第23話 荒野の夜に
「はいっ! アルト様、私、アルト様と一緒に組みたいです!」
ミリアが、ぱっと花が咲くような笑顔で挙手する。
俺はミリアを見た。
次にリーネを見た。
リーネは、焚き火を見つめたまま、小さく息を吐いていた。
その横顔に、一瞬だけ何かが過ぎる。
…が、すぐに消えた。
(……気づかなかったことにしよう)
《アルト。それは現実逃避です》
(黙れ)
「私、知りたいんです! この間のダンジョンでアルト様が組んでいた、多重精霊魔法の呪文!
あれ、どうやって精霊さんたちを説得してたんですか? あんなに優しくて綺麗な韻の繋ぎ方、私、見たことなくて!」
ぐいっ、とミリアが身を乗り出してくる。
彼女との距離が、不意に縮まる。
思春期の少女特有の、瑞々しくも甘い香りが鼻をくすぐった。
…なんか、罪悪感を感じるレベルだな。
《アルト。個体名ミリアの接近に伴い、心拍数が上昇しています。ストライクゾーン広いですね》
(相手は13歳だぞ?ストライクな訳あるか)
バツイチ、オッさん賢者、13歳少女と二人で夜番。
字面にすると、わりと終わっているな…
「……ミリア。あれはただの並列処理だ。理論を覚えれば、誰でもできる」
「誰でもなんてことないです! アルト様の魔法は、なんていうか……すごく、繊細で。私、もっと色々見てみたいんです。……だめ、ですか?」
そんな顔で覗き込まれると、流石に断りづらい。
彼女の好奇心は、魔法オタク的な熱量に満ちている。そこには下心も、過去への執着も、ドロドロした愛憎もない。
ただ、今の「賢者」としての俺を、純粋に評価しているだけだ。
「……わかった。じゃあ、俺とミリアで一番手を担当しよう」
「やったぁ! ありがとうございます、アルト様!」
ミリアが嬉しそうに笑って、俺の隣で座り直す。
その拍子に、肩がほんの一瞬、俺の腕に触れた。
……少し、近いな。
わざとか?
いや、違うな。この子はそういう計算をするタイプじゃない。警戒感の初期設定値が、たぶん常時「ゼロ」なだけだ。きっと精霊が守ってくれてるんだろうな。
俺はそっと肘の位置をずらす。あくまで自然に。大人の余裕を装って。
正直に言えば、今の俺の心は、だいぶ荒野だ。
乾いて、冷えて、夜になるとやけに寒い。
そこに、この無邪気な明るさ。
精霊の話をするときの、あのきらきらした目。純粋な知的好奇心が、そのまま光になって漏れているみたいな笑顔。
……まるで清涼剤だな。刺激は強くないけど、ただ、じわっと染みる。
…依存性も、たぶんないだろう。
まあ、いいか。
荒野で一杯の水を差し出されて、拒む理由もないだろう。
――飲み干す気はないが。
《アルト。個体名ミリアは年齢13歳です。法的・倫理的リスクを算出しますか?》
(リスクが発生しそうな事を、するつもりはないよ!?)
ふと、視線の端に映った——リーネを観察する。
――そこには、もはや隠しきれないほどの「絶望」が、物理的な質量を伴って漂っていた。
……うわぁ。
思ったよりクリティカル入ってないか、これ。俺は内心でそっと額を押さえる。
イベント処理を誤った自覚は、ある。
《アルト。個体名リーネ、SAN(精神的耐久)値が急速に下降。原因は、個体名ミリアへの『羨望』および『自己嫌悪』の過剰による、状態異常『絶望』と推測されます》
(……解析、ご苦労様。言われなくても、見ればわかるよ)
リーネは痛々しく唇を引き結んでいた。
膝の上で握りしめられた指先は白く、まるで形を失いそうな自分の心を必死に繋ぎ止めているかのようだ。
伏せられた瞳の縁は赤く、今にも大粒の「後悔」が溢れ出しそうになっている。
かつてなら、俺がこの手を取って「大丈夫か?」と声をかけていたんだろう。
だが、今の俺にはその権利がなく、彼女にもそれを望む資格はない。
ただ……もう、泣くなよ。
俺は、リーネの顔を見てそう思ってしまった。
あの夜の寝室の光景、裏切られた記憶は消えない。
離婚届にサインした日の気持ちも、たぶん一生忘れない。
それでも。
こいつが後悔しているのも、こいつが今してる覚悟も、全部、嘘じゃないと分かるくらい、長い付き合いだから厄介だ。
幼馴染だもんなぁ。
「……じゃ、じゃあ。私は、フィオナ様と組むわ。二番手で、いいかしら」
絞り出された声は、ひどく掠れて震えていた。
…いかん、冷静になれ、俺。
