第五十七話 異郷
馬車は国境を越え、シュテルンハイム王国領内を進んでいた。
検問所を離れると、再び森の街道が続く。
高く伸びた木々の間を、馬車は一定の速度で進んでいった。
ユリアは時折、窓の外へ目を向ける。
「違う国に来たからって」
「急に景色が変わることはないのね」
アルベリヒはユリアへ視線を向けた。
「今日泊まる宿場町までは、ほとんど何もないぞ」
「残念だが」
「しばらくは、ずっとこの景色だ」
ユリアは小さくため息をつき、肩を落とした。
馬車は森の街道を進み続けていた。
時折、木々が途切れ、遠くまで見渡せる場所へ出る。
しかし、しばらくすると再び森の中へ入っていく。
国境を越えてからも、景色に大きな変化はなかった。
ユリアは窓の外から視線を外し、アルベリヒを見る。
「ねえ」
俯き加減に目を閉じていたアルベリヒが、ゆっくりと顔を上げた。
目が合うと、ユリアは続ける。
「シュテルンハイムって、どんな国なの?」
アルベリヒはユリアをじっと見つめた。
「まあ……」
「君は世間知らずって感じだもんな」
ユリアの目つきが鋭くなる。
「うるさいわね」
「そんなことはどうでもいいのよ」
狭い馬車の中で、今にも飛びかかってきそうな勢いだった。
アルベリヒは慌てて片手を上げる。
「すまん」
「つい……」
ユリアは腕を組み、不満そうに口を尖らせた。
アルベリヒは小さく息を吐く。
「シュテルンハイム王国……」
「我々リートベルク王国とは、文化的にも近い国だ」
「あまり豊かな国ではないというのは、知っているな?」
ユリアは頷いた。
「なぜ豊かではないのか……」
「一番大きな理由は」
「長い間、戦火にさらされてきたからだ」
「我々とは昔から、それほど関係は悪くなかった」
「だが、もう一方の国境では」
「長く侵攻を受けてきた歴史がある」
アルベリヒは少し言葉を選ぶ。
「我々にとっては」
「言葉は良くないが……」
「緩衝地帯のような国でもある」
「シュテルンハイムがあることで」
「リートベルクは戦火を免れてきたとも言える」
ユリアは黙って話を聞いていた。
「ただ」
「ライヘンバッハ前国王の時代から、我が国も兵を派遣するようになった」
「それからは、情勢もかなり落ち着いている」
「軍事だけでなく、様々な支援も行ってきた」
「そのおかげもあって」
「以前に比べれば、少しずつ豊かにはなっている」
ユリアは腕を組んだまま、複雑な表情を浮かべた。
そのまま考え込み、馬車に揺られていた。
車輪が土を踏む音だけが、一定の間隔で聞こえてくる。
しばらく、二人の間に会話はなかった。
やがて。
ユリアは再びアルベリヒへ顔を向ける。
「ねえ」
「ティルって、いったい何者なの……?」
その名を聞いた途端。
アルベリヒの表情が変わった。
すぐさま窓へ手を伸ばし、開いていたカーテンを閉める。
ユリアは呆れたようにため息をついた。
「大丈夫だっての」
「逆に怪しいでしょ」
アルベリヒはユリアを睨んだ。
「用心に越したことはないんだ」
「特に、その名を出す時はな」
そう言って、アルベリヒは声を落とす。
「俺も」
「ティルのことは、本当に知らないんだ」
「知っていることと言えば……」
「そうだな……」
少し考えてから続ける。
「昔、シュテルンハイム王家の政務顧問をしていたらしい」
ユリアが僅かに眉を動かした。
「ただ」
「どうやってその立場になったのかは、俺も知らない」
「それと……」
「今の国王と王妃の婚姻を取りまとめたのも」
「ティルだったと聞いている」
「政略結婚というやつだろうが……」
アルベリヒは僅かに眉をひそめた。
「ただ、その頃のヴォルクナー家は」
「王位につくような家柄ではなかった」
「王妃とともにリートベルクへ渡ってきてから」
「ティルが何かをしていたのは間違いない」
「だが……」
「何をしていたのか」
「俺にも、ほとんど分からないんだ」
ユリアは腕を組んだまま、アルベリヒの話を聞いていた。
「ふーん……」
それ以上は何も言わなかった。
アルベリヒも話を続けることなく、再び目を閉じる。
馬車は変わらず、森の街道を進んでいった。
木々の隙間から差し込んでいた陽の光は、時間とともに少しずつ傾いていく。
長く伸びた木々の影が、街道を横切るようになった。
やがて。
日が沈みかけた頃。
アルベリヒがカーテンを開いた。
窓の外には森の終わりが見え、その先には開けた土地が広がっている。
「もう少しだ」
その言葉を聞いて、ユリアも窓の外へ目を向けた。
馬車は森を抜ける。
遠くにいくつかの建物が見え始めた。
それからしばらくして。
馬車は、この日泊まる宿場町へ到着した。
昨日の町よりも、僅かに規模は小さい。
それでも街道沿いには宿や酒場が並び、旅人や商人たちの姿が見られた。
昨日と同じように、御者と護衛の騎士たちとは宿の前で別れる。
アルベリヒとユリアは、二人で宿へ入った。
用意されていたのは、また一部屋だった。
アルベリヒは当然のように鍵を受け取る。
ユリアも、今度は何も言わなかった。
どうやら、もう割り切ったらしい。
二人は簡単に食事を済ませ、その日は早々に休むことにした。
翌朝。
まだ朝日が昇って間もない頃。
二人は再び馬車へ乗り込んだ。
宿場町を離れ、シュテルンハイム王都へ向けて走り出す。
アルベリヒが窓の外を眺めながら口を開いた。
「今日の昼過ぎには」
「シュテルンハイムの王宮へ着くだろう」
宿場町を離れてしばらくすると、景色はそれまでとは大きく変わり始めた。
森は次第に少なくなり、街道の両側には田園地帯が広がっていく。
その中に、小さな集落が点々と続いていた。
畑で働く人々。
荷物を積んだ荷車。
街道を行き交う旅人たち。
王都へ近づくにつれ、人の姿も少しずつ増えていく。
それとともに、街道も整えられていった。
激しく揺れていた馬車は、いつしか穏やかに進むようになっていた。
太陽が高く昇る。
さらに数時間が過ぎた頃。
土の街道は、整えられた石畳へと変わった。
道の両側には建物が増え始める。
木造の家々に混じって石造りの建物が現れ、それらは次第に隙間なく連なるようになっていった。
馬車や荷車が行き交い、通りには多くの人々が歩いている。
ユリアは窓の外を眺めながら目を瞬いた。
初めて訪れた国の王都。
それなのに。
どこか見慣れた景色だった。
建物の造りも。
通りの雰囲気も。
リートベルクの王都と、よく似ている。
馬車は人々の間を縫うように、石畳の大通りを進んでいく。
しばらくすると。
建物の向こうに、一際大きな建造物が姿を現した。
高い城壁。
その奥にそびえる、いくつもの尖塔。
ユリアは窓へ顔を近づけた。
「あれが……」
アルベリヒも、その先へ目を向ける。
「ああ」
「シュテルンハイム王宮だ」
馬車は速度を落とすことなく、その王宮へ向かって進んでいった。




