第五十九話 謎
シュテルンハイム王宮。
会談は滞りなく進んでいた。
その部屋の前。
護衛として同行してきた近衛騎士の一人、クロイツは扉の脇に立っていた。
廊下に人の姿はほとんどない。
クロイツは正面を見据えたまま、先ほどの光景を思い返していた。
――あの、ユリアという女……。
アルベリヒの秘書官として、少し前から王宮へ出入りするようになった女。
初めて見たはずだった。
それなのに。
――どこかで見たことがある。
そんな感覚が、どうしても消えない。
気になって、それとなく周囲の者に尋ねたこともある。
しかし、誰もユリアが秘書官になる以前のことを知らなかった。
当然だ。
自分だって、知っているはずがない。
それでも。
――絶対に、どこかで見ている……。
クロイツは僅かに眉をひそめた。
頭の奥に、何かが引っかかっている。
思い出せそうで。
思い出せない。
――この記憶は……。
――いったい、何なんだ……。
一方。
会談の行われている部屋では、変わらず話し合いが続いていた。
モシェルは外務卿の隣に控え、黙ってそのやり取りを聞いていた。
アルベリヒが説明し。
国王や外務卿が、時折確認を挟む。
話は滞りなく進んでいる。
しかし。
モシェルは一人、胸の内に疑問を抱いていた。
――リートベルクは……。
――いったい、何を考えているんだ……。
シュテルンハイムが、リートベルクにとって地政学的に重要な国であることは分かっている。
この国が陥落すれば、その先にあるのはリートベルクだ。
だから支援する。
それ自体は理解できる。
しかし。
これまでに受けてきた多額の資金援助。
そして、兵の派遣。
――普通、ここまでするものなのか……?
シュテルンハイムから、リートベルクへ返せるものなどほとんどない。
リートベルク王妃が、この国の王家の出だからなのか。
それだけで、ここまで……。
そして今回も、さらに兵が追加される。
そのうえ。
モシェルは卓上の書類へ目を落とした。
新たに加えられた、非常時における指揮権の特例。
軍務院からの指示を待つことが困難な場合。
派遣軍は、国王が任命した現地総責任者の指示に従う。
――これも……。
――本当に、我が国を守るためだけのものなのか……?
モシェルは表情を変えないまま、考え続けていた。
その時。
ふと、向かい側に座るユリアが目に入った。
ユリアは苦虫を噛み潰したような表情で、卓上の書類を見つめている。
追加派兵。
そして、非常時における指揮権の特例だった。
――なるほど……。
――向こうにも、思うところはあるというわけか……。
モシェルは僅かにユリアへ視線を向けた。
その瞬間。
ユリアが顔を上げる。
二人の視線が合いかけた。
モシェルはすぐに目を逸らし、再びアルベリヒへ視線を戻す。
ユリアは、そんなモシェルを横目で見つめた。
――モシェル……。
――と言ったかしら。
――さっき、こっちを見ていたわね……。
ユリアはそれ以上気にすることなく、再び会談へ意識を戻した。
追加される兵の数。
これまで以上の支援。
そして、非常時における指揮権。
話は一つずつ確認されていく。
――このまま、全部決まるのね……。
ユリアはシュテルンハイム国王と外務卿へ視線を向けた。
今のところ、二人から強い反対の言葉は出ていない。
――向こうは……。
――どう思っているのかしら……。
一通りの説明を終えると、シュテルンハイム国王は改めて協定書へ目を通した。
しばらく文字を追ったあと、静かに顔を上げる。
「内容について、異存はない」
国王はそう告げると、差し出された協定書へ署名した。
最後にシュテルンハイム王国の国璽が押される。
これで、協定は正式に結ばれた。
アルベリヒは小さく息を吐いた。
無事に役目を果たせたことに、僅かに安堵の表情を浮かべる。
シュテルンハイム国王が続けた。
「今晩は」
「ささやかながら、晩餐の席を用意しております」
「それまで、どうぞごゆっくりお休みください」
アルベリヒは席を立ち、丁寧に頭を下げた。
「お気遣い、ありがとうございます」
ユリアも慌てて立ち上がり、そのあとに続いて頭を下げる。
国王も席を立った。
「では、また後ほど」
そう言い残し、部屋をあとにする。
外務卿もアルベリヒへ軽く会釈をすると、そのあとへ続いた。
二人の姿が見えなくなると、モシェルがアルベリヒとユリアのもとへ歩み寄る。
「お疲れさまでした」
「晩餐までは、まだ少し時間がありますので」
「先ほどの控室へご案内いたします」
モシェルはそう告げると、扉へ向かった。
アルベリヒとユリアも、そのあとに続く。
扉を出ると、護衛の騎士たちが廊下に控えていた。
その前を通り過ぎようとした時。
ユリアは一人の騎士と目が合った。
クロイツ。
ほんの一瞬。
互いの視線が重なる。
しかし、クロイツは何も言わない。
ユリアも足を止めることなく、その前を通り過ぎた。
モシェルを先頭に、アルベリヒとユリア。
その後ろを護衛の騎士たちが続いていく。