俺達は同僚。今はただの同僚。
ぎこちない。妙に礼儀正しい。ただのパーティメンバー。
「ああ、わかった。そうだな。……それじゃあ頼むよ。おやすみ」
俺は、できるだけ温度を排した「デキる同僚」風の声音で返した。
下手に優しくして期待させるほど、俺は器用ではないし、かといって彼女の絶望を笑えるほど、俺は完全に壊れきってもいない。……我ながら、どっちつかずで情けない男だ。
「……うん。おやすみなさい、アルト」
リーネは立ち上がると、フィオナの後を追うようにして、重い足取りでテントへと消えていった。
その背中が、焚き火の光の中でひどく小さく見えたのは、きっと荒野の夜風が俺の視界を揺らしたせいだろう。
(……俺がそう見たいだけかもしれないが)
《アルト。情動値が不安定です》
(黙ってろ)
俺は視線を落とすと、焚き火がぱちりと弾けた。
愛してた。たぶん、今も愛してる。
だがそれと、信頼できるかどうかは別問題だ。
幼馴染だった。
夫婦だった。
今は、ぎこちない同僚だ。
距離の測り方が、いまだにわからない。
「アルト様、見てください! これ、私がいつも使っている魔導触媒なんですけど……」
ミリアが楽しげに鞄をごそごそと探っている。
彼女の屈託のない声が、夜の闇を優しく弾いていく。
その隣で、俺は眼鏡を押し上げ、リーネから思考を外した。
……焚き火が少し小さくなったな。
俺は、適当に木の枝を炎に焚べた。
荒野の風が、焚き火の煙をさらっていく。
暗い空の下で、俺は冷え切った手を火にかざし、ミリアに向き直った。
※
テントの中で、私は毛布を被ったまま、獣のように小さく丸まっていた。
薄い布一枚を隔てた外側から、ミリアの弾んだ声が聞こえてくる。
眩しいくらいに真っ直ぐで、混じりけのない楽しそうな声。
きっと、魔法の話をしているのだろう。
アルトが愛し、彼自身の存在証明でもある、あの深遠で美しい知の領域について。
それに、アルトの低い声が応えている。
何かを教える時の、静かで、わずかに熱を帯びたあの優しい声。
――かつて、あれは私だけのものだった。
焚き火の傍で肩を並べて座り、彼が語る難解な理論を、私は理解もしないまま心地よく聞いていた。
剣の手入れをする私の横顔を、彼はいつも慈しむように見守ってくれていた。
あの時、私たちの間には、確かな「信頼」があった。
けれど、今の私にはアルトと語り合える真っさらな話題なんて、もう何一つ残っていない。
口を開けば、私から出てくるのは謝罪と、言い訳と、泥のように濁った後悔ばかり。
ミリアには、アルトと同じく魔法がある。
彼女には、これからアルトと積み上げていける、汚れのない新しい時間がある。
そして何より……彼女はアルトを裏切っていない。
ミリアには罪が無い。
ミリアが羨ましい。
アルトの隣に「ただの女の子」として、恥じることなく座っていられる彼女の潔白さが、狂おしいほどに妬ましい。
それに引き換え、私はどうだろう。
彼と積み上げた二十年以上の時間を、馬鹿な愚行で汚物に変えてしまった。
今の私とアルトの間にあるのは、修復不可能な傷跡だけ。
私は、私という存在そのものが、アルトの人生を汚す「汚れ」になってしまった。
「リーネ……?」
暗がりの中から、フィオナ様の声が、そっと寄り添うように問いかけてくる。
「……大丈夫です。少し、寒かっただけで。気にしないでください」
震える声で、嘘をついた。
寒いのは、夜風のせいじゃない。
自分の醜さと、愚かさと、二度と手に入らない「潔白」を思い知らされて、心が崩れかけているからだ。
フィオナ様は、何も言わなかった。
ただ、そっと毛布を引き寄せてくれた。
——ああ、この人は優しい。
それが、余計に辛かった。
私には、優しくされる価値なんかないのに。
アルト。
私は、あなたの「剣」になると決めた。
せめて戦いの中でなら、あなたの役に立てると思ったから。
……なのに。
外から聞こえる二人の楽しげな声を、耳を塞いで拒絶したくなる。
こんなにも浅ましくて、汚れた心のまま、私はまだあなたの隣にいようとしている。
アルト、ごめんなさい。
私には、もう貴方の妻に戻る資格は無い。
私は、ただの剣になりきる事もできない。
それでも私は、貴方の世界の一部でありたい。
私は――自分が、これほどまでに醜い人間だという事を、改めて思い知らされた。




