第11話 ミラーナ
「対価は────七日間のお前の涙だ」
少女は、ぱちりと瞬きをする。
「……なみだ?」
「七日間、感情がどうあれ涙が出ない」
「それだけ?」
「それ以上もそれ以下もない」
ゼラのきっぱりとした態度に、ミラーナは困惑した。想像していたものとは違う、奇妙な対価。混乱しているのは、ルーカスも同じだった。
「嫌なら契約はなしだ。出ていけ」
「する!契約する!!」
少女は身を乗り出し、席を離れようとするゼラを引き止めた。ゼラはテーブルに立てかけていた杖を取ると、玄関へ向かう。
「来い」
ゼラの一言に、ミラーナはおずおずと魔女の後を追う。
ーーー
扉を開けると、暴風と雨しぶきが一斉に入り込んできた。身体を煽られるほどの風の中を、ゼラは構わず歩いていく。振り返り、早くしろと言わんばかりにミラーナを睨んだ。少女は一瞬、躊躇う。
「七日間の涙」。たったそれだけのはずなのに、一歩踏み出せばもう戻れないような気がした。理由の分からない不安が、足枷のように彼女の足を重くする。
「……やめるなら、今だよ」
震える少女に、ルーカスが呼びかけた。振り向くと、寂しそうな笑みを浮かべている。ルーカスは、それ以上、何も言わなかった。
ミラーナは、魔女を見る。金色の瞳は、見定めるように光っている。少女は、緑の大地へ足を踏み出した。
その背中を、ルーカスはただ見つめている。
曇天のせいで、太陽の位置すら把握できない。湖を取り囲む木々は大きく揺れていた。激しい雨で、ゼラの輪郭がぼやけている。
その姿を、ミラーナは追い続けた。ゼラは、広大な庭の真ん中で立ち止まり、重く濁った空を見上げた。紺のローブは雨に濡れ、藍錆色になっている。ミラーナは、水が滴る黒髪をかきあげ、ゼラの横に立った。
「本当に、できるの」
か細い声が雨の音で打ち消される。それは、威勢のいい依頼人ではなく、未熟な少女の声だった。ゼラは曇天を眺めたまま言い切る。
「できる」
その言葉は推測ではなく、断定だった。ゼラは、ミラーナを見る。彼女の目元は濡れていた。雨のせいなのか、涙なのかは分からない。
「覚悟は決まったか」
ゼラの問いに、少女は迷うことなく答えた。
「私の七日間の涙、全部あげる」
「──契約成立だ。願いには、それ相応の対価を。」
ゼラは空へ視線を戻した。魔女は、杖を掲げる。杖に付けられた月の装飾が金属音を奏でた。空を見渡す金色の瞳には、何かが見えている。
ゼラは小さく息を吐き、唱えた。
「『風の因子、水の因子よ。我の言葉に跪け』」
激しい雨が、二人を打ち付ける。
「『マゲン・バヒル』」
ゼラとミラーナの足元に光の魔法陣が広がる。白く光っていた曲線は、やがて深緑の円へ変わっていった。
「……痛っ」
ミラーナの目元に針を刺されたような痛みが走った。思わず手で目を覆う。その瞬間、手の隙間から、光の粒が流れ落ちた。手元をつたい、雫のような光は魔法陣へ消えていく。魔女は、雲をなぞるように杖を動かした。
「……見つけた」
その言葉と同時に、ゼラは金色の瞳を大きく見開く。魔法陣から杖に流れた魔力が、一気に空へ放たれた。
打ち上げられた魔法は、光の矢のように雨雲へ突き刺さり、雲を引き裂く。次の瞬間、吹き荒れていた風が止んだ。不自然なほど、突然に。
瞬きをする間もなく、森に太陽の光が差した。
湖面が太陽の光を反射して輝いている。ミラーナが空を見上げる。優しい日差しと風が、ずぶ濡れの少女と魔女を包んだ。青く澄んだ空は、森を超え、どこまでも続いている。ミラーナは、思わず口にする。
「────本当に、晴れた」
雨が止んだ今、彼女の頬を流れるものはない。
ーーー
「天気、本当に明日まで持つんでしょうね」
「今すぐ雨を降らせてもいいんだぞ」
