第三十九話 新世界
「……ライヘンバッハ?」
アルベリヒは、その名を繰り返した。
外交資料庫は、静寂に包まれる。
時が止まったかのようだった。
静寂を破るように、アルベリヒが口を開く。
「ライヘンバッハ……」
「そんなはずはない」
「前国王に王女がいたなど……」
「私は聞いたことがない」
ユリアは何も答えない。
アルベリヒは続ける。
「いや……」
「仮に事実だったとしても」
「どうして、その存在が記録に残っていない……」
ユリアはゆっくりと目を開く。
「この瞳……」
「蒼銀色の瞳よ」
アルベリヒは首を傾げた。
「……蒼銀色?」
心当たりはない。
その瞳が何を意味するのか、アルベリヒには分からなかった。
ユリアは呆れたように息を吐く。
「どうして知らないのよ」
「……まあ、いいわ」
真っ直ぐアルベリヒを見つめる。
「私は」
「十五年前」
「あの現場にいた」
「返り血を浴びた王妃を、この目で見ている」
アルベリヒの表情が変わる。
「……あの時」
「目撃者が、いたのか」
ユリアは静かに頷く。
「皆、忘れてしまっただけ」
「でも」
「捜査資料や審問資料には」
「私の名前が残っているわ」
アルベリヒは何も言わなかった。
俯き、静かに考えを巡らせる。
アルベリヒは、もう一度ユリアを見つめた。
「……それが事実だとしたら」
「王妃やティルへ知られれば」
「君の命はないぞ……」
ユリアは表情を変えない。
「そうね」
「私は殺されるわ」
あまりにも淡々とした返答だった。
アルベリヒは思わず目を見開く。
「……怖くないのか」
ユリアは少しだけ俯いた。
「怖さはあるわ」
小さく息を吐く。
そして。
顔を上げると、どこか吹っ切れたように微笑んだ。
「でも」
「もう慣れた」
アルベリヒは眉をひそめる。
「慣れた……?」
「何に、だ……」
ユリアは答えない。
代わりに、真っ直ぐアルベリヒを見つめた。
「だからこそ」
「殺されないためにも」
「あなたの協力が必要なの」
アルベリヒは黙ったまま、その瞳を見つめ返す。
そこにあるのは、強がりではない。
何度絶望しても立ち上がってきた者だけが宿す、静かな決意だった。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かった」
「協力しよう」
「全てを信じたわけではない」
「だが」
「君が嘘をついているようには思えない」
ユリアは穏やかに微笑んだ。
「ありがとう」
「あなたなら、そう言ってくれると思っていたわ」
少しだけ照れくさそうに笑う。
「私」
「あなたのこと、ずっと誤解していた」
「でも今は」
「あなたを信じている」
アルベリヒは、不思議そうにユリアを見つめた。
この少女は。
自分のことを知りすぎている。
そして。
まるで、自分と長い年月を共に過ごしてきたかのように話す。
その違和感だけが、胸の奥に残っていた。
アルベリヒは静かに口を開く。
「しかし……」
「これから、どう動くつもりだ」
ユリアは小さく首を振る。
「その前に」
「ヴォルフラムが外務卿だった頃の外交資料……」
「あなた、ちゃんと見たことないでしょう?」
そう言うと、迷うことなく本棚の奥へ歩き出す。
ヴォルフラム時代の資料が並ぶ棚。
ユリアは一直線に、その場所へ向かった。
アルベリヒは戸惑いながらも、その後を追う。
それからしばらく。
二人はヴォルフラム時代の外交資料へ目を通し続けた。
頁をめくる音だけが、静かな資料庫へ響く。
しばらく資料へ目を通したあと、
アルベリヒは一冊の資料を閉じ、小さく息を吐いた。
「シュテルンハイム王国に対する案件は……」
「ライヘンバッハ国王の承認が、ほとんどない」
信じられないものを見るように、資料へ視線を落とす。
「この規模の外交を」
「外務卿だけの判断で進められるはずがない……」
一枚、資料をめくる。
「それに」
「特命使節……フレイア様」
アルベリヒは静かに目を閉じた。
「どういうことなんだ……」
ユリアは静かに答える。
「やっぱり……」
「フレイアは王妃になる前から」
「何かをしていた」
アルベリヒはユリアへ視線を向けた。
「俺は」
「ヴォルフラム様から」
「時々、資料をフレイア様へ届けるよう頼まれていた」
少し考え込む。
「その時は」
「何も疑わなかった」
「シュテルンハイム王国に関する資料だったのか……」
ユリアは静かに頷く。
「そして」
「ヴォルフラムは口封じで殺された」
アルベリヒは視線を落とした。
「ああ……」
「俺も、その可能性が高いと思っている」
しばらく沈黙が流れる。
アルベリヒは口を開いた。
「今も」
「シュテルンハイム王国とは異常なほど友好関係が続いている」
「もっとも」
「今はローエン国王の承認もある」
「だが」
「実際に主導しているのは」
「ほとんどフレイア様だ」
苦笑する。
「申し訳ないが……」
「俺は外務卿とは名ばかりだ」
「ただの操り人形に過ぎない」
「君の力になれることは」
「ほとんどないかもしれない」
ユリアは首を横へ振った。
「そんなことないわ」
「あなたにお願いしたいことがあるの」
アルベリヒは顔を上げる。
「お願い?」
「私を」
「あなたの秘書官にしてほしい」
アルベリヒは目を瞬かせた。
ユリアは続ける。
「今の私は」
「王宮から存在を消されている」
「名簿にも載っていない」
「このままでは」
「また不法侵入者として捕まるだけよ」
アルベリヒは腕を組み、静かに考え込んだ。
やがて。
小さく頷く。
「……昔、世話になった貴族がいる」
「爵位は低いが」
「信用できる人物だ」
「まずは」
「その人の養子になれるよう手続きを進めよう」
「話は、それからだ」
ユリアの表情がぱっと明るくなる。
「本当?」
「ありがとう」
「助かるわ」
アルベリヒは小さく頷いた。
「明日の朝」
「一緒に、その者のところへ向かおう」
ユリアは静かに微笑んだ。
その夜、初めて未来が少しだけ変わった気がした。




