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第25話 愚者の後悔

 ルッカ村にある宿屋『麦の穂亭』の二階。建付けの悪い窓が風に鳴るたび、ランプの灯火が不安げに揺れる。

 雨は上がり、風が強くなってきたようだ。

 

 俺は備え付けの硬いベッドに腰を下ろし、古びた魔導書に目を落としていた。

 視界の端に映る、もう一台のベッド。そこには主がいない。

 

 不意に、木の扉が遠慮がちに鳴り、ゆっくりと開いた。

 

「……戻りました。アルト」

 

 現れたのは、入浴を終えたばかりのリーネだった。

 湿り気を帯びた銀髪が肩に張り付き、宿で借りた粗末な寝巻きの胸元からは、風呂上がりの熱と石鹸の、どこか懐かしい香りが部屋に流れ込む。

 清楚な美貌が、上気した肌のせいで妙に艶めかしい。

 

「……ああ。風呂はどうだった」


 湯上がりのリーネなんて、沢山見てきただろう?

 今更、何ドキドキしてんだ。

 俺は自分を落ち着かせつつ魔導書から目を離さず、できるだけ事務的な声を意識して尋ねた。

 

「ええ。とっても温かかったわ。あんなにたっぷりのお湯で身体を洗えるなんて、この村では贅沢すぎるわよね」

 

 その言葉に、俺は口角をわずかに歪めた。

 この宿の風呂に湯を張ったのは、ミリアの精霊魔法だ。

 俺が彼女に、水の精霊に温度調整をさせる、精霊魔法のコードを教えた。

 結果、この寂れた農村の宿屋での入浴という、贅沢が実現したわけだ。

 

「ミリアの精霊魔法は、相変わらず桁外れだよな。あれで13歳なんだから、先が楽しみだよ」

「そうね。でも、精霊を制御して細かい温度調整の仕方をミリアに教えたのは、アルトでしょう?

 私は、アルトもやっぱり凄いと思うわ、精霊魔法なんて専門外のはずなのに」

「……計算すれば誰でもできる。大したことじゃない」

 

 俺は淡々と返した。

 実際には《深淵叡智端末アビス=レイザル》が、数千万通りの魔法コードを瞬時に演算し、最適解を出力しただけだ。

 賢者という肩書きは、悪魔との契約というドーピングの結果に過ぎない。

 

 リーネは俺の正面に座る勇気がないのか、少し離れた椅子に座ると、手近な布で濡れた髪を拭き始めた。

 

 ……パチ、と。

 俺の指先から、無意識に小さな火花が散った。

 

 気がついた時には、俺は本を置き、彼女の方へ右手をかざしていた。

 微かな風の魔力。そこに温度調整を織り交ぜ、温風を彼女の髪へと届ける。

 

「――あ」

 

 リーネが驚いたように肩を震わせる。

 

 俺自身、自分の行動に驚いていた。

 …もう、脊髄反射のレベルだな、これ。

 かつて、冒険の合間のキャンプで、あるいは疲れ切って帰宅した夜に。濡れた彼女の身体を冷やさないよう、俺が当たり前のように行っていた習慣。

 

「……すまない。つい、癖で。濡れているお前を見ると、反射的に魔法が出るようになっているらしい」

 

 俺は空々しく言い、手を引こうとした。

 離婚した元妻の髪を乾かすなど、不適切にもほどがある。ビジネスライクな同僚としての距離感を、自分から破壊してどうする。

 

「……ううん。ありがとう。……もし、迷惑じゃなかったら、もう少しだけお願いしてもいいかしら?」

 

 リーネは俯いたまま、消え入りそうな声で言った。

 

「……ああ。このくらいだったか?」

「うん。……すごく、気持ちいい」

 

 俺は無言で温風の出力を調整した。

 魔法の風が、彼女の銀髪をふわりと躍らせ、一房ずつ丁寧に乾かしていく。

 指先で髪に触れることはしない。ただ、熱を運ぶだけだ。

 

