第21話 契約の終わり、旅の始まり
王都の下町。
湿った路地の匂いと、安っぽい洗濯石鹸の香りが混じる、安普請の長屋の前に俺は立っていた。
元廃人の仮住まいとしては、上等だと思う。
魔王討伐パーティの訓練が始まるまで、俺はここでエリスと暮らしていた。
ギィ、と建付けの悪い扉を開ける。
この音を聞くと、妙に「帰ってきた」という気分になるのが癪だ。
「あら? おかえりなさい。まだ訓練期間じゃなかったっけ?」
台所から振り返ったエリスが、いつもの調子で微笑む。
夕飯の支度の最中らしい。
エプロン姿で木べらを持ったまま、軽く化粧をしている。この後、マリアを寝かせて酒場に出るのだろう。
灯りの下の彼女は、相変わらず線が細い。
強く見せようとしているのに、どこか儚い。……困る。
俺は、屋台で買ってきたマリアの好きな串焼きを掲げた。
「今日は休暇をもらえてね。一緒に夕飯を食べようと思って」
「あら、そうなの? ありがとう。マリアが喜ぶわ。入って待ってて」
自然だ。
自然すぎる。
俺がいなくなる可能性を、まだ計算に入れていない顔だ。
あるいは――入れていて、知らないふりをしているのか。
※
三人での夕飯は、いつも通り穏やかで美味しかった。
…相変わらず、焦げた部分の処理は俺の担当だったが。
「アルト、またくるー?」
マリアが、眠そうな目でこちらを見る。
俺は、少しだけ躊躇してから、頭を撫でた。
「……どうだろうな。しばらく忙しくなるから」
「さみしい」
「そうか」
マリアの小さな手が、俺の指を掴む。
温かい。
こんな小さな手が、誰かを信じて掴んでくる。……エリスの気持ちが判るな。
「でもな、マリア。お前のお母さんは、世界一頑張ってるんだぞ」
「うん、しってる」
「だから、お前もお母さんを助けてやれよ」
「うん!」
マリアが、にこりと笑った。
その笑顔を見て、胸の穴がまた、少しだけ軋んだ。
「おやすみ、マリア」
「おやすみー」
※
マリアを寝かしつけたあと、エリスがワイン片手に戻ってくる。
「……それで、どうしたの? 急に酒場を休めなんて言い出して?」
向かいに腰を下ろし、手慣れた動作で自分のグラスに注ぐ。
少しだけ量が多いな。無意識だろう。
俺は息を整えた。
……いかん、緊張してきた。
「今日、正式に魔王討伐パーティメンバーに選定された。二週間後に出立する」
エリスはグラスを口に運んだまま、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
それから、ゆっくりと一口ワインを飲み込み。
「……そう」
と、短い吐息のように返事をした。
「それじゃあ、私はお役ごめんかしら? 賢者の学院との契約は条件がよかったから、残念ね。ありがたかったんだけど」
にっこり笑う。
片頬にエクボ、八重歯が少しだけ覗く。
エリスの完璧な営業用スマイルだな。
だけど、両眉がわずかに下がっている。
彼女が強がるときの癖だ。
一年近くの同居生活で、それくらいは分かるようになっていた。
そして厄介なことに。
その笑顔が、もう他人事ではないと自覚している自分がいる。
感情を削って、廃人半歩手前まで行った男の癖に、大事な人くらいはできるらしい。
《チョロすぎです。アルト》
(お前……もう少し空気読めよ、アビス)
《事実の指摘です》
……ぐうの音も出ないのが腹立たしい。
俺は懐から重い革袋を取り出し、テーブルに置いた。金貨同士が擦れ合う、品のない音が部屋に響く。
「これは?」
「魔王討伐パーティメンバーへの準備金だ。それなりに入っている」
エリスが怪訝そうに袋を見る。
俺は視線を逸らし、窓の外の濁った夜空を眺めた。
まともに目を見ると、たぶん言い訳が増える。我ながら、ヘタレ過ぎる。
「世話になった礼だ。エリス。これで足りるだろ?こいつでお前の借金を返してくれ」
「……あんた、何言って――」
「借金が無ければ」
遮る。冷静に。事務的に。
「借金が無ければ、もう俺みたいな“訳あり物件”に身を売る必要はないだろ。
マリアを連れて、自分の店でも持てよ。お前、料理は焦がすけど味は悪くない」
沈黙が落ちる。
エリスは、しばらく革袋を見つめていた。