びしょ濡れの二人は、またしても睨み合った。晴れた庭へ出たルーカスは、その様子に苦笑いをするしかない。
「……でも、感謝はしてる」
少女は、少しの笑みを浮かべていた。
「ありがと、魔女さん」
そう一言だけ残し、少女は森へ歩いていく。その足どりは軽かった。ゼラは、見送ることなく家へ戻る。その後を、ルーカスが追った。
「この天気、明日まで本当に持つんですか」
「持つ」
「ゼラさん、天候魔法まで操れるんですね」
「お前も見てたでしょ」
「ゼラさん」
「……質問は三つまでって、」
ルーカスが、ゼラの進路を塞ぐ。ゼラはルーカスを見上げ、目を一瞬見開いた。
「ゼラさん」
「対価の基準って……なんですか?」
その瞳は、晴れた空とは反対に、ひどく濁っていた。青年が言いたいことは、なんとなく分かっていた。
「言ったはずだ。願いに大小はない。それは、対価も同じだ」
「でもっ、」
「人の悲しみを、お前の基準に当てはめるな」
ルーカスは、言いかけた言葉を飲み込んだ。その言葉は、腹の中で黒い渦を巻いている。ゼラは構うことなく、ルーカスを追い越した。
優しい日差しに照らされた青年は、固く拳を握るしかなかった。
ーーー
「……晴れてる」
次の日の朝、ミラーナは窓を開けて空を見渡す。雲ひとつない快晴。「あの魔女、やるじゃない」と独り言を呟いた。
「ミラー!」
視線を落とすと、家の前で手を振っている少女がいた。
「ハンナ!ちょっと待ってて、今行く!」
階段を駆け下りたミラーナは、両親の呼びかけにも気づかず玄関へ向かった。
ドアを開けた先には、唯一の友人が待っていた。
「おはよう、ミラ!」
「おはよ、ハンナ。早く行こ!」
ミラーナはハンナの手を引く。輝く笑顔が、青空によく映えた。
ーーー
「うわあ、今年はお店がいっぱいだね」
「久々に晴れたんだもん。みんな気合い入ってるんだよ」
祭り会場へ着いた二人は、様々な屋台が並ぶ道に目を輝かせた。飴菓子に、串焼き、フルーツ。二人にとって、それは夢のような光景だった。屋台を抜けた先には、ベールを被った女性たちが舞を披露し、演奏や拍手が聞こえてくる。
二人は早速、屋台で好きなものを買った。ミラーナの手には飴細工、ハンナの手には羊肉の串焼きが握られていた。
「それにしても、よく晴れたよね。ここ数年は中止か、良くても雨がずっと降ってたのに」
ハンナの言葉に、ミラーナの肩が跳ねた。
「ま、まあ……運が良かったんだよ!私たち」
「あっちにも美味しそうなのあるよ」とミラーナはハンナの手を再び引く。小さな頃と何も変わらない。こうして二人はこの村で育った。
ーーー
「……きれいだね」
いつの間にか、太陽の光がオレンジ色に見え始めていた。祭りも終わりへと近づき、春の訪れを祝う舞も大詰めにさしかかった。焚き火の周りで舞う女性たちに、子どもたちが混ざっていく。
春とともに、村の繁栄を願う舞だった。
「懐かしいね、ミラ。私たちもあの舞、踊ったよね」
舞を眺めながら、ハンナは語りかけた。ミラーナは、無言で頷き、記憶をたどる。
「ミラ、転んで泣いてたよね」
「泣いてない!ハンナだって、踊りが分からなくなって泣きそうになってたじゃない」
「そうだっけ?……たしか、その時に目が合ったのがミラで、」
「顔見合わせて、なんか笑っちゃったんだよね」
二人は顔を見合わせる。お互い吹き出して笑った。
ーー来年も、こうだったらいいのに。
ミラーナの言葉は、喉の奥につっかえていた。
ーーー
太陽が地の果てへ帰り、祭りは終了し、焚き火が消された。村人たちが家へ帰る中、二人の少女は祭りの跡に残り、座って星を眺めていた。快晴だった空に、小さな雲が流れ始めている。
「今日、晴れてよかったね」