 ふと見ると、リーネの紫色の瞳が潤んでいた。

 まつ毛が細かく震え、呼吸が不安定に乱れている。鼻を啜る小さな音が、風に混じって聞こえた。

 

《アルト。個体名リーネの涙腺が緩展。過去の記憶による甚大な情動変化を確認。このまま魔法を継続すると、対象が過呼吸に陥るか、感情の決壊を招くリスクがあります》

(……分かっている。だが、ここで止めるのも不自然だろ)


 俺は、無感情に風を送り続けた。

 この風は、濡れた髪を乾かすことはできる。冷え切った肌を温めることもできる。

 

 だが、後悔に塗れた彼女の心を温めることも、その頬を伝う涙を乾かすことも、できない。

 ……やがて、銀髪は本来の輝きを取り戻し、さらさらと指の間をすり抜けるような質感に整った。

 

「……乾いたな。もういいだろう」

「……ええ。本当に、ありがとう。アルト」

 

 気まずい沈黙が、部屋を重く満たす。

 

 彼女の視線が、かつては俺を熱く見つめていたあの瞳が、俺を見る事が憚れるように泳いでいる。

 俺もまた、彼女に対して何を言うべきか分からなかった。

 

「身体も温まったし、そろそろ寝るか」

「うん……おやすみなさい、アルト」

 二人、それぞれ備え付けのベッドに入る。

 

 ランプを消すと、部屋は深い闇に包まれた。


《アルト。初体験前の中学生カップル並みのぎこちなさですね》

(何だよ、その具体的な例え。ほっといてくれ)


 わずか数メートルの距離。手を伸ばせば届く場所に彼女がいる。

 かつては、一つの布団の中で体温を分け合っていたというのに、今のこの距離は、まるで別の次元に隔離されているかのように絶望的だった。


 隣のベッドから小さな、本当に小さな嗚咽が聞こえた気がしたが――俺はそれを、聞こえ無いフリをして、目を閉じた。

 



 

 ……眠れない。

 日中、冷たい雨の中を進み続けたせいで、体は確実に疲れているはずだ。

 それなのに――眠気だけが、どこかへ避難してしまったらしい。

 

 俺はベッドの上に身を起こし、室内に目を向けた。

 

 雲の切れ間から差し込む月光が、古びた宿の床に青白い四角形を描き出していた。


 その冷たい光の中で、隣のベッドに横たわるリーネの銀髪が、静かに月光を反射している。

 かつて、この輝きをどれほど愛していた事か。

 指の間を滑り落ちる絹のような質感。

 石鹸の香りと混じり合う、彼女自身の体温。

 

 アビスの強制鎮静の影響だろう。

 俺は自分のベッドの中で、無くした筈の懐かしさを、静かな気持ちで見つめる事ができていた。

 

《アルト。個体名リーネを観察する事で、副交感神経が優位になり、ストレス値が低下しています。

 なお、個体名リーネは現在も覚醒状態と推測されます。蓄積した精神的負荷の軽減のため、対話を推奨します》

(……珍しいな、アビス。お前がそんな前向きな提案をするなんて)

《アルト。私は契約者保護義務を有しています。よって、契約者の健康増進に資する行動を優先します》

(あー、なるほど。そういう“仕様”ね。……じゃあ、今後もよろしく頼むよ)

 

 脳内のアビスに適当に返した。

 沈静化の状態にある今の俺なら、感情に溺れずに言葉を選べるはずだ。

 避けてきた話題。それでも、この地獄のような旅を続ける以上、墓穴を掘り返さなければならない。

 

「……リーネ。起きているんだろ?」

 

 静寂の中、俺はひっそりと声をかけた。

 リーネの肩が、月明かりの下でビクリと震える。彼女はゆっくりと身を起こし、膝を抱えた姿勢で俺の方を見た。

 

「……少し話しをしてもいいかな?」

「うん…」

「リーネは、言いたくないかもしれない。でも、俺も知っておかないといけないと思うんだ。だからもしよかったら、聞かせてくれないか」

「何を……?」

「……なんで、お前がグラムとあんなことをしたのか」

 