その視線は、金貨の重さを量っているというより――俺の言葉の意味を、噛み砕こうとしているように見えた。
「……あんたさ」
低い声だった。
さっきまでの営業用の笑顔は、もうどこにもない。
「それ、どういうつもりで渡してるの?」
「どうって……世話になった礼と、これからの――」
「礼?」
遮られた。
ぴしゃり、という音が似合う声だった。
エリスは俯いたまま、革袋の口をきつく握る。
細い指が震えている。怒っているのか、泣きそうなのか、一瞬わからなかった。
「助かるわよ。そりゃ助かる。借金が消えたら、どれだけ楽になるかくらい、私が一番わかってる」
「……ああ」
「マリアに、もっとまともな暮らしをさせてあげられる。夜の仕事だって減らせる。こんなの、ありがたいに決まってる」
そこまで言って、彼女は顔を上げた。
目が、少し赤い。
「でもさ、だから悔しいのよ」
胸の奥で、何かが止まった気がした。
「助かるって分かるから、受け取るしかないのが悔しいの。ありがとうって言わなきゃいけないくらい、今の私は追い詰められてる。そんなの、悔しいに決まってるでしょ」
……そうだ。
分かっていたはずなのに。
俺はたぶん、“救う側”みたいな顔をしてしまっていた。
「エリス、俺は別に――」
「それに」
また遮られる。
今度は、声が少しだけ掠れていた。
「あんた、勝手に区切ろうとしてるでしょ」
図星だった。
「これ渡して、礼を言って、綺麗に終わらせて。はい、おしまいって。そういう顔してる」
「……」
「ふざけんじゃないわよ」
怒鳴ったわけじゃない。
でも、その一言は怒鳴り声より痛かった。
「何よ、それ。あんた、勝手に死ぬかもしれない場所に行くって決めて、勝手に金だけ置いて、勝手に“これで安心だろ”って顔して。こっちの気持ちはどうでもいいの?」
革袋を握りしめる指先に、力がこもる。
「私はね、助かるの。ものすごく助かる。感謝もする。……でも、それとこれとは別なの」
「……ああ」
「勝手に区切るな」
その言葉は、泣く寸前の声で、なのに妙に真っ直ぐだった。
「終わり方くらい、私にも選ばせなさいよ。あんたに助けられて、はい綺麗にサヨナラなんて、そんな都合よく割り切れるわけないでしょ」
胸が痛い。
たぶん、正しく痛い。
俺は視線を逸らしたまま、ゆっくり息を吐く。
「……悪い」
それしか出てこなかった。
「うん。最低」
即答だった。
だが、そのあとエリスは少しだけ笑った。泣きそうな顔のままで。
「でも、そういう不器用なとこ込みで、あんたなんでしょうね」
ぽつり、と。
今度は彼女の涙が、革袋の上に落ちた。
「……ありがと」
掠れた声だった。
「悔しいけど、ありがたい。腹立つけど、救われる。だから受け取る」
彼女は涙を拭い、俺を見た。
「でも勘違いしないで。これは手切れ金じゃないから」
「……手厳しいな」
「当たり前でしょ」
鼻を鳴らしてから、エリスは少しだけ口元を歪めた。
「これは、あんたがちゃんと生きて帰ってきて、私とマリアが立て直した生活を見に来るための見物料。勝手に美談にして終わらせたら、承知しないから」
エリスの湿った声が、部屋の中に滲む。
「あんたの言った通りにしてやるわよ。借金返して、新しいお店でも初めて……マリアと世界一幸せな親子になってやる」
泣き笑いの顔。
エクボが歪んで、八重歯が震えている。
俺は、ただ頷いた。
胸の穴は、相変わらず空いたままだ。
だが今そこに、何か流れ込んでいる。
温かくて、少しだけ苦しい何かだ。
たぶん、これは。
……まぁ、いいか…
「今晩はもう少し付き合ってよ。もう最後なんでしょ?」
俺のグラスにワインを注ぎながら、エリスが笑った。
今の彼女の眉は下がっていない。いつも見ていた笑顔だった。
※
俺とエリスは、長いこと話した。
別れ話のはずなのに、なぜか思い出話に脱線するあたり、俺たちらしい。
未練がましいのは自覚している。だが今さら格好はつけない。
「最初あんたが来たときさ。幽霊かと思ったわよ」
エリスがワインを揺らしながら笑う。
否定できないな…
あの頃の俺は、食事も会話も指示待ちで、ただの置物だった。
