第三十四話 第二主題
ブロッケスの執務室。
ユリアは抱えていた封筒を開く。
中から、十五年前の審問資料を取り出した。
静かに机の上へ置く。
「読みました」
ブロッケスは資料へ目を落とす。
何も言わない。
ユリアは続ける。
「ここには」
「ライヘンバッハ国王夫妻殺害事件の容疑者として」
「現王妃フレイア・フォン・ヴォルクナーの名が記されていました」
「そして」
「その後、あなたが捜査打ち切りを通達していたことも」
静かな部屋に、ユリアの声だけが響く。
ブロッケスは机の上の資料へ静かに目を落とした。
「……あまり感心できることではありませんね」
「審問院の資料が」
「本来あるべき場所にないというのは」
一拍置く。
小さく息を吐く。
「ですが」
ブロッケスは小さく頷いた。
「その通りです」
「私の判断で」
「あの事件を終わらせました」
迷いのない返答だった。
ユリアは思わず一歩踏み出す。
「だから、どうして!」
「捜査当局は」
「フレイアまで辿り着いていた!」
ブロッケスは静かにユリアを見つめる。
「昨晩……」
「私は、あなたへ問い掛けました」
「この国を終わらせる覚悟はあるのか、と」
一拍置く。
「私は」
「この国を守るために決断しました」
「それだけのことです」
ユリアは机へ歩み寄る。
勢いよく両手を突いた。
鈍い音が部屋へ響く。
「ライヘンバッハ国王と王妃は殺された!」
「それでも!」
「この国のためだと言えば!」
「全部、有耶無耶にしていいの!?」
震える声だった。
「捜査局長や」
「外務卿だって!」
「この国のためなら」
「死ねというの!?」
ユリアの瞳へ涙が滲む。
ブロッケスは何も答えない。
ただ。
静かにユリアの瞳を見つめていた。
蒼銀色の瞳。
その輝きを見た瞬間。
ブロッケスの表情が僅かに揺らぐ。
「その瞳は……」
小さく息を呑む。
「蒼銀……」
脳裏に。
十五年前の審問資料が浮かぶ。
――ユリア・フォン・ライヘンバッハ王女。
ブロッケスは目を見開いた。
「まさか……」
「あなたが……」
しばらく言葉を失う。
やがて深く息を整えると、静かに口を開いた。
「そうですか……」
「あなたが」
「ユリア・フォン・ライヘンバッハ王女でしたか」
ユリアは何も答えない。
ブロッケスは静かに続ける。
「あなたは真実を望んでいる。」
「しかし、その真実を公にすれば、この国は再び血を流します。」
「もし」
「あなたが真実を明らかにし」
「それを公のものにしたいのであれば」
一拍置く。
「真実だけでは」
「この国は救えません」
さらに静かな声で告げる。
「王になりなさい」
部屋が静まり返る。
ユリアは、その言葉の意味を理解できず、呆然と立ち尽くした。
頭の中を。
ただ一つの言葉だけが、何度も巡っていた。
――王……。
「王になりなさい」
その言葉だけが。
何度も頭の中で反響していた。
――王……。
――私が……。
ブロッケスが何か話している。
だが。
もう、その言葉は耳へ入ってこなかった。
「……資料は」
「私の方で戻しておきます」
その一言だけが、かろうじて耳へ届く。
ユリアは小さく頷く。
気が付けば。
ブロッケスの執務室を後にしていた。
王宮の廊下。
ユリアは俯いたまま歩いていた。
頭の中では。
ただ一つの言葉だけが繰り返される。
――王になりなさい。
向こうから、一人の女性が歩いてくる。
現王妃フレイアだった。
二人は静かにすれ違う。
その瞬間。
フレイアの足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
遠ざかっていくユリアの背中。
胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
顔を見たことがあるような気がする。
それなのに。
誰なのか思い出せない。
だが。
あの少女を、このまま見過ごしてはいけない。
そんな焦燥感だけが胸を締め付けていた。
フレイアは踵を返す。
そのまま、ブロッケスの執務室へ向かう。
扉を開く。
「今、ここから出ていった女性ですが」
「……あれは、誰ですか?」
ブロッケスは一瞬だけ視線を上げた。
そして静かに答える。
「身分の高くない貴族の娘ですよ。」
「少々、昔の事件について相談を受けましてね」
フレイアは眉をひそめた。
「そう……」
答えを聞いても。
胸のざわめきは消えない。
名前も。
顔も。
どうして気になったのかも。
思い出せない。
それでも。
得体の知れない恐怖だけが、胸の奥に残り続けていた。
ユリアは自室へ戻っていた。
椅子へ腰を下ろす。
だが。
心は少しも落ち着かなかった。
頭の中では。
ブロッケスの言葉だけが、何度も何度も繰り返される。
――王になりなさい。
ユリアは小さく息を吐いた。
――簡単に言ってくれるわね……。
苦笑にもならない笑みが零れる。
だが。
その言葉を否定することもできなかった。
もし。
処刑を免れたとしても。
誰にも殺されなかったとしても。
それだけでは。
何も変わらない。
お父様とお母様が殺された真実も。
この国が抱え続ける歪みも。
何一つ。
変わらない。
王になる。
それは。
処刑を回避することなどとは比べものにならないほど、大きな目標だった。
ユリアは何度も首を振る。
考えては否定し。
また考える。
そんな時間だけが過ぎていった。
窓の外は、いつしか夕焼けへ変わり。
やがて夜が訪れる。
それでも。
ユリアの答えは出なかった。
――私に……。
――そんなことができるの……?
そのまま机へ伏せる。
いつの間にか、浅い眠りへ落ちていた。
翌朝。
柔らかな朝日が部屋を照らす。
ユリアはゆっくりと目を開けた。
卓上暦を一枚めくる。
二月十一日。
その日付を見つめながら、小さく呟く。
――私が……。
――王になる。