 言い終えた瞬間、胸の奥に泥水が流れ込んでくるような不快感があった。アビスが警告音を鳴らすが、それを思考の隅に追いやる。

 

 リーネは小さく息を吐いた。

 その顔は、まるで告解室で罪を告白する仔羊か、あるいは判決を待つ被告人だ。


 どちらにせよ、俺は神父でも裁判官でもない。

 

 ただの元夫だ。


「……私、貴方と一緒に居た頃は、何も怖くなかったの。アルトが隣にいれば、どこまでも行ける。そう思ってた」


 焚き火の残り火みたいに、弱く、静かな声だった。

 視線は、ここではないどこかへ向けられている。


「アルトが『賢者の学院』に特別入学が決まったときは、私、本当に嬉しかったのよ。あなたという才能が世界に認められたことが、自分のことみたいに誇らしかった」


 ああ、覚えている。

 あの夜。二人で安酒を空けて、くだらない未来予想図を語った。


 学院を卒業したらどうするとか。

 もっと強い依頼を受けようとか。

 子どもは何人だとか。


 ……今となっては、笑い話しになってしまったけれど。


「でも……同時に、怖くなったの。アルトが、どんどん遠くへ行ってしまうような気がして」

「怖く?…俺が遠くなった?」


 思わず聞き返す。


「ええ。あなたは魔法の話、学院の話……私の知らない言葉をどんどん覚えていった。

 でも、私は剣を振ることしか取り柄がない、ただの女のままだった」


 彼女は膝の上で、ぎゅっと手を握りしめた。まるで、自分の無力さそのものを握り潰そうとしているかのように。


「私が、何一つ理解できない高みへあなたが羽ばたいていくのを見て、いつか置いていかれるんじゃないかって……段々、怖くなっていったの」


 リーネが顔を伏せる。

 

「気がついていなかったと思うんだけど、アルトは学院に入ってから、変わったの」


 リーネの声が、震える。


「私が剣の話をしても、生返事ばかり。『ああ、そう』『頑張って』って。

 魔法の本を読みながら、私の話を聞いてた。目も合わせてくれなかった」


 リーネが、膝を抱える。声が掠れる。


「私が『一緒に訓練しよう』って誘ったら……『今は忙しい。一人で行ってくれ』って。

 その時、わかったの。

 ああ、私は……もう必要とされていないんだって。

 ……そんな時だったわ。グラムにあったのは」


 否定したかった。

 

 そんなことはない、お前の思い込みだ、と笑い飛ばしたかった。

 

 だが、記憶の中の自分をどう探っても、彼女の震える肩を抱き寄せた場面が見当たらない。

 代わりに浮かんできたのは、魔法術式の最適化に没頭し、彼女の問いかけに適当な相槌を打つ、薄情な「賢者候補」の横顔だけだった。

 

 リーネは自分を抱きしめるように、さらに強く膝を抱え込んだ。

 

「あいつは、何も考えてなかった。……ただ、私が朝まで素振りをしていたら、『お前は頑張ってる』って笑ってくれた。私の剣を、最高だって言ってくれた」

 

 俺の胸に、心臓を冷たいナイフで撫でられたような感覚が走った。

 

「……正直に言うわ。別に、グラムじゃなくてもよかった。あの時、私のことを認めてくれる相手なら、誰でもよかったんだと思う。

 偶々あの時、私を『必要だ』って言ってくれたのが、グラムだったの。

 馬鹿みたいでしょう? そんな、誰にでも言えるような言葉が欲しくて、私はアルトを裏切ったのよ」

 

 彼女の声が涙で掠れる。

 

 勇者グラムへの愛ゆえの不貞。

 それならば、まだ救いがあったかもしれない。だが、彼女が語ったのは「孤独を埋めるための代償」という、救いようのない現実だった。

 そして、その孤独を作ったのは、


 俺だったんだ。

 

