第四十一話 わが祖国
ユリアは風呂敷を抱え、部屋を出た。
見慣れた長い廊下を歩く。
そして、王宮を後にした。
「おーい!」
「ユリア!」
背後から声が響く。
ユリアが振り返ると、アルベリヒが駆け寄ってきた。
「明日には手続きを済ませておく」
そう言うと、ポケットから一つの眼鏡を取り出す。
「これを掛けておけ」
ユリアは不思議そうに首を傾げた。
「眼鏡……?」
「どうして?」
アルベリヒは静かに答える。
「君の瞳だ」
「なるべく見られない方がいい」
「ライヘンバッハ家の人間だと、気付かれるかもしれない」
ユリアは眼鏡を受け取り、小さく微笑む。
「ありがとう」
アルベリヒは続ける。
「それと」
「二月三日に夜会がある」
「そこで君を紹介しようと思う」
「その方が話は早い」
ユリアは静かに頷く。
「わかったわ」
ユリアは眼鏡を掛ける。
そして風呂敷を抱え直すと、バルベルの家へ向かって歩き始めた。
ユリアは王都の中を歩いていた。
王宮の外へ出たことはある。
けれど、こうして一人で街を歩くのは初めてだった。
行き交う人々。
軒を連ねる店。
賑やかな街の音。
そのどれもが、新鮮に映る。
ただ。
王宮での暮らしに慣れ過ぎていたのか。
人々の服装や暮らしぶりは、どこか貧しく見えた。
――これが、普通の暮らしなのか……。
陽が傾く頃。
ユリアはマグダレナ家へ辿り着いた。
扉を開け、中へ入る。
バルベルは朝と同じように、窓際の椅子へ腰掛けていた。
人の気配に気付き、ゆっくりと顔を上げる。
「ああ……」
バルベルは眉間へ皺を寄せた。
ユリアは一瞬きょとんとしたが、すぐに察する。
「あっ」
「ユリアです」
バルベルの表情が和らいだ。
「そうだった」
「ユリアだったねぇ」
「年を取ると、名前が出てこなくなるのよ」
ユリアは思わず苦笑した。
「今日からよろしくお願いします」
バルベルは階段を指差す。
「二階の部屋が空いてるからね」
「自由に使いな」
ユリアは頷く。
「はい」
「ありがとうございます」
階段へ足を掛けると、後ろからバルベルの声が聞こえた。
「今から晩ご飯を作るから」
「ゆっくりしておいで」
ユリアは振り返る。
「わかりました」
そう答えると、階段を上る。
二階の部屋の扉を開け、中へ入った。
二階の部屋は、あまり使われていないようだった。
少し埃っぽい。
置かれているのは、寝台が一つだけ。
ユリアは窓を開ける。
夕焼けに染まった空が広がっていた。
――暗くなる前に、少しだけ掃除しておこう。
ユリアは一階へ降りる。
「バルベルさん」
「掃除道具はどこですか?」
バルベルは料理をしながら答えた。
「そこの扉を開けてごらん」
ユリアは辺りを見回し、一番近くの扉を開ける。
中には掃除道具が並んでいた。
「あっ」
「ありました」
ユリアは箒やはたき、布巾を抱え、再び二階へ上がる。
――とは言ったものの。
「掃除なんて、したことないのよね」
エアや侍女たちの姿を思い浮かべながら、見よう見まねで掃除を始める。
はたきで埃を払い。
箒で床を掃く。
それだけでも、部屋は少しずつ綺麗になっていった。
どれほど時間が経っただろうか。
下の階から、バルベルの声が聞こえてくる。
「降りてきなー」
「晩ご飯だよー」
ユリアは手を止め、窓の外へ目を向けた。
いつの間にか、外はすっかり暗くなっていた。
ユリアはバルベルと食卓を囲んでいた。
湯気の立つ野菜と肉の煮込み。
切り分けられたパン。
決して豪華な食事ではない。
けれど、どこか温かみを感じる。
ユリアは煮込み料理を口へ運んだ。
頬張った口元を手で隠す。
「おいしい……」
バルベルが笑みを浮かべる。