ハンナは、静かに笑った。その笑みには、寂しさが滲み出ている。
「……ねえ、本当に行っちゃうの」
「ハンナがいなくなったら私、ひとりだよ」
ミラーナの少し震えた声。強気で意地っ張りな彼女の、いつもは見せない姿。ハンナの気持ちが溢れ出す。
「ごめんね、ミラ」
先程の笑みは消え、ハンナの頬に涙が流れた。
ミラーナは、涙が出なかった。
友の涙に応えられないミラーナの心は、溢れる悲しみを吐き出すことすらできない。
言うつもりのなかった事実が、思わず口からこぼれ出す。
「私、森の魔女にお願いしたの」
「……森の魔女って、あの大魔法士の?」
「うん。……それで、契約したの」
ハンナの瞳が揺れた。
「私の七日間の涙を対価に、絶対、晴れにしてくれって」
ミラーナは、膝に顔をうずめた。「祭りは毎年あるんだから」「いつかまた会えるよ」そんな両親や村人たちの声が頭に響く。
耐えられない。
「そんなことのために」。ハンナに言われたら、どうしよう。彼女の頭を何度も反復する恐ろしい言葉でさえ、涙を出させてはくれなかった。
沈黙を破ったのは、ハンナだった。
「寂しいね、ミラ」
ミラーナは、ゆっくりと顔をあげる。涙で濡れた目元を隠すことなく、ハンナは笑っていた。
「さ、びしい」
喉につかえていた言葉が、ミラーナから溢れ出す。
「さびしいよ、ハンナ」
「うん」
ハンナは、ミラーナの肩を抱き寄せた。
「引っ越すなんてやだよ」
「うん」
ミラーナの震える指先が、ハンナの背中に触れた。
「もう会えないのに、悲しいのに」
二人は、強く抱き合った。
「泣けなくて、ごめんね」
どんなに顔が歪もうと、声が震えようと、ミラーナは泣けなかった。ハンナは、ミラーナを強く抱き締めた。嬉しいことがあったとき、悲しいことがあったとき、喧嘩して仲直りしたとき、いつもこうして分かち合った。
ハンナは、流れ落ちる涙を拭い、ミラーナに告げる。
「ミラ、お祭りは毎年ある」
ハンナの言葉に、ミラーナは固く瞳を閉じた。
「お祭りが毎年続くように、私たちの関係も続いていくんだよ」
ミラーナの瞳が開いた時、ハンナは彼女と顔を見合わせた。
「私たちは、ずっと親友なんだよ」
ハンナの優しい笑顔。ずっと隣で見てきた笑顔。これからも、見れるかもしれない笑顔。
ミラーナは、ハンナを抱きしめた。強く、強く抱きしめた。ハンナはそれに応え、ミラーナの頭を撫でる。
涙の代わりに、ずっと言いたかった言葉がこぼれ落ちた。
「ずっと大好きだよ、ハンナ」
「私もずっと大好きだよ、ミラ」
ーーー
集いの家に、再び雨が打ち付けている。魔女は、暗い湖に波紋が広がる様子を、自室の窓から眺めていた。窓から書案へ視線を移す。備忘録の白いページが待っている。
ゼラは椅子に腰掛けた。魔力を使いすぎたのか、身体が鉛のように重い。
ーーさすがに、あの対価では足りなかったか。
眉間を抑え、小さくため息をつく。そして、ガラスペンで文字を綴り始めた。
【記録:第五十九例】
依頼人:ミラーナ
魔法:「マゲン・バヒル」(水因子、風因子)
効果:一日天気を晴れにする
対価:依頼者の七日間の涙
【備考】
対価を減らした。不足分は私が補った。
ゼラは備忘録を眺めた。目を強く細めると、備考欄に二重線を引く。
そして、その下に書き直した。
【記録:第五十九例】
依頼人:ミラーナ
魔法:「マゲン・バヒル」(水因子、風因子)
効果:一日天気を晴れにする
対価:依頼者の七日間の涙
【備考】
七日で十分だった。
ーーー
「お母さん、この玉ねぎ切っちゃっていいの?」
リアナ村。台所に立つ、黒髪の少女。祭りから、八日が経っていた。
「……あ、涙でた」
頬を流れる涙は、溜まっていたせいか、なかなか止まらなかった。




