第14話 野生の恋愛ボスが現れた!
石畳に這いつくばり、指先だけで全身を支える筋力トレーニングに没頭していると、鈴を転がすような、けれど少しだけ意外そうに弾んだ声が、上から降ってきた。
「……あれ? アルトさん?」
顔を上げると、視界の隅に場違いな色が混じった。
淡い亜麻色の髪が、朝焼けの光を反射して、輝いている。
そこには聖女フィオナが立っていた。
彼女はいつもの仰々しい法衣ではなく、身体のラインが露骨に出る機能的な訓練着に身を包んでいた。
豊満、という言葉ではいささか足りない。「女神の加護」による実りの結果なのか、それとも重力という概念への挑戦か。
彼女が軽く動くたびに、その暴力的なまでに豊かな双丘が、訓練着の布地を内側から引き裂かんばかりの勢いで揺れる。
「フィオナ様?……こんな時間に、何のご用で?」
「様はやめてくださいって言ったじゃないですか。
私も日課なんです。回復職だからこそ、前線で倒れないための体力作りは大事なんですよ。
それに……朝の静かな時間、好きなんです」
彼女はそう言うと、当然のように俺の隣で屈み込んだ。
その瞬間、石鹸の香りと、彼女の肢体が放つ体温がこちらに伝わってくる。
「アルトさん、身体が硬いですね。そのままじゃ魔力回路の効率も落ちますよ。……ほら、先にストレッチしましょうよ」
「いや、結構。俺は一人で――」
「はい、深呼吸して。力を抜いてくださいね?」
拒否権はなかった。
彼女の柔らかな手が俺の背中に触れ、ぐいっと圧をかけてくる。
イヤ、ちょっと距離近くない?
彼女が動くたびに、「バルン」とか「ポヨン」という擬音が聞こえてきそうなんだが!
聖女の癖に、なんて冒涜的な体つきをしていやがるんだ。
けしからん。
「ほら、アルトさん、顔が赤くなってますよ? やっぱり固いですね。痛いですか?」
「……いや、これは多分違う理由で…」
《アルト。性的刺激による心拍数の上昇と、局所への血流の増加を検知。このままだと、ぼっ(煩い、黙れ。さっさと沈静をかけろ)
《了解。沈静プロトコルを実行します》
…ふう。危なかった。
賢者モードに移行した俺は、フィオナに合わせてストレッチを続ける…が、やっぱり体が固いな。
フィオナは「全くもう」と苦笑すると、おもむろに祈りの言葉を口にした。
「『聖なる息吹は活力と共に』」
淡い光が俺の全身を包み込む。
その瞬間、筋肉の強張りがスッと消え、疲労が洗い流されていくのが分かった。
《アルト。個体名フィオナの加護による疲労回復効率の向上を確認。フィオナと合同で行う事で、訓練効率が通常比で18%上昇する計算になります》
……色々とお得すぎる。女神かな?
※
ストレッチの後、そのまま一緒に走り始める。
だが、彼女の組んだメニューは、俺の予想を遥かに超えていた。
「次は階段ダッシュ、その後に持久系サーキットを三セット。いいですか?」
(……ヒーラーのくせに、普通にキツいメニュー組んでくるんだが)
俺の内心の愚痴など露知らず、フィオナは「ほらほら、遅れてますよ!」と軽快に石段を駆け上がっていく。
先行する彼女が階段を蹴るたびに、「プリン」とか「ムチっ」という音が聞こえるのは、最早、幻聴ではないだろう。
それ程に、その肢体は蠱惑的に揺れている。
聖女のくせに、なんて毒々しいほどに健康的な体つきをしていやがるんだ。
けしからん。
(アビス、視覚情報のフィルタリングを頼む。気が散ってしょうがない)
《了解。個体名フィオナの胸部と臀部に、モザイク処理をかけます》
アビスのサポートがなければ、自力で賢者モードを維持できない。我ながら情けない話だ。
だが、俺の葛藤とは裏腹に、彼女の存在は驚くほど合理的だった。
「はい、呼吸は二回吸って二回吐いて、もう少し頑張りましょう。『聖なる息吹は活力と共に』」
走りながら彼女が唱える低位の回復魔法が、俺の筋繊維に溜まった乳酸をリアルタイムで分解していく。
《アルト。個体名フィオナのフォローにより筋組織の超回復プロセスが加速しています》
(……いや、ありがたい。大変助かる…のだが…)
横でスクワットしたり、プランクしてるフィオナから、「んぅ」とか「いぎっ」とか、艶めかしい吐息が溢れる。
この人、わざとやってないか⁉︎
(アビス。すまんが、ノイズキャンセラーも頼む)
《了解。個体名フィオナの嬌声に、ノイズキャンセルを実行します》
(嬌声じゃねぇ!掛け声だよ。変な表現すんな!)
俺の視神経と聴神経が悲鳴を上げているが、その一方で身体はかつてないほどの軽さを手に入れていた。
「どうです? 一人でやるより、ずっといいでしょう?」
フィオナがタオルで俺の額の汗を拭い、いたずらっぽく笑った。
「はい。ちゃんと水分も取ってくださいね?」
そのまま自然な動作で、水筒を差し出してくる。
……待て待て待て。
近い。距離が近い。あと善意が眩しい。
俺は可能な限り、虚無の目と人形じみた賢者スマイルで応じた。
「はは……そうですね」
(助かる。効率がいい。理に適っている。それ以上でも以下でもない)
必死に自分へ言い聞かせる。
これは介護だ。回復職による合理的サポートだ。決して恋愛イベントではない。
フィオナは俺の内心など露ほども知らず、屈託なく微笑みながら自分も一口飲み、
「朝は脱水になりやすいですから。アルトさん、ちゃんと飲まないと駄目ですよ?」
と、またぐいっと水筒を押し付けてくる。
……ぐいぐい来るな、この聖女。
やめろ。好きになってしまう。
(いかんいかん、落ち着け俺。
我、バツイチぞ。サレ夫だぞ。当分、恋愛はこりごりだったはずだろう)
《警告。現在のアルトの賢者モード安定度は31%まで低下しています。男子中学生レベルです》
(何その比較対象!?)