「だから、こんなの世話しなきゃならないのかって、あんたの師匠からの契約金に、介護料を上乗せしてもらってたの」
「……は?」
さらっと爆弾を投げるな。
「だって割に合わなかったもの。夜中に急に起きて壁見つめてるし、話しかけても三秒遅れだし」
《事実です》
(そっとしといてくれ…アビス。俺のHPはもうゼロだよ……)
知らなかった。いや、考えれば分かることだ。
俺は“療養”という名目で転がり込んだが、まともな生活機能は停止していた。
それでも彼女は、俺を追い出さなかった。
「マリアが熱出したとき、覚えてる?」
ああ、と頷く。
あの日だけは、身体が勝手に動いた。
山に入って薬草を採って、解熱剤を煎じた。手順は正確だった。感情は伴っていなかったが。
「その時ね、ああ、あんた、生きてるんだって思ったの」
エリスが、少しだけ目を伏せる。
——初めて人間に見えた、と。
あの時の俺は、ただ“やるべきこと”をやっただけだ。
だが彼女にとっては、違ったたらしい。
大したものだ。
俺は自分が壊れていると思っていたが、彼女はそれでも、俺自身を見ていた。
話題は、自然と魔王討伐の話に移っていた。
「……で? その元嫁と間男が同じパーティって、本気で言ってる?」
「ああ。世界が狭いのか、俺の運が底値更新中なのか。どっちにしろ笑うしかないよな」
自分で言って、ちょっと乾いた笑いが漏れる。
エリスは本気で怒った。
「信じられない! 何それ、嫌がらせ? 王国ってそんなに人材不足なの?」
「優秀な人材ほど因縁持ちなんだろ。ドラマ性重視だ」
「いらないわよそんな演出!」
俺の代わりに怒ってくれる人間がいる。
それが、こんなに眩しいとは思わなかった。
「やめときなさいよ、そんな修羅場確定パーティ」
「辞退できる立場ならな。それに、そのおかげでお前の借金が返せる」
「えっ、それじゃあ、あのお金は……」
「迷惑料込みだと思う。精神的慰謝料の前払い」
自嘲気味に笑う。
エリスは少しだけ考えて、それから肩を竦めた。
「……そっかぁ。じゃあしょうがないか。私とマリアの為に、修羅場ってきてね」
「ひでぇ」
顔を見合わせて、笑う。
妙に軽い笑いだった。
重い話を誤魔化すための、最後の共犯みたいな笑い。
笑いが途切れると、沈黙が落ちる。
視線が合う。
離れ難い――
その言葉を、どちらも口にしないだけだ。
この部屋を出れば、俺は魔王討伐へ向かう。
彼女はマリアと生きていく。
交わらない未来だ。
醒めた頭では、理解している。
「……ほんと、行くのね」
その声は、強がりを半分も含んでいなかった。
「……あぁ、そろそろ行くよ」
立ち上がる。交わらないと理解しているのに、足が少しだけ重くなる。
玄関へ向かう途中。
「アルト」
呼ばれて振り向いた瞬間、エリスが両手で俺の顔を引き寄せた。
唇が重なる。
短くない。
かといって、未来を約束する長さでもない。
互いに確かめるみたいに、少しだけ強く。
離れたあと、エリスが笑う。
「契約終了のサービスね。業務外だけど、オマケ」
「高いオプションだな」
声が、少し掠れた。
「今まで、本当にありがとう、エリス」
彼女はいつもの笑顔を作る。
エクボと八重歯。完璧な営業スマイル。
でも、目が少し赤い。
「私のこと、忘れないでね」
「忘れられるほど器用じゃない」
一生、とは言わない。言えば、帰ってくる理由にしてしまいそうだから。
二歩下がる。
距離ができる。
「じゃあな。マリアと仲良くやれよ。いい男でも、見つけろ」
「言ったでしょ? 男はもうこりごりなの。あんたが最後でいいわ」
軽口の形をしているのに、中身はずいぶん重い。
それじゃあ、と踵を返す。
背中に視線を感じる。
振り返れば、たぶん決心が鈍る。
「アルト! 生きて帰ってきなさいよ!」
強い声。
命令形。
ああ、エリスは最後まで強いふりをするなぁ。
俺は振り返らず、片手を上げた。
胸の穴は、相変わらず空いたままだ。
けれど今は。
少しだけ温かい何かで、少しだけ埋まった気がした。
俺は歩き始めた。
前へ。
魔王討伐へ向かうために。
勇者。戦士。聖女。精霊使い。
共に行く面々の顔を、順に思い浮かべる。
最後に、ひとり。
一度、手放したはずの名前が、胸の奥で静かに軋んだ。




