第四十五話 魔笛
窓際に一人立つ、内務卿ケーテン。
ユリアは静かに歩み寄る。
気配に気付いたケーテンが視線を向けた。
ユリアは軽く会釈をする。
そして、そのままケーテンの前で足を止めた。
ケーテンが穏やかに口を開く。
「先程の……」
「どうなされました?」
ユリアは小さく微笑む。
「少し、お話しいいですか?」
周囲へさりげなく視線を巡らせる。
――誰もこちらを気にしていないわね。
「私も、長々と話すつもりはありません」
そう言うと、眼鏡を少しだけ鼻先へずらした。
蒼銀の瞳が、静かに姿を現す。
「この瞳……」
「見覚えはありませんか?」
ケーテンは怪訝そうにユリアを見る。
だが、その瞳を見つめた瞬間。
表情が変わった。
「それは……」
「ライヘンバッハ家の……」
ユリアは眼鏡を元の位置へ戻す。
「単刀直入に言います」
「あなたに味方になっていただきたいのです」
ケーテンは動揺を悟られまいと、小さく息を整えた。
「……どういうことですか?」
ユリアは穏やかに微笑む。
「詳しいことは、ここでは話せません」
「私の話に興味がおありでしたら」
「アルベリヒの執務室までお越しください」
一拍置いて続ける。
「もし、私の存在を信じられないのであれば」
「捜査資料の保管されている資料庫へ行ってください」
「十五年前のあの事件を調べれば」
「そこに『ユリア』という名前が残っているはずです」
「それでは」
軽く一礼すると、ユリアはその場を後にした。
ケーテンは動けなかった。
目の前で起きた出来事を整理できず、ただ窓際に立ち尽くしている。
その頃。
国王と王妃の輪で談笑していたアルベリヒが、ふとユリアの姿を探す。
そして。
ケーテンのもとから離れていくユリアを見つけた。
表情が険しくなる。
――あいつ……。
――勝手な行動はするなと言ったばかりだろ。
ユリアはケーテンのもとを離れると、会場の中へ視線を巡らせた。
やがて、一人で佇むエルザの姿を見つける。
ユリアは静かに歩み寄る。
「エルザ様」
背後から声を掛けられたエルザは振り返る。
自分へ話しかけられるとは思っていなかったのだろう。
少し不思議そうな表情を浮かべながら、軽く会釈をした。
ユリアも微笑み返す。
「ユリア・フォン・マグダレナです」
「先日から外務卿アルベリヒ様の秘書官を務めております」
「よろしくお願いいたします」
エルザの表情が柔らかくなる。
「こちらこそ」
「よろしくお願いいたします」
ユリアは穏やかに続けた。
「こういう場ですと」
「同じ年代の方は、あまりいらっしゃいませんから」
「仲良くしていただけると嬉しいです」
エルザは小さく笑みを浮かべた。
「ええ」
「ぜひ」
二人は夜会のことや王宮のことなど、他愛のない話を交わした。
そうしているうちに、夜会は静かに時間を重ねていく。
やがて定刻となり、貴族たちは自然と会場を後にし始めた。
ユリアも人の流れに紛れながらアルベリヒのもとへ戻る。
二人はそのまま会場を後にし、執務室へ向かった。
廊下を歩く頃には、周囲に人の姿はほとんどなかった。
アルベリヒがため息交じりに口を開く。
「君はまた勝手なことをしたな」
「あれだけ忠告しただろう」
「わかっているのか」
ユリアはばつが悪そうに視線を逸らす。
「わかっているわよ……」
「ただ、夜会なんだし」
「交流するのは悪いことじゃないでしょ」
アルベリヒは呆れたように首を振る。
「やはり、わかっていないな」
ユリアは少しだけ口元を緩めた。
「でも」
「これでケーテン卿は何か動きを見せるはずよ」
アルベリヒは困ったように眉を寄せる。
「俺は不安なんだ」
「とにかく目をつけられないように」
「もう少し考えて行動してくれ」
ユリアは目を逸らしたまま、小さく頷く。
「わかったわよ」
執務室へ戻ると、アルベリヒは机の上を軽く片付け、小さな荷物をまとめ始めた。
「俺は自分の部屋へ戻る」
「君は、そこの仮眠室で休んでくれ」
ユリアは思わず声を上げる。
「えっ」
「ちゃんとした部屋を用意してくれてないの?」
アルベリヒは苦笑した。
「今日だけなんだからいいだろ」
「それじゃあ、また明日」
そう言うと、足早に執務室を後にする。
ユリアは不満そうな表情のまま、執務室の奥にある仮眠室へ入った。
狭い部屋。
置かれているのは寝台が一つだけ。
ユリアは小さくため息をつく。
――まあ、今日だけならいいか……。
その頃。
ケーテンは資料庫を訪れていた。
十五年前の捜査資料を、一冊ずつ静かにめくっていく。
燭台の灯が、かすかに揺らめく。
その時だった。
ケーテンの手が止まる。
目に飛び込んできた、一つの名前。
――ユリア・フォン・ライヘンバッハ。
――王女……。
ケーテンは目を見開く。
胸の奥が大きくざわついた。
――本当に、書いてあった……。
震える指先で、その名をなぞる。
――どうして。
――今まで、この方のことを知らなかったのだ……。
ケーテンはその場に立ち尽くす。
資料に記された名前と、夜会で出会った少女の姿が、何度も脳裏で重なっていく。
ケーテンは、その頁から目を離すことができなかった。