《NTRクソ雑魚ナメクジの癖に、チョロすぎです。アルト》
(お前、さすがに酷くない⁉︎ やかましいわ、アビス!聖女が強すぎるんだよ……)
善意100%の笑顔でにこにこしているフィオナを横目に、俺は歯を食いしばって賢者モードを維持した……くそ。魔王攻略より難易度高くないか、これ。
※
訓練の締めに軽くストレッチを終え、俺は息を整えながらフィオナに向き直った。
「……今日はありがとう。一緒にやってくれて助かった」
素直に言うと、彼女はぱっと表情を明るくする。
「いえいえ! こちらこそです。アルトさん、色々と大変そうなんで、放っておけなくて」
……いい子すぎる。聖女かよ。あ、聖女だったな。俺は誤魔化すように目を逸らして、頭を掻く。
「ただ、一つだけ言っておくと……さっきから、ちょっと距離が近い。俺も一応、男だからな」
俺の言葉を聞いた瞬間、フィオナはぴたりと動きを止めた。
それから一拍遅れて、みるみるうちに肩がしゅんと落ちていく。
「……え?。そ、そうですよね……すみません。ご迷惑でしたよね……」
「しょんぼり」という擬音が、そのまま形になったみたいな表情になる。
これは、マズい。
俺は思わず慌てて両手を振った。
「いやいや、違う違う。迷惑ってわけじゃなくて。
どっちかと言えば……嬉しい。嬉しいんだが、その……フィオナが魅力的すぎて、俺の方が勘違いしそうになるだけだ」
「ふぇ?」
フィオナは、らしからぬ間の抜けた声を漏らした。次の瞬間、彼女の頬がみるみる赤く染まり、視線があちこち彷徨い始める。
「み、魅力的なんて……そ、そんなつもりでは……」
俺はわずかに表情を緩め、苦笑を滲ませながら続きを口にした。
「分かってる。善意100%だろ。
ただな、フィオナはもう少し自分の魅力を自覚した方がいい。割と本気で危ない」
「……申し訳ありません」
フィオナは小さく頭を下げてから、ぽつりと言った。
「アルトさん。私……男性と、こんなふうに一緒に話したこと、ほとんどなくて」
フィオナは指先を胸の前で絡めながら、小さく視線を伏せた。
「え。初めてって、まさか」
思わず素で聞き返すと、彼女はこくりと頷く。
「いえ、本当なんです。
任務や祈祷でご一緒することはありましたけど……こうして一緒にエクササイズしたり、雑談したりするのは……」
そこまで言って、フィオナは言葉を探すように視線を落とした。指先が水筒の縁をなぞる。……いちいち、エッチだなこの人。
「昔から、男性と少し話すだけで……その……皆さん、様子がおかしくなってしまって……」
※
……あー。
俺は天を仰いだ。
なるほど。把握。完全理解。
要するにこの人、自覚ゼロの対男性特効ボスだ。
今のこの状況。
彼女にとっては「普通の会話」でも、男側から見れば「好感度イベント発生中」ってやつだ。
そりゃ、相手も挙動不審になる。
そして今、例外なく俺もその“皆さん”の仲間入りをしている。
(……楽だな)
ふと、思った。
フィオナと一緒にいると、何も考えなくていい。
裏切りも、疑念も、過去も。
ただ、今この瞬間だけを生きていられる。
——それが、どれほど救いになるか。
(……ダメだ、これは。俺逃げてる)
……ははっ
思わず、乾いた笑いが漏れた。
アビス(悪魔)の力でも借りなけりゃ、フィオナ(聖女)とは戦えないって訳だ。
《警告。個体名フィオナの魅了攻撃により、アルトの精神防壁は現在58%まで低下しています》
(下がってる自覚はあるよ)
《その結果、個体名フィオナに対する性的生理反応、および情動揺らぎが同時発生中です》
(もう少し、言い方があるだろ?!)
《恋愛感情抑制プロトコルを強制実行しますか? 副作用として幸福感の減衰が想定されます》
……そこまでしたくはないな…
俺は小さく息を吐いた。
※
「だから、その……ちょっと嬉しくて。つい距離感を間違えてしまいました。ごめんなさい」
フィオナは、頬を赤くしたまま、困ったように笑った。
俺は小さく息を吐いた。
「まあ……これからは、ほどほどにな。俺の精神衛生のためにも」
「は、はい。気をつけます」
フィオナは素直に頷いた。
……いい子だなー。
元嫁に浮気され、悪魔と契約し。
そのうえ今は、パーティ仲間の間男勇者と、無自覚聖女に精神を削られている。
……辛い。
《報告。アルトの精神は常時”多重デバフ状態”です。一般的な成人男性なら既に三回ほど心が折れています》
だろうな。
世界を救う前に、自分のメンタルを救う必要があるらしい。
色々と、無理ゲー過ぎて笑う。




