第2話 備忘録
「お金なら、いくらでも払います」
少しの沈黙の後、ルーカスは声を張り上げた。その瞳に迷いは無い。嘘もない。
……だが、それがなんだと言うのだ。
ゼラは思わず、小さく息を吐いた。
「……金、か。やはり人間は、どこまでも愚かな生き物だ。何百年経っても、同じ場所で足踏みをしている」
「……魔法は、お金で買えるのではないのですか?」
その問いに、ゼラは答えなかった。代わりに、静かに椅子から立ち上がり、本棚の奥へ手を伸ばす。
革張りの分厚い一冊。それをルーカスの胸元に突き出した。
「……これは?」
「私の“魔法の対価備忘録”だ」
続けてゼラは言う。
「これまで私が使ってきた魔法。そして……そのたびに徴収した対価が、すべて記されている」
ルーカスの喉が、ごくりとなった。震える指先は、ページをめくっていく。紙のすれる音が、静かな部屋に響いた。それを横目に、ゼラは冷めきった紅茶を口に含む。
ーー青年よ。お前はそれを読んでもなお、魔法を求めるのか。お前は受け止めきれるのか。奇跡と呼ばれるものが、どれほど醜く、残酷な代物なのかを。
ゼラは、何も言わなかった。
ーーー
最初の数ページは、静かだった。ルーカスの視線が、文字を追う。その表情は、次第に安堵へと変わっていった。
「……小指の爪、髪の毛数本……」
小さく呟く声。
「……思っていたより、普通ですね」
ゼラは答えない。数ページ先、ルーカスの指が止まった。
「……記憶、?」
声の調子が、わずかに揺れた。ルーカスの目元が、僅かに歪んでいる。
「母親の声の記憶……恋人の笑顔……」
ルーカスは、震える指先でページをめくる。
その瞬間だった。ルーカスの呼吸が、止まった。
「……存在、を……」
震える指先が、ゆっくりと文字を追う。
【記録:第三十二例】
依頼人:アデリー
魔法:「オレファン」(生命因子)
効果:寿命延長(二十年)
対価:息子の存在
【備考】
依頼主の息子は世界から消えた。依頼主の記憶からも息子の存在は消去されたが、理由の分からない喪失感が生涯残った。
「……そんな……」
喉が鳴る音が、やけに大きく響いた。ゼラは椅子にもたれながら、淡々と告げる。
「奪われるのは、物だけではない」
「記憶、感情、未来、関係、存在……人が“人である証”そのものだ」
ルーカスは、何も言わず、ただ沈黙が続く。
「……もういい」
ゼラは本を閉じ、指で表紙を叩いた。
「これを読んでもなお、お前は私に縋るのか」
ルーカスは、震える唇を噛み締めて、本から目を離さない。
「……なぜ弟の記憶にこだわる。私に頼む理由はなんだ。言え」
ルーカスは一瞬、視線を泳がせた。
「弟を、探しています」
ゼラは首を傾げる。
「……では、なぜ記憶なのだ。そもそも、王国の魔法使いに頼めばいいものを」
「……頼みました。でも、王国の魔法使いたちはできないと」
「そうだろうな」
ゼラの言葉に、ルーカスは顔を上げた。
「奴らが扱えるのは形あるものだけだ。
人の記憶、感情、寿命……そういった概念そのものに干渉するのは高度魔法に値する。それを扱えるのは、私だけだ」
ルーカスの手は震えている。
「お前、そのことを知ってここに来たな?」
ルーカスの指が、膝の上で強く握られる。部屋の中で、時計の針だけがやけに大きく鳴った。
「……その通りです。貴方なら、『集いの家の魔女』ならできると噂を聞きつけたんです」
ーーこの青年、何かを隠しているな。
ゼラは確信し、ルーカスに畳み掛けた。
「お前はなぜ、記憶を求める。弟を探して欲しいと頼まない理由はなんだ」
「本当は探したくないのではないか?」
「弟に会うことは、自分にとって不都合なのか?」
「お前は弟を、憎んでいるのか」
「ちがう!」
ルーカスはゼラの言葉を遮った。
「……違います」
ようやく、掠れた声が落ちた。
「探しているんじゃない」
彼は顔を伏せたまま、続ける。
「俺は……忘れてしまったんです」
ゼラは眉をひそめた。
「弟が消えた日のことを。
何があったのか……俺だけが、思い出せない」
日が傾き、冷気が家を包み込んだ。
「でも、夢は見るんです」
ルーカスの喉が、ひくりと動いた。
「血の匂い。叫び声。落ちていくような感覚だけが残っている」
「……記憶を失ったのではないな」
ルーカスの肩が、ぴくりと跳ねた。
「お前は、捨てたのだ。自分自身で」
ルーカスはゼラに鋭い目付きをよこした。
ゼラは動じない。
やがてルーカスは、ゆっくりと本に視線をうつす。その瞳には、恐怖と、覚悟が混ざっていた。
「……魔法は、対価を喰らって奇跡を与える」
震えながらも、言った。
「真実が地獄でも、知りたい」
「弟を、忘れたまま生きる方が……俺には、耐えられない」
ゼラは、ルーカスの手元の本を見た。
「……愚かだな、人間は」
青年の願いを聞いたゼラが、静かに彼を見る。
その瞬間、金色の瞳の奥で――何かが変わった。
魔女は、ゆっくりと告げる。
「ちなみに言っておく」
「弟の記憶の対価は、この備忘録の中でも」
「最も“重い部類”に入る」
日は完全に沈み、光はガラスの照明にのみあった。