「そうだろ」
「腕によりをかけたからね」
ユリアはもう一口、料理を頬張った。
「本当に美味しいです」
バルベルは満足そうに笑う。
しばらく。
二人は静かに食事を続けた。
やがて、ユリアが口を開く。
「私……」
「世間知らずで」
「王都の人たちって、いつもあんな感じなんですか?」
少し言い淀む。
「あの……」
「少し、貧しそうに見えたというか」
バルベルは少し考える。
その表情が、ゆっくりと真剣なものへ変わっていく。
「王宮の暮らしに比べれば……」
「そりゃ、貧しいさ」
ユリアは少し俯いた。
「ただね」
バルベルが続ける。
「ライヘンバッハ国王の頃は」
「もう少し豊かだった」
「いや……」
「ライヘンバッハ国王がお亡くなりになる、少し前からかねぇ」
「王都の様子が変わり始めたのは」
ユリアが顔を上げる。
バルベルは真っ直ぐに、その顔を見つめていた。
「ユリア」
「あんたがこれから、何をしようとしているのかは知らない」
「ただ……」
「現王妃のフレイアと」
「その秘書官のティルには気をつけな」
ユリアはバルベルを真っ直ぐに見つめ返す。
そして、小さく頷いた。
バルベルは再び、柔らかな表情へ戻る。
「しけた話はやめだ」
「あったかいうちに食べな」
「はい」
静かに。
夜は更けていった。
食事を終えたユリアは、二階へ上がった。
新しい自分の部屋。
普段、王宮の外を歩くことのなかったユリアにとって。
バルベルの家まで歩き、慣れない掃除をしただけでも、思った以上に体力を使っていた。
寝台へ横になる。
そのまま。
いつの間にか眠りについていた。
ふと。
ユリアが目を開ける。
窓から朝の光が差し込んでいた。
――寝ちゃってたのね……。
ゆっくりと身体を起こす。
持ってきた荷物の中から、卓上暦を取り出した。
窓際へ置く。
そして。
一枚、捲る。
二月二日。
ユリアは部屋を出て、階段を降りる。
すると。
すでにアルベリヒが来ていた。
食卓でバルベルと話をしている。
アルベリヒがユリアに気付いた。
「おっ」
「よく眠れたみたいだな」
ユリアは小さく頷く。
「ええ」
「どうしたんですか?」
「こんな朝早くに」
アルベリヒが答える。
「手続きが済んだ」
「今日から正式に」
「君はユリア・フォン・マグダレナだ」
ユリアは微笑む。
「ありがとう」
「仕事が早いわね」
アルベリヒも小さく笑う。
だが、すぐに真剣な表情へ戻った。
「これからのことを話しておきたいんだが……」
周囲を見回す。
それを見て、バルベルが口を開いた。
「ここでいいだろ」
「別に聞いちゃいないよ」
アルベリヒは少し苦笑し、食卓へ腰掛ける。
ユリアもその向かいに座った。
「あれから、少し考えてみたんだが……」
「あの外務資料」
「国王の承認もなく、あれだけの資金を動かしているとしたら」
「財務卿もフレイア側と考えた方がいい」
ユリアの表情が引き締まる。
「防衛協定にしても……」
「軍務卿も同じだろう」
「この二つの役職は、十五年前から変わっていない」
アルベリヒは少し考える。
「今のところ」
「内務卿のケーテン殿くらいだろう」
「フレイアの息がかかっていないのは」
ユリアは静かに頷く。
アルベリヒが続ける。
「二月三日の夜会」
「一通り挨拶はしていくが」
「ケーテン卿とは話をしておきたい」
「わかったわ」
「それと」
アルベリヒはユリアを見る。
「これからは毎日、俺の執務室に来てくれ」
「今日もこれから行こう」
ユリアは頷く。
「わかったわ」
二人は席を立つ。
バルベルへ軽く会釈をすると、家を出た。
そして再び。
王宮へと歩き始めた。




