第五十六話 旅人
二月十六日。
馬車は王都を離れ、街道を進んでいた。
車輪が石畳を離れ、土の道へ入るたび、小さな揺れが車内へ伝わる。
向かい合う席に腰を下ろした二人は、その揺れに身を任せていた。
ユリアは窓の外へ視線を向ける。
遠ざかっていく王都。
「シュテルンハイムまで、どれくらいかかるの?」
アルベリヒは膝の上に広げた地図へ目を落としたまま答えた。
「順調なら三日ほどだ」
「少しの間、留守にすると」
「バルベル殿には伝えてきたか?」
ユリアは少し不満そうな表情を浮かべる。
「ちゃんと伝えているわよ」
再び窓の外へ目を向ける。
「それにしても」
「わざわざ護衛までつくなんて」
「物騒ね」
馬車の外では、護衛の騎士たちが馬にまたがり、周囲を警戒しながら並走していた。
アルベリヒは静かに頷く。
「仕方ないさ」
「重要な書類を預かっているんだ」
「道中、絶対に安全とは言い切れないからな」
しばらくは、車輪の音だけが静かに響いた。
やがて、ユリアが口を開く。
「ティルは……」
「どういう思惑があるの……?」
アルベリヒは窓の外へ目を向ける。
そして、静かにカーテンを閉めた。
「あまり、その話はするな」
「誰かに聞かれでもしたら厄介だ」
ユリアは肩をすくめる。
「大丈夫よ」
「外まで声なんて聞こえないでしょ」
アルベリヒは眉をひそめた。
「君は、いつも不用心なんだ」
「もう少し警戒心を持て」
ユリアは呆れたように息をつく。
「あなたが神経質すぎるのよ」
アルベリヒは閉めたカーテンの隙間から、もう一度外の様子を確かめた。
それから声を潜める。
「ティルの最終的な目的は、俺にも分からない」
「ただ――」
「今の王国は」
「ティルの意向が強く反映されていると言っていい」
「その影響は」
「シュテルンハイムにも及んでいる」
「言いなりとまではいかないが」
「ティルの機嫌を損ねれば」
「今のような支援を受けられなくなる」
「そう考えているはずだ」
ユリアは思わず声を上げた。
「フレイアの出身国なのに!?」
「どうしてティルの顔色を窺うのよ?」
アルベリヒは慌てて人差し指を立てた。
「声が大きい」
そう言うと、再びカーテンの隙間から外を確認する。
「それほどまでに」
「ティルは政治へ入り込んでいるということだ」
ユリアは納得できない表情のまま、黙り込んだ。
馬車は土煙を上げながら、シュテルンハイムへ向けて走り続けていた。
ユリアは時折、カーテンの隙間から外へ目を向けた。
街道沿いには、小さな集落が点々と続く。
畑では農夫たちが鍬を振るい、その向こうには冬を越えた田園が穏やかに広がっていた。
やがて馬車は再び森の中へ入る。
枝葉の隙間から差し込む木漏れ日が、揺れる車内を淡く照らした。
森を抜けると、また見知らぬ景色が広がる。
ユリアにとって、その一つひとつが初めて目にする世界だった。
初めて国外へ向かう旅。
窓の外に流れていく景色は、すべてが新鮮に映っていた。
ユリアは、またカーテンの隙間から外を覗いた。
「もう結構進んだ?」
「もうシュテルンハイム?」
アルベリヒは呆れたように息をつく。
「まだリートベルク領内だぞ」
「今日中に国境を越えるのは無理だ」
「夕方には宿場町へ着く」
「今日はそこで一泊して」
「国境を越えるのは明日だ」
ユリアは素直に目を丸くした。
「隣の国なのに、遠いのね」
アルベリヒは苦笑する。
「三日ほどかかると言っただろ」
ユリアは少し照れたように笑う。
「そんなこと言ってたわね」
その時だった。
馬車が大きく揺れる。
ガタン、と車輪が地面の窪みを乗り越えた。
街道は次第に荒れ始め、馬車は何度も大きく上下へ揺さぶられる。
ユリアの表情が徐々に曇っていく。
「気持ち悪い……」
「酔ったみたい……」
アルベリヒは呆れたように肩をすくめた。
「もう少し進めば、道もなだらかになる」
「少しは辛抱しろ」
馬車は揺れを繰り返しながら、街道を進み続けた。
日が暮れ始めた頃。
御者が小窓越しに声をかけてきた。
「間もなく宿場町へ着きます」
アルベリヒはカーテンを開き、外の様子を確かめる。
「もうすぐ宿場町だ」
ユリアはほっと胸を撫で下ろした。
「よかった……」
「早く休みましょ」
やがて、街道の先に建物が見えてくる。
道の両側には、宿や酒場、商店が並んでいた。
その裏手には厩があり、旅人や荷馬車が行き交っている。
大きな町ではない。
それでも、旅人が一夜を過ごすには十分な宿場町だった。
