第四十話 告別
二月一日。
朝。
コンコン。
部屋の扉が叩かれる。
ユリアが扉を開けると、そこにはアルベリヒが立っていた。
アルベリヒは部屋の中を見回し、小さく苦笑する。
「本当に、こんなところへ住んでいたんだな……」
ユリアも苦笑いを浮かべる。
「私も好きで住んでいたわけじゃないわ」
二人は部屋を出る。
静かな廊下を並んで歩き始めた。
アルベリヒが口を開く。
「昨日話した貴族だが」
「マグダレナ家という」
ユリアはその名を繰り返す。
「マグダレナ……?」
アルベリヒは頷いた。
「知らないだろうな」
「下級貴族だから」
「今は当主のバルベル殿が一人で暮らしている」
やがて二人は王宮の正門へ辿り着く。
そのまま外へ出ようとするアルベリヒを見て、ユリアは思わず目を丸くした。
「えっ……」
「王宮の外なの?」
アルベリヒは振り返り、小さく頷く。
「ああ」
「王都の外れだ」
「少し歩くことになる」
ユリアは一瞬だけ口を尖らせる。
けれど、その表情はすぐに和らいだ。
王宮の外へ出る。
胸の奥で、小さな期待が膨らんでいく。
王都の石畳を歩き続ける。
しばらくして。
ユリアは足を止め、不満そうにアルベリヒを見た。
「……まだ?」
アルベリヒは呆れたように小さく笑う。
「もう少しだ」
「貴族の屋敷は、どこも王宮の近くにあると思っていたのか」
ユリアは小さく頬を膨らませた。
「少しくらい期待はするでしょう……」
二人は再び歩き始める。
やがて。
一軒の小さな家が見えてきた。
石造りの壁。
手入れの行き届いた庭。
決して豪華ではない。
だが、どこか温かみのある家だった。
ユリアは目を瞬かせる。
「こんなところに……」
「貴族が?」
アルベリヒは静かに頷く。
「先代の当主はもう亡くなった」
「今はその妻であるバルベル殿が、一人で暮らしている」
「別に珍しい話じゃない」
そう言うと、玄関脇に掛けられた真鍮の呼び鈴を二度鳴らした。
カラン、カラン。
家の奥から、ゆったりとした声が返ってくる。
「開いてるよぉ」
「勝手に入りな」
アルベリヒは慣れた様子で扉を開けた。
二人が中へ入る。
質素な室内。
窓際には、一人の老婆が椅子へ腰掛けていた。
アルベリヒは静かに一礼する。
「バルベル殿」
「ご無沙汰しております」
「アルベリヒです」
老婆は目を細め、アルベリヒの顔をじっと見つめた。
「んん……」
「ああ」
「アルベリヒかい」
「こんなところまで来るなんて」
「何かあったのかい?」
アルベリヒは頷く。
「お願いがあります」
そう言うと、隣に立つユリアへ視線を向けた。
「この娘を」
「マグダレナ家の養子に迎えていただきたいのです」
その言葉で、バルベルは初めてユリアへ目を向ける。
目を細めたまま、小さく手招きをした。
「すまないね」
「もう少し近くへ来ておくれ」
ユリアは少し戸惑いながら歩み寄る。
バルベルは静かにユリアの顔を見つめた。
そして。
その瞳を見た瞬間、表情が変わる。
「……その瞳」
「ライヘンバッハ家の……」
部屋へ静寂が流れる。
バルベルはゆっくりと息を吐いた。
「なるほどねぇ」
「訳ありなのは、見れば分かるよ」
小さく頷く。
「好きにおしな」
「手続きは、あんたたちで済ませておくれ」
ユリアの表情が、ほっと和らいだ。
アルベリヒは深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ご迷惑をお掛けするつもりはありません」
「どうか、ご安心ください」
少し間を置き、続ける。
「それと」
「王宮で部屋を用意できるまでの間」
「この家へ住まわせていただけないでしょうか」
バルベルは穏やかに笑う。
「構わないよ」
「大した家じゃないけどね」
「一人で住むには、広すぎるくらいだから」
アルベリヒはもう一度頭を下げた。
「助かります」
ユリアも深く一礼する。
「お世話になります」
バルベルは優しく微笑んだ。
「遠慮なんてしなくていい」
アルベリヒはユリアを見た。
「手続きは済ませておく」
「今日から君は」
「ユリア・フォン・マグダレナだ」
ユリアはその名を胸へ刻み込むように、小さく頷く。
アルベリヒが続けた。
「それと」
「あの部屋の荷物だ」
「必要なものがあれば、こちらへ移さなければならない」
「いずれ王宮へ戻ることにはなるだろうが」
ユリアは頷く。
「わかったわ」
「必要最低限のものだけ」
「こっちへ持ってくるわ」
アルベリヒはバルベルへ視線を向けた。
「では」
「また伺います」
バルベルも穏やかに頷く。
二人はマグダレナ家を後にした。
ユリアは自室へ戻る。
荷物をまとめ始めた。
――まあ、着替えがあれば十分か……。
小さな風呂敷を広げる。
畳んだ着替えを、一つずつ丁寧に包んでいく。
そして最後に。
窓際へ置かれた卓上暦を手に取った。
――今度こそ。
――運命を切り開く。
静かに願いを込める。
卓上暦を風呂敷へ入れ、そっと包み直した。
荷物の準備は整った。
ふと、ユリアは扉へ視線を向ける。
――そういえば……。
――そろそろエルザが来る時間……?
ゆっくりと扉を開ける。
誰もいない。
静かな廊下が続いているだけだった。
ユリアは小さく目を伏せる。
胸の奥に、わずかな寂しさが広がる。
けれど、それ以上に。
処刑は回避できる。
その確信が、静かに心へ根を下ろしていた。
ユリアは風呂敷を抱え、静かに部屋を見渡した。
「さようなら」




