上げた。





 隣のベッドでひとしきり号泣し、ようやく呼吸を整えたリーネが、赤く腫らした目を伏せながら口を開いた。

 

「……ありがとう、アルト。私の話を聞いてくれて……」

 

 その声は掠れていたが、憑き物が落ちたような静けさがあった。

 だが、彼女の紫色の瞳に宿った光は、探るように俺の横顔をなぞる。

 

「……ねえ、アルト。私も一つだけ、聞いていい?」


 涙の跡を残したまま、リーネがそっと言う。

 責める声じゃない。どこか、怯えるような響きだった。


「あぁ……なんだい?」

「……離婚してから、あなたに何があったの?できれば、教えてほしいの」


 その言葉に、わずかに息が詰まる。

 問い詰めているわけじゃない。

 むしろ逆だ——心配している。


 まるで、自分が何かを壊してしまったのではないか、と確かめるみたいに。


「何があった、って……見ての通りだよ。賢者の学院で学び、博士課程修了。

 そのまま魔王討伐パーティーに雇用された。至極まっとうな経歴だろう?」

 

 俺は努めて平坦に、事務的な口調で返した。だが、リーネは悲しそうに首を振った。


「嘘よ。……昔のアルトはね、魔法を詠唱する時だって、もっと情熱的で……楽しそうだった」


 リーネの声は、責めるでもなく、ただ確かめるように震えていた。


「今のあなたは、あまりに冷静すぎるの。ときどき……感情が無くなったみたいに見える。

 魔法も完璧すぎて……まるで機械が詠唱しているみたいで、少し怖いの」


 ――鋭いな。さすが、幼馴染。

 二十年以上、隣にいた女だ。そりゃあ、バレるか。


「……お前は、知らない方がいい。知ったところで、お前はまた自分を責めるだけだ」


 胸の奥が、わずかに軋む。なるべく平坦に言う。

 だが、リーネは小さく、しかしはっきりと首を振った。


「ありがとう、アルト」


 その一言が、妙に優しかった。


「でもね。もし――アルトが変わってしまった原因が、私にあるのなら……私は、それを知らないままでいたくないの」


 彼女の瞳は、俺を心配していた。

 あー、覚悟ガン決まりの顔だな….

 変わったのは、お前のせいじゃない。

 そう言い切れれば、楽だったんだがな。

 

 リーネはベッドの上に居住まいを正し、泣き腫らした瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。

 それは、強敵を前にした時の剣士の目であり、同時に、これから下される死刑判決を甘んじて受け入れようとする罪人の覚悟みたいだった。

 

「私は、自分の裏切りが招いた結果のすべてを、きちんと受け止めたいの。お願い、アルト」


 ……ハァ、と。わざとらしくもなく、本気でもない、そんな中途半端な溜息が漏れた。


「……お前と離婚した後、俺は、まぁ……少し荒れてたんだ」

 

 …………”少し”

 ……なんて便利な言葉だ。

 当時の俺を知ってる人間が聞いたら、呆れるだろうな。

 荒れた、どころじゃなかった。


 端的に言えば――俺は狂っていた。


 愛情が深ければ深いほど、裏切られたときの反動はスゴいらしい。

 その仮説を、俺は実証していた。

 怒りと悲しみが混ざり合った黒い溶岩みたいな何かが、俺を灼きつくしていた。


 あの頃の俺が考えていたのは、ただ一つ。


 グラム=ハルバードをどう殺すか。


 ただ命を奪うだけじゃ足りない。

 肉体を細切れにし、魂を呪い、死すら救いにならない永劫の苦痛を与える方法を――本気で、真面目に、研究していた。

 

 俺は昼夜を問わず、学院の禁書庫に入り浸った。

 禁忌、呪詛、堕天、破戒。

 目につくものから片っ端に漁った。

 倫理?道徳?

 そんなもの、どうでもよかった。

 

 そして辿り着いた。

 ——自分自身をすべて生贄に捧げ、現世に地獄の一部を顕現させる召喚術に。


 うん。勢いに任せてたせいもあったけど、我ながらスケールがでかい。普通は酒に溺れるとか、賭博に走るとか、その辺だろう。

 俺は世界ごと巻き込もうとした。迷惑にもほどがある。


 術式を完成させ、魔力を臨界まで引き上げ、さあ自爆式復讐劇の開幕だ――と、なったその瞬間。


「……そこまでだ、愚か者」


 冷徹な声が、術式に横から割り込んできて、俺の構築した魔法陣が、外部から強引に書き換えられた。


 そんな芸当ができる男は一人しかいない。

 ヴィクター=アルカード。

 俺の師匠だった。


 あの日も、黒縁眼鏡の奥、灰色の瞳は氷みたいに静かだった。怒りも焦りもない。ただ、実験に失敗した学生を見る研究者の目だ。


「自分を壊すほど悲しみ、憎むのなら……先にその『感情』を代償にして、この悪魔と契約しろ」


 淡々と、そう言った。


「その上で、もう一度考えろ。自分を生贄にするほどの価値が、その復讐にあるのかをな」


 ……今思えば、あれは説教にしては、イカれてたな。地獄を召喚する弟子に、悪魔と契約を勧める師匠……似た者師弟だよな。


 渾身の魔法が不発に終わった虚脱感の中、俺は反論する気力もなかった。どうせ壊れるなら、少し形を変えるだけだ――そんな投げやりな気分で、俺は頷いた。


 書き換えられた魔法陣で召喚された、禁忌の悪魔――

深淵叡智端末『アビス=レイザル』との契約に。


 契約の瞬間、深淵の膨大な情報が濁流になって俺の脳内へ流れ込んだ。

 理論、数式、構造式、異世界の情報——理解できるかどうかは無関係に、全部まとめて押し込まれた。


 脳を直接焼かれるような激痛に、視界が真っ白になり、俺は床に崩れ落ちた。


 ああ、これで終わりか、と。

 案外あっさりだな、と思ったのを覚えている。


 次に目を開けたのは、ヴィクター師匠の研究室だった。

 薬品と羊皮紙の匂いが、やけに現実的で、そして、頭の奥で響く機械じみた冷たい声を聞いた。


《——初めまして、個体名アルト=ヴェルクレイン。私は深淵叡智端末アビス=レイザル。禁忌の悪魔です》


 少し腹立つレベルで、妙に丁寧な礼儀正しい奴だな。初対面の印象はそんなだった。


 そのとき、気づいた。


 俺の中にあった、あの黒くて、重くて、どうしようもなく熱かった怒りと悲しみが――ごっそりと削り取られていることに。


 復讐心も、憎悪も、憤怒も、悲哀も、

 燃え盛っていたはずの感情が、契約の代償にきれいに持っていかれていた。


 胸の奥は、驚くほど静かだった。

 静かで、暗くて、空洞みたいで。


 ああ、とそのとき思った。


 俺は復讐を諦めたんじゃない。

 復讐する“理由”そのものを、支払いに使ってしまったのだと。

 ——そして俺は、見事に空っぽになった。


 その後の俺はというと。

 廃人一歩手前、いや半歩前くらいになった。

 そんな状態の俺を見かねた師匠が、ほぼ荷物扱いでエリスのところに放り込んだんだ。


 で、ふと冷静になって考える。


 あれ?

 こうして振り返ると――俺、まだ社会復帰の途中だったんじゃないか?


 情緒リハビリ中の人間が、なぜか魔王討伐パーティーに所属している。

 世界の命運を背負ってる。


 段階、飛ばしすぎじゃね?

 

 ……うん。

 どう考えても、早まった気がする。

 

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