馬車は、その中でもひときわ大きな宿の前で止まった。
アルベリヒがユリアへ声をかける。
「俺たちはここに泊まるぞ」
アルベリヒは荷物を抱え、馬車を降りる。
ユリアも自分の荷物を手に取り、そのあとへ続いた。
馬車を降りると、アルベリヒは御者と護衛の騎士たちへ向き直る。
「それでは、また明日の朝に」
御者が頭を下げた。
馬車は宿の脇を通り、裏手の厩へ向かっていく。
護衛の騎士たちも、そのあとへ続いた。
ユリアはその様子を見送る。
「あの人たちは?」
「馬の世話があるからな」
「御者と騎士たちは、厩に近い別棟へ泊まる」
ユリアは納得したように頷いた。
「さあ」
「俺たちも早く休もう」
アルベリヒは宿の入口へ向かった。
ユリアもそのあとに続く。
中へ入ると、正面に受付が設けられていた。
アルベリヒは慣れた様子で受付へ進む。
宿の主人とは顔見知りなのか、二人は親しげに言葉を交わしていた。
やがて、アルベリヒが鍵を一つ受け取る。
そして、ユリアのもとへ戻ってきた。
「二階の部屋だ」
アルベリヒは階段へ向かう。
ユリアも、そのあとに続いた。
二階へ上がったところで、ユリアはアルベリヒへ手を差し出す。
アルベリヒは足を止め、怪訝そうな顔をした。
「なんだ?」
「私の鍵は?」
アルベリヒは手の中にある鍵へ目を落とす。
「これしかない」
ユリアは目を見開いた。
「えっ……」
「あなたと同じ部屋なの!?」
アルベリヒは手にした鍵を軽く持ち上げる。
「一部屋しか空いていなかったんだ」
「贅沢を言うな」
ユリアは納得できないという表情を浮かべる。
「だからって……」
アルベリヒはユリアの抗議を聞き流し、部屋の前まで進んだ。
「寝台は二つある」
「それで十分だろ」
そう言って鍵を開け、部屋へ入っていく。
ユリアも不満そうな表情を浮かべながら、そのあとへ続いた。
部屋へ入った。
広くはない。
それでも、二人で泊まるには十分な広さだった。
部屋には寝台が二つ並べられている。
アルベリヒは荷物を置きながら口を開いた。
「今日はゆっくり休んで、明日に備えるか」
二人は一階の食堂で簡単に夕食を済ませると、早々に部屋へ戻った。
その夜は、互いにほとんど言葉を交わすことなく眠りについた。
翌朝。
まだ空が白み始めたばかりの頃。
二人は宿場町をあとにした。
再び馬車へ乗り込み、街道を進んでいく。
アルベリヒは窓の外へ目を向ける。
「国境を越えるのは、昼頃になりそうだ」
ユリアも静かに外を眺めた。
昨日とは違い、会話はほとんどない。
宿場町を離れると、人の住む気配は次第に消えていった。
馬車は森の街道を進む。
同じような木々と街道が、どこまでも続いていた。
一定の揺れだけが、静かな車内に響く。
やがて、その揺れに身を任せるように、ユリアは眠りへ落ちていった。
どれほど時間が過ぎただろうか。
「おい、ユリア」
肩を軽く叩かれる。
ユリアはゆっくりと目を開けた。
目の前にはアルベリヒが立っている。
「国境の検問所に着いた」
「一度、馬車を降りるぞ」
アルベリヒは先に馬車を降りた。
ユリアも慌ててそのあとへ続く。
馬車の外では、御者と護衛の騎士たちが国境警備兵と言葉を交わしていた。
どうやら身分を伝えているようだった。
話が終わると、一人の国境警備兵がこちらへ歩いてくる。
アルベリヒの顔を見るなり、その表情が変わった。
アルベリヒは身分証を取り出そうとした。
しかし、国境警備兵はその手を静かに制した。
「結構です」
「外務卿殿ですね」
「話は伺っております」
アルベリヒは小さく頷いた。
「そうか……」
「済まないな」
再び馬車へ乗り込む。
ユリアもあとに続いた。
やがて馬車はゆっくりと動き出す。
国境の検問所を何事もなく通り過ぎた。
ユリアは窓から、その様子を振り返る。
「あっさりね……」
「さすが外務卿」
アルベリヒは首を横に振った。
「そうじゃない」
「ティルの影響さ」
ユリアは目を丸くする。
「えっ?」
「俺がティルの使者として来ていることは」
「すでに伝わっていたんだ」
「それだけ」
「ティルはシュテルンハイムへ深く入り込んでいるということだ」
ユリアの表情が少しずつ曇っていく。
再び窓の外へ目を向けた。
国境を越えたというのに、流れる景色はほとんど変わらない。
それでも。
この国もまた、見えない何かに縛られている。
ユリアは、その景色を静かに見つめ続けていた。




