第五十話 無言歌
日が暮れ始めていた。
ユリアはそっとバルベルの家の扉を開く。
家の中からは、鍋の煮える音が聞こえてきた。
いつも窓際の椅子に座っているバルベルの姿はない。
どうやら夕食の支度をしているようだ。
「ただいまー」
ユリアが声を掛ける。
すると、奥からバルベルの声が返ってきた。
「もうすぐご飯だよー」
「はーい」
ユリアは返事をすると、バルベルに気付かれないようフェンデルを家の中へ招き入れた。
そのまま先に階段を上がらせる。
ユリアは小声で言った。
「そこの扉よ」
フェンデルは静かに頷き、扉を開ける。
二人は部屋へ入った。
ユリアはフェンデルへ向き直る。
「今日はここに泊まって」
「明日の朝、早く家を出ましょう」
「私は今から夕食を食べてくるから」
「悪いけど、おとなしく待っていてね」
フェンデルは静かに頷いた。
その様子を確認すると、ユリアは部屋を後にする。
フェンデルは床へ腰を下ろした。
壁にもたれ掛かる。
窓の外では、少しずつ夕闇が王都を包み始めていた。
フェンデルは何も言わず、その景色を見つめ続けていた。
ユリアはバルベルと食卓を囲んでいた。
焼きたてのパン。
野菜の煮込み。
他愛のない話を交わしながら、静かな夕食の時間が流れていく。
食事も終わりに近づいた頃。
ユリアが口を開いた。
「明日、朝早く出るの」
「朝ごはんは大丈夫です」
バルベルは頷いた。
「そうかい」
「大変だね」
「気をつけて行くんだよ」
「ええ」
ユリアは返事をすると、パンを一つ手に取った。
「あとは二階で食べます」
「少し調べ物があるので」
バルベルは穏やかに微笑む。
「そうかい」
「無理はするんじゃないよ」
ユリアは立ち上がり、階段へ向かう。
一段、また一段と上がったところで。
「ユリア」
バルベルが呼び止めた。
ユリアは足を止め、振り返る。
バルベルは静かに言う。
「危ない真似だけは」
「するんじゃないよ」
ユリアは一瞬だけ動きを止めた。
そして、小さく微笑む。
「大丈夫よ」
それだけ言い残し、二階へと上がっていった。
ユリアは部屋へ入ると、ほっと胸を撫で下ろした。
フェンデルは先ほどと同じように、床へ腰を下ろしている。
ユリアは手に持っていたパンを差し出した。
「少ないけど」
「何も食べないよりはいいでしょ?」
フェンデルは戸惑いながら受け取る。
「ありがとうございます」
パンを小さくちぎり、一口ずつ口へ運んでいく。
ユリアは寝台へ腰を下ろした。
「色々聞きたいことはあるんだけど……」
「あなたは、どうして十五年前の事件を追っているの?」
しばらく沈黙が流れる。
やがて、フェンデルが静かに口を開いた。
「私は王宮で雑務係として働いていました」
「その時に、あの事件が起きたんです」
「当時はまだ子どもでした」
「何が起きているのか、よく分かっていませんでした」
「ですが、一つだけ強く覚えていることがあります」
フェンデルは少し俯く。
「捜査が突然打ち切りになったことです」
「どうして……?」
「国王が殺されたのに……」
「その違和感だけは、ずっと心に残っていました」
一度息をつく。
「だから私は捜査局員になりました」
「真実を、この目で確かめるために」
「そして、その結果が……」
フェンデルの表情が曇る。
「追われる身です」
部屋に、再び静かな時間が流れた。
ユリアは再び口を開いた。
「あなたは、どこまで知っているの……?」
フェンデルは静かに答える。
「ユリア様がお気付きのように」
「犯人は現王妃フレイア……」
「そして、その事件には」
「秘書官ティルが深く関わっています」
一度言葉を切る。
「ユリア様……」
「捜査資料や審問資料には、あなたも現場にいたと記されていました」
「本当なら……」
「ティルが生かしておくはずがない」
「どうして今も王宮にいるのですか……?」
ユリアは少しだけ微笑んだ。
「どうしてかしらね……」
「私のことを、みんな忘れてしまっているみたい」
「今は外務卿アルベリヒの秘書官をしているの」
フェンデルは勢いよく立ち上がる。
「どうしてです!?」
「私が調べた限り、アルベリヒも事件に関わっています」
「ライヘンバッハ国王夫妻殺害の共犯です」
「そんな人を、どうして……」
ユリアは穏やかな声で言った。
「落ち着いて」
「アルベリヒは……」
「巻き込まれただけよ」
「隠蔽に手を貸したのは事実だけど」
「悪い人じゃない」
「過去のことを悔いているわ」
「だから今は、信頼しているの」
フェンデルはゆっくりと腰を下ろした。
「……そう、ですか」
しばらく沈黙が流れる。
ユリアは静かに口を開く。
「人には、それぞれ事情があるわ」
「でも、私も真実を明るみにしたい」
「だから、あなたにも協力してほしいの」
フェンデルは俯いた。
「私は……」
「もう王宮には戻れません」
「ユリア様のお役には立てません……」
ユリアはフェンデルの前まで歩み寄る。
ゆっくりと腰を落とし、その肩へそっと手を添えた。
「私には、一人でも多くの仲間が必要です」
「あなたの力も、きっと必要になる時が来る」
フェンデルはゆっくりと顔を上げた。
暗がりの中。
それでも、蒼銀の瞳だけは静かに輝いていた。
ティルの執務室。
執務机に腰掛けるティルの前で、
捜査局長フラムが頭を下げていた。
ティルは書類へ目を落としたまま口を開く。
「審問にかけるはずだったフェンデル……」
「逃してしまったようですね」
フラムは額に汗を浮かべる。
「申し訳ございません」
「現在、行方を捜索しております」
ティルはゆっくりと顔を上げ、
フラムへ視線を向けた。
「まあ……」
「フェンデルが真実に近づいたところで」
「どうすることもできないでしょうが……」
「見つけたら殺しても構いません」
「捜索を続けてください」
ティルは立ち上がる。
そして、夜の帳が下り始めた窓の外へ目を向けた。
「そういえば……」
「先日、シュテルンハイムへ行ってきました」
「我々の援助のおかげで、昔の姿から見違えるようでしたよ」
「シュテルンハイムの貴族へ嫁いだ……」
「あなたの娘も……」
「とても元気そうでした」
フラムの表情が強張る。
ティルは歩み寄り、
フラムの肩へ軽く手を置いた。
「最近……」
「少し緩んでいるのではありませんか」
「気を引き締めて、業務にあたってください」
フラムは固まったまま答える。
「……はい」
ただ、その一言を返すことしかできなかった。