「……なんで、俺に言わなかったんだ」

「……言えなかった。……私がいることで、アルトの足を引っ張ってるんじゃないか。

 もっと優秀な人と一緒にいた方が、アルトは幸せなんじゃないかって、そう思っちゃってたの。

 だから……アルトに、そんな弱いところを見せたくなかった。常に強くて、気高くて、あなたの隣に立つに相応しい『剣士リーネ』でいたかった……!」

「だから、グラムに逃げたのか。……」

 

 リーネが、びくりと震え、顔を伏せた。

 

「……ごめんなさい……最低だよね。今なら、本当にそう思う。

 でも、あの時は、貴方につまらない女って、思われたくなかったの」


 リーネの瞳から、涙が溢れる。


「一度、間違えたら……もう戻れなくなった」


 リーネが、震える。


「罪悪感で、毎日死にたかった。

 でも、グラムは……何も気にしてなかった。私が苦しんでるのに、あいつは笑ってた。『気にすんなよ』って。

 私がどれだけ汚れても、あいつは『いいじゃん、楽しいんだから』って」


 リーネが、自分を抱きしめる。


「……あいつのその無責任さが、逆に楽だった。

 グラムといると、罪悪感を忘れられた。

 だから、止められなかった。

 どんどん自分が壊れていって、最後の頃は、もう全部壊れてしまえば楽になれる、なんて考えてた。

 ……アルトに見つかったとき、私……どこかでホッとしたの」


 リーネが、自嘲するように笑う。


「これで終われるって。もう、壊れなくていいって」

 

 月明かりの下、彼女の頬を涙が伝い、銀髪に吸い込まれていく。

 

「……ごめんなさい。こんなクズで、汚くて。それなのに、未だにあなたの側にいたいなんて思ってしまって……本当に、ごめんなさい」


 …………………

 ……言葉を探そうとして、喉の奥に石が詰まったような感覚に陥った。

 

 ……ああ、俺は気づいていなかった。


 ただ『賢者』という前方の眩光に目を奪われ、すぐ隣を歩く女の表情を見てなかった。


 我ながら、呆れる。

 上ばかり見て、足元の石ころに気づかず転ぶような人間を、世間では「愚者」と呼ぶ。

 俺が磨いていたのは叡智などではなく、独りよがりの傲慢だったわけだ。

 

 胸の奥がじわり、と痛む。

 

 彼女の気持ちを聞いて、湧き上がってきたのは、彼女への怒りでも、裏切りへの軽蔑でもなかった。

 自分の馬鹿さ加減への「後悔」と「虚無」だった。

 

 あれだけ彼女を想い、慈しんでいたつもりだったのに。

 その実、俺が愛していたのは「俺の隣で微笑む、都合の良い理想のリーネ」でしかなかったのかもしれない。


 俺が急ぎすぎたのか。彼女が立ち止まったのか。

 

 たぶんその両方だ。

 

 二人の歩調が、ほんの数センチだけズレた。

 ただ、それだけのことだったのに。

 

 それを放置したツケが、最悪な形で回ってきたんだ。

 

 賢者の学院に入れたことが嬉しくて。将来のため、二人の生活のためという大義名分を振りかざして。

 

 俺は、一番大事な女の心が悲鳴を上げていることに気づきもせず、自分だけが「正しい努力」をしていると思い込んでいた。

 

 ……俺は、救いようもない馬鹿だった。

 

 リーネのすすり泣く声だけが、月明かりに照らされた寝室に溶けていく。

 俺たちは互いに手を伸ばすこともできず、ただ別々のベッドで、同じ地獄の底を見つめ続けていた。


《アルト。情動反応が急降下しています。

 過剰な後悔に起因する状態異常『自己嫌悪』『虚無』と判定されます。

 推定:先ほどの対話による精神負荷が想定外でした。申し訳ありません。効果予測に誤りがありました。

 ――『緩和処置』を実行しますか?》

(……ははっ。お前でも、間違えることあるんだな)


 喉の奥で、乾いた笑いが漏れる。


(いいさ。何もしなくていい。

 俺みたいな愚者はな、自分の間違いくらい、自分で直視しないといけないんだ)

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