第四十九話 悲愴
ユリアは書類の整理を進めていた。
机へ向かっていたアルベリヒが顔を上げる。
「昨日は帰っていないんだ」
「今日はもう上がっていいぞ」
ユリアは手を止め、アルベリヒへ視線を向ける。
「そう……」
「じゃあ、お言葉に甘えて帰ろうかしら」
そう言うと、整理途中の書類を手際よくまとめ始めた。
机の上を整え、手荷物を持つ。
「それじゃあ、また明日」
軽く手を振り、執務室を後にした。
王宮を出る。
王都へ続く道を歩き始めた、その時だった。
一人の青年が、ユリアの脇を駆け抜けていく。
思わず肩が触れそうになる。
「危ないわねぇ」
「そんなに慌てて、どこへ行くつもりかしら」
青年は振り返ることもなく、そのまま王都の方へ走り去っていく。
ユリアと同じくらいの歳か。
あるいは、一、二歳ほど年上だろうか。
その後ろ姿を、ユリアはしばらく静かに見つめていた。
ユリアは再び歩き出す。
王都の通りを抜け、バルベルの家へ向かう。
まだ日が高いうちに家へ着いた。
扉を開けて中へ入ると、バルベルはいつものように窓際の椅子へ腰掛けていた。
バルベルはユリアへ目を向ける。
「ああ……」
そう言ったまま、言葉が続かない。
ユリアはすぐに察した。
「ユリアです」
バルベルは「ああ」と頷く。
「そうだった、そうだった」
「最近、覚えられないのよね」
「昔のことはよく覚えているんだけど」
「不思議なものね」
ユリアは苦笑いを浮かべる。
荷物を置くため、階段を上がる。
二階の自室へ入り、手荷物を机へ置いた。
そのまま寝台に腰を下ろす。
――それにしても……。
やることがないわね……。
「少し散歩でもしようかしら……」
ユリアは部屋を出ると、階段を下りた。
窓際の椅子へ腰掛けるバルベルへ声を掛ける。
「バルベルさん」
「少し散歩に出るわ」
バルベルは穏やかに頷く。
「暗くなる前には帰っておいでよ」
「はーい」
ユリアは軽く手を振り、家を後にした。
石畳の道を歩く。
石造りの建物が並び、人々が行き交う。
市場には活気がある。
それでも、どこか足りない。
店先に並ぶ品は多くなく、建物にも傷みが目立つ。
人々の表情にも、豊かさより生活の厳しさがにじんでいた。
父の治めていた頃は、どんな景色だったのだろう。
そんなことを思いながら歩き続ける。
やがて日が傾き始めた。
「そろそろ帰ろうかしら」
ユリアは踵を返す。
歩みを進めるにつれ、人通りは少なくなっていく。
見慣れた景色が増え、バルベルの家が近づいてきた。
その時だった。
ふと、路地裏へ視線が向く。
誰かがいる。
目が合う。
――王宮を出る時に、ぶつかりそうになった……。
そう思った瞬間だった。
「えっ――」
青年が一気に駆け寄り、ユリアの腕を掴む。
そのまま路地裏へ引きずり込んだ。
勢いで眼鏡が地面へ転がる。
青年はユリアを壁へ押し付け、その口を塞ぐ。
もう一方の手には、ナイフが握られていた。
ユリアは必死にもがく。
声を上げようとしても、口を塞がれ、音にならない。
青年は興奮した様子で呟く。
「王宮の者か……」
ナイフを振り上げる。
ユリアは目を見開いた。
蒼銀の瞳が揺らめく。
路地裏の薄暗さの中でも、それははっきりと輝いて見えた。
青年の動きが止まる。
「その瞳は……」
「ライヘンバッハ家の……」
ユリアは青年を真っ直ぐ見つめた。
「私はあなたの敵ではありません……」
「まずは離してもらえますか?」
青年ははっとしたように手を離した。
押さえつけられていた腕が解放される。
青年は一歩後ずさった。
「あなたは、いったい……」
ユリアは服についた汚れを払いながら言う。
「まずはあなたから名乗りなさい」
「突然襲ってきて、いったい何なのです」
「それに、服が汚れてしまったわ」
青年は申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ありません……」
「私は王国捜査局所属の」
「フェンデルといいます」
ユリアは目を細める。
「捜査局……?」
「どうして捜査局の人間がこんなところで、罪のない女性を襲うのですか……?」
フェンデルは視線を落とした。
「それは……」
「王宮の関係者だと思ったからです」
ユリアは眉をひそめる。
「どういうことよ」
「はっきりと言いなさい」
フェンデルはしばらく口を閉ざしたままだった。
その様子を見て、ユリアは小さく息をつく。
「私は王宮に勤めているだけ」
「今の国王や王妃、ティルとも関係ないわ」
「だから、話しなさい」
フェンデルはユリアの瞳を見つめた。
蒼銀色の瞳を。
そして、静かに口を開く。
「私は、近いうちに審問へかけられます」
その言葉に、ユリアの表情が変わった。
「審問……?」
フェンデルは小さく頷く。
「容疑は何でもいいんです」
「審問が始まれば、私は処刑されます」
「あるいは、別の方法で殺されるでしょう」
ユリアは息を飲んだ。
「どうして、そんな……」
フェンデルは覚悟を決めたように答える。
「おそらく私が、十五年前のライヘンバッハ国王夫妻殺害事件を調べていたからです」
一度言葉を切る。
そして今度は、真っ直ぐユリアを見つめた。
「今度は私が聞きます」
「あなたは、ユリア・フォン・ライヘンバッハ様ではありませんか……?」
ユリアは目を見開いた。
誰もが自分の存在を忘れていく中で。
その名を口にした者がいた。
「どうして……」
「その名を知っているの……?」
フェンデルは静かに頷く。
「やはり、そうでしたか……」
「捜査書類に、王女の名として残っていました」
「そして、その瞳の色」
「ライヘンバッハ家の蒼銀の瞳……」
だが、フェンデルはすぐに首を傾げる。
「ですが……」
「ライヘンバッハ国王に王女がいたという記憶だけが、どうしても思い出せないのです」
ユリアは一つ息をつき、話題を切り替えた。
「事情は分かりました」
「あなたは、これからどうするつもりですか……?」
フェンデルは力なく答える。
「このまま、どこかへ逃げるしかありません」
「このままでは殺されます」
ユリアは少し考え込む。
――このままでは……。
――あまり巻き込みたくはないけれど……。
「今からなら、王宮の追手もまだ来ないでしょう」
「ひとまず、私がお世話になっている家へ来なさい」
「明日の朝、私の知っている人の家へ避難しましょう」
「そこなら、きっと見つからないわ」
フェンデルは戸惑った表情を見せる。
「しかし……」
ユリアは首を横に振る。
「このまま放ってはおけないわ」
そう言ってユリアは歩き出す。
フェンデルは少し迷った末、その後を追った。
二人は何も言葉を交わさないまま、静かな夕暮れの王都を歩き始めた。