やがて、一行は先ほどの控室へ戻った。
モシェルは二人が部屋へ入ったことを確認すると、扉の前で一礼する。
「時間になりましたら」
「またお迎えに参ります」
「それでは、失礼いたします」
モシェルは静かに頭を下げ、部屋をあとにした。
ユリアは椅子へ腰を下ろすと、卓の上へ両腕を投げ出した。
アルベリヒはその様子を見て、小さく息をつく。
「お疲れさま」
「まあ」
「これで少しは気を抜いてもいい」
ユリアは卓に身体を預けたまま、アルベリヒへ顔を向けた。
「それにしても……」
「シュテルンハイム側は」
「どう思っているのかしら……」
「今回のこと」
アルベリヒは椅子の背にもたれかかる。
「さあな」
「何も言わなかった以上」
「少なくとも、受け入れるつもりではあるんだろう」
ユリアは少し考える。
「モシェル……って言ってたわね」
「彼は、何か思っていそうだったけど……」
アルベリヒがユリアを見る。
そして、僅かに声を落とした。
「ここはリートベルクじゃない」
「よその国だ」
「向こうが何を考えているのか」
「俺たちが変に詮索しても仕方ない」
アルベリヒは少し間を置く。
「それに」
「いつもみたいに、勝手な真似はするなよ」
ユリアは卓に身体を預けたまま、むっとした表情を浮かべた。
「分かっています!」
アルベリヒは疑わしそうにユリアを見る。
しかし、それ以上は何も言わなかった。
ユリアも再び卓へ顔を向ける。
部屋は静かになった。
張り詰めていたものが切れたからなのか。
長旅の疲れまで、一気に押し寄せてきたようだった。
アルベリヒも椅子へ深く身体を預け、目を閉じる。
ユリアもそのまま、ぼんやりと卓を眺めていた。
しばらくの間。
二人は言葉を交わすことなく、静かな時間を過ごした。
夕刻。
扉を叩く音が響いた。
アルベリヒが返事をすると、扉が開く。
入ってきたのはモシェルだった。
「お待たせいたしました」
「晩餐の準備が整いましたので」
「ご案内いたします」
アルベリヒとユリアは席を立った。
モシェルを先頭に、控室を出る。
護衛の騎士たちも、そのあとへ続いた。
しばらく王宮の廊下を進む。
やがて、モシェルが大きな扉の前で足を止めた。
扉の両脇には、シュテルンハイムの近衛兵が立っている。
リートベルクから同行してきた騎士たちも、ここで足を止めた。
モシェルが扉を開く。
「どうぞ」
アルベリヒとユリアは会場へ入った。
昼間の会談室よりも広く、中央には長い卓が置かれている。
すでに外務卿をはじめ、数人の貴族たちが集まっていた。
まだ国王と王妃の姿はない。
アルベリヒは会場を見渡すと、顔見知りらしい貴族のもとへ歩いていった。
ユリアも少し遅れて、そのあとへ続く。
アルベリヒは何人かと言葉を交わしながら、簡単な挨拶を済ませていく。
やがて、一人の女性の前で足を止めた。
アルベリヒは親しげに言葉を交わしている。
ユリアが少し離れたところからその様子を眺めていると、アルベリヒがこちらへ顔を向けた。
そして、手招きをする。
ユリアは自分を指さした。
アルベリヒが頷く。
ユリアは二人のもとへ歩み寄った。
「今、秘書官をしてもらっているユリアだ」
紹介され、ユリアは女性へ頭を下げる。
「ユリアです」
「よろしくお願いします」
アルベリヒは続いて、女性へ目を向けた。
「うちの捜査局長」
「フラムの娘さんだ」
ユリアは僅かに目を見開く。
女性は穏やかな表情で頭を下げた。
「テレーゼと申します」
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
ユリアはもう一度、軽く頭を下げた。
テレーゼの隣には、一人の男性が立っていた。
アルベリヒはその男性とも二、三言、言葉を交わす。
その時。
会場の空気が変わった。
入口へ視線を向けると、シュテルンハイム国王と王妃が姿を現していた。
それまで談笑していた者たちも会話を止め、二人を迎える。
国王と王妃が上座へ進む。
それを合図に、出席者たちもそれぞれ決められた席へ向かった。
アルベリヒも迷うことなく自分の席へ進む。
ユリアはそのあとを追い、隣に用意されていた席へ腰を下ろした。
長い卓の上座には、国王と王妃。
その近くにはシュテルンハイムの外務卿や重臣たちが座る。
アルベリヒとユリアも、客人として上座に近い席が用意されていた。
モシェルは外務卿に近い位置へ腰を下ろす。
全員が席についたことを確認すると、シュテルンハイム国王がゆっくりと立ち上がった。
「本日は」
「遠路より我が国へお越しいただいた客人を迎えられたこと」
「大変嬉しく思う」
国王はアルベリヒとユリアへ視線を向ける。
「今宵は堅苦しい話を離れ」
「どうか、ゆっくりと過ごしていただきたい」
アルベリヒが軽く頭を下げる。
ユリアもそれに倣った。
国王は小さく頷くと、再び席へ腰を下ろす。
それを合図に、使用人たちが料理を運び始めた。
シュテルンハイム王宮での晩餐が、静かに始まった。




